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爪弾きの白薔薇妃  作者: 橙真
7章 雪は解け、溢れる
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春になったら


 レイノアール国とアカネース国の間に和平条約が結ばれてから初めての春が迫ろうとしている。

 長く冷たい雪の時を終え、短い春を前にレイノアール国の人々は冬明けの準備に明け暮れていた。

 王都ともなれば国内全体の食料状況や雪解け水による水害対策などの対策に追われることとなり、レオナルドたちもまた慌ただしい日々を過ごしていた。

 アレクシスとレオナルドは共に水害対策を任され、ヴァインスは国営製鉄所の担当者としてオズマン商会と協力しながら運営を確立させようと日々奔走していた。

 ジョルジュとイヴァンはそれぞれレオナルドとリーゼロッテに仕え、今までと変わらぬ日常を送っている。

 スルクに至ってはレオナルドの慌ただしい生活の中では本来の目的である勉学の時間が取れないだろうと判断したレオナルドの口利きで、シェリーの護衛として彼女に付き添い勉学の時間に同席させてもらっている。異国の少年を護衛として側に置くことに難色を示すものは少なくなかったが、レオナルドの推薦ということもあり許可が降りた。

 それぞれの生活に大きな変化はなく、皆、目の前にある仕事をこなしながら日々を過ごしている。

 レオナルドが任されている水害の対策は国土全てに対してと規模が大きく、多忙な毎日を過ごしている。本来であればアレクシスと負担を分け合うのだが、そのアレクシスが乗り気でないため負担がレオナルドに回ってくる。

 仕事が多いことに文句を言うレオナルドではなかったが、そのせいでリーゼロッテとの時間が減ることはレオナルドにとっても喜ばしくはないことであった。


「ん……」


 春が近付いているとはいえ、朝の空気は肌を刺す冷たさを欠片も和らげることはせずレオナルドの頬を突き刺す。身を起こさねばならないことはわかっている。しかし、それを許さぬ甘い温もりに負け、レオナルドは目を閉じ柔らかな温もりを抱き寄せた。

 毛布、にしては滑らかな肌触り。それでいてぴったりと手のひらに吸い付くような弾力がある。

 それがなにかを考える頭は今のレオナルドには無く、ただ、心地よい温もりを自分のものにしようと体を寄せる。

 慣れ親しんだ感触はもはや自分の体の一部であるかのように当然のようにレオナルドの手のひらに収まった。


「んんっ……」


 もどかしげな吐息混じりの、自分のものではない声が頭の上から溢れ落ちる。

 それが、誰のものか。頭が働かなくとも、すぐにわかる。

 一瞬で、レオナルドの意識は夢の狭間から引き戻され、長い睫毛が勢い良く跳ね上がった。


「あ、おはようございます、レオン様」


「……お、は、よう」


 春の陽射しを思わせる穏やかな声に包まれ、レオナルドは目線だけでリーゼロッテを見上げた。温もりを求め、無意識のうちに彼女の胸の中へと身を寄せていたらしい。

 毛布かと思い引き寄せたのはリーゼロッテの柔らかな肌だったようだ。気恥ずかしさから顔中に熱が集まっているが、寝ぼけ眼で微笑むリーゼロッテを見ていたら目を逸らすのは勿体ないように思えてしまう。


「寒いですか?」


 リーゼロッテは掠れた声で囁いて、レオナルドの腰へと腕を回し自分の肌を重ね合わせた。普段よりも聞き取りづらい声だというのに、平時よりも色っぽく耳たぶを撫でていく。

 先程までは無意識に伸ばしていた手を、レオナルドは自らの意思でリーゼロッテの背中に手を沿え、確かめるように体のラインをなぞっていく。

 触れた先から一つに溶け合うようで、いっそこのままずぶずぶと混ざりあってしまえば良いのになどと考えてしまう。

 時折溢れるリーゼロッテの堪えるような吐息に満足げな笑みを浮かべると、リーゼロッテの鎖骨へと啄むようなキスを捧げた。

 首筋へと鼻先を近付ければ、微かな香水の残り香が鼻を擽る。アカネース国での合同軍事演習の際に、控えめな薔薇の香りを放つ香水を見つけリーゼロッテに贈った。彼女はそれを随分と気に入ってくれたのか、一度使いきってしまった際には同じものをタキへ依頼し調達させたくらいである。

