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爪弾きの白薔薇妃  作者: 橙真
7章 雪は解け、溢れる
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レイノアール国第一王子


 近いうちに正式な後継者を決めたいと考えている。

 内々ではあったが国王からそう告げられた日から、アレクシスは独り誰にも話すことはできない悩みを抱えていた。

 悩み自体は今に始まったことではない。ただ、それが現実となってのし掛かってしまった。


「……アレクシス様?」


 軽やかに紡がれていたピアノの旋律が、静かに途切れた。心配そうにこちらを見つめるイセリナへ、アレクシスは困った様子で肩を竦める。

 自分の胸に押さえ込んでいた悩みに気づかれるわけにはいかない。

 黙って微笑むだけで、イセリナはそれ以上の追求はしなかった。まだ彼女の中にはアレクシスに対して遠慮が深く根付いてしまっていた。

 手を伸ばせば、離れてしまうのではないか。そんな不安が胸を占めている。普段であればその遠慮を残念に思うアレクシスであったが、今は追求されないことが有り難かった。


「続けてくれるかな?」


「はい」


 彼女のピアノはアレクシスの心に安らぎを与えてくれる数少ない時間の一つだ。

 自分のためにと練習された音色。より上手な演奏者は国内だけでも多くいるだろうが、アレクシスだけを想い曲を弾く者はイセリナしかいない。

 アレクシスは恵まれている。自分自身でそれを理解していた。

 自分に多くのものが与えられた分、犠牲となった者がいることも理解している。そして、それをどうにかしたくともアレクシスの力では根本的な解決が出来ないこともよくわかっていた。


「アレクシス様、こちらにいらっしゃったのですね」


 アレクシスの護衛騎士として彼に仕えるノルドが息を切らして駆け寄ってきた。彼が走り回ってまでアレクシスを探すとなれば、おそらく母であるナタリーの呼び出しがあったのだろう。

 溢れ掛けた溜め息を飲み込み、アレクシスは立ち上がった。母親との会話よりもイセリナのピアノが聞きたい。けれど、あのナタリーの機嫌を損ねてしまえば、怒りの矛先は自分ではなく大切な兄弟達に向かうのだから無視はできない。

 いつのまにか演奏を止めていたイセリナの頭を軽く撫でると、アレクシスは名残惜しそうに目を細めた。


「また明日、聞かせてほしい」


 頷くイセリナもまた、寂しそうに微笑んでいた。自分と離れることを惜しんでくれる人がいることが嬉しく思える。

 しかし、それがいつまで続くのかを考えると憂鬱だった。

 この先、自分が王位を継がなかったとしても果たして彼女は同じように微笑んでくれるのだろうか。そんなことを考えてしまう。


「アレクシス様、ナタリー様がお待ちです」


「うん、わかっているよ」


 一度考え始めたら抜け出すことのできない底無し沼のような果てのない悩みに足を取られるなんて時間の無駄だ。

 アレクシスはノルドへ頷くと、ナタリーの私室がある方向へと足を向ける。

 ピアノが設置されたホールを抜け、周囲に人気がないことを確認するとやや砕けた調子で半歩後ろに従うノルドへと声を掛けた。


「今日の母上の呼び出しは何のためだと思う? 嫌味? それとも釘でも刺されるのかな」


 ノルドは元々ナタリーの生家に仕えていた騎士である。彼女が正妃として国王に嫁いだ際に共に王城へと召し抱えられ、アレクシスが生まれたときからアレクシスの護衛兼剣術の師としてその成長を見守ってきた。

 アレクシスにとってはノルドは父や兄のような存在であり、ノルドにとってもアレクシスは身内のような情を抱かずにはいられなかった。

 そして同時に、ノルドはナタリーのことも姉のように慕っている。幼い頃から兄と二人ナタリーに仕え、今も変わらない忠誠を誓っていた。


「アレクシス様、あまりそのような言い方はなさらないでください……」


「ごめん、私も少し苛立っていたみたいだ」


 アレクシスを溺愛するあまりに周囲が見えなくなっているナタリーと、ナタリーからの妄目的な愛情を拒むアレクシス。どちらの気持ちも理解でき、どちらも変わらずに大切であるノルドにとって、二人の間に生じてしまった深い亀裂には悲しみを隠しきれない。


「ノルド、本当に君も私が王になってもいいと思っているの?」


「……それがナタリー様の願いであるのならば」


 そう、と答えるアレクシスの横顔は冷たい。否定の言葉が返ってくることは期待していなかった。

 ノルドにとって、確かにアレクシスは特別な存在だろう。だがそれは、ナタリーの子であるからでしかなく、どちらかを選ばねばならないならノルドはアレクシスを切り捨てるだろう。

