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爪弾きの白薔薇妃  作者: 橙真
2章 明日から夫と妻となる
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未だ空の手に掴むもの


 エリザの自室に、乾いた張り手の音が響いた。


「っ……」


 赤くなった頬を押さえて床に倒れ込んだミレイニアを、冷たく見下ろすのは血を分けた母親であるはずのエリザであった。


「何かしら、その反抗的な目は」


 白い肌が熱に染まる様に心を痛める素振りも見せず、エリザはミレイニアの金糸の髪を乱暴に掴み上げた。

 鋭く刺すような痛みに表情を歪めながらも、ミレイニアは恨み言一つ言わずに頭を下げた。


「申し訳ありません、お母様」


「私に謝ったところで貴方があの女に負けたという事実は覆らないのよ」


 エリザの手が離れ、ミレイニアの金糸の髪が深紅の絨毯の上に波を打った。頭を押さえてその場に座り込むミレイニアに目もくれず、エリザは苛立ちを隠すことなく室内を慌ただしく歩き回る。


「ああもう……これじゃあの女の勝ち逃げじゃない。いくら貴方が今まで優秀だったとしても、最後に負けてしまえば周りはその印象の方が強く残ってしまう……。本当になぜ貴方はあの女と勝負なんてしてしまったの!」


 正妃とは思えない鬼気迫る雰囲気と足音に、直視が出来ずミレイニアは頬を押さえながら俯いた。

 ミレイニアはリーゼロッテへの敗北に後悔などはしていなかった。エリザの足音に耳を傾け、床を叩きつける靴音が響く度に怒りの度合いを思い知らされ、自分の中にある感情との落差を目の当たりにする。

 エリザは、ミレイニアの胸に秘められていた妹としての想いを知らない。厳重に鍵を掛け、決して母親には悟られぬようにしていた幼き想いは、簡単には消えてくれない。

 そして、ミレイニアはエリザの胸を占める感情の名を知っていた。

 それはリーゼロッテへの底知れぬ憎悪であり、同時にリーゼロッテに敗北した自分自身に対する怒りと落胆であることは容易に想像できる。


「勝負を見ていた娘たちは大勢いるようだし、これでは口止めも大した意味を持たないわ……」


 エリザの眉間に刻まれた皺は深い。リーゼロッテを貶めるために長い間ミレイニアが勝利し続けてきたことも、たった一度の敗北によって台無しとなってしまった。

 実際、勝負はつい先程行われたものであるというのに、ミレイニアが敗北したという話は瞬く間に城中に広まってしまった。

 社交界に話題が上がるのも時間の問題だろう。その上、既にリーゼロッテはアカネースにいないため注目は全てミレイニアに向けられる。


「本当にあの女は最後まで私の足を引っ張るというの……!」


 刺々しい母の声を耳に、ミレイニアは大きく肩を落とす。エリザにとってミレイニア自身はエリザの地位を固めるための駒でしかないと知る度に、胸が締め付けられるのだ。


「それでも、お姉様はもうこの国から出ていきます。……もう、お母様が恐れるような事態には」


「……本気で言っているの?」


 若き日のエリザよりも美しく育った娘に、自分の娘に向けるとは思えない声で振り返る。 


「元はといえば貴方があの女に負けたからこんなことになってしまったの。必ず勝てる勝負しか挑むなと昔から言ったでしょう」


「必ず勝てる勝負なんて……」


 そんなものはあるはずがないと言い掛けたミレイニアの前に、エリザが立ち塞がった。まるで薄汚い孤児でも見るような母の視線に耐えきれず、ミレイニアは唇を噛み俯いた。


「何を言っているの。貴方が今まで競った勝負の全てがそうだったでしょう?」


「それはどういうことですか……?」


「楽器や裁縫のように見た人間の感性で優劣が付くもので、この私の娘である貴方が負けることはないということよ。……チェスだって今まではあの女がわざと貴方に勝たないようにしていたのでしょう。妙なプライドを優先させて貴方を負かしたところであの女には不利益しかないわ」


 エリザの言葉は、ミレイニア自身も心のどこかでは理解していたことだった。

 しかし、それを母親の口から聞かされてしまえば理解とは別で頭を思いきり殴られるような衝撃を受ける。

 何も言えないミレイニアを気遣うことなく、エリザは刺々しく言葉を続けた。


「自分が勝たせてもらっていることなんてとっくに知っていたと思っていたのに。随分と頭の回らない娘だったようね。がっかりだわ」


 リーゼロッテに劣っていることなど、ミレイニア自身言われるまでもなくよくわかっていた。それでも、努力はしてきたつもりだ。

 顔だけの姫だと陰口を叩かれたこともある。周囲を見返したくて、料理も刺繍も躍りも練習した。

 周りから称賛の言葉が聞こえるようになったのは、決してお世辞だけではなかっただろう。お世辞を使う必要のないエリザにも誉められることはあったのだから。

 ミレイニアは血が滲むほどにきつく唇を噛んだ。

 どれ程の努力を重ねたところで、ミレイニアはただの一度もリーゼロッテよりも自分の方が優秀であると感じることはなかった。周囲に認められたい一心で披露するための才能として努力を重ねたミレイニアと、決して人前には晒さぬ生き抜くための牙として技術を磨き続けたリーゼロッテでは志から必死さが異なっている。

