出立前夜(2)
向かうのは、リーゼロッテの嫁入り道具を保管している空き部屋だ。そこにはマリンハルトの指示の通りに鍵を掛けている。鍵はアリアが肌身離さず持っていた。
妙な細工をすることは出来ないはずだ。そう思うが、悪い方を想定して動けと言うマリンハルトの言葉が胸に残っている。
アリアは空き部屋の前に立つと、懐から取り出した鍵を鍵穴に差し込んだ。
「……! 開いている……」
嫌な予感がしたら、基本的に外れない。これもマリンハルトの言葉だった。
アリアは喉奥まで込み上がってきた悲鳴のような声を飲み込んで、力のままに扉を開けた。
「……ひどい……!」
部屋の中の光景を目にし、アリアは無意識のうちに呟いていた。握りしめた拳は怒りに震える。
荷物として纏められていた衣類は全て床に散らばり、雪国に嫁ぐリーゼロッテに必須となる防寒具に至っては、本来は透明感のある雪に近い灰色をしていたはずが無造作に染料をぶつけられたようで元の色がわからない程に様々な色が混ざりあってしまっている。
装飾品はあまり多くを持っていかないため量は少ないが、床に落ちた品々はどれも宝石部分に大小様々な傷が付けられ輝きを濁らせていた。
しかし、これらはまだ仕方がないと諦めることもできる。ここ数日で用意した品々はどれもリーゼロッテのために特注したものであるが、こうなってしまえば今から既製の品で対応することも不可能ではない。
何よりも問題なのは、婚姻の式でリーゼロッテが着ることとなっているドレスが切り刻まれてしまっていることであった。
鋏を使っているのではなく力任せに手で引きちぎったと思われるドレスの裾は胸の辺りまで大きく裂かれ、袖の部分は肩との縫い目がほどかれ首の皮一枚で繋がっているような状態だ。
アリアは床に散らばるドレスの残骸を手に取り、拾い集める。手の中に押し込む布の切れ端に重さなどないはずなのに、アリアの胸は重く苦しさを増していく。
少しはリーゼロッテの受けてきた仕打ちを知っているつもりでいたアリアでも、こうして目の当たりにすると胸が痛む。この一週間が何事もなく過ぎたのは、こうして出発前に事を起こした方がリーゼロッテを困らせるとわかっていたからだろう。
防寒具は既製のものでも構わない。しかし、両家が揃い国を挙げての祝いの式となる婚姻の式典で、みすぼらしいドレスを披露するわけにはいかない。
一生に一度の機会なのだ。世界にひとつだけの、リーゼロッテのためだけの一着を用意しなければならない。それができなければ、リーゼロッテに待っているのはレイノアールでも今と変わらない爪弾き者としての未来なのだ。
「やはりやられましたね」
背後から声が掛かり、アリアは大きく肩を震わせて振り返った。
そこにいたのは腕を組み深い溜め息を吐くマリンハルトと、困った様子で眉尻を下げるリーゼロッテの姿があった。
「マリンハルトさん! リーゼロッテ様も……。その、申し訳ありません!」
立ち上がり頭を下げるアリアの肩に手を置くと、リーゼロッテは足元にしゃがみ散らばるドレスの生地を指先でつまみ上げた。
「すみません、リーゼロッテ様……。私が鍵を掛け忘れてしまったのかもしれません……」
「いや、アリアに非はない」
「え?」
再び謝罪の言葉を口にするアリアの肩を、今度はマリンハルトが叩いた。彼の言葉の意図が掴めず、アリアはしゃがみこむリーゼロッテの背中に視線を向ける。
リーゼロッテは真っ直ぐに延びた背筋のまま、刻まれたドレスを見上げている。その胸中は計り知れない。
「ここの鍵はちゃんと掛かっていたさ。ただ、悪意を持つ奴を誘き寄せたくて俺が鍵を落としておいた」
「え? それでは……」
「……全くの無害ではないが、ここにある物は最低限やられても平気なものばかりだ」
「ドレスもですか?」
アリアの問いに答えるのは、マリンハルトではなくリーゼロッテであった。
彼女は拾い上げた残骸を床に放ると、すっきりとした表情でアリアを振り返る。
