1日目 夜中
王女の部屋の前を守る警備兼監視に手を上げると、二人の部下は頷いて扉を静かに開けた。
ヴァンははっとした。
人の気配が窓のカーテンの裏にある。
(王女様は…)
寝ているはずのベッドの方には気配がない。
ヴァンは一瞬で判断し、一気に窓に走った。
「そこで何をしている!」
ガッとカーテンを掴んで引くと、カーテンの吊具がバキバキと折れた。
その奥には、少しだけ開けられたガラス窓の前で立ちすくむ女がひとり。
「王女様…」
月明かりに照らされて、降ろされた長い黒い髪が煌めいていた。
白い寝間着を纏い、手はぎゅっと首元のペンダントを握りしめ。
引きつった表情で身動きもできず、ヴァンを見ていた。
ヴァンは目線だけ動かしてサラディナーサを上から下までチェックし、どこにも異常がないことを確認する。
と、はっはっと荒い息遣いが聞こえて、あ、と思った時にはサラディナーサの体から力が抜け、倒れ込んできた。
恐怖のあまり血の気が引いてしまったのだろう。
「おっと…」
危なげなく支えた体を横抱きにして、長椅子ヘ連れて行く。
「そこにいろ」
もぞりと動いた王女に低い声で言い置いて、窓際とベッドと部屋全体をひと通り見て回った。
念の為だ。
どこかに曲者がいないか、或いは何か細工された形跡はないか。
怪しい気配はどこにもなく、ホッとして長椅子に戻った。
そこには先程と変わらない姿勢のままの王女がいる。
「あんなところに居たら、驚くだろ?」
ヴァンはわざと軽い調子で言って、サラディナーサの頭の上、長椅子の肘置きのところに浅く腰掛けた。
サラディナーサは動かない。
その広がった黒髪を見ながら、ヴァンは脅かさないように静かな声で聞く。
「寝てたんじゃなかったのか?」
「…少し寝ていたかもしれない、が、起きてしまった」
サラディナーサは掠れた声で答えた。
「そうなんだな。それで窓から外を見ていた?」
「そうだ。…考え事をしたい時は、よく夜空を見る。他意はなかった。…お前を驚かせようとしたわけではない」
「そうか。突然俺がカーテン引っぺがしたから、びっくりさせたな。悪かった」
「………」
王女の手が顔に向かい、さっと水滴を払うのをヴァンは見ない振りをした。
ああ、また脅かしてしまった。
ヴァンの胸に苦い思いが溜まっていく。
「眠れそうならベッドに行く?それとももう少しここにいる?毛布でも持ってくるか?」
ヴァンが言うと、はあ、とため息が聞こえた。
「お前は本当に世話焼きだな。けれど私は疲れている。今、お前を見たくない。部屋から出てけ」
そう言った声は本当に疲れて聞こえた。
無理もないとヴァンは思う。
攫われてこの邸に連れてこられて丸一日。
そろそろ気力も限界だろう。
こんな危うい様子の彼女を部屋にひとりにするのは怖い。
「悪いが。あんたを見張るのが俺の仕事だ」
ヴァンが言うと、サラディナーサはそうか、と呟いた。
「こんな夜まで看守は大変だな…」
闇に沈んでしまいそうに低い声。
その声音にヴァンはひどく落ち着かない気持ちになる。
少しでも心を解したくて、場違いなほど明るい声で言ってみた。
「なー、王女様。俺はけっこう優しい看守なんだぜ?何か望みがあれば言ってみなよ。看守の役目は放棄できないけどさ」
「………」
サラディナーサはややしてから、また、はあと深くため息をついた。
「…お前は呆れた男だな。そうやって私を憐れんで、なんとか自分の罪の意識を軽くしようとしている」
図星をつかれて、ヴァンは体をこわばらせた。
サラディナーサは長椅子の上でごそごそと体を捻り、仰向けになった。
左腕を上げて顔にかざす。
「でもせっかくだ。望みというなら」
密やかな声で言う。
「私を攫った時一緒にいた侍女がどこでどうしているのか、教えて欲しい」
どれほどサラディナーサが勇気を振り絞ってそれを口にしたかは察せた。
けれど悔しいことに、ヴァンは答えを持っていなかった。
「悪い。俺はその侍女とやらの情報は持ってない」
「…お前は私が貴婦人の棟の内庭で捕まった時、そこにいなかったのか?」
「いなかった。俺はここの邸にいて、あんたを待ってた。その時何があったか知らないんだ」
