女王2
「私も一度王太子に約束してしまったことは取り消すのが難しいの。けれど死人とはさすがに婚姻を結べないものね」
母がにっこり笑う。
「お母様…」
「自分でできるわね?」
女王の目配せを受けた衛兵が抜き身の剣を差し出す。
サラディナーサは手を出さずその剣をじっと見た。
「自分が好きに生きる為に、ヴァンの命を奪えと仰るのですか?」
「気にすることないわ。この男は誘拐犯よ」
「……けれど彼は親切でした。命を救われもしました」
「だから?貴女を逃がすことも出来たのに部屋に閉じ込め、貴女の体に触れたのはこの男でしょう?」
母がヴァンを指差す。
「か、体に!?」
驚いて、サラディナーサは両手で自分の胸を押さえた。
「騎士たちの前で抱擁されたのでしょう?」
「そ、そのことですか。あの、それは‥‥‥っ」
サラディナーサもそこまでは母に話していないのに、どこの馬鹿が馬鹿正直に伝えたのだろう。
「貴女の名誉を汚して、世間に顔向けできない身にしたのはこの男。違う?」
女王は凄みのある笑みを浮かべた。
「躊躇うことはない。スパーンと切っておしまい」
(切っておしまい、と言われても…)
サラディナーサは首を振る。
「…例えヴァンがどれほどの悪党であっても、殺すなんてできません。お母様」
「あら。でもこの宮殿に残る気なら、この男を殺さないと」
「私が宮殿で生きることと、ヴァンの命が引き換えなのですか?」
ヴァンを自分の手で殺すなんて、想像も出来ない。
そのくらいの情は湧いてしまっている。
そもそも人殺しなんてしたこともないし、それが自分の為であるなんて、相手がヴァンでなくとも無理だと思う。
これまで常に母に従い、母の意に沿うように生きたいと願っていたサラディナーサであっても、これは悩む余地すらなかった。
「でしたら選択肢などございません。私は降嫁致します」
「まあ!」
母は机に頬杖をついた。
「貴婦人の棟で生きていく決意を語った舌の根も乾かぬうちに。情けない」
「申し訳ありません」
母を失望させたことを、サラディナーサは侘びた。
意気揚々と宮殿で生きる理想を語ってしまった自分が恥ずかしい。
母ははあ、とため息をついた。
「私はね。貴女の覚悟が見たかったのよ。この先も宮殿で生きていきたいと考えているなら、その意志を。けれど、貴女はこの男ひとり始末出来ず、降嫁を選ぶのね。残念だわ」
「………」
サラディナーサはうつむいた。
いくら言われても、ヴァンを殺すなんてできないのだから、仕方ない。
母はもう一度ため息をつく。
「もういいわ。降嫁することが貴女の決断だと言うのなら、認めましょう。この男はこちらで始末しておくから、貴女は下がりなさい」
「……始末?」
サラディナーサは訳がわからず、顔を上げた。
「何を……」
「お優しい貴女の目の届かないところでこの男は片付けておいてあげるから、貴女は下がりなさい、と言ったの」
何を言っているのか、本当にわからない。
サラディナーサはたった今、ヴァンの命を救うために降嫁を選び、母もそれを認めたのではなかったか。
「どういうことですか?私はその男の元に嫁ぐと…」
母ははっと笑った。
「私は最初から貴女をこの男に嫁がせる気など、微塵もないわ。この男はここで始末するために連れてこさせたの。貴女が切れないと言うなら、他の者にさせるだけ」
「…お母様!」
サラディナーサの声は悲鳴のようになった。
「でしたら、なぜ私にあのような選択をさせたのです!?」
「私が言ったのは、この男がいなくなれば婚姻の話が無くなる、てこと。そして貴女の手で始末なさいということだけよ。
一言もこの男を殺さないなんて言ってないわ」
「……っ、でも、私のことは私が決めて良いとおっしゃいました!」
「そうね。でも貴女のことと、私がこの男をどうするかは別」
「そんな!」
詭弁に聞こえる母の言葉に、流石に怒りを感じる。
母は冷たい目でサラディナーサを見据えた。
「大抵の貴女の意志は認めるつもりだけど、この男だけは許さない。
この男は王太子を通じて、この私を脅迫したのよ。貴女の切られた髪を見た時の私の気持ちがわかる?」
「……っ」
その憎悪に満ちた声に、サラディナーサははっとして後ずさった。
あの拉致事件について、初めて母が語るのを聞いた。
娘を攫われた母の気持ち。
王女を攫われた女王の気持ち。
王太子の脅迫に屈した母の気持ちを、サラディナーサは碌に考えていなかった。
そうだ。あの事件そのものが限りなく女王を愚弄するものだったのだ。
