終
「……よし! できたっ」
モロウ領城下町、その中心部にそびえ立つお城の一室で――わたしは着なれない服に四苦八苦していた。女中さんたちの協力を得てようやく着終えることができ、思わず安堵の声を上げる。
わたしが着替えている一室は、お城の最上階にある畳の部屋だった。
……と言っても、城の中にある部屋の殆どは畳敷きなのだけれど。なんでも幽世では畳は高級品なのだそうで、畳を見て「うわぁ懐かしい、実家にもありました」と思わず言ったところ、喋る犬でも見たかのようなとんでもない顔で驚かれてしまった。……まあ、犬が喋る姿は幽世では珍しくないのかもしれないけれど。
「……うん、大丈夫。変じゃないですよね?」
わたしは身に纏った服を矯めつ眇めつしながら、女中さんに問う。
わたしが今着ている服装は、いわゆる袴姿というやつだ。清潔感のある白い着物に、藤色の袴を履いている。着物を着るなんて、おそらく七五三の時以来であり(お正月に着物を着て出かける習慣はなかったのだ)、その時も当然大人のひとに着せてもらっていたため着方がまったくわからず、おかげで殆ど全てを女中さんに手伝ってもらう羽目になってしまった。
なぜわたしが着なれない服を苦労して着ているのかというと……それはもちろん、今日が特別な日だからに他ならない。
――リンカがモロウ領の姫となってから、十日ほどが経つ。
そして今日ついに、領に住む民の前に姫となったリンカが正式に姿を現す。新たな姫が生まれ、領に変わらぬ平和が約束される……それを領民に示すための式典があるのだ。
当然、姫の傍には姫を守る存在……防人の姿がなければならない。そして姫を守る防人が貧相な格好をしていては問題がある……というわけで、なんとか見てくれだけでも形になるようにと着飾っているのだった。
大勢の人の前に出るのには慣れていないので、本当のところは式典に出るのを断りたいと思っていたのだけれど……それを言った途端、モロウが今にも噛みついてきそうな顔で睨んできたので参加せざるを得なかった。……まあ確かに、一番傍で姫を守らなければならない防人が式典にいないというのは問題だろう。
わたしは手足を適当に動かしながら、着心地を確かめる。両腕を振ってみたり、その場で歩いてみたり、調子に乗ってくるりと回ってみたり……そんなわたしを見ながら、着付けを手伝ってくれていた二人の女中さんは、なぜか心配そうな顔をしている。
「あの……本当にその格好で良いのでございますか?」
「え? ……何かおかしいですか?」
わたしは改めて、身に纏っている衣服を確かめる。
……どこも着崩れているところはないし、汚れているところだってない。何も問題ないと思うけど……?
「ヒマリ。終わったのか」
襖の向こうから、ゴウランさんのくぐもった声が聞こえてくる。
そういえば、着替えが終わったら話があると言われていたことを思い出す。ただ服を着るだけでだいぶ手間取ってしまったので、かなりの時間を廊下で待たせてしまったことになる。……さすがに「もうちょっと待ってください」とは言いづらい。
女中さんの顔色は気になるけれど、どう見てもおかしいところはないし……。
「はい、すいません。お待たせしました」
そうわたしが襖の向こうに声をかけた途端、
「えっ! あっ、ゴウラン様、お待ち下さい!」
二人の女中さんがわたわたと慌て出す。一体どうしたんだろうと首を傾げている間に、ぴたりと閉じられていた襖がすっと開く。
「……まったく、ただ服を着替えるのにどれほどの時間を……」
そして襖を開けたゴウランさんは――わたしの恰好を見てぽかんと口を開けたまま、動かなくなってしまった。
「……あの、ゴウランさん?」
女中さんたちは今や、両手で顔を覆いつくしてしまっている……い、一体なにがどうなってるんだろう?
