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「ごくろうだったね、ゴウラン」

 神獣モロウは、男とも女とも判別のつかない、不思議な声色でゴウランさんに声をかけた。

 ……いや、実際に声を出したのかどうかわからない。口元はそれらしく動いているように見えたけれど、オオカミの口から人間の言葉が出てくる姿は、あまりにも違和感があった。

 しかし、人の背丈ほどもある巨大な体と美しい毛並みからは、不思議と神々しい雰囲気を感じられる。人の理から外れた存在……妖獣とはまた違う、畏れを抱かせる姿をしていた。

「そして……初めて出会うね、リンカ」

 モロウはゴウランさんから顔を背けると、わたしの腰にしがみついているリンカに視線を向けた。

 突然名前を呼ばれたリンカは目を丸くし、

「え……どうして名前……」

「知っていて当然さ。わたしはこの領の神獣だからねぇ……」

 リンカに話しかけるモロウの口ぶりは、とても優しげだった。まるで娘を慈しむ母親のように……暖かな言葉をリンカにかける。

 ……それがどこか媚びているようにも見えて、わたしは思わずリンカを右手で強く抱きよせた。

「姉さま……?」

「…………ふむ。お前、リンカを今まで守ってくれていたようだねぇ」

 モロウの鋭い瞳が、わたしを射抜く。

 それは、ぞっとするほど冷たい視線だった。リンカに向けた暖かな視線とは、まったく正反対の……。

「今まで……? なによそれ、これからだって、わたしは……!」

「そいつは無理な話だね。この子は、モロウ領の姫だ。竹藪で竹細工を作って生活する、一人の民としての人生はもう終わった……むしろ、その民を護る存在なのさ。そんなこの子を守る役目を、単なる小娘のお前が勤められると思うかい? ……まあ、ここまで守ってくれたことには感謝するけどねえ」

「……あなたもゴウランさんも、さっきから何を言っているの……? リンカが姫になるって、どういうことなの? なんでそんな必要があるの? モロウ領には、もうお姫様がいるんでしょう……そのお姫様はどうしたっていうの!」

 わたしがそう口にすると……何故かモロウは口を噤んだ。

 それどころか、ゴウランさんまでもが難しい顔をしながら唇を引き結んでいる。何かまずい発言をしてしまった……そんな空気が流れている。

「え……? な、なに……どうしたの?」

 わけがわからず問いかけるけれど、やはりどちらも答えてはくれない。何か幽世における禁句でも口にしてしまったのだろうかと不安になり、リンカの顔色を伺うが、リンカも何事だかわかっていないようだった。

 モロウがようやく口を開いたのは、戸惑うわたしを無視してリンカに問いかけた時だった。

「リンカ……昨晩から、この娘以外の人間と会ったかい」

「え? ……いいえ、誰とも会っておりません……。リンカたちが住んでいるのは竹藪の奥ですし、父さまと母さまは……妖獣に……」

「……そうかい、それは気の毒だったねえ」

 まるで他人事のように言うモロウを、わたしは睨みつける。

 ……あなたが、領の民を護る神獣なんじゃなかったの? あなたと、お姫様が民に与えたという御神体がしっかり家を守ってくれていれば、ショウリンさんもヨウファさんも、あの仮宿の宿主たちも命を奪われることはなかったのに……。なのに、どうしてそんな簡単に……!

 だが、そんなわたしの視線も意に介さず、モロウは言葉を続ける。

「そして、なるほどねぇ。この娘としか出会っていなかったから、リンカも気がつかなかったんだね……自らが、新たなモロウ領の姫になったことに」

「気がつかなかった……? モロウ領の姫に、なった……?」

 わたしは首をかしげる。わたしが口を挟んだことが気に食わなかったのか、モロウが鼻を鳴らす。

「……ああ、そうさ。……リンカ、ゴウランのお前に対する態度に、何か思うところはなかったかい」

「思う、ところ……?」

 リンカが不安そうに呟く。

「なぜこの屈強な男が、竹藪で生まれた、単なる一介の民である少女に膝をついたのか……疑問に思わなかったかい? それは、決してこの男だけが特別なんじゃないよ。今日から……いや、昨晩から既に、モロウ領に住むすべての人々が、お前にゴウランと同じような態度を取るようになったのさ。今まで出会ったことのある知人であっても、まるでお前が別人にでもなったかのように、特別な敬意を払うようになっているだろう。……もしもお前の両親が生きていれば、その二人でさえ……子供のお前に頭を下げるようになっていただろうね。――この世に少女として生まれたのならば、そして賢いお前ならば……この意味を、知らないはずはないだろう?」