サラディナーサがいくら許しても、母が許すはずがなかった。
「母の言いたいことがわかったわね。では、下がりなさい」
それは明らかな命令で、サラディナーサの体がびくりとする。
なにせ物心つく前から母への恭順を教え込まれている。逆らうのは容易ではない。
(けれど…)
岩のように動かず、そこにいるヴァンを見て、サラディナーサは走った。
ヴァンの前に立ちふさがり、両手を広げる。
「お、お許しください」
強い口調で言いたかったのに、声が掠れた。
母の目が不快そうに細められる。
怖い。けれど。
ここで引いたら、確実にヴァンは殺される。
「こ、この男は私の命の恩人でもあります。私に免じてどうか」
「サラディナーサ、その男の為に母の意に背くの?」
低い轟くような声に、サラディナーサの体がぷるっと震える。
「わ、私は…お母様を心から尊敬申し上げています。ですが、この男を死なせたくないのです」
「なぜ?」
短く尋ねられ、サラディナーサはぐっと喉を詰まらせた。
「貴女さっき、結婚せず宮殿に残りたい、と言ったばかりよ。別にその男に特別な感情を抱いているわけではないでしょう?」
「と、特別な感情なんて」
「ならいいじゃない。女王である私が、女王を侮辱した罪人を処刑するの。貴女が止める理由がある?」
「………っ」
返す言葉が見つからない。
サラディナーサは助けを求めるように部屋を見回した。
女王付きの衛兵たち、フラン、リディア、エマーリエは皆、口を固く結び女王と王女のやり取りを見守っている。
そしてサラディナーサが立つすぐ後ろにいるヴァンは。
縛られて跪いたまま、まっすぐサラディナーサを見上げていた。
口に布まで噛まされながら、恥じる様子もなく。
その目にあるのは、サラディナーサを案じる色だった。
あの邸で、何度も何度も見たのと同じ色。
(自分の心配をしろ、馬鹿者)
サラディナーサは息を吸って吐き、もう一度目に力を入れて母を見る。
「……ヴァンは私のことが一番大事なのだそうです。ですから私も彼を大事にしないといけないと思うのです」
「それが何?」
けんもほろろに返される。
「……私が攫われた事は世間に知れていないのでしょう?でしたら罪人とも言えません。お母様の御心ひとつです。どうか」
母は眉を上げ、呆れ果てたというように手を払った。
「もういいから、とっとと退出なさい」
「で、でしたら」
サラディナーサは身を屈め、ヴァンの襟元を手で掴んだ。
ぐっと持ち上げて立たせる。
ぐえっと声がした気がするが構ってる場合じゃない。
「ヴァンも連れて行きます!」
「は?」
「ここに置いていったら殺されてしまうのでしょう?私はこの男を守ってやらないとならないのです!」
言いながら、サラディナーサは体の内がかあっと熱くなっていくのを感じた。
母に対する敬愛も恐れも、不思議な熱によって薄れていく。
「いい加減にして!私はその男を許す気はないわよ!」
母が苛立ちをあらわに机を叩く。
(人に自分の要求を通したい時は…)
かつて母が教えてくれたことを思い出す。
(ねだり、懇願し、説得し、行動して見せ、そして脅迫する)
ぐっと母を睨んだ。
「でしたら私、畏れ多くも、お母様を脅迫致します!」
サラディナーサは掴んだままのヴァンをぐいっと引っ張り、母のいる机に突きだす。
後ろ手に拘束されたままのヴァンは、バランスを崩したたらを踏んだ。
机越しとはいえ、ヴァンの突然の接近に母はぎょっとして、思わず椅子から立ち上がった。
衛兵が慌てて、女王の身を支える。
サラディナーサは顎を上げて言い放った。
「もしお母様がヴァンを許して下さらないなら、国中にバラします。女王陛下は男に触れると蕁麻疹が出る体質だって!」
「!?」
部屋中の全員がぎょっとした顔でサラディナーサを見る。
「そうしたら、お母様の御威光はだだ下がり。それにそのような弱点を知った不届きな男どもは、お母様を放っておいてくれるでしょうか?」
サラディナーサは強気な笑みさえ浮かべて言い切った。
「サラディナーサ!貴女!」
母はわなわなと震えた。
「私、これまでお母様の体質について口にしたことはございませんでした。お母様がもしヴァンを許して下さるなら、もう二度口にすることはないでしょう」
「……こっの馬鹿娘!!」
唾が飛ぶ勢いで罵られた。
けれど何故だろう。もう全然怖くない。
むしろ母への闘志のようなものを感じている。
「さあ、お母様がお選びになる番です。
この馬鹿で無礼千万な娘もここで切ってしまいますか?
