アリエッタ
借りたばかりの大きすぎる衣服を引きずり、ぽっこりと出たお腹をさり気なく手で隠して、アリエッタは数歩進んだ。
教わったとおりに顔を伏せたまま、跪く。
「お初にお目にかかります。女王陛下のお慈悲を賜りまして、こちらにお仕えすることになりましたアリエッタでございます。どうぞよろしゅうございます」
緊張のあまり息が切れそうになりながらも、なんとか言いきった。
くすりと笑う息の音。
凛と響くような声が答えた。
「女王陛下の慈悲とやらでここに来たのは、この春になってからお前で三人目だ。歓迎しよう、アリエッタ」
(これがサラディナーサ王女のお声?)
アリエッタは動悸する胸で思った。
目の前にいるのは、16歳の王女サラディナーサであるはずだった。
けれど、宮殿の奥深くで女王に掌中の珠のように育てられたと聞く姫君が、このように乱暴な男言葉で話すものだろうか。
疑問に感じながら、アリエッタはいっそう深く頭を下げた。
「ありがたきお言葉でございます」
「立つといい」
許されてゆっくりと立ち上がりながら、ちらりと見た王女の姿にアリエッタは思わず動きを止めた。
頭の高いところできっちり結かれた黒髪。
緑の瞳は、遠慮のない真っ直ぐな視線をアリエッタに注いでいる。
ピンクの唇には強気な笑みが浮かんでいた。
そして驚くべきはその身につけている衣服で、
白い高襟の上衣に、足の形のわかるパンツを履いているのだ。
(何てこと。“貴婦人の棟”はこれほどに自由なの?)
女が男のような格好をするなど、アリエッタの価値観では許されることではなかった。
けれど、ここは内宮(王族の居住空間)の西にある“貴婦人の棟”。
四方を塀に囲まれ、男を受け入れることのないここでは、女が男の真似事をすることすらできるものらしい。
もちろん王女の立場あってこそだろうが。
それでもまさに女の楽園と呼ぶにふさわしい。
アリエッタは感動を覚えた。
(ここでなら、わたしも…)
様々な思いがよぎるアリエッタに王女の鋭い声が飛んだ。
「ん?お前、妊娠してるのか?」
アリエッタはビクリと震えた。
「は、はい。申し訳ございません!」
思わず手で腹を隠す。
王女は口元に浮かんでいた笑みを消して、じろじろとアリエッタの半端に隠された腹を見た。
「‥‥‥いつ生まれるのだ?」
「秋の初め頃であろうと」
付き添いの侍女頭が答えた。
王女は頷き、続けて尋ねる。
「ここで生むつもりか?」
「お、王女様のお許しをいただけますならば」
アンリエッタはぎゅっと膨らんだ腹を抱きしめるようにして答えた。
ここで王女に拒絶されれば、アンリエッタには行き場がない。
腹に宿る我が子の為なんとしても、許す、の一言をいただかなくてはいけない。
妊娠したと聞くやいなや腹を殴りつけてきた夫。
かつて初めて宿した命はそれで流れた。
今、2度目の命が同じように消えてしまうことには、どうしても耐えられない。
それで必死に逃げてきた。
頼った両親は、女たる者は子よりも夫に仕えろとアリエッタを叱りつけ、夫の元に送り返そうとした。
邸の奥からほとんど出ずに育ち、攫われて嫁がされたアリエッタには、頼れる知り合いなどもいない。
修道院に行けば匿ってくれるのかもしれないが、産んだ子どもは取り上げられ孤児院に入れられてしまうと聞く。
神でさえ、夫から逃げた“不名誉”な女と憐れな腹の子を救ってくれはしない。
すがれるものは、いつか聞いた噂話だけだった。
男のことで困ったら女王を頼るといい。
女王陛下は男嫌い。だから女の味方で、男から守ってくださる。
まさか自分がその噂を頼りに、宮殿を訪ねる日が来るとは思いもしなかった。けれど死にものぐるいになれば、人間なんでもしてしまえるものらしい。
宮殿に足を踏み入れてからこの“貴婦人の棟”に案内されるまで、いろんな人に誰何され、自分で答えたはずだが、頭が真っ白になっていて、よく思い出せない。
ただ女王から直接言葉をかけられ、よく休むようにと言われたことだけ覚えている。
そうして状況も理解もできないまま、優雅な所作の女性に連れられて大きな門を通り抜けると、急に空気が変わった。
微かに漂う甘い匂い。並ぶ装飾的な柱。綾錦の織布があちらこちらに掛けられ、鮮やかな色の迷路の中に迷い込んだよう。
廊下を行く女性たちが意味ありげな顔でアリエッタをちらりと見ては、走り去っていく。
「ここは内宮の西の宮、通称“貴婦人の棟”よ。まずは貴女は、王女サラディナーサ様にご挨拶に伺わないと」
アリエッタをここまで連れて来た女性は貴婦人の棟について、ひと通り説明した。
それによると、ここ貴婦人の棟は王妃や王女が住まう為の宮。そして今ここを実質管理しているのは、若干16歳の王女であるらしい。
アリエッタは女王によって貴婦人の棟に入ることを許されたが、更に王女の許しを得なければならない。ここで生きる為に必要な全ては、王女が与えて下さるものだから、と女性は言った。
まして子を産むなら大変な準備が必要だ、と。
「王女様は誰にでも甘い顔をする方ではないし、きつい言葉使いをなさるから、少し怖いと感じる者もいるわ」
その情報だけで震え上がってしまったアリエッタだ。
「けれどよく話を聞いて下さる優しい方よ。心を込めて誠実にお願いすれば、悪いことにはならないから」
