アリエッタ その後
娘がンクンクと乳を吸うのを、満ち足りた気持ちでみつめる。
「かわいい〜」
「いくら見てても飽きないわね〜」
「ああ、わたしも赤ちゃん欲しい」
いとけない娘の姿に、小間使い仲間たちが繕い物の手を止めて口々に言った。
アリエッタは少しばかり優越感を覚えながら、口では謙遜してみせた。
「そう?さすがに一日中世話してるとちょっと飽きるわ。それにもうずっと寝不足で、誰かに代わってもらいたいくらいよ」
「ええ!?代わる代わる!ほら、べべちゃん、わたしの子になるかい?」
手を差し出されても、乳に夢中な娘は気づきもしない。
振られたわぁ、と嘆く仲間に、皆で笑う。
「産まれてもう一月?あっという間ね」
「体がずいぶんしっかりしてきたわよね。顔つきも女の子らしくなってきたみたい」
「にしても。産まれたのが女の子で本当に良かったわよね〜」
「ホントホント」
「女の子なら、貴婦人の棟で育てられるもの」
それはアリエッタも深く胸を撫で下ろしたところだった。もし男の子だったら貴婦人の棟を早々に追い出されてしまう。
けれど、女の子なら万事問題なしということでもない。
「わたし、少し心配なのよ。この貴婦人の棟でちゃんと育てられるかって」
ふうと息をついて、アリエッタは不安を吐露した。
他に子どもがひとりもいない、血の繋がった家族もいない中で、まともに娘を育てられるのか。
庭さえ自由に出ることを許されない環境は、子どもには窮屈ではないか。
ここには衣食住は揃っているが、子どもが健全に育つ為のものは何もないように思える。
「まぁた出たわ、アリエッタの不安癖!」
「大丈夫、大丈夫!どうにかなるわよ」
母親になったことがない仲間たちは、深く考えもせずカラカラと笑う。
「ええ、そうよね。ここに置いてもらえるだけで感謝しなきゃ……」
アリエッタは自分に言い聞かせるように言った。
乳を咥えながら眠ってしまった娘を、隣の部屋に連れて行く。
布を敷き詰めた可愛らしい籠に娘を納め、少し愚図ったのをトントン叩いて宥める。
すぐに娘は深い眠りに戻った。
その安心しきった、世に憂いなど何もないという寝顔に、アリエッタの顔にも微笑みが溢れる。
よくぞ、無事五体満足で産まれてくれたものと思う。
夫に腹を殴られ、着の身着のまま家を逃げ出し、外を彷徨い、宮殿に向かって自分の足で歩いた。
アリエッタがあれほど辛かったのだから、お腹の中にいた娘もさぞ苦しかったろう。
けれどこのたどり着いた貴婦人の棟で、娘は元気な産声を上げて産まれてきてくれた。
あの時、夫から逃げる選択をして良かった。
宮殿に向かう選択をした自分を称えたい。
娘の今後を思うと不安で胸がいっぱいになる。
けれどここまで娘を守りきった自分なら、きっとこれからも立派に育てていける。
母親というのは子の為ならなんでもするものなのだから。
工夫と努力よ、アリエッタママ!
娘の寝顔をみつめながら、ぐっと拳を握り、自分を励ます。
隣の部屋からは相変わらずきゃっきゃっとしたおしゃべりが聞こえてくる。
娘はぐっすり眠り、しばらく起きないだろう。
そろそろ隣に戻ろうかしら、と思いながら、アリエッタは聞こえてくる会話に耳をすました。
「サラディナーサ王女様がとうとう降嫁されるって、聞いた?」
「それね、わたしも聞いたわ!あれって本当なの?」
「ほら、4ヶ月くらい前。ちょうどアリエッタがここに来た日よ。貴婦人の棟に賊が入って、王女様がしばらく奥の宮に避難されてたことがあったじゃない。あれで女王陛下が王女様を降嫁させることを決断されたのだとか」
「ああ、あの時。衛兵の方々も責任とらされてずいぶん辞めさせられたものね。貴婦人の棟も安全じゃないってことね」
「王女なんて立場の方が婚約もしてなかったら、それは狙われるわ」
「ええ?ショックだわ〜。わたし王女様ファンなのに。どこに嫁がれるのかしら」
「それがわかんないの。安全の為にぎりぎりまで隠すんじゃない?どこかの高位高官のところでしょうけど」
聞こえてきた会話の内容に、アリエッタはどきりとした。
サラディナーサ王女が貴婦人の棟からいなくなる?