それともヴァンと共に宮殿を追い出しますか?」
にっこりと微笑んだ。
☆ ☆ ☆
(うわあ。これが、この国で最も高貴な親子喧嘩かあー。貴重なもの見ちゃったなあ。あはは…)
ヴァンはちょっぴり現実逃避に走っていた。
この展開はさすがに予想出来なかった。
もちろんヴァンとて、奥宮殿に出向けば無事にすまないだろうことはわかっていた。
女王に個人名で呼び出される理由など、あの拉致監禁事件に関することしかない。
とすれば良くて牢へ直行、悪くすれば‥‥‥
あの事件から四ヶ月。遅すぎるくらいだった。
宮殿で拉致に関わった者、あの邸にいた者。
つまりレアンドーレが右軍の中に作り上げたレアンドーレ部隊の騎士たちは、皆バラバラに移動を命じられ、首都から離れた地に行かされた。
そしてレアンドーレに至っては、“次期国王として見聞を広める為の行幸”に出る、と話を聞いた後首都から姿を消し、副官であるヴァンにも行方が追えないでいる。
もうレアンドーレの命運も尽きたか、と思うしかない状況である。
そんな中、ヴァンだけには何の御達しもなく、団長不在の右軍を回す日々。
だが、ほぼ主犯の立場であったヴァンにお咎めがないとは都合の良すぎる話だ。
(奥宮殿が俺の死に場になるなら、ちょっと勿体無いくらいだな…)
そんな気持ちで奥宮殿に向かったので、女性衛兵が「陛下の命令です」と言ってヴァンを縛り上げた時は、まあこうなるよな、と思った。
衛兵が縄で縛るのがあまりに下手でもたもたしているので、指導したくなったくらいだ。
騎士だと人間を拘束する練習は見習いの内からする必須項目だが、女性衛兵は違うらしい。
変に痛くて、けれど簡単に解けそうな縄に拘束されて、ご丁寧に猿轡までされた。
連行された女王の執務室に、サラディナーサが現れた時は、心から安堵を覚えた。
ずっと不安だったのだ。
忽然と邸から消えたサラディナーサが、無事宮殿に戻れたのか、と。
もう二度と会えないかと思っていた彼女が、目の前にいて、ヴァンの記憶どおりの姿で動いている。
それを見られただけで、もう思い残すことはないと感じたくらいだ。
サラディナーサは男言葉でなく、美しくなめらかな言葉で、ヴァンのことを母親から懸命に庇った。
あれほど嫌がっていた結婚を自ら選んだ時には、待て待て、もっとよく考えろ、と言いたかった。
いつの間にここまで、情を向けてくれていたのか。
自分がここで殺されるかどうかは、どっちでもいい。
…というか、諦めている。
けれどヴァンの命を使って、サラディナーサを試すような女王に対しては、腹立ちと呆れを感じた。
娘に愛情はあるのだろうが、ひどく歪んでいるし、言ってることが理不尽極まりない。
よくこんな健気な様子の娘に無理難題言えるものだ。
こんなでもし、サラディナーサの前で自分が死ぬことがあれば、心の傷になってしまう。
これは動けるようにしておいた方がいいかもしれない。
ヴァンが緩んでいる手首の縄を解く準備を始めた時だった。
サラディナーサに襟を持たれ、振り回されたのは。
(ひえ〜、さすが王女様!俺の助けとかいらないな!)