 モロウの言葉を聞いたリンカが、さっと青くなった。そしてそれを見て、モロウは満足そうに頷いている。

 リンカはきっと、何かを理解した。だけど、わたしは何がなんだかさっぱりわからない。とはいえモロウやゴウランさんに尋ねるのは気は引けるし……仕方なく、わたしは青くなっているリンカに恐る恐る声をかける。

「あの……リンカ? 一体、どういう……」

「おい、お前……いや、ヒマリ」

 リンカに話しかけたわたしを、ゴウランさんが呼び止める。

「ヒマリ……お前はどうして先ほどから、リンカ様に対してかような態度を取るのだ。リンカ様は既に、単なる一介の少女ではない……領を護る『姫』なのだ。それはお前だって、充分わかっているはずだろう」

「え……いや、だって……」

 戸惑うわたしの言葉を、モロウが遮った。

「よしな、ゴウラン。さっきも言っただろう、この娘にわかるはずがないんだよ。……何せこちらの存在じゃない……この娘は、現世人だからねえ」

 はっきりと言われ、どきりと心臓が鳴った。

 モロウの吐き出すような言い方には……まるでまっさらな服にシミが付いているのを見つけたかのような、ありありとした嫌悪感が滲み出ていた。

「……わかるの?」

「わかるかだって? 見くびられたものだねえ、わたしは領の神獣だよ。領内に生まれ落ちた存在は全て把握しているし……紛れ込んだ異物のことだって承知しているさ。……だいたい、そんなけったいな格好をしておいて、気付かれないとでも思っていたのかい」

 ……いや、確かに学校の制服のままだけど……。

「だ、だって……現世のことは、こちらの人たちは皆おとぎ話の世界のことだと思ってるって聞いてたから……。ショウリンさんたちもこの服のことは、ちょっと変わった服だとしか思っていなかったし……」

「ふん、まあそうだろうね。日々を精一杯生きる民にとっては、現世人など常識の外の存在だ。……現にこのゴウランも、違和感は覚えつつも気づいてはいなかったようだし」

 モロウがクイと首を振った方を見ると、ゴウランさんは口をあんぐりと開けながらこちらを呆然と眺めていた。

「現世人……? 馬鹿な……」

「なんだい、ゴウラン。お前なら、その存在が幻のものではないことくらい知っていたはずだろう」

「いや、確かにそうなのですが……。しかし、生きていられるはずがない。いったいどうやって……」

「さてね……とんでもない強運の持ち主なのか、はたまた姫となる存在だったリンカの加護でも得たのか……。まあ、それはいいだろう。今モロウ領にとって大事なのは、こんな小娘のことじゃない。姫であるリンカのことさ」

 モロウはリンカを見るが……リンカは今だに顔を青くしていた。一体どうしたのだろうか……リンカは、何に気がついたのだろう?

「……ふむ、まだ心の整理がついていないようだね。無理もないか……」

 そう言うモロウの声色は、リンカに心から同情しているかのような憂いが含まれていた。そしてすっと視線を外し、鋭い瞳をわたしに向ける。

「……いいだろう。リンカが落ち着くまで、お前に説明してやろうじゃないか。昨晩このモロウ領と……リンカに起こったことをね」

 昨晩……竹藪の家が妖獣に破られ、ショウリンさんとヨウファさんが食い殺された夜。

 わたしたちにとって悪夢としか言えないあの夜に……他に一体何が?

「と言っても、起こったのは単純なことさ。……前姫であるシャンクゥが、死んだんだよ。そして新たな姫として、リンカが選ばれたのさ」

「……えっ」

 モロウの言い放った内容が、わたしはすぐに理解できなかった。

 ……死んだ? 領を護っているというお姫様が?

