1日目 昼
ヴァンは大量の布切れを持ってきて、サラディナーサが盛大にこぼした茶の後を
「全く。絨毯とかどうしたらいいんだ」
とかぶつぶつ言いながら綺麗にした。
大きな図体の騎士が床に這って片付ける姿は滑稽で異様だったが、はしたない事をした自覚のあるサラディナーサは黙って見守った。
それから、
「ちょっと出てくる。王女様はこの部屋から出ようとしないでくれな。出れないと思うけど」
そう言ってヴァンは部屋を出ていった。サラディナーサの切った髪を持って。
ヴァンの姿が消えると、サラディナーサの体中の力が抜けていく。椅子に座ってなければまた床にへたり込んでいただろう。
忘れていた肩の痛みも主張を始めた。
髪は女の証。
そして男が女を奪った証として使われるものだ。
貴婦人の棟にも一部分だけ髪が短い者がいた。
ヴァンが持っていった髪は王太子に渡り、女王との交渉材料として使われるのだろうか。
(お母様が髪如きで対応を変えるとは思えないけど)
サラディナーサはぎゅっと目を閉じ、息を吐いた。
こうしてじっとしていたら、二度と動けなくなりそうだ。
自分を奮い立たせてフラフラと立ち上がる。
思いついて、部屋にある家具の引き出しや、置かれている櫃を開けてみた。
鏡台の引き出しにはひと通りの化粧道具が、扉つきの戸棚にはワンピース型の衣服が数枚。
下着や寝巻きやガウンなどが長櫃に仕舞われていた。
これを誰が支度したのか考えると、背筋に怖気が走った。
小さな文机の引き出しには巻かれた縄と鎖と鉄の手枷が一組。
「‥‥‥」
そっと引き出しを閉じた。
(一体いつから私の拉致を計画してたんだか…)
守られていたはずの貴婦人の棟で攫われた事を考えても、よほど念入りに計画されていたのだろう。
狙われていた事にも気づかず、この先もずっとこれまでと同じ生活を送れるものと信じていた1日前の自分が情けなくて悔しい。
(フランはもっと悔しがってるだろうな…)
幼馴染みにして護衛であるフランが、サラディナーサが攫われたことを知って、今頃どうしているか。
(なんとしても助ける、と走り回っている姿が目に浮かぶな)
「私はここだぞ。ここは…どこだろうな」
大きく開いた窓へ行ってみる。
窓の枠に手をかけて外を見ると、輝く空が目に飛び込んできて、咄嗟に目を手の甲で覆った。
「わっ」
そろそろと手を下げていくと、視界に収まらないほどに広がる一面の青が、サラディナーサを覆った。
雲は一つもなく、陽は窓の反対側にあるのか直接は見えない。ただひたすら青の世界。
「すごい、広い……」
塀で囲まれた貴婦人の棟では、空は狭く切り取られたものだった。
ここでは、同じように窓から見ているのに、まるで空に放り出されたような錯覚に陥る。
サラディナーサはその初めて見る光景にしばらく見入った。
視線を少し下げると、緩いカーブを描く青と緑の境界線。地平線と呼ぶのだったか。これも初めて見る。
ここはどうやらちょっとした高台の上にある建物のようだ。
見下ろすとなだらかな下り坂があり、家らしき建物がいくつも建っているのが見えた。
「…こういうのが町、というものか?」
呟いた時、窓の真下から声がかかった。
「王女様、恐れ入ります、王女様!」
ハッと声に目をやれば、青いマントの騎士が二人サラディナーサを見上げていた。
「そのように身を乗り出しては危のうございます。どうぞお部屋に戻られて下さい」
おそらく見張りの騎士なのだろう。
初めて見る景色にひととき浮かれた胸は、たちまち冷たいものに覆われる。
逆らう気にもならず、サラディナーサは素直に窓から身を引いた。
外から感じるそよ風に背を向け、ぼうと部屋内をみつめる。
ドアの外で複数の足音と秘かな声が聞こえた。
“王女様は大丈夫…”
“さっきまで部屋のあちこちを調べておられて…”
“副長に…”
サラディナーサはため息をついた。
ドアの外にも見張りが張り付いているようだ。
サラディナーサが部屋をあれこれ見ていたことも知られている。
騎士ともなれば行動も気配などで筒抜けなのだろうか。
(あの男が言った、部屋から出れない、というのはこういうことだな…)
開放的で整った部屋。鎖に繋がれもせず、茶まで供された。
受けた無体と言えば髪を切られたくらい。
王太子の意志か、あの副団長の考えかわからないが、少なくともここまで、丁重に扱われている。
同時に、どうせ逃げることは出来ない、と侮られているのもわかる。
そのとおり。悔しいがサラディナーサにここから自力で逃げる力はない。
そして今は行儀よく振る舞う男らが、その気になって部屋にやって来れば、身を守る術はない。ただ唇を噛み、されるがままになるしかない。
この誂えられた部屋は見た目は美しいが、やはり牢なのだ。
(囚人牢よりは快適だ、配慮ありがとうと言うべきか?)