そうしたらここはどうなるのだろう。
同じことは他の小間使いたちももちろん考えたらしい。
「貴婦人の棟って王妃と王女の為の宮でしょう?けどサラディナーサ王女様が居なくなったら、王妃も王女もいなくなるわけじゃない。ここはどうなるの?」
「そろそろ王太子様がお妃様を迎えられるんじゃない?」
「ああ、なるほど。……でも、そしたらわたしたちってここで使ってもらえるの?ほらわたしたちって“訳あり組”だし」
しばらくしーんとおしゃべりがやんだ。
“訳あり組”とは、正規の手段で宮に上がった訳でなく、女王の慈悲によってここに置いてもらっている女たちが、自分たちを卑下して言う言葉だ。
もちろんアリエッタもそのひとり。
アリエッタは嫌な動悸を始めた胸を押さえながら、隣の部屋との間の壁に近づき、耳をつけた。
ぼそぼそと抑えられた声音の会話が聞こえてくる。
「……そもそも今も、王女ひとりしかいない貴婦人の棟に人を使いすぎだって、言われてるらしいじゃない?」
「……お金の話をするのははしたないけれど、人数が増えすぎて全然足りないんだって。それをサラディナーサ王女様がなんとか回して下さってるのだと聞いたことがあるわ」
「……ここの食事、質素だものね」
「王女様がいなくなったら、わたしたち、ここを追い出されるのかしら」
「女王陛下がお見捨てにならないでしょう?」
「いくら陛下でも、王女様がいなくなった貴婦人の棟にお力を割けるものかしら。それに王太子様のお妃様がいらっしゃれば、その方がこの宮を管理なさることになるでしょう?そうしたらわたしたちみたいな“訳あり組”は追い出されるに決まってるわ」
そんな。やめて。嘘でしょ。
悲鳴のような声がいくつも上がる。
「わたし聞いたんだけど。女王陛下が外に、夫がいない女たちが住み込みで働けるようなところを整えてらっしゃるとか」
「つまりわたしたち、そちらに移されるってこと!?」
「ええ!?外で働くなんて、わたし無理」
「わたしも。外には男性がいるもの」
「でも、行く当てもなく追い出されるよりは」
「仕事の内容によるわ」
「待ってよ。まだ追い出されるって決まった訳でもないんだし」
皆が好き勝手に言い出し、声が重なる。
それをひとりの大きな声が押さえた。
「あーもお!みんな落ち着いて!考えてもしょうがないわよ。お上が何をなさろうと、わたしたちができることなんてないんだもの。流れに身を任せて、行き場が無くなったら野垂れ死ぬだけ。
わたしなんて女王陛下がいなければとっくに死んでたんだから、それがちょっと遅れて来るだけよ」
演説のように言われたそれにパチパチと拍手がおきた。
「まあ、潔い!」
「でも、そのとおりよね。何のお達しもない内から不安になり過ぎてもしょうがないわ」
そうね、そのとおりね、と皆が無理に明るく作った声で、同意する。
アリエッタはバッと立ち上がった。
何かをしなければいけない。今すぐ。
子を持たない他の小間使いたちはひとりで野垂れ死ぬでもいいかもしれないが、アリエッタには決して失えない娘がいる。
呑気に流れに身を任せていては、手遅れになる。
アリエッタはエプロンを外し、髪の毛を整え、娘の眠る籠に飛びつく。
娘を抱き上げると、布でぐるぐると包んだ。
無理に起こされた娘がふにーと弱々しい声をあげる。
「アリエッタ?どうしたの?」
アリエッタがバタバタしているのに気がついた同僚がひとり、様子を見に来た。