「……ヒマリ」
「は、はい」
ようやく動き出したゴウランさんは、何故か明後日の方向を向きながら深くため息をついた。
「……以前から、気にはなっていたのだが。どうして、その……お前の着る服は、そうも丈が短いのだ」
「……え?」
わたしは、自分の足元を見た。
わたしが着ている服は確かに袴姿ではあったけれど……袴の丈だけは、わたしが元々着ていた制服のスカートと同じくらいの丈に改造してあった。
式典のための正装を選ぶ際、初めに勧められたのは豪奢な着物だったのだけれど、体が動かしにくいという理由で袴姿に変えてもらった。だけど結局、袴姿にしても長い丈なのは変わらず、これじゃああんまり変わらないな……と思い、いっそ膝あたりまで短くしてほしいと頼み込み、急遽作ってもらったのだ。
ちょうど学校の制服くらいの丈になり、着なれた格好になってわたしは喜んでいたのだけれど……。わたしはもう一度、自分が着ている服を見る。
……やはり改めて見ても、極めて短いというほどではない気がする。せいぜいちょこっと膝が見える程度で、学校内でも平均的な丈のはずなのだけど……?
「えーと……。短いですか? これ」
ゴウランさんにそう問いかけると、なぜか女中さんの一人がふらりとよろめいた。
「……短いだろう。普通、女性は素足など見せないものだ。幼い子供ならまだしも……お前は年頃の乙女だろう。……あまりむやみに肌を見せるものではないと思うが」
「と、年頃の乙女って」
ものすごくこそばゆくなる表現に、わたしは微妙な気持ちになる。いや、まあ、確かに、そうといえばそうなんだけど……。
「……でも、防人として動きやすい服装を選ぶように言ったのは、ゴウランさんじゃないですか」
そう……ゴウランさんの言葉があったからこそ、わたしは袴の丈を短くするよう職人さんに頼み込んだのだった。
……思い返してみると、頼んだときに職人さんもとんでもない形相になっていたような気がする。あれはこういう理由だったんだ……。
ゴウランさんは苦り切ったような表情を浮かべる。
「む……確かに、そうだが。……しかし、そこまで短くする必要があるのか? まさかとは思うが、現世の女子たちは、皆そのような格好をしているのではないだろうな」
「え? ……まあ、そうですね。わたしと同年代の子たちは、だいたいこれと同じくらいの膝丈の服を、毎日着てますけど……」
それを聞いた途端、ゴウランさんは両手で頭を抱え、女中さんたちはついにぱたりと畳に倒れ込んでしまった。
……うーん、やっぱりわたしまだ、幽世の常識には疎いみたい……。
「でも、ショウリンさんもヨウファさんも何も言わなかったんですよ」
「優しさだったのだろう」
わたしはゴウランさんと雑談を交わしながら城の廊下を行く。
わたしが着替えていた部屋から少し離れた位置、あまり人目につかなさそうな奥まった部屋の前まで来ると、
「……ここでいいだろう」
ゴウランさんは襖を開き、中へと入っていった。当然、わたしも後に続く。
入った部屋は、これといった特徴のない、なんでもない部屋だった。
……と言っても当然城の中だけあって設えは豪華で、掃除も行き届いているため部屋中が明るく輝いているようだ。部屋の奥には大きな窓があり、開け放たれた窓から見える青空は透き通るようにきれいだった。
「楽にしてくれ」
ゴウランさんはそう言って、畳の上にすっと正座で座った。
……楽にしてもいいと言われたけれど、向こうがきちんと正座で座っているのにこちらだけ足を崩す気にはならない。わたしも正座をすることにした。
「……まず、祝いの言葉を贈ろう。ヒマリが姫の防人になれたことを……とても喜ばしく思う」
「あ、ありがとうございます」
わたしはぺこりと頭を下げる。
「いろいろと紆余曲折はあったがな。……おそらく、モロウ領の歴代防人の中で、あそこまでモロウ様に噛みついた防人はお前が初だろう」
「……あはは」
「笑い事ではない。あの時は肝が冷えて仕方がなかった……」
話が脱線したことに気付いたのか、ゴウランさんは咳ばらいをひとつ。そして改めてわたしに向き直る。
