入口
雲が近く錯覚するほど、まとまった霧が晴れずに残り、道を塞ぐ。そこに車が当たると、絹を引き裂くように流れヘッドライトに絡まり、視界を開かせない。
「霧がスゴいわねえ。母さんが下見にきた時は、これほどじゃなかったのよ」
母のフローディアは首だけ振り返りながら、スナック菓子の袋を開けた瞬間の息子を見た。
「ここは山に挟まれた土地だから、仕方ないんじゃない?」
「山に挟まれると霧がスゴいの?」
「さぁ、知らない」
「何よそれ。マルゴーが言ったんじゃない」
マルゴーはスナック菓子を頬張ると、後部座席から身を乗り出し、母に袋を差し出した。フローディアはハンドルを握りながら、マルゴーの差し出した袋に手を入れ、合成甘味料がこれでもかとかかったコーンフライを取り、すぐに袋に戻した。
「病気になりそうな色」
「これまで山ほど食べたけど、今のところまだ大丈夫」
母の呆れた溜め息も余所に、マルゴーは指を舐めながら窓の外を見た。時折見える霧の隙間から、森林の濡れた景色を窺える。
この森林の先を抜けた地に、引っ越し先の村が存在する。
山あいに潜む村、ミーゴット。
山岳地帯に広がる森林を分け入り作られたその村は、130世帯175人の人間が住む小さな村である。しかし村役場、診療所、商店、郵便局など、生活に欠かせない機関は存在し、小中高一貫ではあるが学校もあり、また、小さな宿屋も建っている。
ミーゴットは山岳地帯の『天文台』として知る人ぞ知る者が訪れる、密かな天体観測所と知られていた。村から続く道は、標高2000メートルの山々の頂に伸び、冬には満天の星を提供している。宿屋は村に訪れる観測客を向かい入れる為だった。
大学で天文学を教えていた父の死後、母は新婚当時一度だけ父と2人で訪れたこの地を新たな生活の場所に選び、マルゴーを連れ引っ越してきた。
急な父との別れ、急な見知らぬ土地への引っ越しに、マルゴーは戸惑いを隠せなかったが、父の残した遺産と保険金で暫くは細々と暮らしていける事と都会育ちの自分では味わえなかった田舎暮らしに夢を馳せ、気持ちを切り換えようとしている母の手助けになればと、この小旅行に賛成した。
「母さん、看板があるよ」
「何処?」
「ほら、あれ。あのちっちゃいやつ」
寂れた小型の標識が、霧のまどろみの先に見える。『ミーゴット』と書かれたふそれの端は、鉄板が割れ、下地の木材が露わになっていた。
看板を見た母が眉間に皺を寄せた。ルームミラー越しにそれを見つけたマルゴーは、後方に過ぎていく看板を振り返る。
「どうかした?」
「……ううん、何でもないの」
「ミーゴットじゃなかった?」
「いいえ、あってるわよ」
母は霧に消えた標識を数回ミラーで確認し、すぐ前を向いてハンドルを握り直した。
「何?誰かいたの?」
「……うん……何かね」
「やめてよ母さん。気味が悪いじゃないか。幽霊?」
「マルゴーこそやめてよ。ただ人がいたかなぁって思っただけよ」
フローディアはドリンクホルダーから缶コーヒーを取り、一口含んだ。ほんの一瞬、視界が遮られる。