不安は募り、想いは染まり
すでに城中が寝静まった頃、部屋を照らすランプの火がゆらゆらと揺れる隣に頬杖を付いて微睡みの中船を漕いでいた。
手にしていたはずの書類はすでに指先から逃げ出し、何枚かは床の上に散らばってしまっていた。
本格的な眠りに落ちる前の彼の耳は、控えめに響くノックの音に気付いて慌てて身を起こす。
「レオン様、失礼しますよ」
ちゃんとした姿を取り繕うかと考えていた頭も、声の主がジョルジュであることに気付いて背もたれに体を預けた。
気心知れた相手の前で無理をする必要はない。
「どうぞ」
返事を待つようにして扉が開き、仮面の奥で微笑むジョルジュが姿を現した。
今までの疲れが残る重い瞼を擦り、レオナルドも微笑みを返す。その健気さにジョルジュの瞳には影が落ちた。
日に日にレオナルドにかかる負担は増えていると聞いている。それが事実であることはレオナルドの顔を見れば明らかであった。
「……大丈夫ですか、レオン様? 最近は特にお疲れと伺っておりますので心配していたのですよ」
「そうだね、ちょっと休みが欲しくなってきたかも」
素直な反応を見せるレオナルドにジョルジュは安堵の息を吐く。
ジョルジュにまで無理をするようであれば本格的に心配になるところであった。
口角を持ち上げ、ジョルジュは抱えていたいくつかの柑橘類を机の上に並べた。市場で買ってきたもので、ジョルジュのそれら全ての名前までは知らない。新鮮で酸味のある香りが部屋に広がるとレオナルドは興味を示しそれらを見比べた。
「もし小腹が空いているようであればと思いまして」
「ありがとう。これ、オラン?」
「こちらは違います。えぇと……確かリモーナという名前でしたね。こちらはアカネースの柑橘類ですよ」
並ぶ果実を指差し、レオナルドは楽しそうに笑ってみせた。
柑橘類には人の気持ちを元気にする力があると聞いたときには半信半疑であったが、レオナルドの様子を見る限りでは嘘でもないようであった。
ナイフを手に食べやすいサイズに果実を切り分け、まずは一口自分の口の中へ放り込む。
「うん、美味しいです。レオン様もどうぞ」
「ありがとう。……ん、すっぱ……」
一口サイズの果実に口を付け、レオナルドは思わず顔をしかめた。それだけ疲れているということです、と微笑んでジョルジュは二つ目を切り分けた。
「レオン様、何か俺の方でも手伝えることはありませんか?」
「今でも十分助かっているよ。やっとユキが人を乗せられる大きさまで成長してくれたからジョルジュには色々飛び回ってもらっているからね」
「はは。俺の方もいい訓練になります。何せ、鳥に乗るのは初めてですからね」
怪鳥の雛がようやく人一人を乗せられる大きさにまで成長し、その機動性を生かしてジョルジュは情報の少ない地域へと飛びその現状をレオナルドへ報告していた。馬のように地形に左右されない怪鳥の翼であれば、馬の足で三日の距離も一日で移動することが出来た。
そのお陰でレオナルドの仕事も順調に進んでおり、今も忙しさから抜けられないのは単純に量が多いからであった。
ジョルジュはしばらく口を閉ざして座ったままのレオナルドを見下ろすと、周囲に散らばった書類にざっと目を通す。
「こちらは後に回しても問題はないでしょう。あと、ドネル領とホーディス領とバラネス領も。ここの領主達はわざと昨年の融雪被害を過大申告して多めに予算を得ようとしていますから」
「そうなの?」
「はい。以前にも同じことをしていまして。近隣の地域よりも被害が大きく申請されているのが気になったので、少し調べてきました」
「助かったよ。正直、彼らへの予算の調整が難しくて、削れるのであれば随分と楽になる」
「これでリーゼロッテ様に会いに行けますか?」
からかうようなジョルジュの口調に、むっと唇を尖らせたレオナルドであったが、すぐに観念したように眉尻を下げて苦笑を溢した。
今さら格好を付けたところで意味はない。それこそ、子供のようで格好が悪かった。