 仄かに薫る薔薇の香りに誘発されて思い出すのは、昨夜の事。

 リーゼロッテはレオナルドと夜を共にする際には必ず少量の香水を身に纏う。それが例え、ただ身を寄せ合い眠るだけの夜だったとしてもだ。

 その控えめな香りはレオナルドの記憶と直結し、一瞬のうちに彼女の肌を思い出させる。桃色に染まった肌が薔薇の香りを放つ様は、何度経験しても慣れることはない。


「もう少しだけ、大丈夫かな」


「はい。私はいつまでも、喜んで」


 レオナルドの頬が朱に染まる理由を、きっとリーゼロッテはわかっているだろう。薔薇の花を見たときに自分の事を思い出すようにと、願っているに違いない。

 肌をなぞる指先は、熱い。

 春を待つまでもなく、雪は簡単に溶けてしまいそうだ。


「……レオン様」


「なに?」


「レイノアールの春は、美しいですか?」


「うーん、アカネースの方が綺麗だと思うよ。春になって空気が暖かくなって、花が咲いて生き物が目を覚ます。レイノアールの春はそんなものではなくて、ただ凍りついた大地が溶けて水になるだけだから水害の不安の方が大きいかな」


 レオナルドの言葉には夢も希望もない。しかし、それが彼らしくリーゼロッテは一人微笑む。

 不安だ、と口にしながらもレオナルドが日々忙しなく駆け回る様を目にしているリーゼロッテは、きっと大事にはならないだろうと信頼している。


「本当はもう少しアレクシス兄様にも対応してほしいんだけど、最近は特に政の関心が薄まってしまって」


「アレクシス様は元より王位を望んでいらっしゃらないですからね……」


「それはわかっているんだけど、やっぱり僕らの中で王位を継ぐのはアレクシス兄様だと思うから。ヴァインス兄様もそう思っているし、お互いに協力してアレクシス兄様を支えていこうとも考えている。でも、肝心の兄様にその気がない」


 レオナルドにとって、アレクシスは敬愛する兄であり、そのアレクシスが王となるのであれば自分は全力をもってそれを支えたいと考えている。

 仮にヴァインスが王位を得たとしてもそれは変わらないが、アレクシスをヴァインスとレオナルドの二人で支えていくのが最良の形に思えた。


「兄様は国の事をどうでもいいと思っているわけではないはずなのに、どうして消極的なんだろう……」


 昔から、何かにつけて自分は政治の才がない人間だと主張することの多いアレクシス。

 まるで王位を得ることを意図的に避けているようであった。


「……近いうちに後継者を決めたい、と以前に陛下も仰っていましたから、尚更なのかもしれませんね」


「うん。……でも、アレクシス兄様が成果を上げてくれないと、僕やヴァインス兄様が何かする際に母様から妨害が入る可能性があるんだよね」


 国王が後継者の選定に入ったというのに、アレクシスが変わらずにのんびりと過ごしているとすれば焦るのは正妃ナタリーだ。

 アレクシスが成果を得ないのであれば、他の王子たちの足を引っ張り相対的に評価を下げる。その程度の事は平気で行うだろう。

 レオナルドは重い溜め息を吐いた。ナタリーがアレクシスを溺愛しようが、王座につけようと必死になろうが構わない。

 しかし、そのために国のためにと進めている仕事の邪魔をされるのは厄介でしかない。


「……まぁ、僕の方はあくまでも僕がアレクシス兄様の指示で動いているように見せているから問題はないけど、ヴァインス兄様の方はそれが出来ないから大変だろうね……」


 ヴァインスが担当している製鉄所では今までの半分以下の経費で鉄の精製から加工、加えて流通までもを可能としてしまった。それはレイノアール王国にとっては大きな利益であり、同時にヴァインスの成果でもあった。

