一つの暗闇
毎週土曜日の夜、1万文字以上、2万文字以内程度の百合短編を挙げさせていただこうかなと考えております。
今回は、企画に沿って、『隠れんぼ』を主題としたお話となっております。
少々文量が長くなってしまいましたが、楽しんもらえると幸いです。
では、拙い文章にはなりますが、週末の暇つぶしにでもどうぞ!
毎年、梅雨の時期になると、決まって見る夢がある。
それは例年、月に雲がかかったように朧気で、ジューサーで混ぜたようにバラバラな記憶としてしか頭に残らなかったが、それでも毎夜、明確な違和感を残していた。
しんしんと降る雨を呼び声としてやって来るその夢は、いつも白と黒のモノクロームで、ずっと昔のテレビの映像に似ていた。さらに、音がないサイレント映画みたいかと思うと、ところどころでノイズが混じって、不意に音が返ってくる、というのが繰り返されるといった具合だった。
何かを暗示しているのか、記憶の断片が見せている物語は、何かを訴えかけているようにすら思える。
全ては予感だ。あるいは、ただ、そう思っている、という感想にすぎない。
だが、今年見た夢は違った。今までみたいにぼんやりとした情景のものではなかったし、それどころか、夢の中のはっきりとした意識を持つ自分と、目が覚め、ベッドの上でぼうっとしている自分のどちらが夢を見ているのか分からないほどだった。
普段なら、ワンルームの端で目覚めた後、覚束ない足取りで珈琲を入れているうちには、もうまともに思い出せなくなるような夢だった。だが、その日は、天井を見つめるより早く、意識が暗闇の最中にある間から、その内容を鮮明に思い出すことが出来た。
夢の内容はこうだ。
気付いたら、私は角張った岩の塊に腰掛けていた。座り心地の悪さが私の意識を引き戻す。
電源の切れていたテレビを点けたときのような、唐突な始まりがそこにはあった。
足元には、舗装されてもう随分経ったらしいアスファルトと、背の低い雑草が生い茂る土が広がっており、その境界には地蜘蛛の縦長い巣が点々と張り巡らされていた。
目の前には、黄昏を物語る寂れた灰色の建物が静かに立っており、壁のほとんどの面に血管みたいなひび割れが走っていた。ここから見える入り口の奥も、雑草や塵でいっぱいになっていて、どこから入り込んだのか木の根すらも見える。
元は宿泊施設か、病院か、それとも介護施設か何かだろうか。出入り口には細いスロープと手摺りが設けられていた。
夕闇に佇む廃墟の入り口には、電球が粉々になって、役目を果たせなくなった照明がある。さらにそのそばには、窓としての役割の一切を放棄してしまった大窓がいくつも並んでいた。
とにかく、この建物は時の流れに呑まれ、人の手から逃れることが出来たようであった。代わりに、元から近くにあった、大いなる自然がなぞる指先の影響を最大限に受けて、文明から切り離されつつあった。
自分は、一体何をしていたのだろうか。もうそろそろ帰らなければ、両親に怒られてしまう。
山背に溶け込みつつある夕日を眺めながら、そんなことを考えていると、不意に、ピアノのような高い声が聞こえてきた。
岩に座したまま、声のしたほうをゆっくりと振り返る。すると、古びた建物の中に小学生ぐらいの少女が立っていた。
白いワンピースを着て、蒸し暑い夏の原風景を思い起こさせるその少女は、大きい黒目がちの瞳でこちらを見つめていた。
薄闇の中に立っているためか、ハッキリとは顔が見えないものの、どこかで見覚えのある顔だった。
視線が交差した直後、彼女は今にも消えそうな儚い微笑を浮かべながら言う。
「今度は、私の番だね」
その言葉の意味が分からず、問い返そうとするも、少女は顔を両手で覆ってしゃがみ込んで、なにやらカウントダウンを始めた。
「ちょっと、君…」
困惑した面持ちで声を上げ、立ち上がる。その拍子に、岩の影に置いてあった何かに爪先がぶつかる。
「あ…」
自分が蹴飛ばしかけたのは、二つの赤いランドセルだった。
倒れた際に蓋が空いたのだろう、中から教科書が零れ出ていた。ランドセルの側面にくくりつけられたピンク色のキーホルダーには、昔、流行していたキャラクターが描かれている。確か、自分も好きだったはずだ。
それを思い出した瞬間、ここが何処なのかを理解した。さらに言うと、あの少女が何者かについても予想がついた。
自分が小学生の頃、家へ真っ直ぐ帰るための道を大きく逸れて、友達何人かで寄り道をしたことが何度かあった。
信号も一つか、二つかしかない田舎の町だったので、少し山道を登れば、無邪気で好奇心旺盛な子どもにとって最適な遊び場がいくつもあった。
ここはそのうちの一つで、ずっと前に潰れた小さな旅館の跡地だ。
当時の自分たちが、親に怒られながらもその場所でしていたことも、今、ハッキリと記憶の底から引きずり上げることが出来た。
隠れんぼである。
客室や風呂場、宴会場などの建物中はもちろん、表の庭もだだっ広く、隠れる場所には全く困らない格好の建物だった。
学校の中とは違う、形容しがたいスリリングさ、不気味さも確かに存在したものの、常に五、六人のグループで行動していたこともあって、むしろ良いスパイスとなって子供心を魅了した。時折、気味の悪い虫や蛇、蜥蜴が姿を現すこともあったが、それもまた一興だった。
自分が今見ているもの、やっていることを思い出したとき、過去と現在の扉が繋がった。簡単に言うと、これが夢だと認識したということである。
いわゆる明晰夢だ。
何かの回路が切り替わったかのように、自由に自分の体が動き始めたような気がした。
それを確かめるためというわけでもないが、散乱しかけた教科書を置き去りにし、しゃがみ込んだ少女のそばまで近寄った。
「藍花、あの…」と少女に声をかける。
この少女は、喜多川藍花。私がまだ小学生の頃に、随分と仲良くしていた同級生だ。
家が近いわけでもなかったが、よく帰り道はこうして一緒になって遊んでいたものだ。しかし、彼女は小学校六年生の六月頃に、親の都合で転校することになった。
確か、最後の日もこうして隠れんぼをしていた気がする。
後一年で卒業なのに、その残り僅かも一緒にいられないのかと藍花を問い詰め、酷く困らせていたのは覚えている。別れがあまりにも惜しくて、随分遅くなったというのに引き止め、ここで隠れんぼをしようと自分が言ったのだ。
ずっと見つけられなければいいのに、と子どもながらに、どうにもならない運命から目を逸らしていた。
声をかけられた藍花は、明らかに不服そうな顔でこちらを見上げた。夕闇を頬に映して、眉間に薄っすらと皺を刻んだ顔が、いかにも少女らしい。
「何で隠れてないの?友梨佳ちゃん」
じっと、藍花は私を――藤堂友梨佳を見つめた。
「えっと…、藍花、そろそろ帰らないと…」
「駄目だよ、友梨佳ちゃん」意思の弱い印象が残っている藍花が、そう強く断言したのが意外だった。
「今日は、最後の日だから」
「最後の…」
「さあ、今度は友梨佳ちゃんの番なんだから。ちゃんと隠れてよね」
有無を言わさぬ口調に友梨佳は、まあ、夢なのだからいつまで遊んでも構わないだろうと考え直し、藍花の言うことに従うことにした。
確か、あの日は自分が見つける側だったような気がする。
多分それで、『今度は友梨佳ちゃんの番』なのだろう。
今では幼少の頃のあどけなさなど失ったリアリストのくせに、随分とエッジが利いた夢を見るものだ。
もしかすると自分は、あの日のことが未だに心残りなのかもしれない。連絡先も聞かずに藍花と別れたせいで、その後、二度と連絡が取れなくなったからだ。
あんなに大事に思っていたのに…。
友梨佳は、暗く湿った廃墟の中に足を踏み入れた。どこから舞い込んだのか分からない枯葉たちを砕きながら、隠れ場所を探す。
ひび割れて、一部が欠けてしまっている階段。
何も並ばなくなったお土産コーナーの陳列棚。
お湯の代わりに、薄闇と夕暮れをたっぷり注ぎ込まれている露天風呂。
かび臭い畳の客室。
全てがあの頃のままだった。
