1日目 朝
幼い頃、サラディナーサにとって“男”とは物語に出てくる魔物のような存在だった。
母が整えた貴婦人の棟に男はひとりもいないから、実際の姿は絵画でしか見たことがない。
しかしその蛮行についての話は、いくらでも聞こえてくる。
男に身や心をズタズタにされた女たちが、貴婦人の棟にはいくらでもいる。
彼女たちは自分がどれほどの目にあったかをサラディナーサに聞かせたがった。世を知らない子どもには話しやすかったのだろう。
いくつもの聞いた話をまとめると、総じて男というのは体が大きく、言葉での意思疎通が難しく、感情のコントロールが出来ない。
そんな獣のような生き物が貴婦人の棟の外にはうようよいるらしい。
外界がとてつもなく恐ろしいところだと思えた。
その理解不能の恐ろしい存在を初めて目にしたのは7歳の時。
サラディナーサは初めて、国家行事というものに出ることになった。これまで会ったこともない兄の立太子のセレモニーだった。
女性用に作られた天幕の中から、広い広い宮殿の広間を男たちが埋め尽くしているのを見た。
確かに女とは体つきが違う。が、絵画で見るのとも何か違う。
顔つきは正直美しくはない。そして声が低く何を言っているのか聞き取りにくい。
誰も彼もが肩を張っていて、自分を主張しているように見えた。
セレモニー自体は滞りなく進んだ。
壇上にいる兄が女王から王太子の冠を受け取り、それから正騎士右軍団長の証の長剣を前任者から受け取る。
サラディナーサはこの時知ったが、王太子の座にあるものは右軍を率いるものと伝統的に決まっているらしい。
2つの王太子の証を受け取った青年が広間を振り返り、剣を高く掲げると、すさまじい音がうわぁんと沸き起こった。
その初めて経験する轟音にサラディナーサは天幕の椅子の上で耳を押さえ蹲った。
後から聞くとあれは歓声というものだったらしいが、サラディナーサには音の暴力としか受け取れなかった。
セレモニーが終わって、人々が帰り始めてもサラディナーサは動けなかった。
侍女たちに慰められながら、なんとか気を奮い立たせようとしていると、野太い声が近くでした。
「貴様が俺の妹か」
サラディナーサは驚愕してただ唖然と、目の前の今しがた王太子になったばかりの兄を見るしかなかった。
まだ成人前のはずなのに、その体はすさまじく大きく、服の上からでもわかるほどたくましい。
顔は日に焼けて黒く、眉が太く、鼻骨も太く、目つきは野性的だった。
そしてその兄の回りを、同じように大きな図体の男たちが囲んでいる。
「王女様、ご挨拶を」
侍女に促されなんとか震える足で立ち、恐ろしい姿を目に入れないようにうつむいたまま、ひりつく喉で挨拶を述べた。
「お、お初にお目にかかります。お兄様。サラディナーサです‥‥‥」
「お初じゃねえよ。覚えてないのかよ?」
頭上から声が降ってくる。
「え?あの、でも…」
確かに初めてのはずだった。こんな恐ろしいものにこれまで会ったことはない。
「でも、じゃないだろ?申し訳ありませんだろ?」
サラディナーサは泣きそうになりながら、言われたとおりに、申し訳ありません、と謝った。
すると笑われた。サラディナーサが初めて経験した、人を馬鹿にする笑いだった。
「生まれてほにゃほにゃ言ってる頃に会っても、覚えてるわけないよな!そりゃそうだ」
サラディナーサの頭の中は大混乱だった。
兄が何を笑い、何の為にそんなことを言ったのか、さっぱりわからなかった。
ちらりと上目遣いで見ると、心持ち身を屈めた兄とばっちり目が合ってしまった。
慌てて目を伏せる。
「従順なのはいいことだ。そうやってうつむいて内宮にこもってろよ」
その腹から響くような威圧的な声にサラディナーサの体はぷるぷると震えだした。
その様子を鼻で笑い、やることは済んだとばかりに兄はマントを翻した。
天幕を出ていくのをサラディナーサは呼吸も止めて目で追い、その姿が見えなくなった途端、体中から力が抜けた。
そしてそのまま意識を失った。
王太子にして右軍団長、兄レアンドーレとの初邂逅はサラディナーサの忘れられない屈辱の記憶になった。
