攫われていく夜
どうして!
守られた貴婦人の棟で、どうしてこうなった。
エマーリエはどうなった?
フラン、フラン、すぐ来てくれ!
‥‥‥お母様!!
サラディナーサの入れられた箱は人の手で運ばれ外に出て、そこから馬車に載せられたようだった。
箱の中のサラディナーサにわかったのはそのくらい。
そこからはひたすら馬車の走るガタンガタンと音が響くばかりで、人の声ひとつ聞こえない。
時々馬車がひどく揺れ、サラディナーサの体は宙に放りだされ、落ちる。
まるで意思のない荷物。
一筋の光もささぬ闇の中で、目をギュッと閉じる。
攫われた直後の混乱が少し落ち着くと、その後に襲ってきたのは力が抜けていくような絶望だった。
もう私はおしまいだ、と。
縛られて動けない状況というのは予想以上に苦しかった。
後ろ手に縛られたまま、これだけ体が跳ねれば腕がひどく痛い。
口に咥えさせられている布は涎を吸ってしまい、不快でたまらない。
そして何も見えない暗闇は、縛られたサラディナーサの心を更に絞め上げる。
(恐怖に思考を持ってかれるな)
ぐっと強く自分に言い聞かせた。
荒い鼻息をゆっくり整える。
(考えろ、考えろ…)
“攫われたらおしまいだと思いな”
いつか言われたフランの言葉が脳裏に響いた。
“一回身柄を抑えられたら、その身は何者かにどうとでもされるものになる。攫われた瞬間、負けだ”
そう言ってフランはサラディナーサにいくつもの護身術を教え、危険がどういうところに忍んでいるかを徹底的に検証した。
“けれど万が一、攫われてしまったら…”
そういうケースも逃げずに考えておくべきだ、とフランは厳しい顔で言った。
“逃げるのは、よほど敵が間抜けでなければ無理だと思った方がいい。できることは隙を見て自害することくらいだ”
だったらすぐに自害してみせる、とサラディナーサは答えた。
するとフランは3日は待て、と返した。
“3日の間には、状況が変わる可能性がある。助けが来るかもしれない。誘拐犯が何らかの交渉を行って、その結果で動くかもしれない。その可能性が高いのは攫われて3日だ。自害するなら3日たって事態が好転しないと見極めてからがいい”
なるほど、説得力がある。さすがフランはその道のプロだ。
聞いた時サラディナーサは感心したものだ。
“3日もあれば私が迎えに行くさ。待ってろ、サラディナーサ”
自信に満ちた顔で言い切ったフランは頼もしかった。
(本当か?3日待てばいいのか?けれどその3日の間。私は…、)
王女がどれほど男たちに狙われる存在か。
攫った者が何をするか。
幼い頃から嫌というほど聞かされてきた。
(3日間、私はどうしたらいい、フラン?)
“戦いなよ”
フランならこう言いそうだ。
“死んだら負けだ。けど戦って死ぬなら負けでも格好いい”
(あの筋肉馬鹿…私の頭の中でまで)
また馬車が大きく跳ねて、体が箱にぶつかった時、右腕に嫌な痛みが走った。
「‥‥‥っ」
サラディナーサの額に脂汗がにじむ。
何度も鼻で息を吸い、吐いて、痛みを逃した。
(フラン、助けに来るなら今すぐ来い。私は待てないぞ…)
どれほどの時がたったか。
痛みと息苦しさと思考に疲れて、サラディナーサの意識が朦朧としてきた頃。
馬車の揺れが止まり、近くで扉が開く音がした。
はっとして耳を澄ますと、がやがやと人の声が近づいてくる。
「これ、本当に中に入ってるのか?」
「とりあえず中に運ぼう」
「行くぜ、よいせっ」
そんな声がして箱がぐらりと傾き、サラディナーサの体が滑った。
蓋に穴が開いていたのか、ほんの微かな明かりがぽおと木箱の中に明かりをもたらした。
「けっこう重いな」
「揺らすな、揺らすな」
「ゆっくり行け」
聞こえるのはどれも若い男の声だ。
音と気配からして、建物の中に運び込まれたようだ。トンと固い床に置かれたのがわかった。
木箱を運んだ男たちはまた相談を始めた。
「どうする?」
「開けておくか?」
「何が飛び出してくるかわからないからな。安全確認は必要だろう」
何が飛び出すというのか。
ともあれ、とうとうこの木箱の蓋が開くようだ。
サラディナーサはぐっと身を固くしてその時を待った。
ガタンと蓋が外れ、橙の光に目を刺されてぎゅっと目をつぶった。
そしてそろそろと目を開けると、目の前に突きつけられていたのは光をギラつかせた銀の刃だった。
「‥‥‥‥」
そのまま刃はサラディナーサの皮膚にぎりぎり触れない位置で肩から腰から足まで動いていく。
サラディナーサは身じろぎもできないまま息も止めて、その銀色の動きを目で追う。
「特に何か仕込まれてる気配は無いな」
「よし、このまま待とう」
刃が遠ざかる。
ドッドっとうるさい心臓の音を聞きながら、サラディナーサはなんとか目線を動かし辺りを窺った。
室内は灯りが灯され、充分に物が見える程度には明るい。
数人の男がサラディナーサを入れた箱を囲み、上から覗くように見下ろしている。
その全員が揃いの服に揃いの色のマントを付けていることが見てとれた。
(我が国の正騎士の制服。マントの色は…灯りでわかりづらいけど…、青か!)
サラディナーサから見えない方向でドアが開く音がした。
「ついたって?」
男の声。
「はい」
箱を囲んでいた者たちが、場所を譲るように箱から離れ、その代わりにひとりの男が上から見下ろしてきた。
明かりで影になり顔はよくわからないが、この男も騎士の服に青いマントをつけている。
「あーあ。本当に来ちゃったかー。しょうがないなー」
男は訳のわからないことを言いながら、無造作に大きな手を箱の中に伸ばしてきた。
「んっ!」
咄嗟に竦めた体をひょいと持ち上げられ、サラディナーサは木箱の中で座る体勢になった。
男の手がそのまま頭の後ろに回り、口にあった布が外される。
咄嗟に溜まった唾を飲み込もうとしたサラディナーサは思い切りむせた。
「ゲホゲホっ」
男は木箱のすぐ外にしゃがんで、咳き込むサラディナーサが落ち着くのを待つようだった。
サラディナーサは必死に呼吸を整えながら、涙のにじむ目で男を見る。
男の歳などはよくわからないが、サラディナーサより一回りくらい上だろうか。
表情には余裕が見え、目は穏やかな光を放っている。
卑劣な誘拐犯のくせに、存外人間らしい見た目をしている、と思った。
目が合うと男は口元にうっすら笑みを浮かべ尋ねた。
「一応確認しとくけど、あんたはサラディナーサ王女?」
馴れ馴れしい声に体がピクリと跳ねた。
呼びかけひとつで悟る。
男にとってここにいるのは王女ではなく、捕えた獲物なのだと。
屈辱の時はもう始まっている。
(どんな目で見られても、どんな目に合っても、女王の娘として誇り高く振る舞わなければ)
サラディナーサは唇をギュッと引き結ぶと、胸を張り、顎をつんと反らした。
目に力を入れ、男を睨めつけるように見た。
「先にそっちが名乗れ、誘拐犯」
喧嘩を売るようなサラディナーサの返しに、男の眉がくっと上がった。
力づくで攫うのは“拉致”というらしいですが、拉致犯!だと語呂が悪いので誘拐犯!にしてます。