レアンドーレから王女を拉致する準備が出来たと聞いたのは実行前日の夜で、具体的なことを聞く暇もなく、すぐにこの邸に向かわされたのだ。
その侍女の話は部下からも聞いていない。
サラディナーサは左腕を曲げて両目を覆った。
「そうか。お前は確かに上司の命令で動くだけの下僕なんだな…。私を攫うのも本意ではなかった、と言うし…」
ひどい侮辱を言われたようだが、全くそのとおりで反論の余地もない。
「すぐには答えられないけど、その侍女の居場所は調べてやる」
ヴァンは言ったが、サラディナーサは首を横に振った。
「いい。どうせ聞いたところで、私に何ができるわけでもないのに。詮無いことを聞いた」
諦めたように言う。
(ああ、まただ…)
ヴァンは思う。
(この王女様は足掻くことをしない…)
彼女は何かを主張しても、すぐに見切りをつけてしまう。
あれほど“お前のものにならない”、と啖呵を切っておきながら、逃げようとか、自分の身を守ろうとか、そういう素振りを一切見せない。
悪あがきは誇りが許さないのか。
足掻いても無駄だと思っているからか。
諦めてばかりいる。
だったら虜の身であることも、ヴァンに嫁ぐ事も諦めて受け入れてくれないかと思うが、きっとそうはならない。
朝、結婚の話をした時のヒヤリとした感じ。
(きっとこの王女様は、足掻くこともしないで、自分の命を諦める…)
ムクッとサラディナーサが身を起こした。
豊かな黒髪がさらさらと滝のように流れ落ち、ランプの灯りを妖しく弾く。
思わず触ってみたくなって指が動いたが、当然そんな事ができるはずはない。
「もう話はいいか?そろそろ、ベッドに行かせてもらう」
「ああ。…いや、待て」
サラディナーサは不振そうにヴァンを見た。
ヴァンは肩を竦めて、おちゃらけたように言った。
「あー、ほら。望みを言えとか言ってなんにもできないんじゃさ、俺のプライドが傷つくじゃん?」
「プライド…」
「なんかないー?例えば…、洒落た服を用意しろとか?酒が飲みたーいとか、甘いもん食わせろーとか?」
「別にいらないが」
「歌え〜とか、踊れ〜とか、芸をしろ〜とか」
「は?」
「一発殴らせろー、とかどうだ?」
「………いや、結構だ」
「じゃあじゃあ、リーサみたいに俺の話をしてやろうか?英雄ヴァン物語、本人語りぃ〜」
半分冗談。半分はこの機会に情報を得ようとするのではと思い、言ってみたのだが。
サラディナーサは吹き出した。
「お前、お前は一体何をしたいんだ!?」
「そりゃあ。あんたを笑わせたいんだ」
ヴァンはニヤリとして言った。
もちろんただの軽口の部類だが、嘘でもない。
吹き出す王女を見れただけで、ものすごく嬉しくなった。
サラディナーサは不思議なものを見るようにヴァンを見た。
「おかしなことばかり言うと思ったら、私を笑わせたかったのか…そうか」
そう言われてしまうと、少し恥ずかしい。
「いやあ、まあ…」
「お前、本当に男か?」
「んんんん?」
「男というものはぺらぺら喋らないし、すぐ怒り出すし、気を使うということが出来ないと聞いていた」
ヴァンはのけぞった。
「おい、すんごい偏見だな」
「お前のような男もいるんだな…」
まるで新しいことを知った、というように言われた。
ヴァンはハッとした。
「王女様。まさかと思うけど。これまで男と口をきいたことがない、なんて言わないよな?」
「ん?兄とは何度か。お前は二人目だ」
あっさり言われた言葉に、ガーン、とヴァンの頭に衝撃が落ちた。
「身内以外の男で初めて…マジ?」
しばらく言葉を失っていると、サラディナーサはまた不思議そうな顔をして、それから薄く微笑んだ。
「変な男だ。けどおかげで気が紛れて眠れそうだ」
そう言って長椅子から立ち上がった。
ヴァンももう望みを聞いてない、とか食い下がる気はない。
サラディナーサはふと気づいたように尋ねる。
「お前はどこで寝るんだ?」
「ここで」
ヴァンは長椅子を指さす。
「そうか。ここがお前の寝床か。それは邪魔したな」
さらりと言うと、王女はさっと背中を見せ、寝台のある仕切りの向こうへ消えた。
やっと長くて重い1日目終了。
サラディナーサは1日中、座ってるか寝転がってるか食べてるかだったので、2日目はもう少し歩かせようと思います。