☆☆ ☆☆ ☆☆ ☆☆
(人前で意識を失うような真似は二度としないと思っていたのに。あんな脅しに負けるなんて)
いつの間にか運ばれていたベッドの上で、サラディナーサは忸怩たる思いに唇を噛んだ。
うっすらと白い、早朝の明るさが天井を染めている。
さらりとしたシーツの感触。
そっと身を起こすと右肩に蹲りたくなるような痛みが走った。
左手で押さえると、固く巻き付けられた包帯に触れた。
見れば、縄で縛られていた両手首にも包帯が巻かれている。
手当ての為か、上衣とブラウスが脱がされていて、胸を隠すのは肌着のみという格好だった。
しかしそれ以外は、パンツのベルトや、ペンダントなどの装飾品に至るまで、記憶どおり。
意識を失った後、ずいぶん丁重な扱いを受けたらしい、とサラディナーサは複雑な気持ちで自分の体を見下ろした。
あのヴァンという男を、昨夜ずいぶん怒らせたはずだ。
男というものは一度、感情が激すると止まらなくなる生き物だと聞いている。
だからサラディナーサはあのままもう自分は天に昇るのかと思ったし、もし目覚めるならそこはどんな地獄であることかと思った。
なのに今、こうして明るい部屋にいて、何の狼藉を受けた形跡もない。
これはどういうことだろう。
サラディナーサは回りを見回した。
ベッドもリネンも質の高いものが整えられている。
天井にはランプがぶら下がり、壁はクリーム色の漆喰。
ベッドの足元の方には、美しい刺繍の布がかけられた仕切りが置かれて、今いる部屋の全貌は見えない。けれど決して粗末な部屋ではあり得ないだろう。
これは虜ではなく、客人の扱いだ。
酷く乱れた黒髪の紐を解きながら、どうしようと考える。
ここでじっと動かず、時が過ぎるのを待つか。
仕切りの向こうへ行ってみるか。
(あの男は私をいたぶる為に、目覚めるのを待っているかもしれない)
ぐっと奥歯を噛み締めた時。
「起きたんなら、こっちへ来なよー」
仕切りの向こうから間延びした声がして、サラディナーサは寝台の上で飛び上がった。
(昨夜の男、ヴァン…)
咄嗟に声が出ない。
「…王女様?どうかしたー?」
再び声がして、固い靴の音が近づいてきた。
頼りなくベッドに居る姿を見られてはいけない。
サラディナーサはそう思い、慌ててベッドから降りようとした。
そして自分の足にガクガク震えてまともに力が入らないことに気づいた。膝がカクンと折れる。
「王女様?」
「あ‥‥‥」
仕切りの横の隙間から茶髪の男の顔が覗く。
サラディナーサは床にへたり込んだ無様な姿でどうしようもなくヴァンを見上げた。
ヴァンは昨夜と同じ騎士の服で、腰に剣まで履いたままだった。
サラディナーサを脅しつけた険しさは今はなく、ただその凡庸な顔に驚きを浮かべてサラディナーサを見下ろした。
「‥‥‥‥」
「‥‥‥‥」
立てないサラディナーサの状況を把握したのか、ヴァンは気まずそうな顔になり、何も言わずに仕切りの向こうに姿を消した。
遠ざかる足音を聞きながら、サラディナーサはよじ登るようにベッドに上がり、なんとか腰かけることに成功した。
また足音が戻ってきて、再び姿を見せたヴァンは手に銀の盥、肩に何枚かの布をひっかけていた。
「顔を洗って、着替えるといい」
情けない姿など何も見なかったように言うヴァンに、サラディナーサも自分の失態をひとまず忘れることにした。
「…お前が着替えさせるのか?」
「は?‥‥‥もしや王女様は着替えは自分でしない?」
「したことはない」
ヴァンはむうと難しい顔をして、盥を使いやすい場所におき、薄手の織布を渡してきた。
サラディナーサは痛む肩をかばいながら、顔を洗い、むき出しになっていた胸を布で覆う。
ヴァンが手を出そうとせず、少し離れたところで待っていてくれたのは、サラディナーサにとってありがたいことだった。
とりあえずの身支度を終える。
ヴァンはひどく困った様子で、まだ細かく震えるサラディナーサの足元を見ていた。
「夜はちょっと言い過ぎたよ。本気じゃなかったんだ。悪かった」
「…は?」
何を言われているのか、飲み込めない。
悪かった。何が?