「そうです。このドレスになにか仕掛ければ満足するでしょうから、これ以上荷物に手出しはしないでしょう?」
「ええと……いまだに状況がよく掴めていないのですが……」
「ここにある物は囮ってことだ。隙を見せておくことで悪意の矛先を誘導すれば、対応もしやすいだろう?」
当たり前のような顔のマリンハルトに、アリアは言葉を失った。そして、当然と思っているのはリーゼロッテも同様らしく、彼女もまた動じることなく頷いている。
「ごめんなさい、アリア。貴方にはここを守ってもらっていましたが、結果としては騙しているような形となってしまって……」
「い、いえ、それは別に良いのです……。ただ……」
アリアはちらりとマリンハルトに視線を向け、荒らされた室内をぐるりと見渡す。悲惨とも呼べるこの光景は、二人にとっては当たり前なのだ。その現実に再びアリアの胸は締め付けられる。
宝石箱を引っくり返され、用意した衣類は汚され裂かれる。わざわざ出発の前日を選び行われる嫌がらせは、リーゼロッテが苦しみ恥をかくことを望んで行われている。
それを、当然だと思っている二人は異常だ。異常だと思うが、アリアはそれを指摘することはできなかった。
例え異常な感覚であっても、それをしなければ身を守ることはできない。
「そうだ、アリア。はやく拾った布切れは手放した方がいいですよ」
「え?」
「切り刻んだ人とは別に、針を仕込んだ人もいるようですから」
困ったような顔で頬を緩め、リーゼロッテは取れ掛かっている袖を片手で持ち上げてみせた。窓の隙間から入り込む光で反射した細く尖った数本の針を
目にし、アリアの顔からは血の気が引いた。
目を凝らさねば見えない針が、一本ではない。袖を通した手首を傷つけるように上向きに、深く刺さっていた。
「……これは」
言葉を発しようにも、そのおぞましい光景に掛けられる言葉などアリアにはなかった。だが、それ以上に彼女が恐怖を感じるのは、顔色一つ変えずにドレスを見つめるリーゼロッテの横顔であった。
「リーゼロッテ様、ドレスの準備の方は問題ありません。ただ、流石に衣服は買い直しが必要になりますね」
「わかりました。道中でオズマン伯爵を訪問する予定となっていますから、必要なものを一通り調達してもらいましょう」
マリンハルトは散乱する衣服を拾い集め、大きく肩を落とした。大きく型崩れをしてしまった物などは流石にもう使うことができない。
彼の言葉に頷くと、リーゼロッテはマリンハルトが抱える衣服の中から、特に必要性の高い物を手に取った。防寒用の上着に、普段着として使うための簡素な衣類、そして公式の場に相応しいドレスなど最低限の個数を数える。
「オズマン様を信用しても大丈夫なのですか?」
不信感を露わに眉を潜めたマリンハルトへと、リーゼロッテは朗らかに笑みを浮かべて頷いた。
「あの方は商売を生業にしていますから、お金を持っていれば誰でも平等ですよ」
リーゼロッテは腕に抱えた衣服をマリンハルトに返すと、今度は引っくり返された宝石箱から巻き散らかされた装飾品たちを拾い上げた。彼女は着飾ることにあまり興味を示さないが、美しく磨きあげられた宝石たちに傷が付いている様には心を痛めるらしく微かに眉尻を下げている。
「ハネットもやることが大分雑ですね……」
リーゼロッテの呟きは小さく、アリアもぼうっとしていたら聞き逃すところであった。
「え? リーゼロッテ様、知っていたのですか?」
先程のハネットの後ろ姿を思いだし、アリアは目を丸くした。
しかし、驚いた様子なのはリーゼロッテも同じことで、不思議そうに首を傾げる。
「知っていた……ということは、アリアもわかっていたということですか?」
「私はその……」
去り際のハネットの刺々しい声を思いだし、アリアは言いにくそうに唇を噛み締める。今さらそんなことをしても無意味であることはわかっていたが、王女であるハネットの言葉を簡単に無視してリーゼロッテに彼女の存在を告げることがアリアにはできなかった。