違うのは、色を失っていることと、自分の感性が大人に近づき、つまらなくなっていること、そして、ここにいる藍花は、所詮は自分の心の中の残滓に過ぎないということだ。
藍花は今頃どこで何をしているのだろう。
遠くの土地で、健やかに育っただろうか。引っ込み思案で、言いたいことも口にできないような控えめな少女だったから、虐められなかったかどうかが心配だ。
なにぶん、彼女は容姿と知性は恵まれたものがあった。
儚げで、気弱で、いつも何かに怯えているような目をして、人と積極的に関わろうとしない藍花は、それこそ格好のやっかみの的だった。
友梨佳は、考え事をしながら適当な隠れ場所を選んだ。
こちらが久しぶりに建物の中を散策している間も、藍花は自分を探しに来なかった。
夢の中だからだろう、きっとこちらが隠れるまで永遠にカウントダウンしているに違いない。
その夢のシステムは、十年近く前の姿のまま静止した藍花とどこか似ていた。
木でできた、古びたドアを開ける。ドアノブが空回りして、既に役目を果たしていないのを察し、ドアノブごと引っ張った。
細い通路を数歩進むと、かび臭い畳の臭いが鼻孔に広がった。
狸か何かに引っ掻かれたのか、一部分だけボロボロになった畳の上を歩き、まだ硝子の残っている窓際から庭を見下ろした。
気付けば、雨が降っていた。空の切れ間は晴れていて、そこから夕日がまだ見えているというのに、珍しいこともあるものだ。
白黒の世界に走る、ホワイトノイズみたいに細い雨だった。
松やら山茶花やら、いかにも日本らしい木々が無法地帯のように伸びている庭には、当たり前だが、人の気配はない。鬱蒼としていて大人になった今では隠れる気にもなれないが、あの頃の自分なら、喜んで潜り込んでいただろう。
窓際から離れ、押入れを開ける。
座布団が必要以上に積み重なっているそこは、いかにも虫たちの棲家のように思えて気が引けた。
しかし、今でも外でカウントを続けている藍花を思うと、どことなく申し訳なくなって、とにかく早く隠れたほうが良いだろうと考えた。
たとえ、相手が、自分の記憶の中だけの存在であったとしてもだ。
上下に分かれた空間のうち、上のほうに体を潜り込ませ、もぞもぞと座布団の上に体を乗せる。それからゆっくりと押入れの戸を閉める。
するとやがて、体の周囲に黒壇の闇がまとわり付いてきた。皮膚の表面に浮いた珠のような汗を吸い尽くそうとする暗闇は、しばらくの間、そうして自分のそばを動かなかった。
どれくらいの時間が流れただろうか。
友梨佳がその不思議な同居人と完全に一つに溶けきろうというとき、誰かが客室の扉を開ける音が聞こえた。立て付けの悪さが感じられる鈍い音が幾度か鳴って、畳を擦る、ザッザッ、という音が聞こえてくる。
その音が近づいてくるにつれて、友梨佳の鼓動は不思議と早くなった。
藍花が探しに来ている、というのは分かっているのに。
この薄っぺらな扉の向こう側にいるのが、尋常ならざるものに思えてならなかった。
それはおそらく、このモノクロの夢が放つ、異様な寂しさがそのように思わせたのだろう。
ゆっくりと、戸が開き、段々と広がっていく隙間から、弱々しい光条がこの押し入れに入り込んでくる。
それをじっと遠くの景色でも眺めるようにして見つめていた友梨佳は、にゅっと中を覗き込んできた藍花の青白さにぞっとした。
モノクロの記憶は、まるで彼女を死人のように縁取り、本来は薄桃色をしていたはずの唇さえ、温みのない色に変えてしまっていた。
その灰色の唇が、ゆっくりと動いた。
「違うよ、友梨佳ちゃん。ここじゃない」
不服そうな、だが、酷く悲しそうな…、孤独に満ちた顔。
藍花も、押し入れも、自分も、やがては白い霧に覆われていった。そうして気付けば、夢と現実の境界を越えていたのであった。
窓を叩きつける雨の音で、友梨佳は目が覚めた。
夢と現実の朦朧としたギャップのため、一瞬だけ呼吸が詰まるような錯覚を覚えたものの、すぐに体はこの世に順応し、友梨佳に深い呼吸を繰り返させた。
どうしたことか、やけに夢が鮮明になっていた。
梅雨の時期、いつも自分に釈然としない思いを抱かせていた夢の記憶は、過去に実際あった出来事のような気もしたが、よくよく考えるとそうではない気もした。結論、夢の話など真面目に考えても意味はないのだろうが。
ベッドから下りて、珈琲の用意をする。砂糖とミルクは少量ずつで、インスタント珈琲のチープな味わいを楽しんだ。
この朝のルーティンがなければ、一日は始まらない。とはいえ、今日は大学の講義は休講だった。教授が学会に出るだとか言っていた気がするが、重要なのは休みという事実だけで、教授の予定などは頭に入れる価値もなかった。
窓際に置いてある一人用の小さなチェアとテーブルの元に移動し、その上にカップを置く。
わずかに隙間の空いたカーテンの先で、篠突く雨がアスファルトを洗い流していた。
車のエンジン音や、隣人の騒々しさを忘れさせてくれる雨の音に、ほっと一息吐きながら、夢のことを思い出す。
妙な夢だ。藍花のことなんて、顔も思い出せないほどに古ぼけた記憶だったはずなのに…。
自分の頭の中で、あんなにも鮮明に当時の彼女の様子を再現できるとは、にわかに信じられないことだった。
どうして、今更になって藍花のことを夢に見たのだろう。
とても仲が良かった、おどおどして、可愛い藍花。
彼女のことを夢で見ると、何だか急に会いたくなってくる。
藍花は、自分のことなんて覚えていないかもしれない。無理もない話だが、実際にそんなことを言われたら、さすがに傷付くだろう。
友梨佳は、何とかして藍花と連絡が取れないだろうかと、椅子から立ち上がり、携帯を手にした。ディスプレイに映る、気の強そうな瞳が気に入らなかった。
肩までもない茶髪を払って、携帯を操作する。
まずは、幼馴染のグループにメッセージを送る。
内容はシンプルで、『喜多川藍花の連絡先知ってる人―?』というものだった。
正直、一番仲の良かった自分が知らないのだから、あまり期待はしていない。ただ、親同士の付き合いなどもあるので、可能性はゼロではないかもしれなかった。
続けて、母親に連絡を取る。二週間に一回は電話で連絡を入れていたので、そのついでのつもりで呼び出しボタンを押した。
ワンコール、ツーコール、スリーコール…、ようやく相手が応答する。
「もしもし?」低く、やる気のない声。母の声だ。
「あ、もしもし、私、友梨佳だけど」
「知ってるよ、連絡先が表示されるんだから」
余計な一言が多い母で、どうやら自分もそれに似たらしかった。
「はいはい、あのさ、急で悪いんだけど、ちょっと聞きたいことがあってさ」
「何?今、洗濯物干してるんだけど」
「そう邪険にしないでよ、どうせ乾かないでしょ、この雨じゃ」
「雨?こっちは晴れてるのよ」
そんなことはどうでもいい。隣の県だから、そういうこともあるだろう。
ぶつぶつ言ってないで、要件を聞いてほしいと伝えると、母は深いため息を吐いてから、本腰を入れた様子で改めて要件を聞き返してきた。それを聞き届けてから、ようやく友梨佳も本題に移る。
「あのさ、喜多川藍花って覚えてる?」
その問いから、しばらく間があった。母は考え事をするとき無言になる癖があった。
話を聞いていないのではと誤解を生みやすい、歓迎し難い癖だ。
「ちょっと、お母さん。聞いてる?」
「…聞いてるけど、覚えてないわ」
興味の無さそうな返事に、苦笑いが零れる。
「本当?色が白くて、頭が良くて可愛い子なんだけどさぁ」
「そんな凄い子、いたら覚えてるわよ」
嘘つけ、未だに私の幼馴染の顔もろくに覚えていないくせに。
「で、その子がどうかしたの?」
「いや、藍花が今日夢に出てきてさ、それで何となく連絡取れないかなぁって…。久しぶりに会いたくなっちゃって」
母は、また十秒足らずの沈黙を横たえたかと思うと、大仰なため息を吐いてみせた。
「やめときなさいよ、向こうは覚えちゃいないでしょう」
その決めつけじみた言葉に、ムッとしながら、友梨佳は意味もなくスプーンで珈琲をかき混ぜた。明るい茶色の中心に小さな渦が出来て、泡を躍らせている。
