2日目 朝
しくしくと泣く幼い自分。
そっと頬に柔らかい布が触れ、優しく涙を拭う。
「本当に貴女は臆病な子ね。私の子とは思えないわ」
優しい手つきと裏腹な、突き放すような声。
教育係のエマーリエがコホンと咳払いをした。
「昨日は“これほど賢いのはさすが私の子”と仰られていたように記憶してございます」
淡々とした口調でサラディナーサを庇う。
ああ、これは母がまだ王妃だった頃。
共に貴婦人の棟で暮らしていた頃。
「怖い絵を見せられた?そんなことで泣いてるの?」
「だ、だってお母様。あんな恐ろしい化け物が宮殿の外に本当にいるんですって…」
絵を見たからじゃない。現実に恐ろしいモノが存在していることが怖くて泣いてるのだ、とサラディナーサは説明する。
「ああ、もう!そんなことで泣かない!せめてその化け物が本当に目の前に現れてから泣きなさいよ」
母に叱られ、幼いサラディナーサは必死に泣き止もうとした。
けれど却って、ヒッヒッ、と喉を鳴らすことになった。
「貴女は我が国唯一の王女。いずれ王位継承権も得るのよ。それがこんなに心弱くては…」
母はため息をついた。
「化け物なんかいなくても、いずれ男たちの餌食になるでしょうね」
「王妃様はまた、そのような」
エマーリエの呆れを含んだ声。
サラディナーサは激しく首を振って、母の真っ赤な服に顔を押し付けた。
もうこれ以上言わないで欲しかった。
「顔を上げて」
サラディナーサは涙いっぱいの顔で、頑張って母の顔を見上げた。
「もっと強くなりなさい」
母は繰り返し言う。
強く、強く、強く、強く、と。
でもサラディナーサはいつまでも弱くて、臆病で泣き虫で。
「しゃんとして、背を伸ばして!」
「…ヒンッ」
「怖いものがあったら、睨んで、踏みつけて、それからどうしてそれが怖いのか考える!」
「はい…ヒック」
「それからその怖いものの正体を調べて、それが現れた時どう対処するかを考える!そうすれば大抵の怖いものは消えるものよ」
「はい…」
母の言うことはいつもとても難しい。
ちゃんと聞こうと思うのに、すぐによくわからなくなって、頭がぐちゃぐちゃになってしまう。
あとでエマーリエに説明してもらわないと。
けれどこれも将来、強い大人になる為の教えなのだ、きっと。
サラディナーサはぐっと喉を締めて、ごしごしと腕の袖で涙を拭いた。
「あら、やっと泣きやんだわね」
母の声が和らぐ。
「そう。そうやって涙は飲み込んでおきなさい」
白い手がふわりとサラディナーサの額を撫でてくれた。
母は厳しいけどとても優しい。
すごく忙しいのに、こうしてサラディナーサにいろんなことを教えてくれる。
どんなに母がサラディナーサの将来を心配してくれているか、わかっている。
いつか母が言う強い娘になりたい。
母が言う恐ろしい未来と怖がらず戦える娘になりたい。
「自分の足だけで立てるように。誰にも支配されないように。弱みを見せては駄目。強くなりなさい」
何度も聞かされてきたけど、どうしたらいいのかよくわからない。
けれど、母の言うようにたくさん勉強して、心と体を鍛えれば、いつかわかるのだろう。
幼いサラディナーサは素直に頷いた。
「はい、お母様。頑張ります」
母は微笑み、つんと指先でサラディナーサの額をついた。
「決して母のようにならないように、道を探してね、サラディナーサ」
その目はいつものように、深い愛と憎悪の色で光っていた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
懐かしい夢を見た。
(あれは私が4歳か5歳かのころか?お母様も無茶を仰る)
なにせサラディナーサは成人を1年過ぎた今でも母の言う強い娘になれていない。
サラディナーサはベッドに寝たままじっと、二度目の朝の天井を見る。
(お母様が与えて下さったものを全て無駄にしてしまったんだな)
本当にいろんなものを与えてもらった。
普通女には与えられない高度な教育、様々な分野の教師や友人。
それらを武器に、自分の道を探すはずだった。
誰にも支配されず、結婚せず、生きられる道を探しているところだった。
けれどあの内庭で拉致された瞬間、サラディナーサの積み上げてきた未来は崩れた。
今、貴婦人の棟に戻ったとしても、不名誉の誹りは免れない。元の生活には戻れないだろう……
(……なんて、今更考えても仕方ないな。すでにこうなってしまったのだから)
