一乗寺
夏も何時しか秋となり緑の葉も赤色となる。この季節になると夏が恋しくなりまた夏になるのが九か月以上先になるのが信じられない。この夏と秋の間を味わいたくそして西国三十三所の札所を巡りたく思い法華山一条寺、書寫山圓教寺を参らんと思い今電車に乗り込んだ。
その電車は207系の普通新三田行きと記憶している。この電車に乗りそのまま三田へ行き神戸電鉄に乗り換える。神戸電鉄は最早どこに存在するかもままならないクソド田舎を走るローカル線である。この路線は三田学園の学生だったり神戸に職場を持つ三田市民以外に需要がないであろう路線である。そして車体が某廃車になった名鉄のドゥハセンナナヒャクを思い浮かべる車両に乗り込んだ。そして前面展望を拝むことのできる座席を取った。座ってすぐに電車は早くも扉を閉じ進み始めた。見知らぬ大地を目指して。とろとろと走る列車もなかなかに乙なものである。三田の街を、三田の田畑を走りて進む。ただこの頃の僕にはわからなかった。この電車が通勤客でごった返すことになることを。ただそんな雰囲気を一つも出さずに行く様は播但線に乗ったあの時みたいである。ただ少しずつ不穏な空気が流れていることをかすかに察知した。その刹那、岡場駅に着いた。降りる人はいないものの乗る人が沢山いて少しずつおしくらまんじゅうになるように思えた。何時しか前面展望も見えなくなった。そうなれば最早することもなくスマホを触り電車に乗っているとは思えない行動を始めたのである。その後列車は発車すして六甲の奥へと急勾配を何とも思わず進む。それだけはすごいと思えども周りには車窓の代わりに人間の顔面のみが目に映る。この地獄みたいな空間も終わってほしいと願いそれもいつの日か素晴らしい結果となった。谷川駅でたくさんの人が降りて行ったのである。これでやっと快適に進めることができると思い少しの合間休息をとるにすぐ鈴蘭台駅に着いた。そこで乗り換えることになるのだがお目当ての電車まで一時間もの時間を待たねばならず一旦途中下車してセブンでテキトーに朝食を買って食べた。ただなにを食べたのは記憶していない。そうして構内に戻り色々写真を撮ったり行き交う人や電車の往来を楽しむとすぐに時間は立ち粟生線粟生行きの電車が到着した。今度は全面展望に立った。すると運転手の交代が行われ鈴蘭台から粟生に行く人は「粟生線担当とかいややなー」と言っていたのを聞きてそんな愚痴を言うこともあるんだなーと思っ田所さんで列車は動き出した。列車は登るとすぐに急勾配にぶち当たったもののケーブルカーの如く難なく登った。その後も崖っぷちの50パーミルの急坂を走っていった。それは聞くに木津駅まで続いていたという。その後いつしか開け田畑を走る路線となり替わった。三木の街と田園風景の合間を走り加古川も越えて粟生線最後の駅粟生駅に着いた。そこで北条鉄道という第三セクター鉄道に乗り換えて法華口という如何にもお寺に近そうな駅に行くのである。そして北条鉄道のホームに行くのだが粟生駅はよくある田舎の駅で簡易自動改札が複雑に置かれており私の如く説明書きを読まない気性の人間は間違いを犯してしまうことが多いのである。それは無論私もそうである。北条鉄道のホームにもポツンと簡易自動改札機がありICカードをピッとする機械があった。私は見るに北条鉄道はICカードを使えると思いてピッとしたのである。それで数分待ちふととある説明書きを目にしたのである。それは「北条鉄道はICカードを使えません」という説明書きである。そして流れるように簡易自動改札機をみると「北条鉄道から加古川線に乗り換える人でICカードをを使う人はピッとしてください」と書かれており南無三と思い慌てて粟生駅の外に行き駅員を探してもおらず「まずい」と思い見渡すと駅の事務所みたいなところがあったのを見て入るとそこは駅の事務所ではなく焼き物をPRする施設であった。ここは対応してくれそうにないと後ずさりしようとしたものの係員に気づかれて一応その由を言うと切符売り場にインターホンがあると言われた。インターホンを押して上記のことを言うと「この後JRを使う予定はありますか?」と言われ「帰りに姫路駅から列車に乗って帰ります」と言った。そしてインターホン越しで「じゃぁ姫路駅でそのことを駅員に伝えてください」と言われた。