「分かんないじゃん。仲良かったんだし」
「アンタ、忘れてたんでしょうが」鋭い指摘に声を詰まらせる。
その後、母は私の突飛ともいえる行動を繰り返し咎めると、十年以上前の連絡先なんて残していないと断言し、電話を切った。
何だよ、もう少し真剣に考えてくれてもいいじゃないか。
友梨佳は不貞腐れた様子で携帯をベッドに放り投げると、残った飲み物を一気に飲み干した。
思っていた以上に話をしていたらしく、珈琲には他人行儀な温もりだけが詰め込まれていた。
冷えた珈琲ほど、本質を損ねるものはない。
友梨佳は脱力したように肩を落とすと、カーテンの隙間から見える激しい雨をぼうっと眺めた。
夢の中の雨を思い出す。
白い、針みたいに細い雨…。
その雨粒に刺激されるようにして、目の奥がじんわりと痛んだ。
気圧の変化に弱い私の体は、雨が降るといつもこうだ。
起床してすぐは、気付かないほどの痛みなのだが、意識が覚醒するにつれて、自分の存在を主張するかのように強くなる。
しばらくすると良くなるが、それまでは集中力をだいぶ削がれるため、レポートやらテストやらがある日に雨が降ると憂鬱な気持ちになった。
こめかみに手を当て、目を軽くつぶる。そうして掛け時計の秒針が進む音に耳を澄ませていると、ベッドの上からメッセージの受信音が聞こえてきた。
すっかり聞き慣れてしまった間の抜けた音に反応し、ベッドの上に移動する。
ディスプレイを見ると、先程連絡を送った幼馴染のグループからの返信だった。
『藍花って、誰?』
無意識のうちに舌打ちが零れる。苛立った動きで文字を打つ。
『喜多川藍花。いたでしょ、私たちと同じクラスに』
『え、誰それ』と違う友達が反応する。
『みんなさぁ…。あり得なくない?私たちの学年って50人ぐらいしかいなかったのに』
辟易した気持ちで文字とスタンプを睨みつけていると、ぽん、とまた別の友達からようやくまともな返信が帰って来た。
『私は覚えているけど』つい嬉しくなって、すぐに返信する。『だよね、クラスメイトを忘れるとか有り得なくない?』
『いや、私と友梨佳は同じクラスだったけど、美月と香苗は違うクラスだったから』
しょうがない、という言葉は省略して、幼馴染の紀美が言う。美月と香苗も幼馴染だ。
『喜多川藍花って、友梨佳のお気に入りだった子でしょ?』
『なにそれ』と美月と香苗が食いついてきた。
紀美は、文字通りだと二人に説明した。
小学校六年間を通して、この四人はずっと一緒に遊んできたし、大学生になった今でも付き合いがあった。互いに少し離れた場所で暮らしていて、紀美だけが地元に残ったが、切っても切れない縁が確かにここにあった。
紀美は、友梨佳以外の三人にとって、喜多川藍花の存在は、ある種、異物であったという。
彼女は、ふらりと友梨佳と共に現れた。そして、四人で帰る時間を奪うようにして、友梨佳と帰路を共にするようになった。
当初、物静かで、今にも消えてしまいそうな藍花は、仕切り屋の友梨佳と相性が合わないように周囲からは見えていたらしく、どうせその奇妙な関係も長く続かない、暇つぶしみたいなものだと考えられていた。
だが、二人の友情は周囲が想像していたよりもずっと固く結ばれ、藍花がいなくなるまでその関係は続いていたということだった。
自分よりも当時の記憶が鮮明に残っているらしい紀美の話を聞いていると、彼女ならば、もしかすると藍花の連絡先を知っているのでは、という希望を抱いた。
『紀美、藍花の連絡先とか知らない?紀美のお母さんとかでもいいからさ』
『いや、知らないけど』
即座にレスポンスがあった。
『っていうか、連絡先も何も、喜多川藍花って、まだ地元にいるんじゃないの?』
やり取りは、既に友梨佳と紀美だけのものになっていた。美月と香苗はもうメッセージすら見ていないのかもしれない。
『え?いや、藍花って転校したよね?』
『は?』と短いメッセージが送られてくる。『私達の学年に、転校した生徒なんていないでしょ』
その後、友梨佳と紀美は何度か同じ問答を行ったが、彼女は確固たる自信を持っており、その説を覆そうとはしなかった。
『そんなわけないじゃん。だって、一番仲の良かった私が覚えてないんだよ?さすがに私も卒業したかぐらいは覚えてるよ』
紀美は、そんなこと言われても、と面倒そうに間を空けて返事を寄越したが、そうしているうちに再び美月と香苗が話に戻ってきた。
『あぁ、やっと思い出した。喜多川藍花ね。私たち四人の邪魔した子だ』
『邪魔なんてしてないよ、藍花は』
彼女を邪険にする言葉に、文字を打つ指先に力がこもる。
『友梨佳がそんな感じで、私たちよりも喜多川を優先したんじゃん』
だとしたら、それは藍花ではなく自分に原因があるのではないだろうか。
女子特有の意地汚い仲間意識が、友梨佳は大嫌いだった。
『でもでも、友梨佳って六年の最後は、絶対に私たちと帰ってたよね。秘密基地、覚えてるでしょ?』
そのメッセージに、誰も見ていないのに友梨佳は何度も頷いた。
秘密基地、確かに、それは覚えている。帰り道の川沿いに、そんな子供らしいものを作ってはしゃいでいた。
そういえば、そのときの記憶にはこの四人の姿しかない。
すると、しばらく静観を続けていた紀美がぽつりと呟くようにメッセージを送ってきた。
『ねぇ、喜多川って…、六年の途中からずっと病気か何かで休みだったと思うけど?』
『え…?病気?』そんなこと、聞き覚えがなかった。
しかし、香苗と美月は本気で覚えているのかいないのか、分からない口ぶりでその紀美の発言に同調した。興味のない話題だから、さっさと話を片付けようとしている可能性もあったが、少なくとも紀美はそうではないらしかった。
紀美が、こんな下らない冗談や、嘘を吐くとは思えない。さらに言うと、紀美は私たち四人の中でもずば抜けて頭が良く、記憶力も良かった。
普段なら、紀美がそういうならそうだろう、とあまり何も考えずに納得する友梨佳だったが、今回ばかりは違った。
その理由はただ一つ、紀美の言うことがありえないことを知っていたからだ。
『いや…、ありえないって』きっぱりと断言する。『何で?』
『だって私、藍花とお別れの日に遊んだもん』
『遊んだって、何、お別れ会でもしたの?』と少し小馬鹿にしたように香苗が言う。
『そうじゃなくて…』
友梨佳はその先を説明するのが何となく憚られた。
別に隠れんぼが子どもっぽいから、という理由ではない。
あの廃旅館で時折行われていた冒険や、隠れんぼは、自分と藍花だけの秘密だという気持ちが強かったからだ。そういうふうに約束したわけでもない。だが、それでもやはり、誰かに説明することは出来なかった。
結局、話はまとまらず、友梨佳の気のせいという形に不時着した。
当然、友梨佳はそんなことないと断固として否定したのだが、元々三人は、とりわけ香苗と美月は話にさして興味もなかったため、まだ話の続きがしたいのにも関わらず、喜多川藍花についての一切を打ち切ったのだった。
メッセージアプリを閉じてから、友梨佳は小さく舌を打った。そのかすかな苛立ちの原因は、三人にあったわけではなくて、ただ、喜多川藍花の所在が分からずじまいで終わりそうなことへの不満から来たものだった。
それにしても、と友梨佳は空になった珈琲カップを洗い場に持って移動しながら考えた。
藍花は、病欠を繰り返していた…?そんなことありえるはずがないのに。
だって、私は藍花と最後の隠れんぼをした記憶があるのだ。その鮮明な記憶が夢として蘇った今だからこそ、自分は間違っていないと胸を張って信じることができた。
だが、そうするとこれはどういうことだろう。
紀美や、他の二人が言うことが事実で、六年の途中から藍花が病気を患い、学校に来られていなかったのだとしたら…。私の記憶が食い違っている、ということになるのか。
しかし、あれはただの夢だった、と言い切ってしまうことは出来そうにもなかった。それだけリアルだった、というか、本当に自分の経験として似たようなことをした記憶があったのだ。
何だか妙なことになったものだ。