サラディナーサはベッドの上で身を起こし、ふっと笑った。
目覚めは悪くない。頭がすっきりしている。
攫われた身で、しかも男がいる部屋で、ずいぶんしっかり眠れたものだ。
意外と私は豪胆だったのだな、と可笑しい。
昨晩のヴァンとのやり取りのせいで、力が抜けたせいかもしれない。
お人好しな男。
王太子の命令があればどんな非道も行うのだろうが、あの男の意志でサラディナーサを害することはなさそうだ。
むしろあの男はサラディナーサへの罪悪感でいっぱいで、世話をしたい、望みを叶えたい、と言う。
ならこちらが、囚われの身だからと怯えて肩身を狭くしている必要はない。
好きに楽に、私らしく過ごし、あの男に存分に世話させてやろう。
フランが待てと言った期限まであと2日。
その時が来たら全部、終わらせればいい。
──不思議。何かから解き放たれたような、晴れやかな気持ちだ。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
兄妹は長椅子に並んで座って何やらしていた。
兄の方は今日もしっかり騎士服を着て、眉を寄せて何かを読んでいる。
ちゃんと着替えはしてるのだろうか。
妹の方はテーブルに裁縫道具を並べて、何かをちくちく縫っている。
「リーサ、何を縫っている?」
明るい声で尋ねると、リーサはパチパチと瞬きをし、それからにっこりと笑った。
「これはね、王女様の今日の服をアレンジしているの」
リーサは手にした青い服をひらりと広げてみせた。
おそらく元はシンプルな青一色のワンピースだったのだろう。スカートの左右に大きな切り込みが入り、その部分に白い布が縫い付けられていた。
首元にも同じ布でフリルのような襟がつけられている。
「本当はスカートの裾に刺繍とかあればかわいいと思うけど、流石にそこまでは時間ないなー」
そう言いながら、糸を切る。
「リーサ。この布や糸はどうした?」
「これはね、ここで時間があったら仕事進めようと思って職場から持ち出してきてたの」
「いいのか?私の服に使って」
「いいんだよお。王女様のお洋服に関わるなんて、滅多にない機会だもん」
「そうか」
サラディナーサは納得して頷いた。
「もうちょっとで出来るから、先に朝食にしようよ。王女様は寝間着のままで悪いけど」
「構わない。気にしないよ」
長椅子で二人の会話を聞いてたヴァンが無言で立ち上がって、扉の向こうに出ていった。
「…あれは食事を取りに行ったのか?」
「そうだと思うよ」
「あの男は…、すぐに自分で動くな」
「あー、そうだね。腰が軽いって言うの?お兄ちゃんは実家でも、ちょっとした用事でちょこまか動いてたなー」
サラディナーサは想像してみる。
使用人のいない質素なダイニングで、ちょこまか動くヴァンを。
「…ふぅん。あれが素なのか」
「うちのお父さんもそうだから、お兄ちゃんも自然にそうなったのかなー。うちは女の方が偉い家なんだー」
リーサがくすくす笑い、サラディナーサが目を丸くしたところで、ヴァンが戻ってきた。
両手にトレーをひとつづつ持ち、その上には湯気の上がる皿が載っている。
リーサがすぐに立ち上がり、ひとつトレーを受け取ってテーブルに置くと、二人は、それはそこ、これはそっちなどと言いながら、セッティングをした。
それはまるで一般家庭の日常の風景を見るようで、サラディナーサは二人の動きに見入った。
朝食は、白いパンと、とろりとしたスープ、リンゴだった。
「うん、美味しい。ミルクとすりおろした野菜が入ってるのかな?料理人がいるってすごいね!ここ来て得しちゃった!」
リーサが元気に言うので、サラディナーサも同意した。
「そうだな。料理の専門家がいるというのはすごいな」
「え?宮殿だと普段から料理人のつくるものを食べてるんじゃないの?」
「貴婦人の棟に専門の料理人というのはいない。下女たちが作ってる」
「そういうもんなんだ。いっがーい!」
わいわいと話しながら食べていると、いつの間にかスープの皿が空っぽになっていた。
リーサとの席が楽しかったせいもあるが、食べやすいメニューだったせいもあるだろう。
食べ終わると、どっちからともなく兄妹がさささっとテーブルの上の皿を重ねてトレーにのせ、ヴァンがそれを部屋の扉の外にいる誰かに渡した。
それから、リーサが再び布を広げて縫い出すのをサラディナーサは近くで見学することにした。
