最後の夜にきみと二人
デュッセルの私室を後にしたレオナルドは、隣を歩くリーゼロッテに言葉を掛けようと口を開くが、すぐに言葉を飲み込むことを繰り返していた。
彼女の横顔から不安は拭えない。実際にデュッセルの様子を目にし、決して良好とはいえない姿を目の当たりにしてしまえば二人の関係性が希薄なものであったとしても娘としては心配の気持ちは拭いされない。
レイノアールに戻ってしまえば、もう二度とデュッセルには会えない可能性もある。それを思うと、レオナルドはどんな言葉を掛ければ良いのかわからなかった。
リーゼロッテすら知らなかっただろうデュッセルの父親としての想い。それを聞いてしまった手前、両者の間に開いてしまった亀裂を少しでも埋められないかと思ってしまう。
デュッセルがそのようなことを望んでいないことはわかっていた。それでも、と願うのはリーゼロッテが愛しいからだろう。
「……レオン様? どうかしたのですか?」
視線を感じたリーゼロッテが、緩やかに首を傾げた。
普段と特別変わらぬ声音に、益々レオナルドは胸が痛くなった。
レオナルドは足を止める。引き寄せられるようにリーゼロッテは歩みを止め、レオナルドを振り返った。
「……ごめん」
結局、レオナルドの口から出てきた言葉はそれだけだった。
もっと伝えたいことはある。しかし、上手く言葉に出来ず想いを全て形にすると謝罪の言葉以外に表すことが出来なかった。
突然の謝罪に、リーゼロッテはレオナルドの意図が掴めず目を丸くした。
離れてしまった距離を詰めるためにレオナルドは一歩踏み出し、許しを請う罪人のような瞳でリーゼロッテに手を伸ばした。
太陽の熱を包み込む柔らかな琥珀色の髪に触れる。
彼女は、この国の国王の隣に立つために産まれ育った娘。本来であれば、レオナルドがこうして触れることは叶わなかったはずの王女。
時間は掛かるかもしれない。惨めな思いや苦しい思いをしたかもしれない。それでも、デュッセルの考えの元でアカネース国に残っていたのであればリーゼロッテはこの国の第一王女として相応しい生活が待っていたのではないか。
しかし、何の偶然か。今、リーゼロッテはレオナルドが手を伸ばした先で微笑んでいる。自分の髪に触れたレオナルドの手に、はにかみながら自身の手を重ねている。
「僕はきっと、リーゼの幸せを奪ってしまった」
「私の、幸せ?」
「リーゼにはこの国で幸せになれる未来が、確かにあった。少なくともデュッセル様は、リーゼの幸せを願っていたよ」
曖昧に微笑むリーゼロッテは、レオナルドの言葉が半信半疑なのだろう。
静かに目を伏せたリーゼロッテの頬へ、レオナルドは自分の頬を寄せた。少し背伸びをしなければ届かなかった距離が、今は苦労無く触れられる。それだけ、時間を共にしてきた。
まばたきの音さえも聞こえてきそうな距離で、レオナルドは吐息のような静かな声で囁いた。
「デュッセル様の話を聞いて、思った。リーゼには、この国に戻るという選択肢もあるのではないかと」
リーゼロッテが息を呑んだ。
レオナルドはリーゼロッテの頬に顔を寄せたまま、彼女の手に自分が持つ王印を握り締めさせた。
元々、リーゼロッテが持っていたものと、先程デュッセルから渡されたもの。
デュッセルの前では守り抜くと誓ったものの、これが彼女の手にあればアカネース国で今後優位に立てることは明らかであった。出戻りの形ではあるが、王印を持つ第一王女であれば王座を求めた貴族たちからの縁談は期待できるだろう。
それに、リーゼロッテは今回の模擬戦でレオナルドの勝利によってミレイニアから彼女の意思を握る唯一無二のペンダントを受け取っている。
王印と第二王女のペンダント。その二つを持つリーゼロッテであれば、アカネース国に戻り上手く立ち回ることは可能だろう。
産まれ育った国で、見知った人も多く、民も味方となってくれる。現時点で彼女に敵意を向けている相手も、状況が変わればリーゼロッテに従うはずだ。
レイノアールで生きていくよりも、自由な道がリーゼロッテの目の前にはある。レオナルドはそれに気付いてしまった。
金属の冷たさが、二人の手の中に広がっていく。
取りこぼさないように強く握り締め、リーゼロッテは弱々しく首を振った。
「そのような選択肢、私には考えられません。だって、この国にレオン様はいませんから」