そうして田んぼのみが広がる駅舎で汽車を待っていると隣のホームから抹茶色の103系電車が入線してきた。そして大量の幼稚園児が降りてきてそのまま北条鉄道のホームに隊列をなして突入してきた。まずここで一つ疑問に思ったことがある。おそらく彼らは遠足と呼ばれるワクワク行事の一環でここにきているのであろうが「何故北条鉄道を使うのか?」である。第一沿線に遠足に使えるような場所というのを知らない。終点の北条町にも羅漢寺ほどしか知らぬ。然るに田舎と田舎を結ぶ誰に需要があるか見当もできない鉄道を使う必要性なぞよもやないに等しい。そんなことを思っているうちにちゃんと列をなしている列車が現れた。そして前一両は幼稚園児専用の車両であった。私は二両目に乗り静かに発車を待った。ぶっちゃけ人は来ず空気輸送と化していた。そしてついに時間は来た。空気と少量の客を運ぶために汽車は臭い煙を青い大地に放出して発車した。
列車の形式名はフラワ2000系。是が非でも鉄分を補給したいおっさんはキハ40系の運用日を事細かに調べてそれをまじかに見て愛でるのだろうが、私はビンボー路線もといローカル線に乗れるだけで鉄分を大量にとれる人間のため特にそういったことを調べることもしなかった。さて列車の説明もこの辺にして車窓に目をやると一面田んぼである。最早車窓から田んぼがデデデンと来るのは飽き始めていた。関西本線(笑)と片町線に乗れば飽きるほど同じ光景を見ることができるからだ。でも関西本線(笑)や何か違うなーとふと思ったがそれは時間帯の問題だと即座に理解した。だからと言って嫌なわけではない。
そして列車は法華口駅に着いた。法華口というのだからお寺が近くにあると思うであろう。確かにある。それは今日行く天台宗法華山一乗寺である。ただこれを近くと言っていいのかははなはだ疑問である。なんとその距離5km。一里と少しである。ただ少なくとも法華口駅は一乗寺を推しているようで駅前には一乗寺の五重塔を模したものが築かれていた。その横には法華口の旧駅舎があった。相当古そうなものである。実際に登録有形文化財に入るほどは古い。その使われなくなった駅舎に入ると中身も古臭くレトロなどてもてはやされそうな駅舎である。その右に目をやるとテーブルやらなんやらがおかれておりその奥に駅長のメッセージがおかれたあった。書いていることは「戦争中この駅から若者は降りて鶉野飛行場に行き戦地に赴いたんだぞ」と書かれてあった。このことを一通り目にやり周りを見渡すと若者が国のために、故郷のために、友人のために、愛する者のために出兵をすれば二度と戻れぬ任務を達成せんという固い決意を、その決意をふと感じた。そして彼らの最期に思いをはせた。外に出てもう一度駅舎を見るとその建物の重みが体にまとわりつくようだった。
その後バス停へ行くとあと一時間待ちだという。一時間で鶉野飛行場(3km先)に行けるのだろうかと思い思案すること20分。ここで飛行場以外の戦争遺跡があること思い出しようやく出発した。まず最初は火薬庫。これだがBF5に出てくる火薬庫とかなり似ている。されどもこれはゲームではなく現実だ。実際に火薬やら爆薬やらがしまわれていたのだ。そのような重要施設も今や一面が草に覆われており自然とやらは付け入るスキを狙いポンポンと繁殖するのだから恐ろしい。そしてさらに奥へ向かう道中ふと下に見える街と畑を見た。それはとても美しくまたこれが日本という国土に立ってみる景色としては最期の景色だったという人もいたことを考えるとまた物悲しくなった。