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爪弾きの白薔薇妃  作者: 橙真
2章 明日から夫と妻となる
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姉の想い、妹の想い


「そんな……! どういうことですか!」


 厩の中にまで響くアリアの悲鳴じみた声に、大人しく眠っていた馬たちが飛び起きる。

 鬱陶しそうに片耳を塞いだ男は、露骨に顔をしかめてみせると追い払うように片手を振った。


「どうもこうも、俺らはただ命じられて馬車を出すだけだよ。誰が乗るとか、そんなのはどうでもいい」


「そんなの、理由になりません! この一番大きな馬車はリーゼロッテ様のレイノアール行きのためにと、一週間前からお願いしていたではありませんか!」


「だーかーら、これはミレイニア様がお使いになるってことで話は決まってるんだって」


「それがおかしいと言っているんです! 先に使用許可を得たのはこちらのはずです!」


「そんなの知るか。どれだけ言われたって、上が決めたことに俺らは口出し出来ないんだよ。いいじゃないか、馬車は他にもあるんだから」


「小さな馬車では足りないことくらいわかっているでしょう!?」


 取り付く島もない男の態度に、徐々にアリアの語気は荒くなっていく。

 アリアを見下ろす男の目は冷たく細められ、次第に笑みの形を作り上げていく。リーゼロッテの事情を知った上でミレイニアの話を受けたことは明らかであった。しかし、証拠がなければ強く責めることは出来ない。

 歯痒さに唇を噛み締めるアリアの肩に、後ろに控えていたリーゼロッテがそっと手を置いた。


「もういいのです、アリア」


「ですが……」


「申し訳ありませんねぇ、リーゼロッテ様」


 悪びれる様子もない男に対してもリーゼロッテは笑みを絶やさずに頭を下げてその場を立ち去った。しかし、男に対しての関心は全くないのだろう。彼女の柔らかく微笑みを彩る瞳に、男の姿は映らない。

 歩き出してしまったリーゼロッテを追って、アリアは駆け足にリーゼロッテの半歩後ろに付いて並ぶ。

 納得はいかない。しかし、リーゼロッテが引いた手前、自分だけが男に食って掛かるわけにはいかなかった。


「リーゼロッテ様、申し訳有りません……」


「アリアが気にすることではありませんよ。ある程度こうなることは予想できていました」


 予想はできていた。そう言われて、最早驚くアリアではなかった。マリンハルトの言葉の通り、リーゼロッテには次に何をすべきかが見えているらしい。

 目的地は明確に決まっているようで、リーゼロッテの足取りには迷いがない。リーゼロッテの後に続きながら、アリアは近付いてくる城を見上げた。

 このまま進めば、辿り着くのは正妃やミレイニアの居住区である。


「ミレイニア様の元に向かうのですか?」


「えぇ。直接あの馬車を譲ってもらうようお願いします」


「お願いだなんて……ミレイニア様が横取りしたようなものなのに……」


 アリアは納得がいかなかった。一週間前に馬車の使用を申請したときにはミレイニアの名は挙がっていなかった。正式な手続きの上で使用許可を取ったというのに、何一つ知らせもないまま当然のように奪われてしまった。

 ミレイニアにはそれだけのことを簡単に出来る権力を持っている。

 そして彼女は、ただリーゼロッテに嫌がらせをするためだけにその権力を振りかざすことが出来るのだ。

 くだらないことだとアリアは思う。侮蔑の言葉をぶつけ、服を切り刻み、足を奪い、何が満たされるというのだろうか。

 そして、わからないのはリーゼロッテもであった。

 こちらに全く非がないというのに、リーゼロッテは責めること無く向けられる悪意を受け入れている。まるで、その扱いが当たり前であるかのように振る舞う彼女は、アリアの目にはミレイニアに劣らず歪んで見えた。