「そうだね。同じ城の中にいるのに全然顔を合わせていない。リーゼは元気かな?」
「イヴァンやシェリー様のお話を聞く限りではお元気そうですよ」
最近のリーゼロッテはシェリーの勉強に付き合い、アカネース国の歴史や風習を教えることも多い。
レオナルドの知らないところで二人は交流を深めているらしく、それはレオナルドにとっては嬉しいことであった。それが難しいことであっても、リーゼロッテが城の中の人間に認められ、居場所を作っていくことはきっと未来に繋がっていく。
いつか、ナタリーにも彼女を認めてもらえたら。
そのような考えが胸の中にぽつりと落ちて、消えた。
レオナルドのことを認めていないあの母親が、その妻である女性を認めるだなんてあり得るわけがない。
「……最近の母様は随分と大人しいようだけど、何か企んではいないだろうか」
「少なくとも、怪しい動きは見せていませんね。あの方の場合、ご自身の手を汚す真似はしませんから滅多に尻尾など掴めないのですが」
ジョルジュの言葉はもっともであり、レオナルドは小さく息を吐いた。
些細な嫌がらせ程度であれば自分で行うこともあるナタリーであったが、基本的には自分の手を汚さずに他人を使うため証拠が掴みきれない。
今もおそらく、アレクシスよりもレオナルドの方が積極的に国政に励んでいるという評価が広がってしまい、何かを企んでいるのではないかと不安に思うのだが確かめる術はなかった。
「一応イヴァンに調査するよう話してはいますが、決定的な証拠は何一つありません。ナタリー様がアカネースとの国境付近に領を持つ貴族と連絡を取っているという話はありましたが、それもナタリー様の生家であるインゴット家に関するお話で特別不自然なところもありません」
「それはどういう内容のやり取りかまで掴めている?」
「はい。インゴット家当主の代替わりが近いということで、祝いの品を送りたいが何が好みなのかを教えていただけたら、とナタリー様からその貴族へと送られていますね」
ジョルジュの言葉に、レオナルドは怪訝そうに眉をしかめた。
何一つ間違いはないのだが、レオナルドの記憶が正しければナタリーはインゴット家とは折り合いが悪かったはずだ。形式的に代替わりの祝いの品を贈るのは理解できるが、その好みまで考慮するだろうか。
レオナルドの思案の理由に気付いているのだろう。ジョルジュは無言でその姿を見つめていた。
「気になりますよね。あのナタリー様がインゴット家に気遣いなど考えられません」
「国境付近となると連絡も容易ではないからね……。厄介だな」
ナタリーに関する嫌な予感が外れることはないだろう。彼女は何かを企んでいる。しかし、それが何かを探っている時間はなさそうだ。
引き続き彼女の動向には注意を払いつつも、自分達がすべき仕事を最優先にこなすしかない。
「……本当に、どうして母様は国のために物を考えようとはしないんだろう。僕は兄様が王になればいいと思っているのに、手柄を上げて自分が、なんて考えてもいないのに」
今さら、母親に認めてもらいたいなどとは思わない。
ただ、自分が為すべきことの邪魔だけはしないでほしい。ただそれだけのことなのだ。
「……考えていても仕方のないことでしょう。お疲れでしたら、もっと他に楽しいことを考えた方がよいですよ?」
俯いてしまったレオナルドの足元に跪き、その顔を覗き込みジョルジュは口角を持ち上げた。
口元だけではない。仮面の奥で優しく細められた瞳に気付き、レオナルドも吊られて笑った。
少しでも気を楽にしようとするその心遣いが嬉しいのだ。
「うん、ジョルジュの言う通りだ」
「でしょう?」
レオナルドは頷くと、目の前にあるジョルジュの頭にそっと手を置いた。
柔らかな髪を撫でる手付きは随分と手慣れてきている。ジョルジュは隠れて笑みを溢した。
レオナルドの変化の一つ一つが、リーゼロッテに繋がっていく。その変化に、胸が温まっていく。
「シェリーで思い出したんだけど、スルクはどう? 元気にやってる?」
