新年
さらさらと水が流れるように粉雪が斜面を駆け下りて行く。
僕は、そんな山中の雪の舞いに見とれていた。
「すみません。失礼します」
仲居が宿帳を持って現れた。
「これに、記入をお願いします」
四十がらみに見える仲居は座卓に宿帳とペンを置き、少し離れて正座した。
「ああ、はい」
僕はペンを手に取った。
「あの、もしかして……」
仲居は何か言いかけたようだった。
「はいっ?」
「お一人ですか? お連れ様があとから見えるのでしょうか?」
帳場でも同じことを訊かれて答えているのに、仲居には伝えていないのだろうか?
「いえ、一人です。こちらの旅館としては、儲からない客でしょうね、きっと。すみません」
「いいえ、そんなことは。うふふ……」
軽い冗談が通じたらしい。仲居の屈託のない笑顔は魅力的だった。
僕は住所を記入しながら、四十代半ばになる男が一人で泊まる不審を晴らさねばなるまいと思った。
「飛行機が欠航になっちまいましてね」
「そうでしたか」
「電車を乗り継いで帰れないこともないんですが、何だか疲れちゃいましてね。温泉で疲れを取るのもいいかなって。もっと言うと、秋にカミさんを亡くしたものだから、早く帰る理由がないんですよ。だから今回はここで新年を迎えようと思ったんです。はい、これ」
僕は余計な事まで言った。
仲居は、記入漏れがないか確認しているようだった。
「やっぱり!」
「えっ?」
「あたしです。奈穂子です。忘れました?」
「えっ? なおこって……」
僕等は、まじまじと顔を見合わせた。そうだ。この眼、この顔、この声は若い時に喧嘩別れをした奈穂子だった。今となっては、どんな理由で喧嘩になったのか、思い出せない。
「お久しぶりね、青司さん。二十年ぐらいになるかしら」
「や、やあ。元気だった?」
何を言ってるんだ。元気だから旅館で働いているのだろう。しかし、ここで『会いたかった』と言うのもわざとらしい。
「えーと、その……後で話せるだろうか?」
「ええ。あたしが夕食のお給仕をしましょう」
「あ、うん。是非、頼むよ。いや、そうじゃなくて一緒に食べよう。夕食を二人分にして下さい」
奈穂子の笑顔は、僕の凍りかけていた心をほぐし、温め、和ませた。
そうして、新しい何かが始まるような気がした。そうだ。新しい春が巡って来たんだ。
明日は雪が止むだろうか?
―了―