 今さら、そのことを嘆くつもりはない。ただ、子供じみた寂しさに胸が痛むだけだ。


「母上には絶対に言えないけれど、私は王になるつもりはないよ。その資格がないことはよくわかっている」


「……アレクシス様のお気持ちは十分に理解しているつもりです」


「わかっている。だから、母上には黙ってくれているんだろう?」


「私にできることは、その程度しかありませんから」


 申し訳なさそうに目を伏せるノルドもまた、アレクシスの痛みを知っていた。ナタリーを第一に想うことがアレクシスを苦しめていると知っていながらも、ノルドにとってナタリーは幼い頃からの憧れであり、たった一人のお姫様なのだ。

 例え彼女が間違っていると知っていても、自分だけでもそれを肯定し味方でありたい。それは亡き兄との約束でもあった。

 アレクシスは足を止めると、振り返ってノルドの両頬を両手で包み込んだ。そのまま頬をつねれば、突然の痛みにノルドは一歩後ずさる。


「ア、アレクシス様?」


「暗い顔しなくていいよ。ノルドはよくやってくれている。私が今こうしていられるのはノルドが小さな頃から色々なことを教えてくれたお陰なのだから」


「……私には勿体ないお言葉です」


 再び眉をしかめたノルドを見上げ、アレクシスは溜め息を吐いた。

 悩むこと無くナタリーを優先させてくれたのなら、アレクシスもここまでノルドを慕わずに済んだだろう。アレクシスにとって、全ての人間関係はナタリーによって歪められていた。

 従者、婚約者、兄弟。そして父親さえも、ナタリーによって繋がりの糸は断ち切られている。


「私は母上の子に産まれてきたくなかった」


 無意識のうちに溢れ落ちてしまった本心。

 はっとして、アレクシスは顔を上げた。この言葉だけは口にしてはならなかった。

 ノルドに触れていた手を離し、アレクシスはゆっくりと首を左右に振った。自分の言葉がノルドを傷付けた。その自覚があるから、彼の顔を見ることが出来ず目を伏せる。


「……私もアレクシス様がこんなにも苦しむのであれば、いっそのこと産まれてこなかった方が幸せなのではないかと思います」


 申し訳ありません、とノルドはアレクシスの足元に跪いた。

 アレクシスを見上げるノルドは、年上だというのにまるで子供のように頼りない顔で精一杯に微笑んでいた。


「あの日、私がナタリー様に薬を飲ませることを躊躇わなければアレクシス様が今のように苦しむことはなかったでしょう」


 アレクシスは答えることが出来なかった。口を開けば、何故ナタリーを流産させてくれなかったのかとノルドを責めてしまいそうだった。

 昔から、ずっと疑問に思っていた。何故、レオナルドやシェリーは父親に似た雪のように透明感のある髪や瞳を持っているのに、自分ははっきりとした色合いなのだろうかと。

 髪は青み掛かった銀色で、瞳は高価な宝石のように鮮やかなターコイズブルー。国王の特徴である銀色の髪を継いでいないヴァインスですら、その瞳は曇ったように薄い色味のローズグレイだ。

 外見の特徴だけならばヴァインスの方が似ていない部分が多かったため周囲も気にはしなかったが、アレクシスにはずっとそれが疑問だった。

 そして、母親の異常なまでの偏った愛情。レオナルドとシェリーはまるで自分の子では無いかのように冷たく扱う母親の姿に、自分とレオナルド達に何か異なる点があるのではないかと疑うようになった。

 しかし、アレクシスには疑惑を解明する力はない。それならば得意な者に頼めばいいと従兄弟であるディオンに相談をしたのが、アレクシスが18歳の頃のことだ。

 王弟には情報収集能力に長けた一族が仕えている。彼らの力を借りれば、何かわかるのではないか。まだ幼いレオナルドやシェリーの待遇が改善する兆しが見つかれば良い。そう思っていたが、ディオンから告げられた真実はそんな生易しいものではなかった。


『色々と報告すべきことはあるのだけれど、まずは結論から。アレクシス様、貴方は陛下の子ではありません』


 調査には二年の月日が掛かった。それだけ慎重に事を進めなければならないほど、大きな秘密が隠されていたのだ。

 ディオンもまた王家の血を引いているだけあって、瞳の色は月明かりが闇を柔らかく溶かしたような夜の色をしていた。ムーングレイの瞳を怪訝そうに細めて、ディオンはアレクシスへと報告を続けた。