 領を、民を護っているというお姫様……誰よりも心優しく、多くの人々から慕われる素晴らしい人……ずっとそのように聞いていた。きっとお淑やかで、美しい人なんだろうなと想像し、その人のおかげでわたしはリンカたちに拾われたのだと、感謝もした。

 ショウリンさんたちが殺された後は……どうして二人を見殺しにしたのか、問い詰めたくなった。城下町につけば会えるんじゃないかと……いや、なんとしても会ってみたいと強く願っていた。

 そのお姫様が……昨晩、死んだ……。

「ど、どうして」

 わたしはお姫様のことを、勝手にわたしよりももう少しだけ年上くらいの年齢だと思っていたけれど……もしかしてお年寄りだったのだろうか?

 それとも……何か特別な理由が?

「お前、姫という存在についてどれだけ知っているんだい」

「……妖獣を抑え込む力を持っている人。神獣……つまりあなたから寵愛を受けた特別な存在だって聞いてる。神獣から寵愛を受けた姫は、領を護るための力を得る……例えば、家を守っている御神体も、お姫様が加護の力を込めているものだって……」

「間違ってはいないが……厳密には違うね。まあ、正確にわたしと姫の関係を理解している人間など、城の中にしかいないから当たり前だけどねえ。いいかい……神獣が寵愛を与えている、というのは正確な表現ではない。それではまるで、わたしが姫となる人間を選んでいるようだからねえ」

「え? ……違うの?」

「違う。姫とは、誰でもなれる存在ではない……なるものが、なるべくしてなる存在なのさ。……姫とは、わたしたち神獣の力を受け入れることのできる『器』を持って生まれてきた女性のことさ。その『器』を持った少女は、ごく稀に生まれてくるが……それでも領内に数人程度しかいない。現在の姫が死に、領に新たな姫が必要となったとき……そのうちの一人が自然と姫の力に目醒める。今回は、それがリンカだったのさ」

「自然と……? 勝手に姫に選ばれるってこと?」

「選ばれる、という表現が合っているかは疑問だね。少なくとも、神獣であるわたしたちが選んでいるわけじゃない……そうだね、強いて言うなら世界に選ばれた存在なのさ。そして選ばれたからには、使命を果たさなければならない」

「そんな……拒否することもできないの?」

 何気ない疑問のつもりだったのだけれど……モロウは馬鹿にしたように笑い出した。

「ハハハハハ! 拒否だって? 拒否なんてしたらどうなる! お前も知っているはずだろう、姫とは領を護るため、民が安全に生活をするために存在しているのだと! 姫の使命を放棄すれば、領の中はどうなる? 昼も夜もなく妖獣が歩き回り、人間など生活できるような状況ではなくなるのさ! それがわかっていて姫の使命を拒否する者などいるものか!」

「で、でも! 姫になるための器を持っている人間は、何人かいるんでしょう? 誰か一人が拒否しても、他の誰かがなることだって……」

 モロウがふんと鼻を鳴らした。

「……確かに、姫の素質を持つ少女は複数いる。だが選ばれるのは……その中から最も姫に相応しい少女だ。世のため、人のために自分の力を尽くすことができる……例えばそんな少女が姫として選ばれることが多い。……少なくとも、自分の都合で姫の使命を放り出すような子は選ばれないのさ」

 姫としての器を生まれ持ち、人のために頑張ることのできる少女……。

 ……リンカは「領と、そこに生きる民のために姫になってくれ」と頼まれて、それを拒否するだろうか。……するわけがない。両親のために自分の気持ちを捨てて、竹藪の仕事を継ごうとしていた子だ。そうしなければ人々が妖獣に襲われる……リンカはそれがわかっていて断るような自分勝手な子じゃない。

 モロウは口の端を上げてニヤリと笑う。

「……理解できたかい。前姫であるシャンクゥが昨晩死んですぐ……リンカは次なる姫として世界に選ばれた。そのことはすぐにわかったよ……新たな姫が誕生した際の、波動が伝わってきたからね」

