1999年9月 ホータン カシュガルの印象
シルクロードの、昔の雰囲気を味わいたい方、どうぞ、御覧下さい。弾圧の気配が、まだ、あまり目立たない頃の話です。
9月22日朝、ウルムチからホータンに向かう。 プロペラ双発の中型機である。
右の窓際だったので、雪をいただいた天山山脈が、朝日に、山肌の凹凸を、陰影として、クッキリ描いているのが、よく見えた。これが、天山山脈かあ!
タクラマカン砂漠に差しかかると、さすが、「死の世界」という名前がぴったり似合う無機質な平面が、眼下に続く。水の流れた跡は見えても、水はない! 草木もない!
これだけ広大な土地が緑化出来たら、地球にとって、人類にとって、どれだけプラスになることか。
つい、そんなことまで考えてしまった。
それでも、飛行機だから、ひとっ飛びで済んだ。
三蔵法師は、こんな所を、長い時間をかけて、テクテクと歩いていたのだ。なんと恐ろしいこと。すごいこと!
ホータン飛行場は、漢字で書くと、「和田机場」となる。 ちょっと大きな農家かな? というくらいの建物に、そう書いた看板が掲げられている。
飛行機から降りた私たちは、その建物には向かわず、横の駐車場まで、ぞろぞろ歩いて行く。日本製の、やや小ぶりなバスが待っていた。
ホテルに着いて、荷物を置いてからから、市内観光ということだった。
割り当てられた部屋に行って見て、まず驚いた。カーテンレールが はずれて、カーテンが落ちかかっている。同室になる、身軽な弟が、片手で、窓枠につかまりながら、もう一方の手で、金具を曲げたり、ひねったりしながら、やっとのことで、カーテンをかけられるようにした。ガイドは、1年前に改修して、キレイになったばっかりだと言っていたのに。
ついでに言えば、このホテル、この夜、停電もあった。時間的には、10分ぐらいの短いものだったろうが、風呂に入っていた女性たちが、闇の中で、キャーキャー騒いでいる声も聞こえていた。
最初の観光ポイントは、街の東はずれの白玉河。
崑崙山脈から、玉石が流されて来るので有名な河だ。ぜひ一度は、この目で見ておきたいと思っていた所なので、感動した。雪解け水が多い時には、橋脚の上に届くくらい、ごうごうと流れるというのに、今は、水たまりが、ポツリ、ポツリと残っている程度。もちろん玉石など、取り尽くされて、見つかるはずはない。
シーズンには、連日、ものすごい数の人が水の中まで入って、売れそうな玉石を探したというのだから、もう、いいのが残っているはずはない。材質はともかく、見た目、ボールのようにまん丸になっている石が多い。高い山から、何十キロも、激流の中を転がって来た石だ。すっかり角が取れて、かわいい、丸になっている。野球のボールくらいのを2個拾って、記念にもらって来た。いま、本棚に飾っている。
風で飛ばされて来た砂が、雪のように たくさん積もっている所に、一家で、シルクの織物を作っている小工場があった。
熱湯で繭をゆでて、その繭から、蜘蛛の糸のようなシルクの糸を引き出す。よりをかけながら、それを糸車に巻いて行く。映画「ああ、野麦峠」で見た通りのことが、ホータンでは、今、強烈な匂いと熱気の中で、この目で確かめられるのだ。そうして紡ぎ出された糸を、一家の他のメンバーが、1日10時間、目と、神経と、手と、足とを総動員して、織物や服などに、組み上げて行く。
明治の日本でやっていたようなことを、ホータンでは、今、目の前で、やってみせてくれるわけだ。
織物の、鮮やかな色彩と紋様。
この文化を支えているものは、まぎれもない、強い、強い生活力、生命力。
庭に放し飼いにされているニワトリまでが、生き生きとしている。
繭の中の虫を常食しているらしいニワトリを見て、「この名古屋コーチン、さぞかし、うまいやろうなあ」と言っていたツアー・メンバーもいた。
桑の木は、その葉で、蚕を育てるだけじゃない。木の皮の繊維質を使って、紙をつくっているところもあるという。紙を作るには、水のきれいな所がいいという先入観を持っていたから、どんな作り方をするのか不思議に思っていたら、果たして、サラサラ流れるきれいな水なんか使ってはいなかった。もう腐っているような異臭のする たまり水の中で、パルプをかき回して、それを漉き取って乾燥させるという作り方だ。100枚まとめて買うと安くなるとか言って、書道好きな人のために、おみやげに買い込んでいる女性もいたが、私は、そんな気、まったく起きなかった。