ヴァンは両手を広げて言った。
「とりあえず何もしないから、向こうで朝食でも食べないか?」
そうして連れていかれた仕切りの向こうは想像以上に広く明るく開放的な部屋だった。
天井まであるガラス窓は全て開け放たれ、爽やかな風を頬に感じる。
床には幾何学模様が織られた絨毯。
歴史を感じさせる家具類。
クリーム色に統一された壁には鮮やかな色のタペストリーが飾られている。
サラディナーサは宮殿の外を知らないが、貴婦人の棟で言うなら、一番上等な客室相当の部屋だ。
丸いテーブルの前の布張りの椅子にサラディナーサを座らせると、ヴァンは部屋の扉を出ていき、すぐに両手に皿を持って戻ってきた。
そして皿をテーブルに置いてまた部屋を出ていく。
数回それを繰り返し、テーブルに二人分のスープ、チーズ、パン、果物という朝食らしいメニューが揃う。
パタパタ動き回るヴァンを目を丸くして見ているサラディナーサの前に、ヴァンはポンポンと
ナプキン、スプーン、フォークを並べた。
「どーぞ」
にかりと笑ってサラディナーサに食事を進める。
「………」
一口スープに口をつけてみる。
「団長がどっからか料理人を連れて来たんだ。どお?口に合う?」
サラディナーサは頷いた。
ヴァンはホッとしたように自分も食べ始めた。
もちろん、この状況で食欲なんか湧かない。
スープを数口飲んだあとは、黙ってヴァンが食べ終わるのを待った。
そしてヴァンの皿が空になってフォークがテーブルに置かれると、とうとうサラディナーサは尋ねた。
「一体、これはどういう待遇なんだ?」
人を乱暴に拉致してきて、散々おちょくるような事を言い、最後は脅しつけてきた男が。
一夜明けたら甲斐甲斐しくサラディナーサの世話をしている。
全く意味がわからない。
「茶を持ってくるから、その後話をしよう」
そう言ってヴァンはテーブルの上をささっと片付け、重ねた皿を持って部屋を出ていき、またすぐにティーポットとカップをトレーにのせて戻ってきた。
「外にいる奴がさ、いいカップ見つけた、って用意してたんだ」
とぽとぽとカップに茶を注ぐ。
途端に立ち上がった湯気を見ながら、サラディナーサは眉を潜めた。
「何だって副団長ともあろうお前がそう動いてるんだ?外にいる部下にさせればいいものを」
ヴァンはカップをサラディナーサに差し出しながら言った。
「他の奴にはこの部屋に入るなと言ってある」
「…ふぅん?」
サラディナーサは礼儀としてカップに口をつけて一口飲んだ。
意外にまともなお茶だ。
「で、王女様に頼みがあるんだけど」
ヴァンはやっと切り出した。
「俺のところに嫁いで来てくんないかな?」
「グッ、ゲホッゲホッ」
口に含んだお茶をうまく飲みそこねて、サラディナーサはむせた。
「…大丈夫か?」
「大丈夫じゃない。一体お前は何言ってる?」
「いやあー。やっぱり攫って強制するより、ちゃんと誠意を持ってお願いした方がいいかと思ってー」
あんまりふざけた言葉にサラディナーサは唖然としてすぐに言葉が出ない。
「…せ、誠意?いや、お前はすでに私を攫ってきてるだろうが」
「それは団長が強引に決行しちゃったんだよー。でも俺はさ、嫁とは平和な関係作って結婚したいんだ」
結婚という言葉にサラディナーサの背筋に寒気が走った。
「断る!」
考えるまでもなく答えていた。
「ズバッてきたなー。ちょっとくらい交渉の余地ない?」
「ない!」
「ほら、結婚するから身の安全を保証しろ、とか。何何くれたら結婚してあげる、とか…」