「波動……?」

「人間には感じ取れない、力の波動さ……神獣であるわたしに居場所を知らせるためのね。……だがその波動は、神獣以外の、世の理を超えた存在にも伝わってしまう。領を荒し、人を殺し貪る……奴らにもね」

「……妖獣」

 ……そうか、妖獣たちもその波動を感じたから、竹藪の家に襲撃を……。あれ? でも……。

「待って。だったらあなたたちが与えたという御神体は何のためにあるの? 妖獣たちが家に侵入するのを防ぐためにあるんじゃ……」

「ああ……あれはね」

 モロウはちらりと、顔を青くしてうつむいているリンカを見て、

「……御神体には、妖獣の攻撃を防ぐ力などないよ。あれはあくまで、人の存在を妖獣たちから隠すためにある……つまり、気がつかせないことしかできない。だから家を封じて、侵入できないようにするのさ……妖獣たちは本来、無駄な破壊をしないからね。中に人間がいると気づきさえしなければ、妖獣たちはその場を素通りする……それで安全が保たれているだけだ」

「それならますます、わたしたちが襲われた理由がわからない! あの日はちゃんと全員で戸締りを確認したし、御神体だって……」

「だから」

 わたしの叫びを、モロウがぴしゃりと遮る。

「御神体では、隠しきれなかったのさ……リンカの発した、姫の波動をね。物陰に隠れたところで、大声を出したら意味が無いのと同じこと……。あまりにも強力すぎる姫の波動に、妖獣たちは家の中に人間がいることに気がついてしまった……だから侵入を許してしまったのさ」

「…………え? それって……」

 わたしは思わず、首を動かして見てしまった。

 自責と、後悔の念に押しつぶされてしまいそうな……妹の姿を。

「……そうさ。お前たちの家が襲われたのは、リンカが姫となった際に発せられた波動に、妖獣たちが気がついたから……。つまり、リンカが原因だったんだよ」

 ……リンカが顔を青くするはずだ。

 おそらくリンカは、自分が姫になったのだと理解した瞬間に、このことに気がついたのだろう。力の波動だとか、そういう理屈までは知らなくとも……姫になったという事実と、同じ瞬間に妖獣に襲われたことをリンカは結び付けてしまった。そして、その考えは当たっていた……。

「でも……でも! ……そんなの、リンカのせいじゃない……」

「ああ、その通りさ。……本来なら、例え姫が誕生したとしても、御神体が覆い隠した人間たちを見つけるなんて、妖獣どもには不可能だった……。だんだんと力が増しているんだよ、妖獣どもは。だからこそ……姫の存在は重要だ。妖獣どもが夜にしか活動できないのは、姫が領に加護を与えているからに他ならない。領に姫が座していない期間が長ければ長いほど、領は荒れ果て、見るも無残な姿となる。その度合いが激しければ激しいほど、復興するのにも時間がかかる。――だから一刻も早く、正式な姫となるんだ……リンカ」

 モロウがリンカに、優しく語りかける。

 リンカは……ようやく顔を上げた。顔色はまだ、あまり良くない。目尻には一雫の涙が溜まっている。

 だけれど……その幼い顔だちには、何かしらの決意が秘められていた。

「リンカ……」

「姉さま……ありがとうございます、リンカはもう大丈夫です」

 リンカはにこりと、儚げに笑う。そしてわたしの傍から離れ、自分の背丈の倍ほどもありそうな神獣……モロウに自ら近づいていき、まっすぐに向き直った。

「そして神獣さま……モロウさま。お待たせして申し訳ございません……リンカは自分自身の運命と、使命を理解いたしました。……これからは、領に住む全ての人々のため……この身を尽くさせて頂きます」

 すっと、リンカは綺麗なお辞儀をする。その様子を見て、モロウは満足そうに頷いた。

「……新たなモロウ領の姫、リンカよ……。わたしもお前のために、全てを尽くそう」

 モロウはするりとリンカの背後へと回り、まるでわが子を抱くかのようにお腹でリンカを包み込みながら座る。

 そして……鼻先でリンカの臭いを嗅ぎながら、言った。

「……いずれお前の命が尽き、お前が我が腹に収まるまで」

 …………え?