「だけど、リーゼはこの国の頂点に立つ力がある。条件も、揃った。王印がここに揃った今、この国で次期国王を選定する人間としてリーゼ以上の人はいないはずだ」
「そのようなこと、承知の上で申しているのです!」
これ以上の言葉を許さぬように声を荒げ、リーゼロッテはレオナルドの肩へと額を押し当てた。
肩に掛かる重みは、王印よりも遥かに重い。
「私の幸せは、レオン様の隣にしかありません。レオン様だって、知っているのでしょう?」
責めるような響きが耳たぶをくすぐる。
頷くことしかレオナルドには出来ず、しかしそれではリーゼロッテは納得できずにレオナルドの手ごと王印をきつく握り締めた。
「以前の私であれば、レオン様の仰る通りにこの国へ帰ったかもしれません。母や、母に関わる人たちを蔑ろにし続けたこの王城に復讐するためにも、王座を奪い取ろうとしたかもしれません。私の中に、正妃を憎む気持ちは確かに存在しています」
細い指からは想像できない力で握り締められ、レオナルドは僅かに眉をしかめた。
「……だけど、それ以上に私は……私は、レオン様に惹かれています。貴方の隣で生きていくことを何よりも望みます」
「僕だって、リーゼと一緒に生きたい。だけど、この先もレイノアールにいればリーゼが苦労ばかりすることは目に見えている。もし、リーゼが今よりも自由に生きられる道があるのなら……」
「私はレオン様の隣にいられるのであれば、明日死んだとしても構いません。それなら、明日生きて苦労することの何を恐れるというのです!」
これからを、共に生きたい。
それは偽ること無く晒されたリーゼロッテの本心であった。
レオナルドは目を閉じ、リーゼロッテの手を握り返す。
「ごめん」
短く吐き出し、レオナルドは首を振った。
「ごめん、リーゼ。僕はまた臆病になっていたみたいだ」
先の見えない未来に一人で勝手に不安を抱き、リーゼロッテの幸せを決めつけようとした。
王印の重みに、足が震えた。
そんな自分を恥じるように、レオナルドは唇を噛み締めると片手でリーゼロッテの頭に触れた。
柔らかな髪を撫で、自分の元へと抱き寄せる。
当然のようにそれを受け入れたリーゼロッテは、何の抵抗もなくレオナルドの腕の中に捕らわれた。
「リーゼ、今日はこのまま二人で過ごしても良いかな。本当は最後の夜だから、君の行きたいところに連れていきたかったんだけど」
「私が行きたい場所はレオン様の隣です」
「……そういうことを簡単に言うんだから」
リーゼロッテの言葉一つでレオナルドの心は簡単に空を舞う。甘い囁きは毒よりもたちが悪い。
レオナルドの胸に顔を埋めたリーゼロッテは、僅かに朱に染まった頬を隠すように身動ぎする。想いを口にすることは簡単ではない。しかし、年上としては少し位は余裕があるように見せかけたい。
リーゼロッテにとって、世界はとても生きづらい。アカネース国であっても、レイノアール国であってもそれは変わらない。
そのことを知っているリーゼロッテだから、自分にとって最も幸福を得られる場所がどこであるかもよく知っていた。
「……やっぱり、王印はレオン様が預かっていてください。私がレオン様から指輪を頂いたように、レオン様にも預かっていただきたいのです」
「本当にいいの?」
「レオン様なら、私を悲しませるような使い方をしないと知っていますから」
レオナルドは苦笑を浮かべて、リーゼロッテを抱き締める腕に力を強めた。
肯定の言葉は、今の二人の間にはいらない。互いの熱が、手のひらが、呼吸が、お互いの気持ちを隠すこと無く伝え合っていた。
アカネース国最後の夜、城下町は最高潮の盛り上がりを見せていた。
浮かれた空気の中、難しい顔で歩くのはレオナルドの従者イヴァンであった。今夜は祭りを楽しむレオナルドとリーゼロッテに護衛として付き従う予定であったが、急遽二人きりで過ごしたいと言われてしまい突然暇ができてしまった。
酒に歌にと受かれ楽しむ人々とは混ざらず、周囲の様子に目を配りながら人の目を避け歩いていく。イヴァンの頭の中を占めているのは先日の模擬戦の中でヴァインスが不戦敗となったあの一件であった。
疑問に感じたイヴァンは聞き込み調査を行い、その時間にヴァインスがミレイニアと共にいただろうことまでは判明させている。