「さて……わたしがヒマリに話したいこととは、防人としての心構えだ。本来であれば防人となる前に備えておくべきことなのだが……お前はあらゆる点において、今までの防人とは違う。何せ現世人なのだからな」
「……そうですね」
「衣服の丈からも、今の話からもわかるとおり……お前は我々の住む世界について、あまりにも知識が欠けている。幸い、お前自身は非常識な人間ではないが……それは知識を身につけなくてもよい理由にはならない。本当ならしっかりと教え込みたいところだが……あいにく式典の準備やらで今まで時間が取れず、今日もあまり余裕がない。なので、最低限知っておいてほしい事だけを、いま伝える」
「……はい」
わたしは背筋を伸ばす。
防人としての心構え……つまり、リンカの傍にいるために必要な知識ということだろう。
家族として、姉として、そして防人として……一生リンカの傍にいるために、しっかりと頭に叩き込まないと……。
わたしが居住まいを正したのを見て、ゴウランさんは頷く。そして、ちらりと窓の外へ視線を向けた。
何事かと、わたしも窓を見る。……広がる青空が、相変わらずきれいだった。
「モロウ領は今……混迷の時代を迎えている」
ゴウランさんの重々しい言葉に、わたしは振り返った。
「いや、モロウ領だけではない。人の住む土地……その全てが、緩やかに疲弊していっている。夜に歩き回る妖獣どもの数は増え、その力は日に日に増している。いずれは姫の加護も届かず、太陽のある時間帯ですら、安全ではなくなると言われている」
「……そんな」
とてもじゃないけれど、想像できなかった。……だって空は、あんなにもきれいに晴れているのに。
……だけど。わたしの頭に、いくつもの記憶がよぎる。
障子の隙間から見えた、ショウリンさんとヨウファさんが無惨に殺されている光景。
仮宿の宿主が殺され、弄ばれ……部屋中が赤黒く染まった光景。
――あのきれいな青空からは想像もできないような、悲惨な出来事が実際に起きていることを……わたしは確かに知っていた。
「……ヒマリは、国と領についての知識はあるか?」
ゴウランさんの問いかけに、わたしは頷く。
「はい。一度リンカに聞きました」
モロウ領とは、アマツ国と呼ばれる大きな国の一部であること。
アマツ国は複数の領で構成されていて、国の中心となる領は神獣アマツが存在するアマツ領であり、そこを守る姫のことを、姫の中の姫――大姫と呼ぶこと。
「そうだ。……そして現在の状況を招いている原因は、その大姫にある」
「大姫に……?」
国の中でも、最も重要と言える立場のお姫様に、一体何が……?
「十五年程前……アマツ領の大姫が、消えたのだ」
「…………え?」
わたしは思わず、ぽかんと口を開けてしまう。
「き、消えたって」
「なんの前触れもなく……忽然と姿を消したのだそうだ。話に聞くところによると、大姫はまだ生まれたばかりの赤子だった。通常、姫となるのは十五歳前後の少女なのだが……稀に、さらに幼い年齢でも姫となることがある。リンカ様もそれに該当するのだが」
リンカの正確な年齢は知らないけれど、どれだけ高く見積もっても十五歳ということはないだろう。おそらく十歳前後のはずだ。そうなると、なるほど確かに、リンカはずいぶんと早く姫として選ばれたらしい。
……でも、アマツ領の姫はそれよりもずっと早い。……いや、それどころか、まだ赤ん坊だというのなら自意識すら芽生えていないころなのではないか。
そんな赤ん坊が、どうしてお姫様に?
「……あの、姫になる少女というのは、それにふさわしい人物が選ばれるって話だったんじゃ。生まれて間もない赤ん坊じゃ、まだ人柄がどうかだなんて、わからないと思うんですけど……」
「その通り……アマツ領の姫となった子供は、例外中の例外と言えるだろう。生まれながらにして姫に選ばれるなど……普通ならばあり得ない。だが、実際に大姫は赤子であったらしいのだ。それほどまでに、その子は姫としての類稀なる素質を、その身に秘めていたのだろう。――そしてその赤子は姫となってから間もないうちに、ある日突然姿を消した。アマツ領という、国の中心……モロウ領とは比べ物にならないほど厳重に守られた城の中にいたにもかかわらず、行方をくらませたのだ」
「…………」
一体、アマツ領に何があったというのだろう?