「断る!」
ヴァンは肩を竦めた。
「そっかー。そうだよなー。残念」
ヴァンはさして残念そうでもなく言った。
それから自分用のカップに茶を入れ、口をつけすすり、アチッと舌を出す。
そしてカップをテーブルに置くと言った。
「でもごめんな。あんたが俺の嫁になるのは、もうほぼ決定してる」
「…どういう意味だ?」
「あんたはこうして攫われちまって、今俺の元にいる。女王陛下が娘の名誉と命を案じるなら、あんたは俺に嫁ぐことになるだろう?」
意味を正確に捉えて、サラディナーサの肩がぴくりと震えた。
「私の命と名誉を引き換えに、私をお前の元に降嫁させろ、と母を脅迫するということだな?」
「今頃、うちの団長がそんな感じの交渉をしてるんじゃないかなー?」
サラディナーサは椅子から立ち上がった。
「私を宮殿に帰せ」
「悪いな。女王陛下と団長の交渉が終わるまでこの部屋にいてもらう」
サラディナーサは目の前のカップをとり、中身をヴァンに向けてぶちまけた。
ところが思ったほど茶は遠くに飛ばず、少しのしぶきはヴァンが丸いトレーを盾にして防いでしまった。
「俺は自分の嫁を大切にしたいんだ。なるべく不自由しないようにするし、乱暴なことをする気もない。できる限りもてなすよ」
トレーがヴァンの手の上でクルッと回った。
「だから諦めて、大人しくここにいてくれ」
ふふっとサラディナーサの口から乾いた笑いが漏れた。
人は怒りを極めると笑ってしまうものらしい。
「私はひとつだけ、母にお願いしていることがあるんだ」
「ん?」
「生涯、私を結婚させないでください、と」
「なんでまた?」
「男という生き物が嫌いだから」
「うえ?」
ヴァンは変な声を上げた。
「私は名誉だのなんだのはどうでもいいんだ。死ぬことも怖くない。けれど男の元に嫁ぐことだけは許せない」
「………」
「まして誘拐犯。王太子の片腕…。フフッ、誰がお前などに」
ヴァンの眉が上がり、唇が引き結ばれた。
それを見て、サラディナーサは殊更に微笑む。
「腹が立ったか?昨夜みたいに脅してみるか?私の手足を折るか?好きにすればいい。それでも私がお前に従うことはない」
挑発的に言うサラディナーサに、ヴァンは眉尻を下げ一気に情けない顔になった。
「しないしない。あれは鼻っ柱をちょっとばかし折ってやろうと…、あ、いや、そうだ、忘れてた」
ヴァンはいきなり膝を打った。
「!?」
「ひとつだけ、させてもらう」
ヴァンは椅子からよいせ、と立ち上がった。
テーブルを回ってサラディナーサに近づいてくる。
サラディナーサはぐっと震える足に力を入れ、拳を握り、目を離さず男を迎えた。
ヴァンは服の合わせに手を入れ、中から懐剣を取り出した。
「ちょぉっとだけ髪を切らせてくれ」
「髪…」
サラディナーサが意味を捉える前に、ヴァンはくっとサラディナーサの黒髪を掬い、懐剣を閃かせて、一房切りとった。
「あ…」
ほんの一瞬。
サラディナーサはストンと椅子に座り込む。
ヴァンは懐剣をしまい、髪をトレーにのせた。それから明るい茶色の瞳を煌めかせてサラディナーサを見下ろした。
「王女様の気持ちはわかった。けど俺たちももう後に引けないんだ。あんたは俺のものになる」
「………」
サラディナーサはその言葉と髪の意味を考え、歯を噛み締めた。
それから顔を上げ、手で髪を払う。
「いいよ。髪くらいならいくらでもあげよう。けれど私がお前のものになる日は来ない」
嫣然と微笑んでみせた。