リーサの手が滑らかに淀みなく動き、糸がくるくる舞う様は見ていてなかなかに楽しい。
「王女様は針仕事はしないもの?」
「幼い頃、少し教わった。けどそれほど興味が持てなかった」
リーサは手を止めずに言った。
「結婚する時とか、子どもが出来た時とか、いろんな布が必要じゃない。そういうのは自分では作らないの?」
リーサの無邪気な質問をサラディナーサは微笑ましく思った。
貴婦人の棟で、王女の結婚についてサラディナーサの前で口にする者はいない。
「結婚するつもりはないからな」
「…そうなの?」
「リーサは?結婚したい?」
「え、わたし?」
リーサは一瞬手を止めて、すぐに再開した。
「結婚は憧れてるよ。でも好きな人じゃなきゃ嫌だ」
「恋愛結婚か…」
リーサの家は本当に自由な家風らしい。
恋愛結婚じゃなきゃ嫌だ、と言えるリーサは幸せ者だが、恋愛結婚の多くが碌な結果にならない、という知識がサラディナーサにはある。
それを口にしない分別もあるが。
(ん?まさかリーサが結婚したい人って…)
サラディナーサがとんでもない可能性に気がついた時、
「かんせーい!」
リーサが叫んだ。
「うんうん。いい感じ!ね、着てみてー」
「ああ」
サラディナーサは手を引かれて仕切りの向こうに引きずり込まれ、寝間着を頭からずぼっと脱がされた。
昨日と同じように包帯を変えたあと、リーサ作の衣装を頭からずぼっと着せられた。
それから腰に黄色いリボンを巻かれる。
「ぴったり!あとは髪かな。みつあみにしていーい?」
リーサは手早くサラディナーサの髪を左側にまとめて緩く編んでいった。一部切られて短くなった箇所もうまく編み込み、わからないようになっている。
それからどこから持ってきたのか、白いひな菊を髪に刺した。
「きゃあ〜、王女様!かわい〜い!ね、お化粧もしていい?」
リーサはひどく興奮している。
一度女がおしゃれ関係で興奮し始めたら満足するまで止まらない。それを嫌というほど知っているサラディナーサは素直に頷いた。
「見て〜、お兄ちゃん!」
リーサがサラディナーサを仕切りから引っ張り出した。
「‥‥‥こりゃまた」
ヴァンが二の句を継げない、というように言った。
サラディナーサはちらりと化粧台に映る自分の姿を見る。
「これは見たことのない可愛さだな」
自分がではない。リーサの服が、だ。
ワンピースは刺繍も大した飾りもないが、青と白と黄色の色使いが目新しい。白い布でかさ増しされたスカートが綺麗なシルエットを作っていた。
ウエストをリボンで締めているので、腰のラインが際立つ。
化粧は濃く塗りたくるのではなく、淡い色をポンポンと置く自然な感じで、素肌は明るく、目つきは柔らかくなったようだ。
「王女様はキリッとした綺麗系って感じだけど、かわいい系も似合うねー」
「そうか?」
サラディナーサはスカートをくっくっと引っ張った。
着替えが終わったところで、サラディナーサは起きた時から考えていたことを口にした。
「私はこの部屋に飽きた。部屋の外に出てみたい」
ヴァンは眉を寄せた。
「言いたかないが、王女様は今俺らに囚われてる立場なんだけど」
リーサがお兄ちゃん…とじとっと睨んだ。
サラディナーサはフフと笑う。
「逃げようとか考えているわけではない。ただ、ずっと部屋にいるのも窮屈だ。監獄の虜囚でさえ散歩が許されると聞いているぞ」
「…なんで王女様がそんなこと知ってんだ?」
「私は知識だけは豊富だ」
サラディナーサは胸を張った。
「いや、けどな…」
「別にこの建物の外に出たいというわけではない。今自分がいるところを見てみたいのだ。なにせ私は宮殿より出たのが初めてなのだ。宮殿ではないところがどうなってるのか見てみたい!」
「なんか今日の王女様、変に明るいな…」
ヴァンが呆気にとられたように言った。
「お兄ちゃん!いいじゃん!」
リーサがサラディナーサの援護に入った。
「こんだけ騎士たちがいるんだから。滅多なことはおきないでしょ?」
「いや、騎士がたくさんいるから問題なんだけどな…」
ヴァンが困り果てたように呟く。
サラディナーサは目を細めて言った。
「私は大人しい囚人ではないか。望みを叶えてくれるのではなかったか?」
ヴァンはうっと顔を強ばらせ何やら考えていたが、やがて頷いた。
「あーあ。王女様のお望みを叶えられて、嬉しいなあ。…けど、すぐ側で下手なことしないように見張るぞ。なんかあったらすぐ部屋に戻ってもらう。いいか?」
次回、邸の探検。