「あまり誤解しないであげてください。ミレイニアは、寂しいだけなんです」


 アリアの独り言への回答のように、リーゼロッテは振り返りそっと口を開いた。

 リーゼロッテの微笑みを乗せた唇は、化粧気のない薄桃色で優しく空気を震わせる。


「あの子は昔から……私に対してどう接していいのかがわからないんです」


「わからない……? だから嫌がらせをするということですか?」


「……認めてほしいから、ですよ」


 リーゼロッテは人差し指を立てて唇に当てると、秘密を共有するように声を潜めた。


「あの子、昔は負けず嫌いでなにかと私に張り合っていたんですよ。信じられますか?」


 負けず嫌いという言葉とミレイニアが結び付かず、アリアは僅かに首を傾げた。

 神様に愛された美貌を持つミレイニアは、ただ一片の苦労も舐めたことのない唇に悠然とした笑みを乗せて人々を見下ろしている姿がよく似合う。他者を見上げ、羨望の眼差しを向けるだなんて想像が出来なかった。

 ましてや、それが後ろ楯もなにもない、哀れ以外の何者でもない境遇の相手にだなんて。アリアでなくても、信じられないことだろう。


「信じられないという顔ですね」


 アリアの困惑は予想通りだったのだろう。リーゼロッテはくすくすと笑い、昔を思い出すように顔を上げた。


「でも本当なんですよ。勉学も、踊りも、裁縫も、全て私に張り合って……」


 ふいに、リーゼロッテの空色の瞳が陰った。先程まで輝いていた太陽は、すでに雨雲を纏い始めている。


「……全てにおいて、ミレイニアが勝っていきました」


 それはアリアも知っている。

 何事においてもミレイニアはリーゼロッテの上を行く優秀な第二王女であることは周知の事実だ。それが余計にリーゼロッテの立場を弱め、首を絞めていた。

 少しでもリーゼロッテに優位な面があったのならば、周囲のやっかみをはね除ける術もあったかもしれない。しかし、リーゼロッテには何一つそれがなかった。

 しかし、本当に何一つ敵わなかったのだろうか。アリアは違和感に襲われ、リーゼロッテの横顔へと視線を向けた。

 ミレイニアは確かに何事でも人並み以上の才を発揮している。しかし、誰にでも得手不得手はある。リーゼロッテにも、人並み以上に得意なことがあるのではないか。


「本当に、何一つ敵わなかったのですか?」


 少なくとも、リーゼロッテの裁縫の腕は自分以上で、さらには人並み以上だとアリアは思っている。

 以前、城下町に訪れたというレイノアール王国の第三王子。彼が残していったハンカチをリーゼロッテが丁寧に手洗いし、僅かに残ってしまった赤い染みを隠すようにバラの刺繍を施した姿をアリアは目にしている。

 自分がやるとアリアも申し出てはいたものの、頑なにリーゼロッテは首を縦には振らなかった。

 リーゼロッテにとっては、未来の旦那となる相手だ。その人のために何かをしたいと思うリーゼロッテの気持ちを無下には出来なかった。

 完成した刺繍を目にしたときには、その別の意味でアリアは余計な世話をしなくてよかったと心から思った。


「……私はリーゼロッテ様の刺繍を見たときに、今まで見たことがない美しい刺繍だと思いました。ミレイニア様のものも目にしたことはありますが、私にはリーゼロッテ様が劣っていたようには思えません」


「あら? 私はそうは思っていません。ミレイニアの刺繍は彼女らしい繊細で丁寧なものですよ」


 刺繍の出来に明確な勝ち負けを決めることは難しい。リーゼロッテが劣るとされているのも、ヴィオレッタの婚姻が決まった際に刺繍を施したパーティードレスを二人が送ったことで明確な優劣が判断されたからだ。その時のドレスには、同様にヴィオレッタの誕生花である紫陽花が彩られていたため余計に比較がされやすかった。


「さて、着きましたよ」


 扉を開ければ、ミレイニアやエリザの居住区である。大広間の奥にそれぞれの私室が備えられており、日中であれば彼女たちを取り巻く夫人や令嬢たちとの談笑の場となる。

 その大広間へと繋がる扉を、リーゼロッテは両手で押し開けた。

 彼女の背は、恐れを知らぬ獅子のように堂々と伸ばされていた。

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