多くの人間の目撃情報を照らし合わせ、ようやく掴んだ情報だ。個々の情報だけでは繋がらなかっただろう。
決定的な証拠は無いが、ヴァインスを追い詰める手札の一つにはなる。
もちろん、イヴァン自身がヴァインスを陥れたいとは考えていない。しかし、アカネース国の第二王女と密会したという事実を正妃の耳にいれたとすればどうなるだろうか。有益な情報を提供したとして、今よりもレオナルドに対する風当たりが弱まる可能性がある。
「……いや、ないな。意味がない」
考えを振り払うように首を振ると、イヴァンは重い息を吐いた。
イヴァンにとっての主はレオナルドだ。ヴァインスを犠牲にし、レオナルドが救われるのであれば迷わずそうする。
しかし、ナタリーが相手では効果は望めない。
加えて、最近のヴァインスとレオナルドの仲は改善されつつあるため、どちらを優先した方がレオナルドに有益となるかは考えるまでもない。
場合によっては、ナタリーの耳に入れるよりは、二妃の耳にいれて脅しを掛けた方がよい効果は期待できるかもしれない。
今すぐに動くつもりはないが、何かがあったときにイヴァンは躊躇無くヴァインスを利用するだろう。
「……イヴ?」
擦れ違った男が、足を止め振り返る。
呼ばれた名は自分の本当の名で、母国から離れた地で聞くには不自然な響き。
イヴァンは緊張に体を強張らせ、ゆっくりと声の主を振り返った。
「叔父上……! なぜ、この様なところに……!」
突然の再会に、イヴァンは思わずそう口にしてしまった。
何年ぶりだろうか。レオナルドに仕えるようになってからは一度も顔を合わせておらず、両親の死と同様に叔父や叔母、その他の親族も亡くなったものとばかり思っていた。
イヴァンの驚きは予想通りだったのだろう。叔父は小さく笑みを溢すと、イヴァンの隣に並び声を潜めた。
「屋敷の襲撃があった夜、お前同様に私も別件で留守にしていたのだ。アカネース国での諜報活動のためだったが、王弟殿下に謀反の疑いが掛かり一族の処刑が決まったと聞き、それからずっとアカネース国に身を潜めて生活している」
幸いなことに、諜報活動を得意とするイヴァンの一族の中でも叔父は特にアカネース国の人間に近い外見的特徴を持っていた。国に戻ったとしても、王弟に使えていた一族の自分の安全は保証できないと判断し、アカネースに残ることを決めたのだ。
「しかし、任務のため国外に出ていた私とは違い、あの時屋敷内で謹慎を言い渡されていただろう? 何故、お前は襲撃を免れた?」
「それは……」
有りもしない反逆の罪を着せられた王弟一家。彼らの処刑の命が下った時、王弟の臣下は全て屋敷内での謹慎を言い渡されていた。その間に、イヴァンの一族は賊の襲撃を受け、当主から赤子までが皆殺しにされてしまった。
しかし、イヴァンは生き延びている。それはつまり、あの夜屋敷にいなかったということにはるのではないか。
叔父としても、イヴァンが生きていることは素直に嬉しい。しかし、何故という疑問は残る。
イヴァンは目を伏せ、逃げるように唇を噛む。人を騙し唆す術をイヴァンに教えたのはこの叔父だ。彼を前に、誤魔化しきれる自信はイヴァンにはなかった。
「……言えないことがあるのか。わかった、ならば深くは聞かない。お前があの夜屋敷にいないから助かったのか、運良く襲撃の中生き延びたのかは誰にもわからんということだな」
ため息と共に叔父は視線をイヴァンから外す。ほっと息を吐いたイヴァンは、感謝するように小さく頭を下げた。
「それで今はレオナルド様にお仕えしているんだったか? まぁ、ディオン様が可愛がられていた御方ということを考えれば妥当な選択だろうな」
「そうですね。個人的にも、レオナルド様には恩があります。私は、それに報いるためにあの御方の力になりたい」
そうか、と頷いた叔父は腕組をしてイヴァンを見下ろすと、しばらくした後にイヴァンの腕を掴み人気のない裏道の方へと足を向ける。
辺りを見渡し、人の目がないことを確認すると、細い裏道にイヴァンを押し込むようにして、大通りから姿が見えないよう自分の体で隠してしまう。
「レオナルド様にお仕えするのであれば、一つだけ知っておいた方がいいことがある」
「知っておいた方が良いこと、ですか?」