玉石工場は、本場のものとしては、あまりに粗末というか、チャチというか、がっかりした。
しかし、売店では、「ホータンで買った」ということに意味があるだろうと思って、ネックレスを2本買った。始め、540元と言っていたが、ガイドのマホメットさんの一言で、400元になった。
文物展覧館は、古い、小さな建物の2階にあった。施設が貧弱なのに、古銭やミイラなど、希少価値の高そうなものが、かなり。 こんな管理の仕方で大丈夫かいなと、いささか心配になった。
シャワーの金具が壊れた部屋で、それでもお湯を使って一泊した次の日(23日)の朝、食堂の丸テーブルで一緒になった松尾さんが、83歳というお年の割に、とてもお元気で、今でも、50CCのバイクで、泊まりがけで、通潤橋を見に行ったりするという話を聞いた。私も、つい先年まで、バイク通勤をしていた。バイクのいい所も、悪い所もよく分かる。共感の意をしめしたり、変わった食材に首をかしげたりしているうちに、ふと気がついたら、その松尾さんが、イスを くっつけて並べた所に、仰向けに寝ている。幸い、メンバーに、医師の馬渡先生がおられて、奥様と共に、容態を見守っておられる。
脈が弱くなったり、おでこが冷たくなったり、一時的には、意識が薄れてしまったこともあったらしい。処置がよかったからだろう、じんわりと回復して来たようだ。
馬渡先生が、「右手を握ってご覧」と言うと、その通りに反応出来るようになった。
意識がはっきりしてくると、松尾さんも、カシュガルに行きたがった。
「カシュガルに行くために、このツアーに参加した。カシュガルに行けたら、そこで死んでもいい」と言ったらしい。「日本だったら、即入院というくらいの症状ですよ」という馬渡先生の説得で、ようやく自重することになった。あとは、中国側の医師やガイドなどに託して、バスに乗る。
タクラマカン砂漠の西南端を回って行くような一本道を西へ向かう。GO GO WEST だ。
砂漠ばかりで、トイレもないというので、1回だけ、バスを停めて、男性は車の右の方、女性は左の方で、用を足してくれということも経験した。
ほとんど砂ばっかりという世界に、ポツポツと緑があって、それがオアシスだ。
名前だけは知っていて、一度は行ってみたいと憧れていたヤルカンドも、その一つ。中でも、大きい方のオアシスだ。そこで、昼食休憩があった。
鯉のように大きな魚が、丸まんまで料理されているという皿があった。取り分けて頂くわけである。
食堂の端に生け簀があって、大ナマズのような魚が十匹ぐらい泳いでいたから、その中から取り出して調理をしたんだろうと話しながら、ひょいと、その水槽の方を見ると、魚がみんな、白い腹を上にして、呼吸停止状態になっている。停電のため、空気を送るポンプが動かなくなっているものと思われた。そういえば、手洗いの水道も出なかった。ウェイトレスに、あの魚をどうにかしてやったらどうかと、日本語で言ったが、ウェイトレスは、どうしょうもないという表情で、動こうともしない。こういうのが、中国流というのかなあと、昔、本で読んだ、「没法子」(メイファーズと読んで、どうにもしようがないという、あきらめの気持ちを表す。過去の中国人がよく使った言葉)という言葉を、チラッと思い出した。
ポプラ並木のバザールでは、驢馬の荷車が、たくさん行き交って、まだ、毛皮が付いたままのような生々しい羊の肉には、わんわんと、蝿や吸血性の蜂が、たかっているところも見た。たくましい生活力に、ただ、ただ驚嘆するのみであった。
そういえば、荷車の左右に、ポプラの幹みたいな巨木をドカンと積んで、その真ん中に、沈み込みそうな小さな驢馬が、その荷車を、首を振り振り 懸命に引いている場面を何度も見た。
「今度生まれて来る時は、驢馬にだけは、なりたくないなあ」と言う声が聞こえたら、「オレの前世は、人間だったとか、驢馬には分からんよ。そんな来世のことまで心配する必要はないよ」という反論も聞こえた。