 いま……なんて言った?

「どういうこと!?」

 わたしは思わず、大声で叫んでいた。

 突然叫んだわたしに、リンカはびくりと肩を震わせ、モロウは鬱陶しそうに眼を細める。

「なんだい……小娘。まだ何か疑問があるのかい?」

「あるよ……わからないことだらけだもの! リンカの命が尽きて、それをあなたの腹に収める? ……それって、リンカを食べようとしてるってことじゃないの!? 何が領を護る神獣よ!」

 頭にカッと血が昇る。

 神々しさを感じたのも、全部勘違いだったんだ。

 結局モロウも、人のことを食べようとしている化け物だ。そんなの……!

「そんなの……あなたも妖獣と変わらないじゃない!」

「ヒマリ! 無礼だぞ!」

 ずっとモロウの傍に控えていたゴウランさんが、わたしを叱咤した。だけど、そんなことでひるんでいられない……!

「何が無礼なの!? 人を襲い、人を食べる化け物を妖獣と言うんでしょう。だったら、この犬の化け物のことを妖獣って呼んで何がいけないの!」

「いい加減にせんか! これ以上神獣様を侮辱するならば、例え民といえども容赦は……!」

 ゴウランさんが、腰に差した刀を抜き放とうとし、

「待って! 待ってください!」

 リンカの一声で、その動きを止める。

「リンカ! はやくその化け物から……!」

「姉さまも、落ち着いてください! ……ゴウランさま、先ほどモロウさまも仰っていたとおり、姉さまは現世人なのです……。モロウさまのことを悪く仰ったのも、きっと勘違いによるもの……どうか、姉さまの命を奪うようなことはなさらないでください……お願いです」

 リンカの言葉を受け、ゴウランさんは刀から手を放し、姿勢を正した。

「……承知いたしました。それと、わたしのことはゴウランとお呼びください。わたしはあなたを守るために存在する、防人の一族の一員……畏まられるような身分ではございませんので」

「それは、その……努力します。……姉さま」

 リンカが、心配するようなまなざしでわたしを見る。

「姉さま、教えてください……姉さまは、何をそんなに怒っているのですか?」

「何を、って……」

 もちろん、リンカが神獣モロウに食べられそうになっていることだ。

 妖獣から人々を守るために、リンカが姫になる……そこまでは理解もできるし、納得もできた。

 だけどそれで、リンカ自身がこのオオカミの化け物に食べられる結末を迎えるだなんて……そんなの絶対に許せない……!

 リンカはわたしがそう言ったのを聞くと、嬉しそうに少し頬を赤らめた。

「なるほど……姉さまが、そんなにリンカのことを心配してくださっているのは嬉しいですけど……。でも、大丈夫です。モロウさまの言った『腹に収める』という言葉は……姉さまが想像しているような酷いものではありませんから」

「……どういうこと?」

 リンカは目を閉じて、懐かしむように言う。

「姉さまには、現世のいろいろなことを教えていただきましたけど……人の死についてなどの、暗い話はしませんでしたね。……姉さま、現世では人が死ぬと……どうなるのですか?」

「どうなる、と言われても……」

 人が死ぬと、どうなるか……それは死んでみなければわからない。少なくともこの世からいなくなることだけは、確かだと思うけれど……。

 どう答えたものかわたしが悩んでいると、リンカは申し訳なさそうに笑い、

「すみません、少し曖昧な問いかけでした……。そうですね……生まれ変わる、という考えは現世にはないのですか?」

「それは……あるよ。死んだ人はその後巡り巡って、また新たな命として生まれ変わる……」

 ……本当のところは、わからないけれど。

「そうですか、現世にもあるのですね。リンカたちの世界でも、人は死んだら生まれ変わります。ですが、そのためには……一度神獣様の体に、魂が収まらなければならないのです」

 魂……?