そのときの私はただ、懐かしい人に会いたい、喜多川藍花という少女が、時の流れの中でどんなに美しく成長しているか知りたい…、そう漠然と思っていたに過ぎなかった。
その好奇心が、段々と薄気味悪いものに変わり始めたのは、私がみんなに連絡を取ってから数日後のこと、窓を叩きつける強い雨の音に安らかな眠りを脅かされている夜のことであった。
ただ、一つだけ誤解されないようにしておきたいことがある。
ここでいう薄気味悪い、というのは、虫や爬虫類に感じる本能的なおぞましさでもなく、魑魅魍魎の類を想像したときに感じる恐ろしい寒気でもないという点だ。
例えるなら、グロテスクなもの、毒々しい花々から人間が自然と感じ取ってしまう、妖艶さ、儚さという美を含んだ気味の悪さであった。
廃墟の中は相変わらず、今までそこにいた誰かが忽然と消え去ったような寂寥感に満ちていた。
コンクリートの隙間から辺りを窺っているような雑草は、日の光が届いていない中でもどうにか生きているようだ。まあそれも、記憶の中の魔法かもしれない。
どんよりとした雨雲から逃れるように、喜多川藍花は廃旅館の、屋根のある入り口の下に座り込んでいた。ぽつぽつとした雨を浴びながら、彼女を見つめていた友梨佳は不意に体の自由が利くようになったため、藍花の隣に移動した。
またこの夢だ。
膝を抱え、その間に頭を半分ほど突っ込むような形になっていた藍花の眼差しは、何かを求めるように雨のカーテンの向こうをじっと凝視している。
友梨佳は、雨に濡れたままの体で彼女の隣に腰を下ろした。
その廃墟は、静かで、夏の訪れを予感させる梅雨の蒸し暑い湿気に包まれているはずなのだが、暑苦しさや雨に濡れた嫌な冷たさを感じることはなかった。ただ、体にまとわりつく鬱陶しいシャツの感触だけがやけにリアルだった。
山の向こうから聞こえる遠雷や、黒の混じった灰色の雲が生み出す雨、そして、ぽたん、ぽたんと鳴るリズミカルな雨垂れの響き。
その音と光景をぼんやり目で追いながら、友梨佳は口を開いた。
「藍花のこと、みんなうろ覚えなんだよ」ほとんど独り言に近い呟きだった。勝手に出るため息にとても似ている。「酷いよね」
別に賛同してほしかったわけではない。
夢の中の彼女は、所詮、夢。私の脳細胞が見せている幻でしかないのだから。
それでも、唐突に立ち上がった藍花が、自分の話などまるで聞いていない様子を露わにしたときには、多少なりとも不満を覚えた。
「友梨佳ちゃん、隠れんぼしよう」肩まで伸びた黒髪、目にかかった前髪の間で煌めく、暗い色の黒目。「今度は、私の番だね」
前と同じ台詞を吐いた藍花に、内心、辟易とした気持ちになる。彼女がパターン化していればしているほど、これが夢であることが強調され、思い起こされ、どこかつまらない気持ちになった。しかし、だからといって早く目が覚めてほしいとも思わない。
藍花の言葉に頷き、両足に力をこめる。彼女がそのままの姿勢でカウントダウンを始めたので、ゆったりとその場を離れる。
玄関口から受付のいないロビーへと抜け、それから階段のほうに向かう。また上のフロアに隠れようと思い、階段の手摺を握ったのだが、ふと階段下が気になり、そちらに足を向けた。
湿気を吸ってぶよぶよになった床にふらつきながら、階段の影になっている場所を覗き込む。
そこには、『用具室』と書かれた扉があった。
きっと倉庫みたいなものだろう、となれば、隠れるには絶好の場所かもしれない。
自分の頭の中に、夢を夢だと認識して客観視している自分がいる一方、真剣に藍花との隠れんぼを楽しんでいる自分もいた。
まるで童心に帰ったような感覚だったが、そうすることが自然だと、正解なのだと言われているような気がして、友梨佳は用具室の扉を開けようとした。
そうしてドアノブに触れたとき、何か、おぞましいものが自分の体を突き抜けたような錯覚に陥った。
肩から背中にかけて、全身の毛穴が大きく開き、ぷつぷつと鳥肌が立つ。
何かが私の警戒心を瞬時に高め、ドアノブを回転しようという手首の動きを完全に静止させていた。
このドアの向こうにあるものが、私を恐怖のどん底に叩き落すのではと思えてならず、慌ててドアから距離を離した。
何も、ここに隠れる必要はない。何故だか分からないものの、自分の記憶の中の場所にしては、ここは気味が悪い。
友梨佳はほとんど逃げ出すような形で、用具室から離れ、階段からも離れた。ふらつくような頼りない足取りだったが、三十秒も歩けば普段どおりを取り戻せた。
元が廃墟という不気味な舞台なのだ。こういう感覚も自然だろう。
天井のいたるところに蜘蛛の巣が張り巡らされている渡り廊下を進む。通路の両側に均等に並んだ窓は、軒並み硝子が割れていて、そこから雨粒が入り込んできていた。黒くなった床は、先程とは比にならないくらいにたわんでいて、不安になる。
その不安を紛らわすためにぎゅっと、スカートの裾を掴んだ。
そこでようやく、友梨佳は今の自分が、小学六年生の頃の姿に戻っていることに気が付いた。
夢の中なので、何でもありなのだな、と達観した心地になる。意識してみれば、視点もかなり低い。
友梨佳は、今回の隠れ場所として、大浴場を選んでいた。外の露天風呂に隠れても良かったが、雨が降っているため、それは避けることにした。
お湯のない湯船に足を下ろす。段差になっている部分に腰掛け、それからずるずると横に倒れた。塵やゴミが自分の鼻息で飛んでいくのを見送りながら、友梨佳は、大きな窓の向こう側に映った景色をぼうっと眺めた。
白黒の雨が、青紅葉の葉を叩く。何かの拍子に切り離されるひとひらの葉を目で追っていると、物悲しい気持ちになる。
雨音と、自分の鼓動と呼吸音以外は何も聞こえない。
そんな環境もまた、友梨佳をセンチメンタルの極地に追いやる一助になっていたのかもしれない。
喜多川藍花…。
私の、大好きだった友達。幼いながらも、その関係には友情を越えた感情があったことを覚えている。
当時の自分にも、そしてきっと、当時の藍花にも理解のしようがなかったこの感情を、私は今までどこに仕舞っていたのだろうか。
どこにも行ってほしくなかった。
藍花にはずっと、私のそばにいてほしかった。
…この最後の隠れんぼが、永遠に終わらなければいいのに…。確かにそう思った。
その哀れで、どうしようもない身勝手さが、今もなお私の中では息づいていて、梅雨の時期になるとこうして顔を出すのだろう。
ひんやりとしたタイルの感触を、頬に感じた。
先程までは分からなかった冷たさ、蒸し暑さが脳髄を刺激したことで、この夢は、より鮮明でリアリティに富んだ夢へと昇華されていたことが分かった。
石や落ち葉の下で息を殺して潜む虫たちのように、あるいは、屍のように、友梨佳はじっと浴槽の底に横たわっていた。
半開きになった瞳は、眠そうにも気怠げにも見えるものの、瞬きだけはしきりに行われていた。
友梨佳が浴槽をサイズの合わない棺桶のように使い始めて、だいぶ時間が経った頃、ようやく大浴場の硝子の扉が、一瞬だけ金切り声を上げて開いた。
大窓にうっすらと反射して見える、白く、小さな影。影が段々と大きくなったことで、白いワンピースの形がはっきりと浮かび上がった。
枯れ木みたいに細くて、白い腕が半袖の口から枝みたいに伸びている。
藍花の亡霊そっくりの影は、友梨佳が横たわっている上の辺りまで近寄ってくると、ゆっくりと姿勢を低くして、ほとんど寝そべるような形になった。
段差の上から、藍花の匂いを感じた。触れると、ずっと掌にこびりつく、甘くて美味しそうな匂い。
昔、彼女に気付かれないようにこっそりと掌に付着した藍花の香りを嗅いでいたのを途端に思い出し、胸が苦しくなる。
次第に、息遣いすらはっきり聞こえてくるようになった。
おそらく藍花の顔が、私の左耳のすぐそばまで来ていて、じっと私を覗き込んでいるに違いない。
大窓にはもう、藍花の姿は映っていなかったが、それでも私は、藍花の存在を、体が隣り合っていると思えるまでに感じていた。
目には見えなくとも、確かに藍花はそこにいる。