人が突然、誰にも知られずにその場から消える……いわゆる神隠しというものか。
幽世は神……神獣がいる世界なのだから、そういうことがあっても不思議ではない気がするけれど……当の神獣たちすらも、大姫の行方を知ることができずにいる――。
……ううん、気になるところだけれど、わたしが考えてもどうしようもないことだ。
わたしにとって問題なのは、それがどうしてモロウ領に妖獣が蔓延る原因になっているのかということ。
アマツ領から姫が消えた……となると、気になることはやはり、
「姫が消えたアマツ領は……今どうなっているんですか?」
姫は、領内に平和をもたらすかけがえのない存在。それが欠けてしまったアマツ領……まさか。
「当然、荒れている。もともとアマツ国で最も強大な神獣、アマツ様がおられる領なので防人の一族たちの練度も一級であり、妖獣たちへの備えも万全だった。おかげで今まで、なんとか持ちこたえていたようだが……さすがに十五年という月日は長すぎた。人々も土地も疲れ果て……妖獣に領民が襲われるということも珍しくないそうだ」
わたしは思わず歯を噛み締めた。……予想はしていたけど、やっぱりそうだったんだ……。
わたしやリンカのように、突然家族が奪われる悲劇が今、アマツ領では日常的に繰り返されている……それを考えると、心が痛くなる。
「そして、国の中心であるアマツ領が荒れているという状況は……じわじわと他の領へも影響を与え始めた。アマツ領に隣接している領から始まった妖獣たちの凶暴化は、ついにこのモロウ領にも襲い掛かった。妖獣たちを抑え込むため、前姫はその力を使い果たし……まだ若い身空でありながら、命を落とした……」
――そうか。
ようやく……ゴウランさんが言いたいことを理解できた。
「つまりだ。……リンカ様にも同様に、妖獣たちの脅威は襲い掛かるのだ。それを抑え込むために、リンカ様は平時よりも強力な加護を常に与え続けねばならない。……そして、お前はそれを支えなければならないのだ」
ゴウランさんに聞かされて初めて知った、モロウ領の現状。普通に生活しているときは気がつかなかったけれど、世界はだんだん良くない方向に傾いていたらしい。
めでたく姫となったリンカだけれど……そんな状況でリンカに求められる姫としての責務は、きっと今までのお姫様たちより断然大きい。
そして当然……そのリンカを守るわたしの責任も重大なのだ。
姫の身に何かがあれば、それは領内の混乱を招く。そのとき責任を問われるのは……当然、防人のわたしだ。
ただリンカの傍にいたいがために防人になったわたしだけれど……防人として選ばれたからには、領に生きる人々のために、力を尽くさなければならない。……わたしはリンカと共に、領に住む人々の命を背負っているのだから。
その自覚と覚悟を持てと……ゴウランさんは伝えたいのだ。
「お前とリンカ様には今後、様々な試練が襲いかかるだろう。だが、決して折れることは許されない。モロウ領の姫はリンカ様しかいないように……姫の防人はお前しかいないのだ。……心を強く持て、ヒマリ」
「……はい」
不安がないわけじゃない。
けれど、リンカと共に生きていくことができるのなら。……きっとわたしは、なんだってやれる。耐えられる。
返事をしたわたしに、ゴウランさんは頷き返してくれた。
「……そしてもう一つ、お前にはある役割を担ってもらうことになる」
「……? ある役割?」
「それは防人の一族の、長としての立場だ。防人の一族という組織は元を辿ると、歴代防人たちの家族や仲間が集まってできた集団だった。元々は姫の警護をより強化するために組織されたようだが……組織の規模が膨れ上がった今では、積極的な妖獣の討伐から領民同士の諍いを仲裁するなど、秩序維持組織としての側面もある」
要するに、警察のような仕事も行っているのだろう。そういえば、ショウリンさんからちらっとそんな話を聞いたような……。
「……そして組織の長を務めるのは、姫の防人であると決まっている。つまり現在、一族の長はお前なのだ、ヒマリ」
「わ、わたしが? 妖獣たちと戦う人たちの……一番上?」
それってつまり……あの人たちのリーダーとして、みんなを纏め上げろってこと……?