『母親はナタリー様で間違いはありません。父親ですが……名はエライム・ストックス』


 その名に聞き覚えはなかったが、ストックスという姓はアレクシスもよく知っていた。


『それ……ノルドの?』


『えぇ。ノルドと共に長年ナタリー様の従者として仕えていた男……ノルドの、兄です』


『ノルドの……兄? ……そうか、そういうことか』


 ディオンが告げた真実を、アレクシスは思った以上に落ち着いた気持ちで受け入れることが出来た。それがディオンには不思議だったのだろう。首を傾げたディオンへと、アレクシスは苦笑してみせた。


『納得いく部分が多いせいか、不思議とショックは受けていないんだ』


『そうは言っても……落ち着きすぎではありませんか?』


『実は血が繋がっていなかった、と言われて傷つくほど私と父上は親しくはないよ。唯一悲しいのはヴァインスが赤の他人になってしまうことくらいかな』


 例え血が繋がっていなくても、アレクシスにとって可愛い弟であることに変わりはない。悲しいと口にはしながらも、アレクシスの微笑みは穏やかであった。


『……母上にとって、愛する相手はノルドの兄だけだったということなのかな』


『それだけではありませんよ。エライムはナタリー様と陛下の婚姻から一年もしないうちに、アカネース侵略の最前線に送られて戦死しています』


『……それは、父上の指示で?』


『いいえ、陛下ではありません。ナタリー様とエライムの関係を知ったナタリー様の父が手を回したのです』


 国王に嫁いだ娘に想い人がいると知ったナタリーの父が、何か間違いが起きる前にとエライムを最前線へと押しやった。その時既に、ナタリーの腹にエライムの子が宿っているとは知らずに。

 ナタリーにとって、愛する者はこの世界にアレクシスただ一人。

 王家の血を継がないアレクシスが王座に付くことは、ナタリーにとっては悲願である。

 望まない結婚を強いて、その上に愛する者の命まで奪った実の両親に対する復讐のためだけに、ナタリーは生きている。


『王家の血を継がない子を産み、わかっていながら王にしたのならナタリー様は重罪。当然、生家であるインゴット家も同罪です。彼女は自分自身の破滅と共にインゴット家に復讐をしようとしています』


『……そんな自分勝手な理由で国政を掻き乱していいわけがない』


『仰る通りです。けれど、過去にも自分勝手な理由で王位争いは繰り広げられてきました。こればかりは仕方のないことです』


 アレクシスの言葉は正しかったが、ディオンはそれ以上に真理であった。 

 ナタリーの不貞を暴きアレクシスに真実を告げてすぐに、王弟の反逆罪が浮上した。すぐにそれがナタリーの策略であることに気付いたが、アレクシスにはどうすることも出来なかった。

 例えば、ディオンが突き止めた真実を明るみに出したとする。そのようなことをすれば彼女は他の兄弟を殺してしまうかもしれない。

 その時だけではない。アレクシスには、何もできない。何もしてはいけない。

 自ら命を絶つことも考えたことがある。しかし、実行に移せば残されたナタリーが何をするかわからない。彼女の悪意は一瞬の躊躇もなくレオナルドやシェリーに向かう。ならば、生きてナタリーを制御した方がいい。

 生きているだけでこの国の火種となり、死を選んだとしてもそれは変わらない。

 変わらないのであれば、少しでも弟たちの助けとなりたい。


「アレクシス様」


「……ごめん、少し考え事をしていた。ノルド、すまない。君にも苦労ばかり掛けているね」


「アレクシス様の苦悩に比べたら、私など大したものではございません」


 不安そうに自分を見上げるノルドへと首を振ってみせる。大丈夫、と口にしたつもりだったが、溢れ落ちたのは声ではなくて涙だった。

 ただ生きているだけで周りを苦しめる。いつまで、そんな生き方が続くのだろうか。


「違う。違うよ、ノルド。苦しんでいるのは私ではない」


 アレクシスが苦しんでいるというのなら、それは違う。

 アレクシスの苦しみは、全てアレクシスの周りの人間達の苦しみだ。アレクシスの痛みではない。

 跪くノルドの肩に触れた。


「……ヴァインスもレオナルドも、私なんかよりもずっと頼りになる。きっと二人のどちらかが王位を継ぐはずだ」


「……もしもその時が来たら、私の手でナタリー様の命を奪い、私自身も命を絶ちましょう。……これは主の間違いを正せなかった私の罪です」


 アレクシス同様に、ノルドも罪の意識を長い間胸の中に抱えてきたのだろう。

 耳にするのは初めてであったが、アレクシスは驚くこと無くその告白を受け止めた。ナタリーと共に命を落とす必要はないのではないか。その思いは胸の中だけに秘めることにした。


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