サラディナーサは閉じたままのドアに向かい、ふんと鼻を鳴らした。
そして手で胸を探り、首からかかるペンダントを手にとる。
そこにはサラディナーサと似た黒髪と緑の目を持った女性が描かれている。
「お母様…」
ギュッと両手でペンダントを握りしめ、目を閉じる。
神に祈るように。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
震えながら決死の笑顔を見せる王女に、ヴァンは、これは駄目だと思った。
(これは俺だけの手には負えない)
なにせ着替えも自分で出来ないというのだ。
けれどこれだけ怯えているのに、男である自分が触れるわけにもいかない。
なによりヴァンと二人で部屋にいたら、王女の心が壊れてしまいそうだ。
助っ人がいる。どうしても。
「決して自害だけはさせるな」
部下に言い含め、不安を抱えながらヴァンは馬を走らせた。
「レアンドーレ様のあほんだら!だからやめとけって言ったじゃないか」
ヴァンは毒づいた。
“王女を娶れば伯爵領がついてくるんだぞ。そうすればお前は身分で誰にも劣る事が無くなる”
王太子がそう悪い顔をして言った時、ヴァンは“いや無理でしょ”で流してしまった。
王女を拉致する計画を聞かされた時には、
“うまく行きっこないからやめときましょ”と言った。
それが間違いだった。
やめとけじゃなく、やめてください、と。
違う方法を探そう、と。
自分の嫁は自分で得る、と。
そう強く言うのだった。
なのに、なあなあで済ましてしまった為に、
「もう後戻りはできないんだ、覚悟を決めろよ」
とか言われる事態になってしまった。
もう後戻りはできない。
この計画がどこかで失敗すれば、ヴァンたちこの拉致に関わった全員が殺される。
けど、罪もない王女を攫って痛めつけるとか、はっきり言って騎士のすることじゃない。
そうして得たものなんか、うまく扱える訳がない。
(けどなあ。ここまで来ちまったものはしょうがない。どうにか進むしかないんだ)
馬を走らせながら、ヴァンは嫌な予感を振り払えずにいた。
あの会話は2年くらい前だったか。
「この国は最初、騎士だけの国だったんだぜ」
王太子にして右軍団長レアンドーレは言った。
何故かヴァンの実家で、ここの主のような顔をして食卓にふんぞり返っている。
父用の大きなカップで安酒を一気に飲み、ヴァンの妹に向けて話を続けた。
「大陸から騎士たちが新天地を求めて、家族を連れて旅をし、神託を受けてこの地にたどり着いた、て言われてる。神託云々は眉唾だけどな」
「でも、最初の王様は女王様だったんでしょ?」
妹はレアンドーレの前につまみの皿を置き、空になったカップを取り上げながら、首を傾げた。
「それは騎士たちの頭領、今で言う大将軍の妻な。道のり半ばで頭領が死んじまったんで、とりあえずその妻を立てたんだ。でも女の身には王位は重いっつって、すぐに息子に譲位したらしいぜ」
「へー、そーなんだ。まあ女の人だと大変かもねー」
妹はさして興味がないように言い、新しく入れた酒をレアンドーレの前に置いた。
「要はこの国は、騎士が剣の力で造ったんだ。戦って戦って、ここまで豊かになった。今は剣も持たない奴が偉そうにしてるけど、結局そういう奴は実際には何も出来ない。何かを守るのも変えるのも物理的な強さなんだ。そう思うだろ、ヴァン?」
「まあ、そうっすねー」
話を振られたヴァンは苦手な敬語で返す。
実際のところヴァンは、物理的に強くないのに偉い奴ってすごいなと思っている。
そういう奴はヴァンに理解出来ない他の種類の強さがあるから偉くなれたんだと思うからだ。