 魂っていうのは……現世のものと同じと捉えていいんだろうか。その人の精神とか、生命力の核のようなもので、身体の中に納まっているとされるもの……。

「はい、そのように捉えていただいて構いません。リンカたちの体の中には、一人にひとつ、魂があります。魂は肉体が死ぬと抜けてしまいますが……神獣様の体に収まり、力を充填されることで再び世の中に生まれ落ちることになります。こうして世の命は巡り巡っているのです」

 これは……この世界、幽世における宗教的考えなのだろうか。

 それとも、幽世では実際にそのようにして、世界が巡っているのだろうか……。神獣や妖獣といった、現世の常識から外れた存在のいる世界だから、実際にそれが行われていてもおかしくはないけれど……。

 わたしはちらりと、モロウのことを見る。残念ながら、モロウの無表情な顔色からは、なんの情報も窺い知ることはできなかった。

「死んだ人間の魂は、本来ならば自然と神獣さまの元へと向かいます。ですが……妖獣に貪られた人間の魂は、神獣さまの元へは辿り着けないのです。妖獣は人間の体と、魂までもを食べつくしてしまいます。妖獣に食べられた人間の魂は、妖獣の体に取り込まれ……いずれ消滅してしまう。生まれ変わって、再びこの世に生まれ落ちることができなくなるのです。……父さまも、母さまも」

 リンカは悲しそうに目を伏せる。妖獣に襲われ、この世に生まれ変わることができなくなった両親のことを想い、嘆いているのだろう。

「ですから、神獣さまのお腹に収まるというのはあくまで、生まれ変わるための手順であり……とても自然で、かつ幸せなことなのです。妖獣たちが欲望のままに、人を殺すのとは全然違うものなのですよ。……ですから姉さま、姉さまがモロウさまのことを悪く思う必要はないのです」

 リンカはわたしを安心させるように、柔らかく笑う。……一方で、わたしは未だに深く理解ができないでいた。

 玄関口で突然、聞いたことのない宗教の教義を聞かされても、どう反応すればいいのかわからないように……リンカたちの信じているこの世界の仕組みについて、はっきりと理解を示すことが、どうしてもできなかった。

 魂、生まれ変わり……どれも現世で聞いたことのある言葉。

 だけどそれはあくまで想像の話、『あるのではないか』とされている程度の概念で……少なくともわたしは信じていないし、本気で信じている人とも会ったことがない。うちの家族はお寺にお墓参りに行き、正月は神社で初詣をし、クリスマスだって祝う……宗教に関わりはすれど縁は薄い、典型的な日本の家庭だったのだ。

 ……幽世に来てから、もうずいぶんと時間が経つ。日々の生活と、リンカから聞く話を経て、それなりにこの世界に馴染んできたんじゃないかと思っていた。

 だけどここに来て――わたしはここが自分にとって別世界であることを、他ならぬリンカから思い知らされていた。

「わかったかい……小娘」

 モロウの諭すような声。

「お前とわたしたちが、違う存在だということが……理解できたかい。お前はこちらの事情を、完全に理解することなどできない。姫が領にとってどれだけ重要であるかなどという、子供でさえわかっている事実さえ、お前はまったくわかっていなかった。……そんな現世人のお前が、リンカを守るだって? 冗談じゃないよ」

 そんな……そんなことない。だってわたしは、リンカの姉で……家族で……!

 しかし、一度心に生じた迷いは、そう簡単に消えてくれなかった。

「そして何より……姫を守るものは、強くなければならない。姫に一生を捧げ、自身の全てをかけて姫の命を守るもの……防人となるには、力が必要なのさ。……さあ、リンカ。これを」

 突然、モロウの茶と白の毛並みが眩く光り始めた。あまりの眩しさに思わず目を瞑り……目を開けると、光はひとつの場所に集約していた。

 リンカの顔のすぐ傍に、光は浮き上がっていた。よくよく見ると、光の中心に何か……片手で握り込めそうなほど小さなものがあることがわかる。

「…………牙?」

 それは、獣の牙のようだった。

 なんの飾り気もない、単なる動物の牙。ただ、目が眩むほどの光を放っていることだけが普通ではない。突然現れた光る牙は、まるでリンカの手に収まるのを待っているかのように、ふわりと宙に浮かび続けていた。

