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母のノートを見つけてしまった話

作者: くろめがね
掲載日:2026/02/16

こんなこともあるかもしれません。

ふと、考えてみました。

第一章 期待していたノート


 母が亡くなってから、夕方が少し長くなった気がする。


 日が沈む速さは変わらないのに、家の中だけが妙に間延びしている。

 テレビをつけても、誰も台所に立たない。

 湯気も、包丁の音もない。


 私は仕事から帰ると、靴を脱いだまましばらく玄関に立つ癖がついた。


 誰も「おかえり」と言わない家は、思っていたより静かだった。


 その日も、意味もなく冷蔵庫を開けて閉めたあと、引き出しを整理しようと思った。

 葬儀の後から、台所はほとんど触っていない。


 母の場所だったからだ。


 奥の引き出しは、少し引っかかる。

 いつも母が無理やり詰め込んでいた場所だ。


 輪ゴム。

 割り箸。

 期限切れのだしパック。


 その一番下に、ノートがあった。


 白い大学ノート。

 角が丸く、表紙に油の染み。


 「料理」


 母の字だった。


 私は思わず息を止めた。


 これだ、と思った。


 母の味は、いつも当たり前に食卓にあった。

 特別な日じゃなくても、帰ればご飯がある。


 だから、母が亡くなったあと、私はずっと不安だった。


 あの味は、もう二度と作れないんじゃないか。


 でも、このノートがあれば。


 私は椅子に座り、ゆっくりと開いた。


 最初のページ。


 「焦がした」


 それだけだった。


 私は一度瞬きをした。


 次のページ。


 「塩、多すぎ」


 さらにめくる。


 「水、入れすぎた」


 ……は?


 声に出さずに、口だけ動いた。


 分量がない。

 手順がない。

 料理名すら書いていない。


 ただ、短い失敗の言葉だけ。


 正直、少し腹が立った。


 ちゃんとしたレシピを残してくれていると思ったのに。


 私はノートを閉じかけて、手を止めた。


 母は料理が得意だったはずだ。

 少なくとも、私はそう思っていた。


 でも、このノートは違う。


 雑で、途中でやめたみたいな字。

 汚れで読めないページもある。


 なんだ、これ。


 私は椅子に背中を預けて、天井を見上げた。


 母は、私が困らないように何か残してくれていると思っていた。


 それが、このノートだと思った。


 でも、ここには“答え”がない。


 あるのは、途中ばかりだ。


 私は、もう一度ページをめくった。



第二章 失敗をなぞる


 その夜、私は台所に立った。


 冷蔵庫の中身は中途半端だった。

 肉が少し。

 しなびかけた野菜。


 とりあえずフライパンを出す。


 火をつけると、青い炎が静かに揺れた。


 母が立っていた場所に、自分がいることが少しだけ落ち着かない。


 ノートを横に置いた。


 「塩、多すぎ」


 短い文字が目に入る。


 私は瓶を持ち、慎重に振った。


 ……足りない気がして、もう一振り。


 皿に盛って、食べてみる。


 濃い。


 私は小さく息を吐いた。


 「……塩、多すぎ」


 気づいたら、同じ言葉を口にしていた。


 少しだけ笑った。


 母も、こんな風に独り言を言っていた気がする。


 次の日、私は煮る料理に挑戦した。


 火加減がわからない。


 途中で水を足す。


 鍋から立ち上る湯気に、醤油が焦げる匂いが混じった。


 胸の奥が少しだけ温かくなった。


 昔の台所の匂いだった。


 私は蓋を開けて、味を見る。


 薄い。


 塩を足す。


 また濃くなる。


 「水、入れすぎた」


 ノートに書かれていた言葉を、また口にしていた。


 私は台所の椅子に座り込んだ。


 母は、毎日こんなことを繰り返していたんだろうか。


 忙しい日も、疲れた日も。


 私は、母の料理を“完成したもの”しか見ていなかった。


 その途中を、知らなかった。


 ノートをめくる。


 「時間なかった」

 「味見しなかった」


 その文字を見ながら、私はもう一度鍋をかき混ぜた。


 音が、小さく台所に響いた。


第三章 生活が書いてある


 何日か、同じことを繰り返した。


 仕事から帰って、冷蔵庫を開けて、ノートを横に置いて料理をする。

 味は安定しないし、手順も手探りだった。


 でも、不思議とやめようとは思わなかった。


 ある夜、私はノートをめくる手を止めた。


 「頭痛」

 「眠い」

 「仕事、長引いた」


 料理の話じゃない。


 私は少し首をかしげて、前後のページを読み返した。


 「帰り遅い」

 「洗濯、終わってない」

 「もう、いいや」


 鍋の中で、小さく泡が弾ける音がした。


 私は火を弱め、ノートに視線を戻した。


 そこに書いてあるのは、分量でも手順でもない。

 その日の母の状態だった。


 忙しかった日。

 体調が悪かった日。

 余裕がなかった日。


 私は、ゆっくり息を吐いた。


 レシピだと思っていたものは、日記だった。


 台所の隅に置かれた、小さな記録。


 そう思った瞬間、ページの印象が変わった。


 「焦がした」

 「塩、多すぎ」


 それは失敗の報告じゃない。


 その日の“余裕のなさ”だったのかもしれない。


 私は椅子に座り込み、少しだけ目を閉じた。


 母は、毎日料理が好きで台所に立っていたんじゃない。

 たぶん、やめる理由がなかっただけだ。


 帰れば子どもがいて、食べる人がいて。

 だから続けていた。


 ノートの字は、ページごとに違った。


 丁寧な日。

 乱れた日。

 途中で止まっている日。


 私はそれを指でなぞりながら、初めて母の背中を見た気がした。


 料理じゃない。

 生活が書いてある。



第四章 最後の一行


 ノートの最後のページは、少しだけ紙の色が違って見えた。


 何度も開かれた跡がある。


 私は手を止めたまま、しばらく眺めていた。


 そこに書かれていたのは、


 「今日は、ちゃんと作ろうと思った」


 一行だけ。


 それ以上、何もない。


 成功したのか、失敗したのかも書いていない。


 続きはKindle版にて。

Kindleに移植しました。

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