目の前にいる妹やヴァンの母は、騎士である父や兄弟よりも“強い”。それは口が達者とか、胃袋を掴む技術とか、愛情とかのせいかもしれないけど、とにかくヴァンには真似出来ない強さだ。
逆に物理的な強さは一番単純でわかりやすい。
強く見せたいなら、剣を振り回すのが一番簡単な方法だ。
ヴァンはそう思う。だから剣の腕を研いた。
ヴァンは偉くなりたかった。
偉くなって何がしたいわけでもないけど、幼い頃からずっと、掻き立てられるように偉くなりたい、なりたい、と思い続けていた。
ヴァンは剣を振り回すしか能がない。
だからその剣の腕を認め、俺が貴様を偉くしてやろうと言ったこの人についた。
王太子レアンドーレに。
「ヴァンは俺の知る中で一番強い男だからな。そういう奴は国を動かす地位にいないといけないんだ」
レアンドーレはそう言って、ヴァンの肩をバンバンと叩いた。
そこまで言われて嬉しくないわけがない。
はっきり言ってレアンドーレの考えは、それはちょっと違うんじゃないかなー、と思う事も多い。
けど、この確信的な口調で言われると、信じたくなる。
そしてこの王太子様は自分の考えを実現する力を持っているのだ。
「国を動かす地位って、お兄ちゃんがー?ちょっと買いかぶりじゃない?レアンドーレ様」
妹が頬杖ついて言う。
「ヴァンは“英雄”だぞ。箔付けは出来てんだ。それに意外とこいつは人を動かすのが上手いんだ。大将軍だってなれる器だと俺は思ってる」
「えー、うっそー。大将軍って騎士様の中で一番偉い人でしょ?」
大将軍は国の軍部のトップだ。
けれどその地位につく騎士はもう数十年、武の名門と呼ばれるアルセイユ家からしか出ていなかった。
結局騎士の世界も実力ではなく、身分がものを言う世界だ。
けれどレアンドーレは迷いのない声で言うのだ。
「俺が王になれば、これ以上アルセイユ家に大きな顔をさせん。代わりにヴァンが俺の横に立つんだ」
騎士になっても、身分の低い者は首都から遠い地に配属される。
荒れた国境では、ヴァンの剣の腕や誰とでもまあまあうまくやれる性格は重宝されたが、所詮は国の隅っこの大将にしかなれない。
平民同然の生まれではここらが限界か、と思ってたところで現れたのが王太子だった。
ちょっとした成功を大きく取り上げて“英雄”と祭り上げたのもこの人だし、所属を国境から首都を守る右軍に移し、更に上へ押し上げようとしてくれるのもこの人だ。
この王太子についていくより他に、ヴァンに偉くなる道があるだろうか?
「どこまで希望にそえるかわかんないけど、まー、ついて行けるとこまでついて行きますよ」
ヴァンが言うと、レアンドーレはカカッと笑った。
(あのときはまさか。俺を偉くする方法が王女を娶らすことなんて、思いつきもしなかったもんなー)
わかってたら、自分はどうしただろう?
そんな方法をとるくらいなら偉くならなくていい、と言えただろうか。
(多分、言わなかったな。じゃあやっぱり俺が悪いんだな…)
“ヴェニエ服飾店”と看板のついた建物の前で馬を降りた。
馬を繋ぎ、中に入るとふわりと普段は馴染みのない化粧の匂いが鼻をくすぐる。
店の中は女ものの衣服が壁の棚にずらりと並べられていた。
「あら、リーサのお兄さんじゃない」
カウンターにいた女店長が気づいて声をかけてきた。
ヴァンはどーもと手を上げ、気さくに尋ねた。
「リーサは上にいる?」
「いるよ、呼んで来ようか?」
言いながら立ち上がった店長に、ヴァンは手を合わせて言った。
「ちょっとさ、頼みがあるんだけど。リーサ、数日貸してもらえないかな?超急用なんだ」
筆がのったので、本日二度目の更新!