アリエッタは慌ただしく説明する。
「わたし、サラディナーサ王女様に直訴してくる」
「何言って…あ、今の話を聞いていたのね?」
「わたしも娘もここ以外居場所がないんだって、わかっていただかないと」
「待って待って。そんな簡単に王女様にお会い出来るわけないでしょう?衛兵に追い返されるだけよ」
同僚は慌てて両手を広げ、アリエッタの行く手を遮った。
「……前に王女様、赤ちゃんが楽しみって仰ってたのに、産まれたこの子をお見せしたことがないの。だからこの子を連れて行けば」
「無理よ!大体、王女様がご結婚なさるんなら、王女様ご自身にもどうしようもないことでしょうよ」
彼女が言うことに、アリエッタは少し考えた。
「……だったら、女王陛下にお願いするしかないかしら?」
「アリエッタ!何て畏れ多いことを!とんでもないわ!」
「……女王陛下に直接申し上げるより、侍女頭様を通す方がいいかしら?…いえそれよりも女官長様の方が身分が高いから……」
アリエッタが貴婦人の棟に来てから知った権力のある女性たちを思い浮かべていると、同僚は信じがたいものを見たように後ずさった。
他の小間使いたちが騒ぎを聞いてやってくる。
「どうしたの?」
アリエッタがね、と説明する同僚を見ながら、アリエッタは胸の中の娘をぎゅっと抱きしめた。
この娘を無事育てるには、貴婦人の棟にいるしかない。
外に出れば、夫にみつかり今度こそ殺されるかもしれない。
そうでなくても男の庇護なしに生きていける世ではない。
働く?娘を抱えて?無理に決まってる。
外に出されたらアリエッタも娘も生きていけないのだ。
この貴婦人の棟に来た時に、ここにいていいと言ってくれたのはサラディナーサ王女だった。
その王女がいなくなるのなら、次に庇護してくれる人を探さないといけない。
何故他の皆はそんな簡単なことがわからないのだろう。
貴婦人の棟に来てから穏やかな生活に停滞していた脳が高速に回転を始めた。
「わたしは何をしても、ここにしがみつくわ」
同僚たちに噛みつくようにアリエッタは宣言した。
☆ ☆
「王女であるサラディナーサが、貴婦人の棟に居続ける為にどれほど努力したか…。なのにあんな他力本願な奴らが、図々しくここに居座ろうなんて」
たまたま廊下の外から全ての会話を漏れ聞いてしまった赤毛の女性衛兵は、憎々しげに吐き捨てた。
だから憐れな女など抱え込むものじゃない。
女が自立できる国を目指す女王の深謀遠慮を理解しようとせず。
行き場のない女たちを案じ、職場の整備を急ぐサラディナーサのことなど、知りもしない。
もしこの女たちがこれ以上サラディナーサに余計な心労をかけるようなら、切り捨ててやろうか、と思う。
「……サラディナーサは本当に降嫁する気なんだろうか?陛下は、どうするつもりなんだろう」
塀で囲まれた狭い空を見上げた。
あの事件が起きたのは、太陽の輝きが日に日に増す頃だったのに、今は暗い空を北から冷たい風が吹き抜けていく。
もういい加減、皆が決断をしなければいけない時期だ。
サラディナーサにはまだいくつかの選択肢がある。
けれどどれがサラディナーサの幸せに至る道なのか。
それは王女の幼馴染である彼女にもわからなかった。
次回とその次あたりがクライマックスということになると思います。
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