友梨佳が肺いっぱいに空気を吸い込んだとき、耳朶をくすぐっていた藍花の吐息が消えた。
それから数秒もしないうちに、囁くような風の音に混じって、彼女の声が耳の穴から友梨佳の脳内に潜り込んできた。
「友梨佳ちゃんも、忘れちゃった?」
驚くほど艶かしくて、肌が粟立つ。
「…忘れてなんか、ないよ。私が藍花のこと、忘れるわけがないじゃない」
すぐに、夢の冒頭で話していたことだと気付き、友梨佳は言葉を付け足した。
「そうだよ…やっぱり藍花は、病気なんかじゃなかった」
刹那、雨音すらも消えて、この世を巡る音は、自分の息遣いと鼓動、そして、唇が耳に触れるのではと思えるぐらいの距離から聞こえてくる藍花の囁き声だけになっていた。
「早く、思い出して」
ひぐらしの鳴き声や、蛍の灯火に似たやりきれなさを感じる声音。
それを黙って聞いていると、藍花がさらに続けた。
「違うよ、友梨佳ちゃん。ここじゃない」
その言葉は、一度目の夢で言われたときよりも、ずっと、ずっと憂いと切迫したもどかしさを含んでいた。
まるで、何かに追われているか、我慢できないことを無理やりに我慢させられているようだ。
視線の先で、蝉が死んでいる。物言わぬ屍に群がる黒い蟻たちが、その屍肉をあっという間に貪るように、友梨佳の見ていた夢は消滅していた。
熱を帯びたアスファルトに、干からびたミミズがぺしゃんこになって張り付いている。それをヒールを履いた足で器用に避けながら、友梨佳は待ち合わせの場所まで向かっていた。
田舎町のくせに、道路の舗装だけは結構しっかりしている。脇道から農道まで、自治体が金を持て余しているのかもしれない。
七月を目前にして、未だに梅雨は続いていた。
今朝見たニュースだと、本格的な梅雨明けは七月の一週頃になっているらしい。
それは、不自由な日々の割合が減り、代わりにうだるような暑さの日々が増すことを意味しているほか、来年まで、例の夢を見られなくなるということでもあった。
長く続く坂を上ると、目の前に神社が現れる。
昔はよく四人で遊んだ場所だったが、それにはたいして目もくれず、右へと曲がる。それから少し歩いたところに、数年前に出来たばかりの洋風なカフェが見えてくる。
当初は、こんなところで商売をしても、客が来なくてすぐに立ち行かなくなるのではと思っていたものだが、中々潰れずに続けているし、駐車場にも何台か車が停まっているようなので、余計なお世話らしい。
白いコンクリートの上を、ヒールを鳴らしながら進み、木のアーチをくぐる。丁寧に整備されている様子の花壇が、連日の雨でまだ濡れていた。
中は冷房が効いていて、とても涼しかった。ウエイトレスが寄って来て席を案内しようとしたため、連れが来ていることを伝える。彼女はにこやかに微笑むと、ごゆっくり、とだけ告げてカウンターのほうに戻っていった。
彼女は、こんな土地でウエイトレスをさせるには惜しい華やかさを持っていた。
それで、ついつい、その容姿に見惚れてしまっていたのだが、少し離れた角の席から自分の名前を呼ぶ声が聞こえてきて、我に返った。
「友梨佳」
落ち着いたアルトに、知らず知らずのうちにほっと一息漏れる。
「久しぶり、紀美。もしかして待たせちゃった?」
「別に、時間通りだよ」
そう言って本を閉じた紀美は、眼鏡のフレームを、親指を人差し指で押し上げてから、オーダーのためにウエイトレスを呼んだ。
自分のぶんは既に注文してあるようなので、私のために呼んだのだろう。注文に悩まない私の性格を知っているからこそのさりげない気遣いに、少しだけ胸がきゅんとする。
紀美には昔からこういうところがあった。知的で、クール。
だが、寡黙な紳士さも大いに持ち合わせており、四人の中で群を抜いて大人びていた。異性愛者の女性が、大人の男性に憧れを持つ時期が来るように、少女時代の自分のそれが、紀美だった。
ネイビーのジーパンに、白のブラウスというシンプルさが、彼女の洗練されたスマートさをより強調しているように感じられ、例のウエイトレスが来て、注文を取っている間も横目で紀美を観察していた。そわそわして何度も足を組み替えていたからだろうか、ちらりと目線を上げた紀美と目が合って、ヒヤリとする。
オーダーが終わり、話の本題に移る前に、紀美が店内に流れるクラシック調の音楽に溶け込むような声で質問した。
「ねえ友梨佳、開口一番に申し訳ないんだけど、スカート短すぎない?」
「え?」急に服装のことを指摘されて、驚く。「そ、そんなことないって、向こうじゃこれが普通だし」
「ふぅん」と紀美は自分で言ったくせに興味が無さそうに呟くと、テラス席のほうを眺めながら続けた。「まあ、確かに個人の自由だけど、とりあえず、その丈の短さで足を組むのは良くない」
その言葉で、紀美が何を言いたいのかがピンときて、慌てて組んでいた足を下ろす。それから小動物並みに素早い動きで、両手を使ってスカートの裾をしっかり下まで伸ばした。
「見た?」じっと上目遣いで睨みつける。「いや、別に」
「本当?」
紀美はその問いかけに適当な相槌を返すと、視線を外からこちらへと戻した。
目つきが悪くも見える一重目蓋が、知性の光を放っていて、とてもセクシーだった。
それから、ただ、と前置きをしてから彼女は真っすぐ友梨佳を視界に捉えたまま口を開いた。
「その短いスカート丈で、派手な下着を履くのは感心しないな」
「やっぱり見てるんじゃない!」
顔を真っ赤にして言い返す友梨佳に、紀美はとうとう笑い出してしまった。そして、今思い出したというように周囲を見回し、人差し指を口元に立てて微笑んだ。
とても気障な仕草だったが、紀美がするととても様になっていた。
「ごめん、ごめん」と謝意の一切感じられない謝罪を行った紀美は、少し呆れたような表情を浮かべて、「友梨佳のそういう警戒心の薄いところ、凄く心配になるなぁ」と呟いた。
「…じゃあ、紀美が守ってくれればいいじゃん」
友梨佳はわざと彼女を困らせようと思ってそう口にした。
案の定、紀美は目を細めると、逡巡するように顎に人差し指を添え、まだ何も置かれていない木目のテーブルの上を見つめた。
思惑どおりいったというのに、悩ましい表情をする紀美を見ていると、自分が情けなくなった。
「それは、きっと別の誰かがやってくれるよ」
ややあって、紀美がそう言った。振り絞って出した言葉なのだと、自分でも分かった。
「ちょっと、何マジになって答えてるのよ…。冗談よ、冗談。もう、紀美のことは割り切ってるから」
わざと明るい声で堂々と言ってのけ、さらに、人差し指を相手に突き付け鼻を鳴らす。
「そもそも、いつまでも私が紀美のこと好きだなんて、思わないでよね」
「それは失礼」
「うわぁ、相変わらず気障だなぁ」
「友梨佳も相変わらずで安心したよ」何とも言えない微笑を浮かべた紀美が言う。「それどういう意味よ?」
「別に、言葉のまま」
先程の仕返しと言わんばかりの彼女の態度に、ムッと目くじらを立てていたところで、先程のウエイトレスが珈琲カップをお盆の上に乗せてやって来た。
やはり美人だ、と相手を横目で盗み見ていると、それに気付いていたらしい紀美がテーブルの下で軽く蹴ってきて、恥ずかしくなる。
店員が去った後、てっきりからかわれるのだと思っていたら、紀美は途端に真面目な顔つきになった。それで、どうやら本題に入るつもりなのだと察した。
机の上に、一冊のアルバムが出される。
表紙には私たちが通っていた小学校の名前が刻まれていて、自分でも何となく見覚えがあった。
今日、ここに集まったのは、地元に残っている紀美が、喜多川藍花について少し調べてみて分かったことがあるから、会って話がしたいとメッセージを送ってきたことがきっかけだった。
私は、紀美がわざわざ調べてくれたことへの感謝よりもずっと、何か緊張感というか、恐れに近い感情のほうが強く胸に湧いていた。
何が分かったのだろう。それは、恐ろしいことではないのだろうか…、と。
タイトルの文字の上を、すっと指先でなぞった紀美が話を始める。
「結論から言うよ」
