開戦のヴォカリーズ(6)
始業式の前日に、担当学年毎の会議が開かれた。相変わらず、主任は要領を得ない話を長々として、私達を疲弊させた。夏休みで生活リズムや心が乱れている生徒を厳重に取り締まり、矯正せよとのことだ。警察ではあるまいに。私生活での不満を、生徒にぶつけているようにしか見えない。
担任以外は解散だったので、田端先生より先に退出した。旧社会科準備室で、ジゲンⅠの資料を再度読むか。
「鶯谷先生」
白いカーディガンを着た女性が、走って私に付いて来た。目白先生、二年一組の副担任だ。
「風を切るように歩かれますよね。声、おかけしたのに」
「すみません」
律儀に謝ってしまう自分が、厭わしい。親父のように我が道を突き進めない、不器用な男なのである。
「旧校舎ですか?」
私は短く返事した。
「鶯谷先生専用でしたよね。いいな、私も古い国語科準備室を使わせてもらおうかな。時々ひとりにならないと、押しつぶされそうだもの」
目白先生が、女性教師達の雑談を聞かされているところを、度々見かける。無反応だとあちらが機嫌を損ね、まともに相手をしているとこちらが草臥れる。なかなか大変そうだ。
「先生は、ひとりが怖くならないんですか?」
シンプルだが哲学めいた問いかけをする。答えに窮した私は、とりあえず苦笑した。
音楽室に差し掛かると、ピアノの演奏が聞こえた。
「あ、この曲」
足を止めて、目白先生は瞳を閉じて歌い出した。母音「a」のみだが、私を聞き入らせた。
「……きゃ、すみません。好きだからつい」
「何という曲なんですか」
「ヴォカリーズです」
はにかんで目白先生は答えた。
「ラフマニノフの作曲です。元は嬰ト短調なんです。でも、今、池袋先生が弾かれているホ短調が私は好き」
目白先生が両耳に手を添えて、緩やかなテンポに合わせて体を揺らす。
「想像する景色は、朝に降り積もった雪の時と、夕方のはるかな空の時があるんですよね。今日は、雪の方」
「涼しそうですね」
頭を振られた。女性との会話は、難解である。
「強いてひと言で表すなら、切ない、なんです。自分がどこから来たのか、どんな道を歩いて現在に至っているのか、分からない。ひたすらに広がる銀世界や大空が、私の仲間みたいに思えて……」
目白先生が距離を狭めてこられた。
「そんな気持ちになったこと、ありませんか?」
ゆっくり二、三歩下がって、私は考えを巡らせた。
「人の、根源的な孤独感でしょうか。それでしたら、私もありますよ」
先生は目を瞠り、両手を叩いた。
「びっくり。私が言いたかったこと、鶯谷先生が形にしてくれました!」
「……お役に立っていたようで」
大きく頷かれた。過剰に喜ばれると、余計に辟易するではないか。
「すっきりしました! あはっ、先生はどんな謎や悩みも、鮮やかに、爽やかに、真っ二つにする笹の葉のハサミみたい」
この人は、独特の比喩表現を作り出す特技があるらしい。当学に在籍する国語教師の中で、群を抜いた夢想家ではないだろうか。
「やっぱり、私を私だと認めてくれるのは、鶯谷先生だけ……」
そして、なぜか私を仮想の恋人扱いしている。他の先生方を前にしては言わないが、私は反応に戸惑うばかりだ。
「鶯谷先生!」
先に行ったかと思えば、目白先生は振り返って満面の笑みを浮かべた。
「明日からも、頑張りましょうね!!」
私は片手を小さく上げて、応えてやった。




