1 山神様の怒り
時は古代、場所は現在の奈良県桜井市付近の美和山という山の辺の集落が舞台である。
僕は村の長老に呼ばれた。
長老と言っても僕の祖父だ。
前に出ると、長老は白い顎ひげを指ですきながら僕を見て言った。
「タケルよ、亜月とはどこまで進んでいる」
「進んだと申しますと」
「決まっておるだろう、やったのか、やっていないのかを訊いておる」
「何もしておりません」
「本当だな」
「何でそんなことを訊くんですか」
「山神様がお怒りなのじゃ」
「山神様が?」
「そうだ。献上するお酒に不純なものが混ざっておると、いたくお怒りのご様子なのだ」
「祭りは明後日ですよね」
「そうだ。何事もなければよいのじゃが……」
長老は不安げな顔をして言った。
僕が長老のところから出てくると、亜月が心配そうに駆け寄ってきた。
亜月は白装束に赤い袴を履いていた。
「ねえ、長老から急に呼ばれて何があったの」
僕は本当のことを言うかどうか迷ったが、言うことにした。
「亜月としたのかと訊かれた」
「何を?」
亜月はキョトンとした表情で訊き返した。
「だから、その、あれだよ」
「あれって……。やだ」
亜月は急に頬を赤らめた。
「そんなこと……」
亜月は神社の巫女だった。
そして、巫女の仕事は山神様にお供えする口噛み酒を造ることだった。
口噛み酒とは文字通り、米を口で噛んで吐き出して、唾液の作用で発酵させて造る酒のことだ。
処女の巫女がそうやって造る口噛み酒は神聖なものとされ、神様の飲み物とされていた。
代々村では神に選ばれた未通女が巫女になり、お祭りで神様に献上する口噛み酒を造ってきた。
「なんで、そんなことを訊くの」
「山神様がお怒りらしい」
「でも…」
そこから先は言わなくても分かっていた。
僕と亜月は幼馴染みで将来を誓い合っていた。
亜月が巫女を引退したら、嫁にもらうつもりだった。
だが、僕だって長の家の長男だ。
神事が何たるかも知っている。
いくら亜月のことが好きで、抱きたいとい衝動があっても、巫女でいる間はそれを抑えるだけの分別はあった。
山神様のお怒りは、僕らが原因ではない。