低さを増した彼女のアルトボイスが、周囲の気温を一段と低くしたような気がした。
紀美は友梨佳が頷いたのを確認してから、豊かな胸の前で腕組みして息を吐き出した。
深刻な話をするときの彼女のくせだ。金槌で釘を打つときに、振りかぶるあれに似ている。
「喜多川藍花は転校なんかしてない」
そんなはずは、と返すよりも先に、頁をめくっていた紀美の言葉に遮られる。
「転校した生徒を、普通、卒業アルバムなんかに載せないよ」
彼女が指さしたところには、丸枠でくり抜かれた喜多川藍花の写真があり、他の生徒が寄り集まって写っている写真の中では、強い異質さがある写真だった。
じゃあ、彼女は本当に病気だった…?それで、梅雨以降の彼女との思い出がないのか?でも、だとしたら、あの日の隠れんぼは一体…。
納得いかない表情で沈黙している友梨佳に気付いたらしく、紀美はほんのわずかに首を捻った。
「納得いかないみたいね」
「だって…」
だが、紀美や、ほかの幼馴染たちが言っていた話のほうが、よっぽど筋が通っているのも事実だ。自分だって、あの夢さえ、記憶さえなければ、あぁ、私の気のせいかで済む話だったのだ。
全てはあの隠れんぼの夢が…。
どう説明しても、紀美には伝わらないかもしれないと考え、口を噤んでいた友梨佳だったが、直後、紀美が発した言葉に思わず目を丸くした。
「私もそうだよ。納得いかない」
「え、でも…」
「私、自慢じゃないけど記憶力いいから、喜多川が病欠になり始めた頃のこと、結構しっかり覚えてるんだ」
「そうだったの?」
「うん。急に病気で入院することになったって、朝のホームルームで先生が言ってたけど、私、あのときだって納得してなかった」
「何で?」
紀美は、私と違って藍花と仲が良かったわけではない。ましてや、私のように毎年決まった時期に彼女の夢を見るわけでもないだろう。
それなのに、何が気になったのか、友梨佳は不思議に思った。
すると紀美は、両肘をついた状態で指を絡め合わせ、その指の隙間からこちらを覗き込むような仕草をした。
猛禽類を思わせる鋭い視線に、ぞくりとする感覚が背筋を走る。
「友梨佳、君のせいだよ」ぼそりと呟かれる。「わ、私?」
「喜多川と仲が良かったのは、友梨佳だけだと言っても過言じゃなかった。だからてっきり、友梨佳は悲しむだろうなと思っていたのに、みんなと同じ態度だった。外面では悲しんでいたけれど、その実、関心が無さそうだったんだ」
「そんなはずないって、私、藍花のこと――」うっかり口が滑りそうになって、ブレーキをかけた。だが、紀美はその努力を無駄にする発言をした。
「好きだったんでしょ?」
長年秘密にしていたことを、さも当然のように先回りして言葉にされ、友梨佳は度肝を抜かれた気持ちになった。
ぽかんと口を開けて、空気を求める金魚みたいにぱくぱくさせていたので、紀美も友梨佳の異変に気が付いていたはずなのだが、彼女はあえてそれを無視して、さっと話の論点を戻した。
「だから妙だと思った。確かに、喜多川が病欠だと言われたその日から、友梨佳も一週間ぐらい休んでいたから、何か事情を知っていて、そういう態度をしていたんだって、あの頃は無理やり思い込んでいた。でもこの間、友梨佳は、そんな記憶ないって言った。自分から話を振っておいて、そんな意味の分からない嘘を吐く理由もないはず。だから、何かがおかしいって思ったの」
珍しく饒舌になった紀美の話に、友梨佳は混乱していた。
自分には、藍花が病気になったという記憶もない。さらに言うと、一週間も学校を休んだ記憶もだ。
それなのに、紀美の頭の中には、喜多川藍花の入院を知らされたときの私の記憶がある。
自分が知らない自分を、他の誰かが知っている。それほど気味の悪いものはなかった。
視線の先で湯気を燻らせている珈琲は、普段自分が飲んでいるインスタントの数倍香しい香りを放っていた。その水面に映っている照明が一瞬だけ明滅した後、誰かが自分の口を借りるようにして声が発せられた。
「…そんなこと言われても」
弱々しく、困り切った声音だった。
覚えのないものはどうしようもない。誰の記憶が正しいのかなんて、証明のしようがないのだから。
そう思っていた友梨佳の目の前で、紀美が素早くアルバムの頁をめくりながら言った。
「不思議な話だよね、とても面白い。それでね…」
「面白いって…」と批判めいた反応をすると、彼女は「失礼」と言って、また頁をめくった。
紀美の頁をめくる指が急停止して、無数に並んでいる文字の羅列の中から一つの文章を指し示した。
そこに記されている見慣れた土地名と、そうではない部分をぐっと身を乗り出して確かめる。
そこには、喜多川藍花の名前と、住所、電話番号が記されていた。彼女だけではない、ほかのクラスメイト全員の連絡先が載っていた。
「昔って、プライバシーも何もないよね。個人情報がこんなふうに残っているんだから」
「もしかして…」
まさか、という顔で見つめ返してくる友梨佳に、紀美は微笑みながらウインクしてみせた。これまた気障な仕草だったが、やはり、彼女なら様になる。
「そう、行ってみればいいんだよ。転校しているなら喜多川家の人間はいないだろうし、病欠していたのなら、まだ誰かいる可能性のほうが高い」
何という行動力なのだろうかと、呆気に取られていた友梨佳だったが、これである意味で合点がいった。
わざわざ私を地元まで呼び出したのは、このためだったのだ。そして、何故彼女がここまで付き合ってくれているのかも、同時に想像することが出来た。
それは、かつて自分に告白してきた幼馴染を心配してのことでもなく、単純な善意でもない。
ただの好奇心だ。誰にでもあって、彼女にとっては特別なもの。
紀美は、小説家の卵だった。そのネタというのか、経験というのか、とにかく、より良い作品の創作のために、取材も兼ねて『喜多川藍花』を追っているというわけだ。
何だ、結局は自分のためかぁ。
ほんの少しだけ何かを期待していた自分を、ちょっとだけ情けなく、そして、いじらしく思いながら、友梨佳は珈琲をすすった。
喜多川藍花の家は、思っていたよりも自分の家から遠く離れていた。
車を使えば五分といわない距離だったが、車で五分の距離は、徒歩で換算すると結構子どもの足では途方もない距離になる。
自分の実家も、山麓のほうにあるイメージだったのだが、藍花の家は比べ物にもならないくらい山の中に位置していた。よく分からない大きい虫は飛んでいるし、気温も平地に比べぐっと低い。
住所を打ち込んだ携帯のナビが導いた場所を見て、初めは故障だと思った。あるいは、田舎すぎて、登録されている住所が大雑把なのかもしれないとも。
だが、近づいてみて、掛けられている表札に『喜多川』の名前が刻まれているのを目にしたとき、抱いていた疑心は否定された。
ここが、喜多川藍花の家…。
「これは、友梨佳が言っていたことが当たりなのかな…」
「でも…」
横目で見つめてきた紀美は、目の前のボロボロになった廃屋同然の家を視界に捉えたままで頷いた。
「うん、誰も住んでないだろうね。こんなところに住めるのは、まともな人間じゃない」
夢の中で出て来る廃旅館並みに、藍花の家は老朽化していた。
窓硝子は砕け散り、壁面は膨大な量の蔓で覆われ、庭は緑に支配されていて土も砂利も見えない有様だった。縁側にある縦に大きい窓は雨戸が下りており、妙にうるさくガタガタと鳴っていた。
廂から伸びる巨大な蜘蛛の巣には、一つ一つが意思を持っているような雨粒が捕らえられていて、とにかく不気味だった。
確認するまでもなく、無人の廃屋だ。自分たちが想像していたような形ではなかったものの、喜多川家の人間がいないことは明らかだ。
それにも関わらず、紀美はぐんぐん門のほうへと近づいていき、どうにか開かないかと両手で格子を揺さぶった。
「ちょっと、ちょっと、紀美、何してるの」
「何って…、中に入れないかなって思って」
悪びれる様子もない紀美に、普段の常識人ぶりはどこにいったのかと呆れてしまう。
「駄目でしょ、廃屋でも、不法侵入だよ」
