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爪弾きの白薔薇妃  作者: 橙真
1章 望まれぬ婚姻
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マリーゴールドの憂鬱


 血を分けた姉の姿を捉え、ヴィオレッタの声は意識せずとも弾んでしまう。


「お姉様! 今日もお美しいですね」


「貴方も素敵よ、可愛いヴィオレッタ。この間はありがとう。貴方が贈ってくれた宝石はどれも素敵だったわ」


 ミレイニアに微笑まれ、ヴィオレッタは僅かに頬を染めながら肩を縮めた。照れ臭そうな、嬉しそうな、そんな愛らしい表情はリーゼロッテの前では一度も見せたことがない。

 ミレイニアの隣には、旦那であるグレインが控えていた。彼は一歩前へ出ると、騎士らしくリーゼロッテの足元に跪き、形としては完璧な所作で薄い唇に言葉を乗せた。


「リーゼロッテ様、ご結婚おめでとうございます。義理とはいえ、弟として心から祝福いたします」


「ありがとうございます、グレイン。貴方も騎士団長に就任したと伺いました。おめでとうございます」


 顔を上げて微笑むと、グレインはリーゼロッテの手を取り触れるだけの口づけを落とした。

 彼は現在32歳と騎士団長に就任するには歴代でも飛び抜けて若く、次期国王候補としての期待を籠めての人事であることが伺われる。

 実年齢よりは若く見られることが多いのは清潔さと爽やかさを兼ね備えた艶のある蜂蜜色の髪のおかげだろう。顔立ちは凛々しく、ミレイニアの隣に並んでも見劣りはしない。

 立ち上がりミレイニアの隣に戻ったグレインは、穏やかな微笑をリーゼロッテへと向けている。しかし、それが表面上だけのものであることなどミレイニアには微笑みを見なくともわかっていた。

 第一王女という存在を疎んでいるのは、自分よりも隣の男だ。正確には、将来第一王女の隣に立つこととなる男を、と表現するのが正しいが。


「今まで戦争をしていた敵国に嫁ぐなどという大変な任は、リーゼロッテ様以外には不可能でしょう」


「何を根拠にそのようなことを申しているのか検討もつきませんが、期待を裏切らぬように務めを果たしてみせます」


 本心からそう思っているかのように響く言葉を受けて、リーゼロッテは微かに表情を固くする。

 ミレイニアの目にも、リーゼロッテが警戒心をもってグレインに返答をしているのが感じ取れた。ミレイニアにはリーゼロッテの心まではわからないが、グレインが掴めぬ人間であることには同意ができる。

 結婚し、夫婦となっても、ミレイニアにはグレインの心が見えてこない。所詮は地位を得るためにミレイニアに婿入りしたことは確かだろう。しかし、内心でミレイニアをどのように思っているかまでは全くわからない。

 好意の有無も、情が育っているのかもわからない。夫婦としての時間を過ごしていても、どこか義務的な圧力を感じてしまう。

 だからといって、夫婦として大きな問題があるわけでもない。父であるデュッセルもまた考えの読めない人間であるため、王には必要な素質なのではないかと受け止めることにしている。


「……そちらのマリンハルトも、気が向くのなら我ら騎士団に入団する道も考えてみてくれないか?」


 突然声を掛けられ、マリンハルトは目を丸くしてグレインを見返した。

 考えてもいない話であったため、間の抜けた顔をしているが本人はそれに気付いていない。


「君はリーゼロッテ様の侍従でありながら、有事の際には護衛としても働いたと聞いている。その腕前が確かなものであることも評判になっているよ」


 有事の際。それはリーゼロッテの暗殺を狙った輩から彼女の命を守った際だ。

 グレインの言葉を理解した瞬間、マリンハルトの怒りに火が付いた。


「どの口が……!」


 平然とした顔をしているグレインのような、第一王女の存在を邪魔だと思う者たちが企てた暗殺。マリンハルトに剣を握らせた張本人が、よくも無関係な顔で騎士団に入れなどと口に出来たものだ。

 冷静さを欠いているマリンハルトの頭では、グレインに楯突くことの意味が理解できていない。彼の頭を占めているものは、純粋な怒りだった。

 グレインの唇の端が、僅かにつり上がる。


「マリンハルト、止まりなさい!」


 しかし、マリンハルトの足は冷たく響くリーゼロッテの声できつく床に縫い付けられた。


「……! リーゼロッテ様……」


 リーゼロッテはマリンハルトの腕を掴み首を振る。目の前にいる男は次期国王の候補だということを、そのときマリンハルトは思い出した。

 リーゼロッテの声が、マリンハルトに冷静さを甦らせる。いま、マリンハルトがグレインに殴りかかってしまえば、先ほどのリーゼロッテの懇願は白紙に戻されることだろう。

 マリンハルトはそれでも構わない。リーゼロッテがいないのならば、どこにいても変わりはしない。

 しかし、リーゼロッテの想いを踏みにじり喜ぶ者たちがいる。それらが喜ぶ結果となるのはマリンハルトの望むところではなかった。

 グレインに掴みかかろうと振り上げた腕は力なく落ち、マリンハルトは悔しそうに唇を噛む。この程度の悔しさは大したことないと自分に言い聞かせて。


「……申し訳ありません、グレイン。先ほどの件がマリンハルトには大きなショックとなってしまったようです」


「気にしませんよ。それに、彼が貴方に捨てられるとなればそれは我々には想像できない辛さでしょう」


 捨てる。その言葉だけをわざとらしく響かせて、グレインは人の良い笑みを浮かべた。冷たい笑顔の隣に立つミレイニアは、ひどくつまらなそうな顔でグレインの腕にしなだれかかった。

