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聖剣の錆びる音

作者: きらら
掲載日:2026/03/25

 その男が宿屋「ひだまり亭」の暖簾をくぐったのは、もう日がすっかり落ち、夜の帳が町の屋根をすっぽりと包み込んだ頃だった。


「いらっしゃい。おや、お一人かい?」


 帳場に座っていたお内儀のトメさんは、眼鏡の奥の目を細めた。男は年の頃なら二十五、六といったところだろうか。背は高いが、どこか頼りなげに肩を落とし、使い古された外套の裾は泥で汚れている。背中に背負った大きな包みだけが、妙に重々しい存在感を放っていた。


「……ええ。一晩、お願いできますか」


 消え入りそうな声だった。トメさんは長年この商売をやっている。家出をしてきた丁稚、駆け落ちに失敗した若い衆、あるいは人生に絶望した浪人。そんな「訳あり」の背中を嫌というほど見てきた。だが、この男の背負っているものは、それらとは少し毛色が違って見えた。


 男は夕食もそこそこに、出された麦湯をじっと見つめていた。その手は白く、しかし剣筋でできたものだろうか、指の付け根には硬い肉刺まめがある。


「お若いの、何か悩み事でもあるのかい。この町はね、海風が強いから、嫌なことは全部海が持っていってくれるよ」


 トメさんが声をかけると、男は力なく笑った。

「……僕は、魔王を倒したんです」


 トメさんは一瞬、耳を疑った。

「はあ? 魔王って、あの、お伽噺に出てくるような?」


「はい。三ヶ月前、最果ての城で。王様からは金貨を賜り、町の人々からは喝采を浴びました。僕を称える歌まで作られたそうです」


 それならなぜ、そんなに幽霊のような顔をしているのか。トメさんは首を傾げた。

「でもね、トメさん。魔王がいなくなったあとの世界は、驚くほど何も変わらなかったんです」

 男——かつて勇者と呼ばれた若者は、ぽつりぽつりと話し始めた。


「魔物が消えれば、道は安全になり、誰もが幸せになれると思っていました。でも、実際には魔物という共通の敵がいなくなった途端、隣村同士が水利権で争い始め、商人は偽の薬を売り、王宮では手柄の取り合いで足の引っ張り合いが始まった


。僕が倒したのは、ただの『記号』に過ぎなかったのかもしれない。僕の振るった剣は、誰の心も救ってはいなかったんだ」


 時折こうした「正義の後の空虚」が顔を出す。大きな悪を排除したあとに残るのは、解決しようのない人間の業や、卑近な悪意だ。


「聖剣はね、魔王を倒した瞬間に光を失いました。今はただの、重くて錆びやすい鉄の棒です。これを抱えて歩いていると、自分が何者だったのか分からなくなる。僕は、ただ人を殺すのが上手いだけの、ただの青年だったんじゃないかって」


 トメさんは、黙って男の湯呑みに熱い茶を注ぎ足した。

「……あのね、お若いの。あんたは難しいことを考えすぎだよ」


「え?」


「魔王を倒したからって、明日からみんなが仏様になれるわけじゃない。人間ってのはね、朝起きて、腹が減ったら飯を食って、誰かを妬んだり、ちょっとだけ得をしようとしたりして、そうやってズルズル生きていくもんだ」


 トメさんは、男の前に置いてあった「ひだまり亭」名物のふかし芋を指差した。


「あんたが魔王を倒してくれたおかげで、この芋を運ぶ荷車が魔物に襲われずに済んだ。おかげで、私は今夜もあんたに温かい飯を出せる。それだけで十分じゃないか。世界を救うなんて大層なことは、神様に任せておけばいいんだよ」


 勇者は目を丸くし、それからゆっくりと芋を手に取った。皮を剥くと、白い湯気がふわりと立ち上り、彼の凍えた顔を包んだ。


「……甘いですね、この芋」

「そうだろう? 潮風を浴びて育ったからね」


 その夜、宿の二階からは、静かな寝息が聞こえてきた。


 翌朝、男は少しだけ背筋を伸ばして旅立っていった。背中の包みは相変わらず重そうだったが、その足取りは昨日よりずっと軽やかだった。


 トメさんは、彼が置いていった宿代の横に、小さなメモが残されているのを見つけた。

『次は、美味しい芋の育て方を勉強しようと思います。元・勇者より』


 窓から差し込む朝日は、昨日と変わらず町を照らしていた。相変わらず隣の長屋では夫婦喧嘩の声がし、市場では威勢のいい値切り合戦が始まっている。


 そんな、どこにでもある「救われた世界」の日常が、そこにはあった。

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