紀美が、友梨佳の言葉に、不服そうに眉をしかめていると、自分たちが立っている道の山側のほうから、誰かが歩いてくる足音が聞こえてきた。
ザリッ、ザリッっと、引きずるような足音であったことと、自分たちが悪いことをしているのだという後ろめたさから、友梨佳は飛び上がるように反応してしまった。
何件か上の家から出てきたのだろう、そこには腰の曲がった老婆の姿があった。痩せこけた頬に、落ち窪んだ眼窩、その上に乗ったギョロリとした目玉が印象的な女性だ。
彼女は、歳や体つきからは意外なほどしっかりとした足取りで二人に近づくと、これまた意外なことに、とても朗らかな口調で挨拶をした。
「こんにちは」反射的に答える。
「こんなところに用事ですか?」
あまりにも真っ当な疑問に、苦笑いが漏れるも、紀美は友梨佳が心の準備をする暇もないほどのレスポンスの速さで質問に答えた。
「あの、喜多川さんはもうここにはお住いじゃないんでしょうか?」
「はぁ、喜多川さんに用事だったんですか?」何とも複雑そうな顔で老婆は目を細めた。
「ええ、私たち、娘さんと同級生だったんです。それで、どうしてるかなって…」
「そうですか…、それはまあ、良いお友達を持ったものですね」
ですが、と老婆は言葉を区切り、そびえ立つ黒い山のほうを見上げた。暗い森以外は何も見えないが、老婆の濁った瞳には何かが映っているかのようだった。
老婆は、自分の言葉が尻切れ蜻蛉になっていることを忘れたみたいに長い間黙っていた。
その居心地の悪い沈黙に耐えかね紀美が、何か声を発そうと息を吸い込んだとき、再び老婆が喋り始めた。
「喜多川ご夫妻は、随分前に引っ越しました。行先は告げられなかったですが…、やっぱり、このお家、いえ、この土地は辛いことを思い出すのでしょうね」
辛いこと…?紀美も友梨佳もぴくりと眉間に皺をよせ、互いに顔を向かい合わせた。
「あの、それでは藍花さんのほうは今…」
老婆は紀美が全てを言い終わる前から何度も頷き、相槌を繰り返していたかと思うと、山のほうを見つめ、指さした。
「藍花ちゃんなら、この上の道を曲がった先ですよ。会ってあげてください」
「え…、藍花は、残して行ったんですか?」
唐突に自分が口を開いたことが驚きだったのか、老婆は目を丸くしてこちらを振り向き、それからゆっくりとまた頷いた。
「ええ、まぁ、無理もないでしょうね…」
無理もない?娘だけを置いて両親が引っ越しをしても無理もない理由とは何だ。
一体、どんな状態なら…、彼女は…。
老婆は、そこまで言うと深く頭を下げて、道を下っていた。お礼を言う暇もなく、その背中はどんどん小さくなっていく。
行こう、と紀美が言った。彼女には恐れというものがないのかと不思議に感じる。
怯む私を置いて、紀美は上に上がっていく。その後を重い足取りで追いかけているうちに、私は言いようのない恐怖と緊張感に襲われた。
この先に、何か開けてはならない秘密がある。理由も根拠もないが、そう直感した。その感覚は、夢の中で用具室のドアノブを握ったときとそっくりだった。
「待って…」と呟いた友梨佳の声は自分が思っている以上に、小さく、弱く、山から吹く風の音にかき消されて紀美を止めることはできなかった。
もう、見たくはないと思っていた夢の続きが始まった。しかも、今回はいつもの夢ではなかった。
命の終わりを連想させる鮮やかな夕焼け。
この場所のいたるところで見ることのできる、逞しい雑草の緑。
夢は白黒ではなかった。まるで現実みたいに、色付いていた。
雨でずぶ濡れになりながら、呆けた老人のように夕日を見つめていた私は、後ろから声をかけられたことで、跳ね上がるようにして背後を振り返った。
そこには、真っ白なワンピースを着て、真っ黒な長髪を揺らす喜多川藍花の姿があった。しかし、その姿は自分の知る小学校の頃の藍花ではなく、今の自分と同じ年頃にまで成長したらしい喜多川藍花であった。
美しい蕾が大輪の花を咲かせた、という派手な美しさではなく、真昼には光を放たなかった蛍が、夜になり存分にその幽玄な美しさを発揮している…、そんな美だった。
予想は正しかった。喜多川藍花は、美しく成長していたのだ。
私の記憶を宿木にして…。そこだけが、自分の生きられる場所と知っていたから。
「思い出した?」と藍花が小首を傾げた。
冷や汗が絶え間なく背筋をつたい、早鐘を鳴らす心臓が今にも胸を突き破って外に出ていきそうだった。
彼女が何を思い出させたかったのか、それがようやく分かった。でも…。
「思い出した、思い出したよ…?でも、それで、私に何をさせたいの?ねぇ、藍花、分からないよ…」
雨が痛いほど私の全身を打ちのめしているが、そんなものを気にする余裕はなかった。目の前に、喜多川藍花そのものがいたからだ。
彼女は薄ら笑いを浮かべていた。口元だけは三日月みたいな孤を描いているも、その瞳は全く笑ってなどいない。
「友梨佳ちゃん。隠れんぼしよう」
「…藍花、私――」
「友梨佳ちゃん。隠れんぼしよう」
藍花は、壊れた機械のように今までの夢と同じことを呟いていた。しかし、そこには今までとは明らかに違う異様なおぞましさが脈打っていた。
「今度は、友梨佳ちゃんの番だね」
そう口にすると、彼女はしゃがみ込んでカウントダウンを始めた。
数字が減っていくのが、今日はやけに恐ろしい。
私は慌てて走り出した。色を得た廃墟の忘れ物たちを踏み越え、なぎ倒し、必死に走り、より奥の方へと進んでいく。
前々回と同じように客間に入り、今度は大きな机の下に隠れた。しかし、いつまで経っても彼女は探しに来ない。それだけなら良かったが、友梨佳は自分が吐く息がとても冷たくなっていることに気付いた。
周囲の温度が、急激に冷却されているように寒い。数分もしないうちに友梨佳はガタガタと震え始め、唇は紫色に変わっていった。
夢が、終わらない。普通なら隠れて少し経てば、藍花が探しに来て、見つけてもらって夢が終わるのに、今日はどれだけ待っても藍花は来なかった。
両腕で自分の体を掻き抱きながら、机の下から這い出る。芋虫のように体をぐねぐねさせて畳の上に寝転んだとき、頭上から急に声が降ってきて、私は座ったままの姿勢で後退った。
いつの間に来ていたのか、机のすぐそばで体育座りをしていた藍花は、私が無様に上げた悲鳴に小刻みに肩を震わせ、ひとしきり笑ったかと思うと、電池が切れたかのように無感情になって口を開いた。
「違うよ、友梨佳ちゃん。ここじゃない」
「こ、ここじゃない…って、藍花、どういうこと」
「友梨佳ちゃん、隠れんぼしよう」
先程までとは違い、今度は禍々しく彼女は笑った。怯える私を観察するのが楽しいのか、鈴の音を鳴らすように笑うばかりだ。
「今度は、友梨佳ちゃんの番だね」
寒さと恐怖に震える足で立ち上がる。その拍子に襖に激突する。
時は一刻を争う…、そう思えてならなかった。
そうして何度か隠れ場所を変えた。
屋上、雨の降る庭園、カウンターの裏、露天風呂…。それでも夢は終わらず、そして、藍花が見つけてくれることもない。彼女はずっと、私が隠れ場所から這い出てくるのを、いつの間にか近くに来て観察しているだけだった。それから必ず、『ここじゃない』の一言を残す。
体温は急激に下がったままのはずなのに、意識が遠のくことも、動けなくなることもなかった。
ただ、苦しく、辛い。永遠に続くと宣告された孤独の中にいるようで、奥歯がガタガタとぶつかり合っていた。
藍花の言うことに意味があるなら、隠れなければならない場所がどこかにあるようだった。
そうして、次なる隠れ場所を探してロビーに戻ったとき、ふと、階段下の用具室のことを思い出した。
そういえば、あのぞっとする感覚…、現実世界で藍花のところを訪れた際に感じた感覚と同じだった。
もしかすると、そういうことなのだろうか…。
ふう、と白い息を吐き出す。考えている時間はない。この極寒地獄のような悪夢を終わらせるためなら、どんなことだって私はする。
急いで用具室の前まで移動する。とてつもない冷気が建物全体を覆っているような気がして、腕を擦る手が止まらなくなる。
