進軍のヴォカリーズ(19)
「ロロちゃん、もう一曲聞いてくれない?」
私は手を挙げて、池袋先生に「いつもの」をリクエストした。
「ラフマニノフのヴォカリーズ、大好きなの」
冒頭のメロディーが三回流れる。私が歌うために待ってくださっているのね。
「何も知らぬ 朝の雪 いづれは融けゆく あなたの名さえも 儚き白」
ロロちゃんが、演奏の続きを邪魔しないよう、控えめに拍手してくれた。
「やっと、歌詞ができたわ。ありがとう」
「寂しさの中に、美しさが眠る歌でございますね」
私が表現したかったことが、ちゃんと伝わっていて、跳び上がりたくなった。さらに、音楽に詳しいロロちゃんに感想をもらえて、胸が暖炉のように熱い。
「わたくしめも、一緒によろしいでしょうか」
ロロちゃんが、ラララララ、とピアノに合わせてウォーミングアップを始める。池袋先生は木漏れ日のようなスマイルを私達に向けながら、間奏を延ばしてくださった。
「わたくしめが歌いますアヴェ・マリアも、ホ短調なのでございます。何かのご縁なのではないでしょうか」
「ええ、そうよね!」
胸の中で拍子を数え、私はさっきの歌詞をメロディーに乗せた。
ロロちゃんにつられて、音程が変になってしまったらどうしよう。そんな心配はいらなかった。ロロちゃんが気を遣ってくれたの。池袋先生も、私のパートをメゾフォルテで弾いてくださったの。
「ちらつく雪に、蜂蜜のような陽の光が当たって、甘く儚い夜明けが生まれたわ」
ロロちゃんは、音を立てずに手を数度叩き合わせていた。
「ジゲン中の詩人を集めても、目白先生のたとえにはかないませんね」
「そうかしら……一応、国語を教えているから、ね」
大人でも、褒められると背筋が伸びるわ。花が咲いたからといって、水やりしないとしおれてしまうのと一緒よ。
「言葉を究めてこられた他に、生まれながらにしてお持ちの感性が、バリエーションを豊かにさせているのではございませんか?」
生まれながら持っていたもの……私にとっては、つかまえられない淡雪だった。
「ロロちゃんは、生まれた時から家族がいた?」
悟られないように抑えたはずなのに「家族」を口にすると、喉が絞られた感じになる。
「目白先生のお気にさわることを、申しましたか……?」
ドジを踏んでいるわよ、私。ロロちゃんは他人の気持ちに聡いの。
「いいえ、全然。ふと訊いてみたくなったの」
ロロちゃんは、顔を上げて答えてくれた。
「家族……でございましたね。わたくしめを含め、ジゲンⅡの住人は、皆が家族のようなものです。特に、教皇は、わたくしめ達の父でもあり母でもある、大きな存在なのでございます」
「そうなのね」
ジゲンⅢも同じなら、孤独の吹雪をさまよう生き方をする子どもがいなくなるのに。
「私は、家族がいなかったの。赤ちゃんの頃から、施設でしばらくお世話になっていたけど……そこの大人達とは、最後まで打ち解けられなかった」
「冷たい方々だったのでございますか?」
「逆ね。私が信頼できるように、寄り添ってくれたり、なんとか望みを叶えようと手を尽くしてくれたりしていたわ。でも……あくまでお仕事をしているのであって、本当の家族じゃないのよ。私は、ひねくれていたのね」
ひねくれていて、わがままだった。きれいなお部屋にいさせてもらって、朝昼晩食べさせてもらって、おやつとおもちゃまで与えてもらっているのに、もの足りなく思っていた。
「足りないものを満たそうとして、『幸せ』を追いかけていた。ある先生が、理想の大人であり、家族だった。あの先生だけは、心から生徒の力になっていたわ」
あの先生と出会って、温かい人の輪ができた。私もいつか、誰にも頼れずに独りでいる子どもを、輪の中に入れてあげられる大人になる、と決めた。
「温かい人とつながると、こちらの心もポカポカになるのよ。努力したら道が開けるんじゃないか、何にでもなれる、できるんじゃないか。不思議と、前へぐんぐん進めるの」
「教皇の祝福と、似ています。大きくて柔らかな透き通った腕に、抱きしめられているようなのです。何があっても、心配いらなくなるのでございますよ」
ロロちゃんは、自分の二の腕をハグした。
「やっぱり、独りじゃ寂しいのよ。生きようとしても、凍えて力尽きてしまうの」
「つながりはまるで、お日様のよう、でございますね」
私のまねっこをした後、ロロちゃんはくしゃみをした。
「寒い?」
暖房をつけてもいいか、池袋先生にことわろうとしたら、扉がゆっくりすべっていった。
「……坊ちゃん」