頭から手が退けられ、ジョルジュは立ち上がった。
そして、レオナルドの質問に苦笑で答える。苦笑することしか、できなかった。
「まぁ、元気では、ありますね。はい」
「どうしてそんなに歯切れが悪いの」
「……ほら、喧嘩するほど仲が良いと言いますから」
「……喧嘩しているのか」
レオナルドは頭を抱えると力無く机へと突っ伏した。
常識が異なる相手と触れ合うことは二人にとって良い影響を与えると思っていたが、そう簡単な話ではないらしい。
「二人ともあまり喧嘩するようには見えないけれど……」
「俺もそう思いましたが、シェリー様にとってスルクの考え方は受け入れがたいものらしく、衝突が絶えないそうです。スルクも売り言葉に買い言葉で口論になることが多いそうで」
「まぁ、ある程度は仕方がないよね。一緒にいることで理解し合えるだろうし……」
「そうですね。本来の目的である勉学についてはとても真剣に励んでいるということですよ。この間、リーゼロッテ様も誉めていました」
自分は全然会えていないというのに、スルクは顔を合わせているというのか。少しだけ面白くない気持ちになりつつ、レオナルドは相槌を打った。
しかし、レオナルドの機嫌など手に取るようにわかるジョルジュは遠慮無く笑って机の上に散らばる書類を片付けてしまった。
「そのような顔なさるのでしたら、今からリーゼロッテ様に会いに行けばいいのですよ」
え、と目を丸くしたレオナルドの腕を掴み、強引に立ち上がらせると抵抗できない力で引っ張ってしまう。
レオナルドにとって、リーゼロッテとの時間は何にも変えがたい癒しである。仕事が終わるまでは我慢しなければならないと思っていたレオナルドはジョルジュの提案に思いきり首を振った。
「いや、だって、まだやることも残っているのに……」
「でも、リーゼロッテ様だってお会いしたがっていますよ? やるべきことを先に片付けようというレオン様の姿勢は素晴らしいですが、このままではただの自己満足でしかありません」
ジョルジュの言うことにも一理ある。
仕事が終わるまで彼女と会わないというのはレオナルドの我が儘でしかない。リーゼロッテが会えずに寂しい思いをしていることは知っていた。だからこそ早く終わらせようともしてきた。
しかし、彼女が寂しがるのであればいつでも会いに行けばよかったのだ。
リーゼロッテが直接寂しさを口にしたわけではないから大丈夫だと、レオナルドはそう決めつけていた。
「会いたいときには会えばいいんですよ」
「……でも」
「あー、レオン様も強情ですね。本当にリーゼロッテ様そっくりです」
レオナルドの腕を掴んだまま、ジョルジュは大きなため息を吐いた。
以前、リーゼロッテと少し話をした時も同じようなことを言っていたのだ。
レオナルドが頑張っているのであれば、その邪魔はしたくない。寂しい気持ちはあるけれど、我慢するのは苦ではない。
彼女の気持ちを無視することもできず黙っていたジョルジュであったが、流石にこれでは口出しせずにはいられなかった。
どうしてこうも二人は自分のことを後に回してしまうのだろうか。だからこそ、ジョルジュもまた二人のことを愛しく思うのだが。
「では、俺が強引にレオン様を連れていくことにしましょう。それならば文句はないでしょう?」
振り返るジョルジュを見上げることが出来ず俯いたまま、レオナルドは小さく一度だけ頷いた。
ジョルジュが用意してくれた言い訳に、素直に甘えたい。
胸の中の靄は、彼女の笑顔で全て晴れるだろう。
母親への不安や不満も、きっとリーゼロッテの温もりの前では些末な問題だ。彼女に触れれば、どんな困難が目の前に立ち塞がろうとも、ただ彼女を守ることだけを考えてしまうのだから。
ジョルジュのノックの音で私室から顔を出したリーゼロッテは、レオナルドの顔を見た瞬間に顔中に歓喜の花を咲かせた。
嬉しそうに自分の名を呼ぶ彼女の声をいつまでも守り続けたい。
レオナルドは改めてそう誓うのであった。




