敵意の矛先
それから二人は意図的に王家や停戦の話を避けるように、露店を眺め歩き回り、気がつけば最初の装飾店の前に戻ってきていた。
橙色に染まっていた空は既に濃紺に塗りつぶされ、煌めく星たちが露店の装飾品のように散りばめられている。
「今日は本当にありがとうございました。レイノアールについて教えていただけたおかげで、準備がはかどりそうです」
「それは良かったです。僕も色々と勉強になりました」
レオナルドが頭を下げると、イヴァンも黙ってレオナルドに続いた。
「そういえば、こちらはよろしかったのですか?」
彼女が指差したのは、声を掛けた際にレオナルドが見ていたチョーカーだった。先ほど彼女自身が高過ぎると一蹴した商品であったが、もうそのような無粋なことは口にしない。
王都で待つもう一人の従者への土産として買おうと思っていた装飾品。イヴァンは甘やかさなくていいと言うが、レオナルドにとってはかけがえのない信頼できる従者だ。
「……買うことにします。アリアさんにも意見を聞かせてもらいたいところですね」
喜んで、と頷くアリアの奥で、苦虫を噛み潰したような顔をしているのはイヴァンだった。
レオナルドの視線に気付いて振り返ったアリアは、イヴァンの顔を見て片手で口元を隠しながら首を傾げる。
「バンさん? なんだか複雑な顔をしていますがどうかしましたか……?」
「いえ、ちょっと国に残した同僚を思い出していただけです」
「……レオンさん、仲が悪いのですか?」
心配そうに問いかける声を掻き消したのは、レオナルドの笑い声だった。
「それはあり得ませんよ。二人は僕に仕える以前からの付き合いじゃないですか」
「だからこそです。長いからこそ色々と思うところがあるのです」
イヴァンは眉間にシワを寄せてはいるものの、口調はどこか柔らかい。その言葉に耳を傾ければ、同僚との関係が悪いものではないことは明らかだった。
レオナルドにつられて小さく吹き出したアリアの姿が目に入り、イヴァンは複雑そうに方眉を下げた。
「いらっしゃい、うちの商品は一級品だよ!」
先ほど商品を見ていた時には奥で作業をしていた店主が、レオナルドたちに気付いて笑顔で声を掛けた。
アカネース国の特徴である日焼けした茶色の髪を持ちながら、色素の薄い瞳を持つ男だった。もしかしたら、どこかでレイノアールの血が入っているのかもしれないとレオナルドは思う。
店主は明らかに接客用の笑顔をアリア、イヴァンへと向け、灰色掛かった瞳にレオナルドを写したとき、その表情を凍り付かせた。
「お前……っ、レイノアールの人間か!」
周辺に響いた男の声。
露店を構えていた商人たちや、そこに集まっていた人々の視線がレオナルドに集中した。
レオナルドの白い肌と白銀の髪は、暖色の中で一人浮いていた。むしろ、今まで露店商の用に敵意を見せる者がいないことの方が不思議なくらいであった。
男の瞳が憎悪に燃える。レオナルドに向けられた瞳であることに間違いはなく、レイノアールという国そのものに対する敵意であった。
レオナルドの前までやってくると、男は息を荒くし、今にも殴り掛かりそうな勢いでレオナルドを見下ろした。
控えていたイヴァンがレオナルドを守るように男との間に割って入る。
しかし、レオナルドはイヴァンの肩を掴むと目の前から退かし、男の前に立った。向けられた敵意がレイノアール国に対するものなら、レオナルドが受けなければならない。
明確な敵意を前に、怖くないと言えば嘘になる。だが、レオナルドは震えそうになる拳を握りしめ、男を見据える。
「……確かに、僕はレイノアールの人間です」
「レイノアールの人間がどの面下げてアカネースの土を踏んでやがる!」
すでに夕日は落ちていた。
商人の男は赤い顔でレオナルドを睨み付ける。今すぐにでも殴り飛ばしてしまいたいと男は思うが、自分より10歳以上年の離れた相手に手を出すのは流石に良心が痛んだ。
これが同じ年頃の男であれば、場所も構わずに飛び掛かっていただろう。
「俺の親友は侵攻してきたレイノアールの奴等に殺された! 妹は兵士に連れていかれ、辱しめを受けて殺された! それだけじゃない! 故郷は焼かれ、俺たちはもう帰るところもなくなった!」
全てレイノアールの人間から受けた蛮行だ。男の怒りの前で、レオナルドは握りしめた拳に力を籠める。
レオナルドの胸を占めるもの。それは最早、恐れではなかった。
戦争がもたらす悲しみを、気付くことなく城で生きていた自分に対する無力感。兵士の横暴を抑えることをしなかった先王への嫌悪感。
そして、二度と同じ過ちを犯してはならないという強い誓い。
「……何を言っても言い訳にしかならないことは承知しています。ですが、レイノアール王国は……少なくとも今の国王は不要な略奪は望まない!」
芯の通ったレオナルドの声に、先ほどの怒声以上に視線が集まる。しかし、レオナルドはそれらの視線に構うことなく男との距離を詰めた。
「今回の戦争で無抵抗の市民に危害を加えた兵士は処刑されています。……全員を洗い出せたとは言えませんが、少なくとも貴方の言った兵士は今のレイノアール王国が許さない!」
「だから許せって言うのか! 罰を与えたのだからそれで水に流せと!?」
「違う!」
その声は、悲鳴のようだった。
「……貴方が僕に何を言おうが、貴方の友人や妹は戻りません。貴方がレイノアール王国を憎んだところで同じことです」
「お前……!」
「貴方の怒りは正しい。ですが、それを再びレイノアール王国に向けたとき、また戦争が始まるでしょう。今、両国は和平の道を歩もうとしています。貴方の怒りが戦争を呼び寄せたとき、次に犠牲になるのは未来の……貴方や僕の妻や子供になるかもしれない! そんなこと、あってはならないのです!」
痛みに身を裂かれる思いで、レオナルドは言い放った。男を傷つける言葉であることをわかっていながらも止まらなかったのは、初めてぶつけられた敵国の痛みに触れ、戦争の虚しさを痛感したからだ。
アカネース国を自分の目で見て、溢れる笑顔に心が揺れた。自国と同じように生きている人がいるという当たり前のことすら、目にするまで実感が沸かなかった。
しかし、今はアカネース国の日差しの熱を知り、人の心に触れた。
戦争を拒む気持ちは、北に控える帝国の脅威だけが理由ではなくなっていた。
「恨んだままでも、憎んだままでもいいんです! ただ、その思いを自分の中だけで殺してほしい! 他でもない、未来の大切な人々のために!」
男は奥歯を噛み締めて、レオナルドを見下ろしていた。
レオナルドの言葉には納得させられる部分もある。男もわかっているのだ。どれ程レイノアールを憎んだところで、何一つ戻ってくるものはない。
しかし、感情は理屈ではない。
今、胸を占める怒りはどうすればいいのか。これを表に出すことの、何がいけないというのか。
「お前に俺の気持ちがわかるのか! 子供のくせに、偉そうな口ききやがって!」
納得する気持ちと、堪えきれない怒り。二つが混ざり、男はとうとう拳を振り上げた。
周囲を取り囲む人々から、短い悲鳴が上がる。
その拳で男の気が済むのなら、殴られても構わない。レオナルドはそう思い、固く目を瞑った。