学校では話す友達もいなくて、集団に所属することすらあまり無かったわたしが……?
自分が一族の人たちを統べている姿が全く想像できなくて、思わず背筋が寒くなる。……そんなこと、わたしにできるだろうか?
防人の力があれば、妖獣たちとは渡り合える。それはこの前の戦いで充分理解できていた。
だけど、人を纏め上げる力というのは、本人の人となりが重要なわけで……リンカのためならなんだってやれると思っていたはずなのに、わたしは早くも弱気になっていた。
「あ、あの……わたし今まで、複数人の代表として動いたことなんて無くて……上手くできるかどうか」
情けない声を出したわたしに、ゴウランさんはため息をついた。
「……わかっている。今日までお前を見てきたが、そのようなことがあまり得意ではないことくらいすぐに感づいた。……当面の間は、わたしが代理として動こう。……ただし、いずれはお前自身がやらなければならないのだということを忘れるな。わたしの行動を見て学び、知りたいことがあるのならば、何でも聞くといい。防人のことでも、この世界のことでも……内容は問わん。お前が長として……そしてこの世界に住む人間として立派に独り立ちできるよう、叩き込んでやろう」
「ありがとうございます、何から何まで……」
本当に、ゴウランさんには頭が上がらない。
初めて出会ったときにリンカを助けて貰ったことから始まり、痛み止めを分けてくれたり、防人になるための儀式の方法を教えてくれたり、防人の力の使い方も……。そして今後も、一族の長としての仕事や、この世界の常識についても教えてもらうことになってしまった。これじゃあまるで先生だ。スーツを着て教壇に立てば、きっと似合うだろうな……。
「……どうした?」
「えっ。……いえ、なんでもありません」
「……まったく、しっかりしないか。ともかく、今日中に伝えたいことは全て伝えた。この後は式典の開始に備えて待機しているといい。姫の準備が滞りなく済めば、予定通りに行う。何か聞きたいことがあれば、今のうちに聞いておけ」
「聞きたいこと……」
ゴウランさんへの質問……何かあるだろうか。
式典での段取りに関しては、今日という日に至るまで散々練習を繰り返して頭に叩き込まれているので、特に聞きたいことはない。幽世の世界についての疑問も、防人の仕事に関する質問も、今すぐ聞きたいことはこれといって思いつかない……。
「…………あ」
その疑問は、突然ふっと頭に浮かび上がってきた。
――ゴウランさんは、どうしてわたしに防人になるための儀式の方法を教えてくれたのだろう?
あのときはモロウと言い争いをしていて冷静でなかったことや、何が何でも防人になりたいという気持ちが昂っていたおかげで気がつかなかったけれど……今にして思うと、あのときのゴウランさんの行動はとても奇妙な気がする。
ゴウランさんは前姫の防人で……つまり以前は防人の一族を統べる長だった。その実直さから考えても、優秀だったことは間違いない。
そのゴウランさんはあの時……なぜか神獣であるモロウの意志に反してまで、わたしに儀式の方法を教えてくれた。
ゴウランさんはモロウのことを敬っているはずなのに……あの時だけは明らかにモロウが望むものとは正反対の行動を取っていた。……それは、ゴウランさんのイメージとは合わない気がする。
一体、なぜなのだろう?
