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爪弾きの白薔薇妃  作者: 橙真
1章 望まれぬ婚姻
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彼女の瞳に雨は降らない


 喉が震え、声が掠れる。それでも、マリンハルトは主の名を呼び、その足元に跪いた。

 ただ一人の主が正しく王女であろうとするのならば、その王女の唯一の従者がすべきことは一つしかないはずだ。


「至急レイノアール王国に関する情報を集め、必要になりそうなものを準備致します。まずは防寒具でしょうね。リーゼロッテ様の好みは承知していますから、私一人で事足りるでしょう」


 マリンハルトは心を決める。彼女が白薔薇であろうとするのなら、マリンハルトが害虫になるわけにはいかない。


「……今から行くのですか?」


「ええ。何せ時間がないものですから」


 リーゼロッテは黙って一度だけ頷いた。僅かに持ち上げられた口角には、安堵と懺悔が同じ分量で乗せられていた。


「それでは、失礼致します」


 立ち上がり、マリンハルトは再度頭を下げる。

 本当は今すぐにでもリーゼロッテの手を引いて、城から連れ出してしまいたい。それをリーゼロッテが望まないとわかっていても、一生恨まれたとしても構わないから無理矢理にでも拐ってしまいたい。

 しかし、マリンハルトの理性がそれを許さない。彼が敬愛する主の姿は、今目の前で気丈に振る舞う彼女なのだ。白薔薇を背負い、自分の心を殺して生きるリーゼロッテを、生涯掛けて守ると誓ったのだ。 

 顔を上げるのが怖かった。目の前で、リーゼロッテがどんな目を自分に向けているのかを確認したくない。

 どんな顔をされていたとしても、彼女の顔を見れば先程までの決心が鈍ってしまうだろう。

 マリンハルトは、リーゼロッテほど強くはない。彼女の意思に従うと心に決めたが、本心でないその気持ちは油断すればすぐにでも反転する。


「……早く行きなさい、マリンハルト」


 頭を下げたままのマリンハルトの視界で、リーゼロッテの爪先が反対を向いた。恐る恐るマリンハルトは顔を上げて、リーゼロッテの背中を新緑の瞳に焼き付ける。

 背を向けたのは、リーゼロッテの優しさだろう。情けなさに胸を痛め、マリンハルトはリーゼロッテへと背を向けた。

 慌てて駆け寄ったアリアと共に廊下へと逃げるように移動すると、静かに扉を閉めて大きく息を吐いた。


「マリンハルトさん! 貴方……」


 アリアに腕を掴まれたが、マリンハルトは人差し指を口元に当てると左右に首を振る。はっとした表情でアリアはリーゼロッテの自室の扉へ目をやると、苦虫を噛み潰したような顔でマリンハルトから手を離さずに廊下の奥へと足を進める。

 人気のない廊下の片隅まで辿り着くと、アリアはその手を離しマリンハルトを振り返る。その肩は小刻みに震え、顔は怒りに燃えている。しかし、大きな瞳からは今にも涙が零れ落ちそうだった。


「どうしてマリンハルトさんは…いえ、貴方たち二人はこうも聞き分けがいいんですか……! これじゃあ、リーゼロッテ様は救われない……」


 声だけでなく、体までもが震えているアリアを見下ろし、マリンハルトは面倒そうにため息を吐く。しかし、態度とは裏腹にアリアを写す瞳は優しい。


「……なぁ、アリア。俺の誕生花は、ラベンダーなんだ」


「へ?」


 アリアの手から力が抜ける。突然何を言い出すのかと目を丸くすれば、マリンハルトは歪つにだがしっかりと笑顔を作ってみせた。


「薔薇とラベンダーを一緒に育てると、薔薇の害虫避けになるんだとさ。陛下は早い段階からリーゼロッテ様に白薔薇を贈ることを決めていたそうだから、それを知った母さんは迷わずにラベンダーを俺の花に選んだんだ」


 マリンハルトは左手の白い手袋を外すと、小指を飾る三連のアメジストを窪みに嵌め込んだシルバーリングを右手でそっと撫でた。

 ラベンダーの花を模したアメジストが、控えめながらも気品ある装飾となっていた。女性のアリアから見ても心が踊る造りであったが、男性が付けていても違和感のないシンプルなデザインが、制作者のセンスの高さを窺わせる。


「どうして聞き分けがいいかと聞かれたら、これが俺の答えだ。本当は、あの人と離れるなんて嫌だよ。でも、俺は自分が白薔薇にとっての害虫になるほうがもっと耐えられない」


 幼い日、リーゼロッテを危機に晒し、自分の母の命を奪ったあの過ちを今も覚えている。二度とあのような真似を繰り返さない。


「でも、そんなの……だって、リーゼロッテ様は味方なんて誰もいない状態で、レイノアールに行かないといけないんですよ……」


「俺が一緒に行っても、きっと駄目なんだ。リーゼロッテ様の言う通り、変な勘繰りをする者はいるだろうし、旦那としても自分よりもリーゼロッテ様をよく知る男が常に側にいるのは気持ちいいものではないだろう」


 時間が経ち、冷静になればなるほどリーゼロッテの判断の正しさが身に染みる。だからといって、気持ちが割りきれるわけではないが、納得できるということは欲望を抑えるために重要だとマリンハルトは思った。


「レイノアールに嫁ぐ姫にとって、俺という存在は邪魔にしかならない。だったら、離れた方がいいんだよ」


 マリンハルトは、悔しそうに唇を噛み締め必死で溢れ出しそうな涙を堪えるアリアを見下ろし苦笑を溢した。


「なんでアリアがそんな顔するんだ」


「っ……リーゼロッテ様の代わりです」


 益々笑みを深めて、マリンハルトはアリアの頬を指輪の嵌められた左手で軽くつねった。


「ばかだな。リーゼロッテ様は、こんなことで泣きはしない」


 マリンハルトがため息を吐けば、アリアは恨めしげな視線をマリンハルトに送る。


「それなら、これはマリンハルトさんの分です……!」


 リーゼロッテは泣かない。マリンハルトの仕えた姫は、自分から告げた別れで涙を流すことを自分勝手以外の何物でもないと思うような人だから。

 その思いは胸に秘め、マリンハルトはアリアに聞こえぬ声で「ありがとう」と呟いた。


「有り得ないけど、リーゼロッテ様が少しでも泣いてくれたなら救われる。……それくらいの我が儘は許されるよな」


 頬をつねられたまま、アリアは一度だけ頷いた。その際に零れた一筋の涙はリーゼロッテの代わりだと、そう信じてマリンハルトはアリアの頭を自分の胸に招き入れた。


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