机に押し付けられたヴァンの背から、サラディナーサのうわずった声がする。
「さあ、お母様がお選びになる番です。
私を切りますか?ヴァンと共に宮殿を追い出しますか?」
サラディナーサの手が首元から離れたので、ヴァンはなんとか体勢を整え振り返る。
サラディナーサは目を異常なほどキラキラさせ、浮かれたように言った。
「どうしたのでしょうか、私。何だかとても強い人間になれたような気分です。今ならなんでもしてしまえそうな…」
(あ、敵陣に突っ込む前の兵の目だ…。王女様が母親に刃向かうって、これほどのことなんだな…)
ヴァンは冷静に分析した。
サラディナーサはすたすたと机を回って女王の元に行くと、その足元に膝をついた。
「いつもお母様は、覚悟と強さを見せるようにと仰るのでそのようにしたのです。これ以上何をしたらお許しいただけますか?私なんでも致します」
女王の足に抱きつき、顔を埋める。
(脅迫して怒らせた後、流れるように跪いて下から懇願する?すげえ交渉術だな)
ヴァンはただただ感心した。
「何故そこまで」
困惑に女王の声が揺れる。
「何故でしょう?自分でもよく理解できていないのですが。私の人生や命などよりも、ヴァンの命の方がよほど大事で守るべきものだと感じるのです」
ぐさっとヴァンの心臓に何かが突き刺さった、気がした。
娘に足に抱きつかれている女王は、動けないまま盛大に口をひん曲げ、眉をつり上げた。
「……冷静になりなさい。その男がどんな調子のいいことを言って貴女を誑かしたかは知らないけど、男は誰もがケダモノよ。結婚したら豹変するの。貴女はこの誘拐犯に頭を押さえつけられて一生を生きていくというの?」
邸でヴァンがサラディナーサに投げつけられた台詞のまんまである。
こうやって歪んだ男像を植え付けられたのだという現場を見てしまった。
けれどこの時、サラディナーサは素直に母の言葉を受け入れなかった。
母の服から顔を上げて、ふふっと笑う。
「心配ございません。ヴァンは本当に男らしくない男なのです」
(……王女様はもしかして、“男らしくない”を褒め言葉だと思ってないか?)
「ヴァンが豹変して、私を蔑ろにするようになるとは思えませんし、させません。結婚するならば、支配権を握るのは私です」
サラディナーサは立ち上がり、振り返った。
「そうだろう、ヴァン?」
婉然と微笑むサラディナーサの視線に強く押される。
(支配権って…)
ヴァンは天井を仰ぎ、目をぐるりと回したあと、恭順を示す為に膝を折った。
(もう、なんでも好きにしてくれ)
とうとう女王が強情な娘に折れた。
もしかすると、女王初の出来事だったかもしれない。
女王の許しが下り、女性衛兵がヴァンの手首の縄を切る。
その時ついでとばかりに、ヴァンの腕の皮膚まで切ってくれたのは、女王の意を汲んだ衛兵の嫌がらせだ。許容すべきだろう。
血の流れる腕で口の布を取り去ると、大きな息が漏れた。
母娘は淡々とした口調で事務的な会話を交わしていた。
「降嫁公表は半年後」
「はい」
「土地はつけないわよ。その男には扱えないでしょうから」
「はい、お母様」
「宮殿を出ても、今まで任せてた仕事は続けてもらうから、そのつもりで支度なさい」
「……はいっ!ありがとうございます」
「その男には公表されるまでの半年の間に、何か功績を立てさせなさい。伯爵位に見合うくらいの」
(なんだ、そりゃあ!)
声に出してないのに、ヴァンの驚愕は伝わってしまった。
じろりと女王の目がヴァンを射抜く。
「まさか、王女を平民に嫁がせろと?」
ヴァンはぷるぷると首を振った。
女王は不機嫌そうに目を細める。
「誰もが認める功績を半年以内に立てなさい。わかった?」
功績?功績ってなんだ?
疑問しか浮かばないがとりあえず、はい、と頭を下げる。
「もう今日のところはこれでいいわね?いい加減帰ってちょうだい!」
女王が心底うんざりした顔で言う。
サラディナーサは女王に走り寄ると、どこの家でも娘が母親にするように、きゅっと抱きつく。
そしてすぐに離れた。
「はい、これにて御前失礼致します。お母様に栄光がございますように」
こうしてヴァンは、やっと女王の執務室を脱出できたのだった。
この女王、思わせぶりなことばかり言うから、書くのが面倒くさい。
おかげで文字数が多くなりました。
たぶんあと3話で終わります。