海陵王と張通古
暴虐な帝王として知られる海陵王。彼がどのような人物だったのか、知られざる一面を『金史』より読み解いていこうと思います。
今回は『金史』巻八十三 列伝二十一の張通古伝からですが、今回は多少暴虐と思われたも仕方ないエピソードです。
海陵王は臣下に対して厳しい態度で臨み、親王・大臣に対しても一切穏やかな態度を取ったことは無かったが、張通古と会うときだけは必ず礼を以って接した。
磁州の僧の法宝が寺を去ろうとしたところ、張浩と張暉が引き留め、朝官の中にも留まらせたいと望む者がいた。海陵王はこの事を聞くと、三品以上の官人を招集してこう責めた。
「卿らが寺に行くたびに、僧の法宝が正面に座り、卿らはみな傍らに座ると聞く。朕はこれを大いに不当と考える。仏なる者はもともとは一小国の王子で、富貴を容易に捨てることができ、自ら苦行を行って仏となり、現在人々から崇敬されている。これに福や利を求めるのは根拠の無いことである。まして僧というものは、往々にして科挙に合格できず、市井で遊び暮らし、生計が成り立たなくなって、逃げ道として僧になった者たちである。卿らと貴賤を比べるに、対等の礼を執ることさえできないはずだ。町中の老人たちは、死期が迫ると多くがこれに帰依する。卿らは宰輔の位に在りながら、これらと同じ真似をするなら、大臣としての体面を失するであろう。張司徒は古くから朝廷に仕えて老成し、三教に博く通じているのに、あのような者を礼遇して何を学ぶというのか。」
そして法宝を呼び出すと言った。
「お前は既に僧となったからには、留まるも去るも自分の気持ち次第だ。何故、自分が去ることを人に知らせたのか。」
法宝は恐れ慄き成すところを知らなかった。海陵王は言った。
「お前は長老となったからには定見があるはずだが、今、死を恐れるのか。」
そして朝堂にて法宝を杖で二百回打ち、張浩と張暉は杖で二十回打った。
正隆元年(1156)、張通古は司徒を以って致仕し、曹王に進封された。同年、六十九歳で薨去した。