「それは、わたしの牙だ。……昨晩までは、ゴウランが持っていた」

 戸惑うリンカに、モロウが語り掛ける。

「その牙は、防人の武器となる。この世のどんな武器より強力な……お前を守るためだけに顕れる、神の武器さ。リンカ……自分を守る防人を選ぶんだ。そうすれば正式に、お前はモロウ領の姫となる」

「防人……」

「ああ、そうだ。防人の一族の中でも、自らを『防人』だと名乗れるのは唯の一人……姫を守るため、神獣の牙を託された者だけだ。……これからお前の傍に、ずっと仕える人間だよ」

「傍に……ずっと……」

 呟いたリンカとわたしの視線が……ぴったりと合う。

 防人という、姫を守る存在。リンカの傍を常に離れず、命が絶えるその時まで、一生リンカを守り続ける者……。

 わたしがその防人になれば……わたしたち、ずっと一緒にいられる……?

「やめな、リンカ」

 モロウがぴしゃりと言った。

「その小娘を、防人にしようというんだろう。さっきも言っただろう、その小娘は現世人……お前とは違う世界の人間だ。現世人を防人にするだなんて、あり得ないんだよ」

「でも……でも」

 リンカは縋るような目でモロウを見上げる。

 ……確かに、わたしは現世人だ。こればかりはどうしようもない事実だし、先ほど深い部分ではこちらの人間と隔たりがあることは充分に理解した。今でも魂だなんだという考えを信じ切ることはできないし、リンカがいずれ……例え魂であろうともモロウの腹に収まるというのは、我慢がならない。

 ――だけど。

 リンカの傍に居たい……リンカを守りたいという気持ちは、誰にだって負けないのに……!

「…………?」

「……え?」

「なんだ……」

 その時……奇妙な音が聞こえてきた。

 地鳴りのようなその轟音が、妖獣の唸り声だと気づいたのは――ゴウランさんの部下が走り寄ってきたときだった。



「ゴウラン様!」

 慌てた様子でこちらに駆け込んできたのは、さっきわたしに襲いかかってきた蜘蛛の妖獣を倒した人だった。

「何事か!」

「……妖獣だ! こっちへ向かってきてる!」

 ゴウランさんは眉をひそめ、その人を叱るように言う。

「周辺に来ていた一族たちはもう全員集まったのだろう、皆で力を合わせて……」

 駆け込んできた男の人――やけに目つきの鋭い、わたしより少し年上くらいのお兄さん――は大きく頭を振り、

「……妖獣の、大群なんだ! 物凄い数が押し寄せてきてる! それもやつら普通じゃねえ、オレたち一族の連中には目もくれずに、まっすぐ突っ込んできやがる! あまりの勢いに、だんだんと押され始めてる!」

「なんだと……」

 ゴウランさんの表情が一気に険しくなる。

「お前たちがいても駄目なのか。お前たちならば、一人で並の妖獣を十匹は相手できるだろうに……」

「三匹ほど、やたらと強いのがいる……おそらく、人を食った奴に違いねえ。いずれもエンマだ。そいつらから手が離せねえもんだから、だんだんと有象無象の妖獣たちが警備の隙間を抜けちまう。今はなんとか食いつないじゃいるが……時間の問題だ」

 お兄さんの言葉に、ゴウランさんは目を見開いた。

「馬鹿な……いくら人を食った妖獣とはいえ、一族の中でも優秀なお前たちと対等に戦うなど」

 お兄さんは悔しそうに歯噛みして、

「オレだって認めたくねえが……やつら本当に半端じゃねえ。オレもようやく隙を見て離脱できたくらいだ。頼むゴウラン様、手助けしてくれねえか」

 二人の会話をぼんやりと聞きながら……わたしはその人を食べたという妖獣について考えていた。

「……まさか」

 わたしは妖獣に食べられた人間を四人知っている。ショウリンさん、ヨウファさん、そして仮宿の宿主である老夫婦……。

 竹藪の家の周囲に、どれだけの人が住んでいるか、わたしは知らない。幽世に来てから、どこかへ出かけるということは一切なかったし、そういったことをショウリンさんたちに聞いたこともなかったから。ただ、ご近所付き合いのようなものが存在していないことはわかっている。そのことから、きっと竹藪の周辺に住んでいる人はいないのだろうと思っていた。

 こちらに向かっているという、人を食った妖獣。

 そいつはもしかしなくても――ショウリンさんと、ヨウファさんを殺した妖獣に違いない……!