驢馬は、哀愁を帯びた顔立ちもかわいいが、今風に言えば、何より、環境にやさしい交通手段ではなかろうか。石油を消費しない。排気ガスを出さない。たとえ交通事故を起こしても、あのスピードでは、相手を死に至らしめる心配は、まず、ない。車検も、強制保険もいらないだろう。日本でも、驢馬復権とは、行かないものか。
カシュガルでは、いわゆる、「香妃の墓」にも行った。最初、時間外だと言われたが、ガイドが交渉して、中までも見せてくれた。イスラムでは、死者をどう遇するかという発想、風俗などが、極めて具体的に眼前に展開されていて、来た甲斐があったと思った。
次の、モスクでは、男たちの礼拝の真剣さに、特に、足の不自由な老人の姿に、シャッターを何度か押した。宗教の本質の一端が見えたような気がした。
まったく逆の意味で、日本人観光客を特別扱いして、礼拝堂の中まで入れてくれた高僧らしき人物にも、宗教の正体を見たような気がした。
24日、カラクリ湖も、道中は、えらい長かったが、川沿いを上って行くにつれて、景観が変化して行くのが、とても新鮮だった。赤い岩山、黒い岩山、白い砂が雪のように見える山、本当に、雪が積もっている山。
駱駝の群れが草をはんでいる。 羊の群れが、悠々と道を横切って行く。
キャラバンサイトの跡が残っている。馬にも、またがった。
強い風が、下から小便を吹き返して来るような構造のトイレにも行った。
一番不思議に思ったのは、上流には、湖や沼があり、ごうごうと濁流が流れているのに、その水が、いつのまにやら、砂に吸われ、痩せ細って、消えて行くということ。
知識としては理解出来るが、現実に見てみると、やはり、不思議な気がする。
この水が伏流して行って、やがて地表に顔を出すところが、いわゆるオアシスになるのだろう。
中国の、特にシルクロードの、一番いいところは、自然が自然のまま残っている点であろう。
人間が変に手を加えない自然のままが、一番 感動的だ。敦煌あたりになると、手を加え過ぎて、月牙泉の囲いなどは、むしろ、見たくないものを見せられたような気がした。
バザールや街頭、あるいは畑や草原などで見かけたウイグル、タジクの人々の、いかにも素朴な姿は、何か、心が洗われるような気さえした。とくに、子供は、みんなかわいい。ヒゲの老人もいい。
欧米の女優よりも、顔立ちが整っているんじゃないかというような、若い女性も、何人もいた。
しかし、私が一番心惹かれたものは、やはり、あどけない子供の姿であった。
カシュガルのホテルは、元ロシアの外交官の屋敷だったという。その、しっとりした雰囲気のホテルで、絵を買った。なんとなく、雰囲気が好きで買ったのだが、今、この絵を分析してみると、私の好きなものばかりが描かれている。
横長な絵で、驢馬が6頭、左向きに歩いている。それぞれに人が乗っている。ヒゲの老人が2人。若い女性が2人。うち1人は、幼な子を抱いている。もう1人は、タンバリンみたいな太鼓を叩いている。あと2人の男は、弦楽器を抱えて演奏している。いわゆる、「琵琶、馬上に催す」という場面である。ただし、夜行杯は描かれていない。酒は、驢馬に揺られている2つの瓢箪の中にあるに違いない。
夜のカシュガル空港で、ちょうど、中秋の名月が上がって来るところを見た。乾燥地帯だから、雲一つない空に、まん丸い月が、クッキリと見えた。
カシュガルの名月!
言葉で言うと、最高に素晴らしい!
が、現実に見ていると、何か、物足りない、
そこで、ためしに、名月に、ポプラの枝が、ちょっとかかる位置まで移動してみた。
ああ、これこそが、カシュガルの名月だ! という、構図が完成した。
兼好法師の、花と月に対する哲学と一脈通じる感慨であった。
ヘア・ヌードよりは、チャイニーズ・ドレスのスリットの方に、むしろ色気を強く感じるという心理に近い。
飛行機では、左の席だったので、月は見えなかった。着陸したら、今度は、ウルムチの名月を見ようと、楽しみにしていたが、着陸する寸前から、窓に、かなりひどい雨滴が流れ始めた。
乾燥地帯でも、雨が降るのか。そういえば、天山山脈の雪も、おおもとは、水分なんだからなあ。
とうとう、ウルムチでは、中秋の名月は、見られないままであった。
民族差別など、弾圧の色が、あまり目立たない頃の雰囲気、楽しめましたでしょうか。