そう言って彼女はアリエッタにとりあえずの身支度をさせ、王女の前に連れていったのだ。
(心を込めて誠実に…)
アリエッタが言葉を尽くしたところで、どうなるだろう。
子を宿すどころか結婚もしていない姫君に、この切実な想いがわかってもらえるとは思えない。
夫から逃げるという大罪を犯しても子を守りたい、という気持ちを肯定してもらえる訳がない。
それで構わない。共感なんていらない。
ただ王女が一言、許す、と言いさえすれば、アリエッタは救われる。
両手を組み、震える声で慈悲を乞う。
「ご、ご迷惑はおかけ致しません。どうか…」
「赤ちゃんか!楽しみだ」
明るい声が聞こえてアリエッタは顔を上げた。
サラディナーサはアリエッタではなく、隣に立つ侍女頭を見て言った。
「奥の静かな部屋を用意してやりなさい。どうせ着の身着のままで来たのだろうから、必要なものは与えてやるように。布を大量にな。裁縫も手伝ってやるといい」
「心得てございます」
侍女頭が答える。
サラディナーサは頷き、呆然とするアリエッタに向かってにこりと笑った。
「アリエッタ、心配するな。この貴婦人の棟で出産するのはお前が初めてではないからな。赤ちゃんがいるのは良いものだ。皆が明るくなる」
「は、はいっ」
サラディナーサの表情はうきうきと嬉しそうで、言葉に裏があるようには見えない。
(子どもがお好きなのかしら…)
アリエッタはドキドキしながら恐る恐る確認する。
「こちらで産む事をお許し下さるのですか?」
「当然ではないか!出産は尊いもの。お前はお前が望むところで産めば良い」
アリエッタは強張った体の力が抜けていくのを感じた。
へなへなと床に座り込んでしまったアリエッタを王女は驚きの目で見て「衛兵!」と呼ばわった。
「彼女を落ち着ける部屋に連れて行って、白湯でもあげるといい」
「はいっ」
扉の前に立っていた赤毛の人が返事をした。
大柄でたくましく、一瞬男性のようにも見える。けれど胸の膨らみを見るに女性だった。
(あ、この方もパンツを履いてる‥‥‥)
彼女はずかずかと近づいてきたかと思うと、ひょいと無言でアリエッタを持ち上げた。
突然横抱きにされたアリエッタは、咄嗟にその体にギュッとしがみついてしまった。
王女はフフと笑った。
「彼女は女性衛兵の中で一番のちから持ちだから、安心して運んでもらえ。ではな、アリエッタ。後のことは後。今はしばらく休め」
あっさりと言った王女の言葉には、これまでもアリエッタのような女性をたくさん見てきたのだろう、と思わせるものがあった。
女王も王女も休めと言う。
そんなに疲れて見えるのだろうか。
(ああ、少し疲れてるかもしれない)
赤毛の女性に抱き抱えられたまま廊下を移動し、ゆらゆらとした揺れを感じていると、頭が異常に重くなってきた。
けれどまさか人に抱えられたまま意識を失うわけにはいかない。
アリエッタは頭を振って、なんでもいいから話さなければ、と自分を抱えてくれている女性に声をかけた。
「あの。衛兵様はなぜ殿方のような服装をされているのですか?ここではそれが普通ですか?」
「これは女性衛兵の制服だ」
王女に似たぶっきらぼうな言葉が返ってきた。
「そ、そうなのですね。では王女様は…」
「あれは単に趣味だ」
驚くほど明快な答えだ。
「そ、そうなのですね…」
女性はアリエッタを抱えたまま何の負荷も感じないように階段を登っていく。
本当にちから持ちだわ、とアリエッタは感心した。
こんなにちから持ちなら、男性にも負けないのかもしれない。
世の中にはこんな強い女性がいるのだ。
こんな人に守られている王女は、きっと何の不安もなく、なんら辛い目に合ったこともないだろう。
なんて羨ましい‥‥‥
思わず分をわきまえないことを考えてしまい、アリエッタはまた頭を振った。
「あ、あの。サラディナーサ王女様は素晴らしい方ですね」
「どういうところが?」
仕える王女を褒められれば喜ぶと思ったのに、冷たく聞かれてしまった。
アリエッタはわたわたと答える。
「あ、あの。わたくしなどを、事情も聞かずに受け入れて下さって…」
「‥‥‥事情など聞く必要もなかったんだろう」
「え?」
どういうことか聞こうとすると、女性はくっと廊下を曲がり、扉のない小さな部屋に入った。
「ついた。ここで過ごすといい」
部屋の中のベッドに降ろされ、回りを見回す。
実家や夫の邸の私室と比べると、だいぶ狭くて殺風景な部屋だ。けれど窓からは外の光が入ってくるし、見た感じでは清潔に整えられている。
これなら充分だわ、とアリエッタは思った。
「ええと、白湯だっけ?小間使いに運ばせるから、とりあえず横になってて」
そう言うと、女性は自分の仕事は終わったとばかりに背を向け、とっとと部屋を出ていった。
「あ、あの。運んで下さってありがとうございます」
掠れたようなアリエッタの声は多分届かなかった。
ひとりになり、ドッと迫る疲労感に耐えきれず、倒れるように横になった。
白湯を待たないと…、
考えないといけないこともたくさん…、
いろんな事がよくわかってないし…、
朦朧とした意識の中で思考がから滑りしていく。
その時、ポコポコとお腹の中で子が動いた。
(ああ、良かった、本当に良かった…)
アリエッタは優しく腹に手を当て、そのまま意識を失った。