 涙を流さなかったのは、ミレイニアの意地だ。


「下がりなさい。しばらくは敗北を惨めに思いながら過ごすことね」




 腫れた頬を隠すように片手で押さえて歩くような真似をミレイニアはしない。

 そのプライドの高さは、グレインにとっては彼女の顔以上に好ましいと思う点であった。


「……グレイン」


「エリザ様の私室の前を通ったときに声がしたのでね。傷心の奥様を慰めようかと思ったのですが……余計なお世話でしたか」


「ええ。余計なお世話よ」


 鬱陶しそうに髪を掻き上げて、ミレイニアは廊下を進む足を止めない。

 グレインは黙って隣に並ぶと、エリザの私室の方向を振り返り溜め息を吐いた。


「しかし、母親が地位に強い執着を持っていると面倒ですよね。私の方も父よりも母が子供はまだかと煩いものです」


「私とグレインでは事情が違うでしょう? 私とお母様は血が繋がっているけれど、貴方のお母様は後妻じゃない」


 一瞥もくれずに告げられたミレイニアの指摘に、グレインは微笑を浮かべて肩を竦める。


「だからこそ鬱陶しくて仕方がないのですよ。本当の母親だったならまだ愛情の感じようもあるのですけれど、私の出世を赤の他人が望み口出ししているというのは腹立たしい」


 グレインもまた、ミレイニアのことなど瞳に写してはいなかった。ミレイニアは硝子に写ったグレインの横顔を盗み見ながら、この言葉に嘘がないことを感じとる。

 夫婦として一緒にいて、僅かではあるがグレインについて気付いたことのうちの一つ。

 グレインは、エリザを快く思っていない。それは、エリザ自身に問題があるのではなく、現在のグレインの母親とエリザの言動が似通っていることに理由があった。


「……貴方が何を言おうと、あの人は私にとっては大切な母親よ。やっぱり、喜んでほしいと思うし、認められたいと思うわ」


「あんな母親でも、ですか?」


 ミレイニアは無言でグレインを睨み上げる。

 人の心に土足で踏みいるその性根が腹立たしかった。


「それなら、王位を得ようとこんな小娘を嫁に貰うような貴方は、どの母親のために必死になっているのかしら?」


 ぴくりとグレインの眉が動くのをミレイニアは見逃さなかった。

 グレインが何故王位を望むのか、直接聞いたことはないがミレイニアにはある程度の予測は付いていた。しかし、それを確認するつもりはないし、そもそもミレイニアにとってはどうでもいいことである。

 彼の人間性が王に適しているのであれば問題はない。不適だと判断すれば離縁するだけのことだ。

 怒らせてしまったかと窺うようにグレインを見上げれば、彼はすでに微笑みを浮かべて眉尻を下げていた。


「すみません、私の方がやや感情的になってしまったようで。夫婦とはいえ、踏み込まれたくない部分はありますね。配慮が欠けておりました」


 ミレイニアに謝罪しつつ遠回しに釘を指すグレインの対応は、流石に年上というだけあって理性的で好感が持てる。

 好感を抱いたところでそれが好意に直結しないところが虚しい話であったが、ミレイニアにとっては最早好意などどうでもいい。

 王女として生まれたことを自覚した時点で、恋への憧れは捨て去ってしまったのだから。


「……グレイン、王印のことだけれど」


「はい」


「手に出来るかは半々といったところよ。最初はマリンハルトに託すかと思ったけれど、アリアといったかしら? 最近侍女と親しくなったようだから、彼女の身の保身のためにお姉様は必ず王印をその侍女に渡すわ」


「必ずですか?」


 ええ、とミレイニアは頷くと、視線を窓の外へと向けた。夕日は沈み、残された赤が夜に塗り潰されていく。


「私との勝負の場にその侍女を連れてきていたから、必ずよ。だって、あの人は勝ったことで悪目立ちしてしまったんだもの。お姉様がいなくなれば、侍女が目を付けられるでしょうね」


「もしかして、わざと負けたのですか?」


「あれは実力よ。それに、あそこで私が勝ったとしてもあの侍女がお姉様の侍女であると周知になることに代わりはないから、どちらにしても王印を渡すことになるわ」


 ミレイニアにとって驚いたのは、リーゼロッテがあの場にアリアを連れていったことであった。人々の目に晒されればアリアが危害を加えられる可能性を考えられない人ではないはずだ。


「……もしかして、お姉様はわざとそうしたのかしら」


「わざと侍女を人の目に晒したということですか? ……もしかして、それが自分から侍女に与えられる褒美だったとでも?」


 グレインはどうやらミレイニアと同様の発想に至ったようだ。

 ミレイニアは頷いて、片手でそっとこめかみの辺りを押さえた。


「お姉様はやりかねないわ。マリンハルトと同じように、あの侍女もこの先不自由なく暮らせるようにと狙ったのかもしれない」


 仮にこの件がなくアリアが王印を持ってミレイニアの元を訪れたとすれば、ミレイニアはアリアが王印を譲り受けたのか盗み出したのか判断が付かない。それはアリアという人物の人間性を知らないミレイニアにとって、判断材料が皆無であるからだ。

 しかし、リーゼロッテのことはよく知っている。


「では、侍女が王印を受け取ったことは確かなのですね」


 王位を望むグレインにとって、王印をリーゼロッテに持ち逃げされてしまう事態は望ましくない。しかし、正式に譲渡されなければ無意味であり、奪うことができないそれは、ミレイニアの手に移ることを祈るしかグレインにはできなかった。


「受け取ったかはわからないわ。わかるのは、お姉様が侍女に王印を渡すということだけ。侍女が受けとるのかも、私に渡すかもわからない。だから、可能性は半々よ」


 ミレイニアの歩みには迷いがない。それは、彼女が王印などあろうがなかろうがどちらでも構わないからであった。

 しかし、グレインは違う。

 重くなる足取りと、開き始める二人の距離。

 構わず進むミレイニアの瞳は、もうグレインに向けられることもなかった。


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