「どうして……わたしが防人になれるよう、後押ししてくれたんですか?」
問いかけると……ゴウランさんは懐から何かを取り出した。
手のひらに収まっていたものは、貝殻だった。淡い桃色と黄色で彩られた美しい貝殻で、ゴウランさんの厳めしい戦士の手とはミスマッチに見える。
ゴウランさんはその貝殻に、何故か愛おしげな視線を送りながら、答えてくれた。
「……託されたのだ、願いをな」
「願い……?」
「ああ。……防人としての、最後の仕事を果たしたのだ」
――ゴウランさんはそれきり、何も答えてくれなかった。
■
ヒマリが女中たちに呼ばれて部屋を出て行ってからも、ゴウランは一人、部屋の中で静かに座り続けていた。
本来であれば、式典の警備のために忙しく動き回らなければならないのだが……幸い優秀な部下たちが精力的に動いてくれている。少しくらいはいいだろうと、ゴウランは静謐の中、ただ何もせず座り続けていた。
「……今更問われるとはな」
ゴウランは今一度、手の中にある木霊貝を見る。――淡い桃色と、黄色が美しい。
音を記憶する不思議な貝、木霊貝は……ある性質を持っていた。記憶した音によって、貝殻の色を変化させるのだ。
その色合いはまさに千差万別であり、七色に輝く貝殻はそれだけでも至高の一品ではあるのだが……さらに不思議なのは、人の声を記憶したときに限り、ある一定の法則で色が変化することだった。
その法則とは……吹き込まれた声に込められた、感情。
木霊貝は人の感情を鋭敏に察知し、それを色にして貝殻に映す。激情であれば深紅に、悲哀であれば深藍に。
淡い桃色と黄色に込められた感情とは――信頼。そして愛情。
「…………」
ゴウランはそっと、木霊貝を耳元へと寄せる。
――二度と聞くことはできないはずの愛おしい声色が、木霊貝の奥から奏でられる。
前姫シャンクゥが木霊貝に込めた声は、その殆どがゴウランへの感謝と、愛の言葉だった。聞いているだけで顔が赤くなりそうなほどだったが、幸い部屋の中には誰もいない。ゆっくりと声色に耳を傾ける。
……神獣モロウに木霊貝を受け取ってから、もう何度も聞いて内容も覚えてしまった。そう……もうそろそろ終わりが近づいてくるころだ。
ゴウランに残された木霊貝に込められた音は……こんな言葉で締めくくられていた。
『最後に……もう一つだけお願いをしたいの。……新しい姫が防人を選ぶときは、その子の望み通りにして欲しいの。きっときっと、その方が良いに決まってるわ……だって』
瞳を閉じたゴウランの瞼の裏に、シャンクゥの笑顔が浮かぶ。
『だってわたしは、あなたが防人ですごく幸せだったのだから』
……木霊貝から音が消える。記憶した音は、これが全てだった。
「…………」
ゴウランは木霊貝を懐へ大切に仕舞い込み、立ち上がる。さすがにそろそろ、仕事に戻らなければ。
ヒマリが呼ばれたということは、おそらく姫の着替えが終わったのだろう。姫の着る衣装はヒマリも共に吟味していた……きっとその可愛らしさに歓喜しているに違いない。
……そういえばその時も、ヒマリはモロウと口喧嘩をしていた。いや、実際には姫とモロウだったのだが。姫がどうしても髪の毛を後ろで括ると言い、姫は美しい長髪こそが最も絵になるのだから髪を括るなんてありえないとモロウが悲鳴を上げ、姫に味方したヒマリに対してモロウが嫌みを言っていたのだった。
「……はは」
ゴウランの口元に、思わず笑みが零れる。
二人揃って神獣様に反発するとは……つくづく型破りな姫と防人だ。
城の中の者、特に官の連中には嘆く声も多いが……自分はそうは思わない。
この混迷の時代の中で、風変わりな姫と防人が生まれた……これが、何かが大きく変わるきっかけのような気がするのは気のせいだろうか?
いや、きっと気のせいではないはずだ。
……いずれモロウ領は、苦難から抜け出せる。
ならばわたしはあの二人と共に、あなたが守り抜いた平和を維持し続けてみせましょう――わたしは死ぬまで、あなたの防人なのだから。
「…………さて」
先ほどヒマリが出ていった襖を開けて、ゴウランも廊下へと出る。ぴたりと襖が閉じられて、部屋の中に完全な静寂が訪れる。
――数分後。
窓の外から、新たな姫を迎える人々の歓声が沸き起こった。
終わりました……。
リアルでいろいろあったとはいえ完成まで四か月は時間かけすぎ……。
ペースアップしたい……。