進軍のヴォカリーズ(10)
「跡見さん」
ジゲンⅣ唯一の住人が、こちらへ音を立てずに歩いてくる。
(この印は、ジゲンⅠの軍隊へ待機する場所を知らせるためのものよ。簡単に消されないように、触れるとジゲン差過剰反応を強制的に起こすわ)
跡見さんが私に下がれと目で訴えた。印の前で浮いたまま静止していた折り紙の舟が、水平に回転しながら印に覆い被さった。
(封じるので精一杯ね。今日で百は見つけたわ)
「校舎にか?」
肯定の意味を込めた鋭い目つきが、私に刺さる。ゼムクリップを回収したが、遅かったのだな。
(おまじないは囮だったようね。あのジゲンらしい方法よ、日常に溶け込むように戦争を進めてゆくの)
私の考えを読んだかのように言葉を紡ぎ、跡見さんは新たに舟を折りはじめた。
(町にも着々と印を付けているわ。ふさいで回りたいけれど、あいにく跡見家では.夜のお散歩は禁止されているのよ)
「大事な子どもなんだ、心配をかけないように」
彼女は、跡見家の一人娘として暮らしている。入学手続きと同時期に亡くなった、本当の跡見仁子さんに代わっているのだ。
「まずは、生徒に注意喚起をしないとな」
跡見さんが、出来上がった蒼い舟を口元へ持ってゆく。
(王様を走らせたら? 民のおいたに責任を取るぐらいできるでしょう?)
それに、と舟が連続で短い汽笛を鳴らした。
(また噂が流れているようだわ。見てしまったら恋が叶わなくなる、友達に絶交される、部活でミスが続く……小細工が大好きな『軍人さん』ね)
「ジゲンⅠの王は代々、防ぎようの無い力と数で勝ち進んでゆくと『ジゲン見聞録』にはあるのだが」
(英雄譚はいつだって、誇張されるのよ)
今度はため息に似た汽笛が聞こえた。
(しばらくは遠回りしての下校ね。ウグイスダニに言われたとおり、家族に心配をかけない程度にするわ)
「もしもの時は、私を頼ってほしい。田端先生、目黒先生も聞いてくれるから。独りで背負いこむなよ」
氷のような跡見さんの瞳が、微かに揺らいだ。
「いつ、君のジゲンにも来るか分からない。気をつけてくれ」
容易くジゲンⅠに屈する人物ではないと信じているけれども、教え子を放っておけなかった。
(あなたも、生きてね)
照れ隠しなのか、私を睨みつけて、跡見さんは折ったばかりの竜胆を押し付けて、走り去った。
「いろいろと心を砕いてくれているんだよな」
同僚は跡見さんを「無愛想な子」「何を考えているのか分からない生徒」だと決めつけている。私より長く勤めていながら、洞察力が乏しいものだ。彼女は、寡黙だが、他者の悲しみに敏感で、すぐに手を差し伸べられる人物である。
「自分の命は、自分で守るよ。跡見さん」
ジゲンⅢのスクエイアである私は、ゲートを四基閉じると肉体が朽ち果てる宿命から逃れられない。跡見さんは、長い時の中、生まれ変わっては自身を犠牲にするスクエイアの側にいてきた。幾度となく別れを経てきた彼女の心境は、想像しようなど畏れ多い。
蛍光灯が外されているも、足元がよく見える階段を上る。ひとまず脳内が片付いた。研究室へ行こう。