その後大きなコンクリート造りの防空壕が見えてきた。その中に入ってみると天井が高くなっておりそこには少し圧巻されたものである。そして「ほかにもいろんなものがあるのかなぁ」なんて思っていると小学生向けの演説みたいなものを語り部さんがしていた。すると語り部さんは小生のことに気づき小生はなにか空気が張り詰めるものを感じダッシュで外に出た。そしてもう少し奥に行きたいと思い時計を見るにそこそこ時間(おそらくあと20分位だっただろうか)はあったがこれで乗り遅れると最早この旅はおしまいということになるため猛ダッシュで坂を下り10分程でバス停に戻ってきた。それでもまだまだ時間はあったためボーっとすること凡そ10分。ようやくバスが来た。
このバスは神姫バスの路線で社という加東市の街から姫路駅北口まで行くバス路線で個人的には少し長いように思う。それでこのバスに乗り込むと空気しかない空間に個人的に望郷のようなものを感じた。これはなぜかと思うとすぐに答えは出た。それは私は前作にて話したかと思うが大昔は姫路市民であった。もう10年以上前の話だ。ところどころ記憶は忘れているし余り神姫バスに乗った記憶もそう多くない。されどもあの頃は毎日あの車体を見たわけだ。そうであるために深層に存在する彼の記憶が内側へと戻ってきたからであろう。そんなことを考えてボーっとすること約5秒。運転手に「早く座ってください」と言われて座った。何か申し訳なくなり席に座るとバスは発車した。しばらくの間は北条鉄道で見たような田園風景であったが十分十五分程すれば今度は山の景色へと移り変わった。そして更に10分程すれば一乗寺へと着いた。
バス停の真ん前がお寺であり車に気を付けながら車道を渡りお寺の境内に入っていった。入山料をお寺に納めて中に入ると大きな金剛棒のようなものがあった。その裏手にある階段を上ると常行堂があった。言っても大きなお寺によくある感じの建物でそこの右を向けば国宝にも指定され法華口駅でも露骨にアピールされていた数少ない加西市の名所である一乗寺の五重塔である。この塔はとても高くさらに上にある本堂のベランダのようなところから見ても頂上は上にある感じであった。この五重塔はとても美しくまた壮大であったと記憶している。本堂にて観音様に南無観世音菩薩と唱え御朱印を頂き少し五重塔をみて山は未だ緑であれども少しずつ秋が忍び寄りぬる雰囲気が夏と秋の合間にいるような感じであった。五重塔を愛でた後奥の院に参った。すると石が積まれており夏に行った化野念仏寺の西院の河原を思い出した。こう言うと「主語を拡大するな」と怒られそうだがだいたい日本人はどうして死後の世界を再現しようとするのか分からない。ただ西院の河原も賽の河原感があったが一乗寺の奥の院もなかなかで普通の石が三つ四つばかり積み重なっておりそれがド田舎の田んぼ並みに多く並んでいて坂を上がるとお地蔵さんが六つ程並びたるところにはまぁ、何というか、そのリアル感があった。お地蔵さんを拝み不気味というとなんかあれだが彼岸の世界が再現されているようなところを離れバス停に戻りスマホ時計とバスの時間を比べるにあと30分ほど時間が余っており食事処を探すも何処にもなく30分もの間バス待ちを強いられることになった。蚊は未だブンブンと頼んでもいないセミの鳴き声の方がまだましな不快感のみを我々に植え付ける羽音を辺り一面に響かせて我々の血を吸わんと狙い定めているのはとてもうざかった。更にお寺を参拝した後なので善十戒を犯すことなぞあってはならぬ。されどもこの蚊どもを捻りつぶさねば体中ブツブツだらけになってしまう。その葛藤に悩まされながらそれをしのぶとようやくバスがやってきた。
そのバスはさながら観世音菩薩の如きものであった。このバスが全ての者に光を照らし我々を平和の道へと導くバスのように見えた。その救いのバスは山を下り始めた。今度は私ともう一人を載せて。