 リーゼロッテは気に入らない。しかし、他の誰かの言葉で傷つくようならもっと面白くない。


「……でも私は意外でしたわ。不貞を疑われぬように置いていくだなんて、まるで本当に事実があったみたいではありませんか」


 言葉はミレイニアが意識する必要もなく形となる。それもそのはずだ。リーゼロッテを貶めるための言葉は、呼吸をするのと同じくらい自然に昔から口にしていたのだ。


「ミレイニア、そんな思っていても聞けないようなことをよく言えますね」


「あら、グレイン義兄様もみんなが噂をしていたのは知っているでしょう? マリンハルトは顔もいいから、愛玩動物にはぴったりだって」


 グレインが笑い、ヴィオレッタは声を出さずに口角を吊り上げた。ミレイニアだけが面白くなさそうに眉を潜め、リーゼロッテを傷つけるための毒をひたすら口にする。


「私にはお姉様が憐れで仕方がありませんわ。長い間誰にも望まれず、独り寂しく生きてきて、やっと相手が現れたと思ったら、代わりに独りを慰めていた従者を失わなければならないなんて」


 ミレイニアはグレインから離れ、リーゼロッテの琥珀色した髪へと手を伸ばす。リーゼロッテは振り払うこともなく、伸ばされた白く細い指を受け入れた。

 髪をすくミレイニアの指先は、小さく震えている。その理由は誰にもわからない。

 指の震えに気付いているのは、手を伸ばされた張本人だけだろう。


「……離しなさい、ミレイニア。いくら正妃様の娘とはいえ、このわたくしに対して言葉が過ぎるとは思いませんか?」


「……そうですね。いくら侍女の娘とはいえ、あなたは私のお姉様で、この国で一番の姫ですものね」


 御無礼を、そう言って引き下がったミレイニアの無色の声はほの暗い廊下に響いて消えた。

 初めて耳にするリーゼロッテの強い口調に、ヴィオレッタは戸惑いを隠しきれずに二人の姉の間に視線をさ迷わせた。普段なら、ミレイニアに味方をするのだが、彼女があっさりと引いてしまったせいでヴィオレッタはどうすることもできずに様子を窺うことしかできない。


「ヴィオレッタ」


 唐突にリーゼロッテに名を呼ばれ、ヴィオレッタは驚きを露わに肩を震わす。それでも気丈に振る舞おうと、ヴィオレッタは一歩前へと踏み出した。


「何でしょうか、お姉様?」


「後でゴーゼル様にお手紙を書くので届けていただけますか? 内容は鉄や銅などを売ってほしいという依頼です」


 そのようなものを何に使うというのか。ヴィオレッタにはリーゼロッテの考えることはさっぱり理解できなかったが、訊ねるのも彼女に興味があるようで癪なため止める。


「お願い致しますね。それでは、私も出発に向けて準備があるので失礼します」


 深々と頭を下げ、リーゼロッテは結い上げた髪を軽やかになびかせて全員に背を向けた。その後を、重い足取りのマリンハルトが追う。

 二人が角を曲がったのを見届け、グレインが重々しいため息を吐いた。柔和な表情を浮かべてはいるが、内心でリーゼロッテの背中にどのような毒を吐いたかわからない。


「……ヴィオレッタ様、先ほどのリーゼロッテ様のご依頼はどうするおつもりですか?」


「それは届けるなと言いたいの?」


 ヴィオレッタが問い返せば、グレインは意味深な笑みを浮かべる。彼の瞳に影が差す瞬間が、ヴィオレッタは嫌いだった。

 その影はリーゼロッテに向けられたものであるのだが、同時に自分も馬鹿にされているようで腹が立つ。

 しかし、ヴィオレッタも素直にリーゼロッテの願いを聞いてやりたいとは思わなかった。


「あの人、嫁入り道具に石ころを持っていくつもりかしら。もっと服とか装飾品とか、必要なものはあるでしょうに」


 リーゼロッテの口ぶりから察するに、鉱石の購入もレイノアールへ嫁ぐ準備ということになるのだろう。宝石ならばヴィオレッタも理解が出来るが、あのようなくすんだ石の何が良いのか。


「……聞いた話だけれど、レイノアールで我が国の鉱石は倍以上の額で売れることもあるそうよ。それを知っているから、ヴィオレッタに頼んだんでしょうね」


 静かに響いたミレイニアの言葉に、ヴィオレッタは目を丸くして自分の無知さに頬を染めた。


「いいのよ。ヴィオレッタがゴーゼルに興味がないのは仕方ないわ。知らなくてもおかしくない」


 俯いた妹の砂色の髪を、ミレイニアは丁寧な手つきで撫でてやった。先ほどのリーゼロッテに伸ばした手とは正反対の優しい指先。

 ミレイニアのように美しくない自分の髪も、こうして撫でてもらっている間は好きになれる。ヴィオレッタはミレイニアの優しさに触れ、リーゼロッテの願いなど聞き入れる必要はないのだと自分に言い聞かせた。


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