 当然、ナタリーが目を付けていないわけがない。


「ヴァインス様はきっと大丈夫ですよ。あの方もずっとこの王城の中を生き抜いてきたのですから」


「そうだね。ただヴァインス兄様の場合はお母様よりも二妃の期待の方が面倒らしい」


 兄様らしい、と溢して笑う。以前のレオナルドであれば、ヴァインスに対してそのような感情は抱かなかっただろう。


「早く春になると良いですね」


 色々な厄介事も春になれば終わるだろう。

 そのような意味を込めてリーゼロッテは口にしたのだが、レオナルドは違う意味に受け取っていた。


「リーゼは春が好き?」


「え? 私は……」


 レオナルドが何気なく問い掛けた言葉に、リーゼロッテは静かに目を伏せた。

 大した質問はしていないはずだが、何が答えにくかったのだろうか。黙ってしまったリーゼロッテを見上げ、レオナルドは微かに首を傾げた。

 レオナルドの視線に気付いたリーゼロッテは、緩やかに口角を持ち上げてレオナルドに回した腕の力を強めた。


「……そのようなこと、考えたことがなくて。ですから、戸惑ってしまったんです」


「考えたことがない……?」


「はい。……季節の変化を気に掛けるような余裕が、以前の私にはありませんでした」


 空気が変わろうと、花が咲こうと枯れようと、空が近かろうと遠かろうと、リーゼロッテの生活に代わりはない。

 重い曇天よりは澄みきった青空の方が良い。しかし、それだけの話だ。それ以上の感情は必要ではなかった。


「……リーゼはもう、好きなものを好きだと言っていいんだよ」


「大丈夫ですよ、レオン様。私は、ちゃんと好きなものを好きだと言っています」


 熱の籠った眼差しを向けられた。レオナルドも、その意味が分からぬほど子供ではないつもりだ。


「……駄目だよ、リーゼ。僕だって我慢していたんだから」


「……少しだけでも、ですか?」


 珍しい我が儘を受けて、レオナルドの心は揺れる。愛しい人の可愛らしいおねだりを、無下にする男がどこにいる。


「わかったよ、リーゼ。でも、本当に少しだけだよ」


 一足先に春のような笑顔の花を咲かせたリーゼロッテの胸元へ、鎖骨へ、首筋へと触れるだけの口づけを送る。

 赤い花を咲かすことは難しくはなかったが、それをしてしまえば少しではなくなってしまうのがわかりきっていたためレオナルドも口づけに留めた。触れ合っていたいのはレオナルドも同じだ。しかし、起床しなければならない時間は迫りつつある。


「……レオン様は意地悪ですね。唇には触れてくれないのですか?」


 頬に口付けをして顔を離すと、リーゼロッテは不満そうに目を伏せて呟いた。身を起こそうとしたレオナルドを見上げること無く、リーゼロッテはぐずぐずと毛布の中で背中を丸める。

 上体を起こしたレオナルドは、控えめな手つきでリーゼロッテの額に掛かった髪を退けて笑みを溢した。

 女性の我が儘なんて面倒くさいものだとばかり思っていたけれど、彼女については例外らしい。

 拗ねた唇に指を滑らせて、レオナルドは意地悪く微笑んだ。


「春になれば今の仕事も落ち着くから、思う存分触れ合えるよ」


「……では、春になったらレイノアールで咲く花を見に連れていって頂けますか?」


「えぇ、喜んで」


 約束などしなくとも、レオナルドはどこにでもリーゼロッテを連れていくだろう。

 例えレイノアール国の雪が溶けなくとも、レオナルドはリーゼロッテと共に行く。彼女の望む景色を共に見に行こう。

 それでも口約束を交わすのは、戯れのようなものだ。リーゼロッテも同じ気持ちなのだろう。先ほどまで尖っていた唇は、いつのまにか笑顔に変わっていた。


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