「あぁ。当時お前はまだ未熟だったから知らされていなかっただろうが、お前の父が掴んだ情報だ。……そしておそらく、そのせいで正妃様は王弟殿下に有りもしない罪を擦り付けた」
「……え?」
初めて知らされる事実に、イヴァンは呼吸も忘れて叔父を見上げた。
父親の得た情報が原因となり、王弟一家は反逆罪を被せられた。それはつまり、正妃にとって邪魔者だったのは王弟ではなくイヴァンたち一族であったということ。
ディオンの処刑を引き起こしたのは、自分達であるということだった。
「これは王弟殿下にも申し上げていた。表沙汰になれば大問題となる事実だ」
反逆罪を被せてまで口封じをしたかった情報。その重さの前に、イヴァンは身体中の水分が喉から干からびていくのを感じていた。
叔父の手が、イヴァンの肩を叩く。大袈裟に体を震わせたイヴァンは、不安の滲む眼差しで叔父を見上げた。
「正妃様には、大きな嘘がある。あの方の子は……」
「それ以上は口にするな」
叔父が口を開くのと、温度のない声が割って入るのは同時だった。
聞き慣れているのに、まるで他人のように響く声にイヴァンは窺うようにその声の主を見つめた。
叔父の背後で、その腕を掴む仮面の青年。
今夜の祭りの道化師のような出で立ちに叔父は眉をしかめたが、次第にその顔色は信じられないものを見るような顔つきに変わる。
「イヴァン、戻ろう。今夜は祭りだ。そんな暗い顔をするよりも、折角だから楽しんだ方がいい」
叔父を押し退けたジョルジュは、恋人を誘うような穏やかな声音でイヴァンへと手を差し伸べた。仮面の奥で、瞳はこの手を掴めと命令している。
ぎこちなく持ち上げた手を、恐る恐る重ねた。イヴァンは、まるで操り人形のようにジョルジュに触れる。
「知らないままが良いこともある」
重ねた手を引き寄せ、自分の元へと抱き寄せたイヴァンの耳元でジョルジュは静かに囁く。
そのまま歩き出そうとしたジョルジュの腕を、目も口も丸く開いたままの叔父が慌てて掴んだ。
「待て! いや、お待ちください! 貴方の、その、髪の色、目の色……もしかして貴方は……」
続けて吐き出され掛けた名を、制するようにジョルジュは叔父の唇へと人差し指を押し当てた。
刃物の切っ先にも似た冷たさに触れられ、叔父は額に冷や汗を流し息を呑んだ。
「私の名はジョルジュ。レオナルド様にお仕えするレイノアールの騎士。それ以上でも、以下でもない」
「しかし、貴方は……」
「……くどいぞ、イスガル」
尚も引き下がろうとしない叔父を、冷たく切り捨てるジョルジュの声。仮面の奥の瞳が苛立ちに細められる。
「何の権利があって、お前は私の言葉を否定する?」
「それは……」
「わかったのなら、下がれ。私はお前の助けを欲してはいないし、この先も求めはしない」
項垂れた叔父の姿を横目で確認し、ジョルジュはイヴァンの肩を抱いて歩き出した。
すぐにでもこの場から連れ去りたい。肩を掴む指先は強張っている。
引き摺られるように叔父を置き去りにし、イヴァンは自分を連れていくジョルジュを見上げた。
仮面に隠された表情は見えない。しかし、怒っていることは歩き方から察せられた。
「ジョルジュ、どうして止めた?」
何も答えない。
イヴァンは不安のあまり、ジョルジュの腕を振り払い彼の胸ぐらに掴み掛かった。
「どうして黙っている!」
さほど人の気配がないことが幸いして、イヴァンが怒声を上げても人の注目を集めることはなかった。
睨み付けられてもジョルジュの表情は変わらず、仮面の奥では感情の読めない瞳がじっとイヴァンを見つめているだけ。
「イヴに死んでほしくないからだ」
「答えになっていないだろう!」
「いいや、十分だ。王弟一家とイヴの一族の死の原因は余計なことを知ってしまったことだ。だから、お前は知らないままで良い」
話にならない。再び怒鳴り付けようと開いた口は、燃えるように暑いジョルジュの唇によって塞がれてしまった。
凍りつくような冷たさでイヴァンを冷やす仮面と、溶かすほどの熱量を持つ唇。溢れた吐息は、白く形を作り二人の間に飲み込まれていく。
ずるい、とイヴァンは心の中でジョルジュを責めた。
怒りも、理不尽さも、全てが喜びに上書きされる。唇を重ね、指を絡めれば、ジョルジュの想いはイヴァンに流れ込んでしまう。
死なないでほしい。
その言葉の切実さは、言葉以上にジョルジュの熱が伝えているのだ。