今度は何の躊躇もなく扉を押し開けた。そうして中に足を踏み入れると、急に一人でに扉が閉まった。大きな音に身を竦めながらも、部屋が多少温かいことに安心する。
用具室の中は、古ぼけた皿や小箱のような小物から、棚、桐箱のような収納道具まであった。とりわけ目を引いたのは、部屋の隅のほうに壁に押し付けるようにして置いてある大きな箱だ。
和風の装飾が幾重にも施されており、中には高級な和服でも入ってそうなものだが、友梨佳は、そうではないことを直感していた。
ここだ。藍花が求めている隠れ場所は、ここなのだ。理由は分からないが、そう思えてならない。
私は藁にも縋る思いで箱の蓋を押し上げた。中は予想通り空っぽで、人一人余裕で入ることの出来る空間が空いていた。
友梨佳は体を滑り込ませると、中から指を引っ掛けて、蓋を閉めようとした。
そのときだった。
バタン、と大きな音と共に、突如、辺りが暗闇に包まれた。自分自身の影すら食い尽くす暗黒に、友梨佳は、「きゃあ」と情けのない声を発した。
外から蓋が閉じられたのだ。
急いで中からこじ開けたようとするが、釘でも打たれたかのように、箱の蓋は開かない。
こんなことをするのは、一人しかいない。
「藍花!開けて、藍花ぁ!」
本能が拒絶する暗闇に、友梨佳はヒステリーを起こしたように大声で繰り返し喚いたものの、箱の外の彼女は、まるで反応らしい反応をしなかった。
どうして藍花は私を怖がらせるような真似をするのだ。あんなに、あんなに仲良く過ごしてきた藍花は、時の流れに壊されてしまったのだろうか。
やがて友梨佳が、喉が痛くなって叫ぶのをやめたところで、蓋一つ隔てた向こう側から囁くような声が聞こえてきた。
「友梨佳ちゃん、隠れんぼしよう」
「藍花…?開けて、お願い…」
ここは、狭くて、暗い。
終焉が形を帯びたなら、きっとこのような景色として人々の目の前に現れるだろう。
「今度は、私の番」
狂っている。私の記憶に寄生していた喜多川藍花は、既にまともではなくなっていた。
それでも友梨佳は、藍花がもう一度昔のように戻ってくれることを信じ叫んだ。
「藍花、貴方はもう死んでいるの。小学六年生の六月、貴方は死んでいるのよ」
友梨佳が言っていることは、でまかせではない。
友梨佳と紀美が老婆に教えられて訪れた道の先には、剥がれ落ちた山の斜面に並んだ、いくつもの墓があった。
きっと地元の人を埋めているのであろう、たいした数はなかったものの、てっきり生きている人間に会えると思っていた友梨佳たちは息を詰まらせ、言葉を失った。
さらに驚くきっかけになったのは、墓地の一番奥に申し訳程度に建てられている木の墓を見たときだった。あまりにもみすぼらしく、ペットの墓のように立っていた木の位牌には、濃い文字ではっきりと『喜多川藍花』の名前が彫られていた。享年、十二歳だった。
彼女は死んでいたのだ。
私が藍花の死について、一切の記憶を失っていた理由は分からない。
きっと、藍花が転校するという話は本当だったのだ。そして、私は最後の思い出づくりにここで隠れんぼをした。
その後、何か事故でもあったのだろう、藍花は本当に、完全に私の前から消えてしまった。
私は、彼女を失ったことが耐え難く、自分自身の精神の安定のために、自らの記憶を忘却の川の畔へと押し流したに違いない。
そして、その川の畔がここだ。
梅雨の時期にだけ顔を出す、藍花と私の最後の思い出の場所。
そこに藍花はずっといた。それが藍花の亡霊なのか、はたまた私が作り出した狂った妄想なのかは分からないが、とにもかくにも、喜多川藍花は今自ら意思を得たようにして、私を箱の中に押し込めようとしているのだ。
正気に戻ってもらわなければならない。そうしなければ、きっと夢は終わらない。
勝手な理屈で、何の根拠もなかったが、友梨佳はそう考えていた。
この夢での隠れんぼは、藍花の死を忘れた私と共に育った、記憶の中の藍花の戯れに過ぎないと。
「藍花…、私は思い出したから…」
藍花は何も答えない。
「もう、忘れないから」
もしかすると、藍花は忘れないでほしかったのかもしれない。自分がいたこと、そして死んでしまっていることを。
「…藍花ぁ」
トン、と寝転んだ姿勢のまま扉を力なく叩くと、そのすぐ向こうから、藍花の声がした。
それは、今までのように機械的でも、おどろおどろしいものでもない。本当の人間のように落ち着いた声音だ。
「今なら、友梨佳ちゃんの気持ちが分かるよ」
「藍花…」
「離れ離れは、寂しいから…」
彼女がぽつりぽつりと続ける。
「ねぇ、友梨佳ちゃん」
「うん、どうしたの、藍花」
「隠れんぼは、終わりだね」
悲嘆に暮れるような、胸を締め付けられる響きだった。
彼女は、決別を選んだのだろうか。
私は、そうだね、と小さく返した。
「今度は、私の番」
…どうして、話がまた戻ったのだろう?
そもそも、ずっと藍花が言っているのは、一体何の番のことなのだろうか。
「藍花、それって、何の番なの?」
藍花が黙った拍子に、この狭苦しい暗闇の中に他の誰かの気配を感じた。
酷く冷たい、死人みたいな骨ばった固い感触。
誰かが、私の耳元で…。
「今度は私が、友梨佳ちゃんを箱に閉じ込める番だよ」
そっと、囁いた。
「あああああぁ!」
私は、絶叫しながら体を起こした。
凄まじい動悸と、震え、定まらない焦点が不安でたまらなくて、指先の爪を口元に持っていく。
夢の中でフラッシュバックしたいくつもの光景。
冷たい箱。
中から聞こえてくる、幼い藍花の必死な声。
大好きな彼女が、自分のそばからいなくなるなんて、我慢できなくて。
閉じ込めてしまえばいいと思った。
そうすれば、藍花の家族だけがどこかに行って、藍花は、この土地に残るんだって。
行く宛を失った藍花と、私の家族で暮らすんだって…。
でも…。
だけど…。
藍花は、死んでしまった。
冷たい箱の中で、窒息して。
違う、
私が、殺したんだ。
藍花が思い出してと言ったのは、彼女が死んだことなんかじゃない。
私が、藍花を殺してしまったという事実だ。
藍花を好きすぎるが故に殺してしまった私は、年齢と動機から、罪を免れた。
そして大人たちも、その事実で私が壊れてしまわないよう、箝口令を敷いて、過ちを犯した私を守った。
学校では、ずっと病欠だということにして、
生徒を殺した生徒が暮らすことを容認したのだ。
頭を小刻みに振って、私は現実から目を逸らそうとしたが、藍花が夢の中で、耳元で囁いた呪詛の言葉を思い出して、それすらも叶わなかった。
――『今度は私が、友梨佳ちゃんを箱に閉じ込める番だよ』
どうすればいい、どうすれば。
警察に自首する?いや、そんなことに意味はない。だって、もう事件そのものは終わっているのだ。
…待てよ、もしかすると藍花の魂は、今もまだあの箱の中に閉じ込められているのではないか?
だから、私を夢の世界で責め立てた。
急いで、あの廃墟に向かわないと。
私は震える足で立ち上がろうとして、ベッドから転げ落ちた。それから何とか起き上がり、電気も点けずに暗い廊下を抜け、玄関の扉に手をかけた。
…あれ。
ドアレバーに力をこめる。
…動かない。
鍵も、掛かってないのに。
もう一度、レバーを握る。
そのとき、自分の背後に、何者かの気配を感じた。
恐怖で固まって動けない自分の胸に、するりと回される氷のように冷たい腕。
背中に、柔らかな感触を感じる。
ぴったりと、その誰かが張り付いている。
…誰か、なんて、もう分かりきっているではないか。
瞬きすら出来ずにいた私の視界を、真っ白な手が覆った。
そして、彼女は、私の耳元でこう言った。
――もう出られないよ。友梨佳ちゃん。
そうして私は、藍花と同じ箱の中、一つの暗闇で眠ることになった。
――ずっと、一緒だね。
薄れゆく意識の淵を、あの最後の日の夕焼けが駆け抜ける。
あのとき、藍花の入った箱に腰掛けた私は、恍惚とした気分だった。
ちょうど、今みたいに。
そうだ、これでいい。
これで、ずっと藍花と一緒だ。
私の願いが、叶ったんだ。