聖剣の錆びる音
その男が宿屋「ひだまり亭」の暖簾をくぐったのは、もう日がすっかり落ち、夜の帳が町の屋根をすっぽりと包み込んだ頃だった。
「いらっしゃい。おや、お一人かい?」
帳場に座っていたお内儀のトメさんは、眼鏡の奥の目を細めた。男は年の頃なら二十五、六といったところだろうか。背は高いが、どこか頼りなげに肩を落とし、使い古された外套の裾は泥で汚れている。背中に背負った大きな包みだけが、妙に重々しい存在感を放っていた。
「……ええ。一晩、お願いできますか」
消え入りそうな声だった。トメさんは長年この商売をやっている。家出をしてきた丁稚、駆け落ちに失敗した若い衆、あるいは人生に絶望した浪人。そんな「訳あり」の背中を嫌というほど見てきた。だが、この男の背負っているものは、それらとは少し毛色が違って見えた。
男は夕食もそこそこに、出された麦湯をじっと見つめていた。その手は白く、しかし剣筋でできたものだろうか、指の付け根には硬い肉刺がある。
「お若いの、何か悩み事でもあるのかい。この町はね、海風が強いから、嫌なことは全部海が持っていってくれるよ」
トメさんが声をかけると、男は力なく笑った。
「……僕は、魔王を倒したんです」
トメさんは一瞬、耳を疑った。
「はあ? 魔王って、あの、お伽噺に出てくるような?」
「はい。三ヶ月前、最果ての城で。王様からは金貨を賜り、町の人々からは喝采を浴びました。僕を称える歌まで作られたそうです」
それならなぜ、そんなに幽霊のような顔をしているのか。トメさんは首を傾げた。
「でもね、トメさん。魔王がいなくなったあとの世界は、驚くほど何も変わらなかったんです」
男——かつて勇者と呼ばれた若者は、ぽつりぽつりと話し始めた。
「魔物が消えれば、道は安全になり、誰もが幸せになれると思っていました。でも、実際には魔物という共通の敵がいなくなった途端、隣村同士が水利権で争い始め、商人は偽の薬を売り、王宮では手柄の取り合いで足の引っ張り合いが始まった
。僕が倒したのは、ただの『記号』に過ぎなかったのかもしれない。僕の振るった剣は、誰の心も救ってはいなかったんだ」
時折こうした「正義の後の空虚」が顔を出す。大きな悪を排除したあとに残るのは、解決しようのない人間の業や、卑近な悪意だ。
「聖剣はね、魔王を倒した瞬間に光を失いました。今はただの、重くて錆びやすい鉄の棒です。これを抱えて歩いていると、自分が何者だったのか分からなくなる。僕は、ただ人を殺すのが上手いだけの、ただの青年だったんじゃないかって」
トメさんは、黙って男の湯呑みに熱い茶を注ぎ足した。
「……あのね、お若いの。あんたは難しいことを考えすぎだよ」
「え?」
「魔王を倒したからって、明日からみんなが仏様になれるわけじゃない。人間ってのはね、朝起きて、腹が減ったら飯を食って、誰かを妬んだり、ちょっとだけ得をしようとしたりして、そうやってズルズル生きていくもんだ」
トメさんは、男の前に置いてあった「ひだまり亭」名物のふかし芋を指差した。
「あんたが魔王を倒してくれたおかげで、この芋を運ぶ荷車が魔物に襲われずに済んだ。おかげで、私は今夜もあんたに温かい飯を出せる。それだけで十分じゃないか。世界を救うなんて大層なことは、神様に任せておけばいいんだよ」
勇者は目を丸くし、それからゆっくりと芋を手に取った。皮を剥くと、白い湯気がふわりと立ち上り、彼の凍えた顔を包んだ。
「……甘いですね、この芋」
「そうだろう? 潮風を浴びて育ったからね」
その夜、宿の二階からは、静かな寝息が聞こえてきた。
翌朝、男は少しだけ背筋を伸ばして旅立っていった。背中の包みは相変わらず重そうだったが、その足取りは昨日よりずっと軽やかだった。
トメさんは、彼が置いていった宿代の横に、小さなメモが残されているのを見つけた。
『次は、美味しい芋の育て方を勉強しようと思います。元・勇者より』
窓から差し込む朝日は、昨日と変わらず町を照らしていた。相変わらず隣の長屋では夫婦喧嘩の声がし、市場では威勢のいい値切り合戦が始まっている。
そんな、どこにでもある「救われた世界」の日常が、そこにはあった。