「ねえ」

 わたしの足は、いつの間にか前に出ていた。

 突然声をかけられたお兄さんは面食らったような顔をしたが、ゴウランさんとの緊迫した会話に水を差されて気分を害したのか、ぶっきらぼうに言葉を返してきた。

「なんだお前、いきなり。こっちは忙しいんだ、戦えねえやつは引っ込んでな」

「そのエンマっていう妖獣は……どんな妖獣なの」

 わたしの態度に、お兄さんはますます不機嫌そうになる。

「なんなんだ? 猿にツノが生えたような、本来なら人間ほどの体格を持つ妖獣だ……あっちにいるのは小山のように大きいがな。……ここらに住んでて、猿魔えんまを知らねえのか?」

 ……やっぱり。

 こちらに向かってきているのは間違いなく、幽世に来てすぐわたしを襲い、そしてわたしの恩人である二人を殺したあの妖獣。

 ショウリンさんとヨウファさんの仇――!

「…………!」

 心の奥で、何かが煮え立っているのがわかる。

 これは、怒りだ。わたしは今、猛烈に怒っていた。

 二人を襲った上、さらにわたしたちに牙を剥こうとしている妖獣たちに。

 わたしとリンカを離れ離れにしようとしている、神獣モロウに。

 そして……それらに対して、なんの反抗もできない自分自身に。

「……欲しい」

 ――わたしは、いつまでもリンカの側にいたい。

 できることなら……ショウリンさんたちの仇を討ちたい。

 そのための、それを可能にする力が……。

 力が――欲しい!

「リンカ……。わたしを、あなたの防人にして」

 リンカが、モロウが、ゴウランさんが、部下のお兄さんが……一斉にわたしに視線を向けたことがわかった。

 だけど、わたしと視線が交わる相手はただ一人。

 わたしにとって唯一の家族……愛する、大切な妹だけだ。

「……現世人かどうかとか、関係ない。わたしが、リンカを守りたいの。だから……」

「いい加減にしな、小娘」

 モロウは歯茎を剥き出しにして、わたしに唸る。だけど負けじと、わたしもモロウを睨んだ。

「どうして? 妖獣たちが迫ってきているんでしょう、だったら一人でも戦える者は多い方が」

「そういう話をしているんじゃない!」

「じゃあ、どういう話? 防人になれば……妖獣を倒すことのできる武器を使えるんでしょう。……だったら、わたしがそれを使う。それでリンカを……守ってみせるから」

「聞き分けのない小娘だね!」

 モロウは立ち上がり、全身の毛を逆立てた。

「何が守って見せるだ、無様に腕を折った情けない姿でよくそんなことが言えたもんだ! それに言っただろう……現世人が防人になるだなんてあり得ないんだよ! お前とリンカは、違う世界の人間なんだ!」

「でも!」

 わたしは強く言い返す。

 言い負かされるわけには――いかない!

「……わたしは今、この世界で生きてるの! リンカたち家族に拾われてから……ずっと四人で暮らしてきた! 身よりもない、身元も不確かなわたしを……リンカたちは温かく迎え入れてくれた。……妖獣に殺される直前には、ショウリンさんたちはわたしを本当の娘にしたいとまで言ってくれたの!」

 昨晩、ショウリンさんがそう打ち明けてくれたとき……わたしは涙を流しそうになるほど嬉しかった。

 だけど……夢のような時間は、たった一晩で砕け散った。

 それなら……せめて。

 せめて二人が大切にしていたリンカは……わたしが守り抜かなければ!

「わたしの家族……ショウリンさんとヨウファさんは、妖獣に殺された。わたしに残されたのはもう、リンカだけなの。そのリンカも今、妖獣たちに狙われている……それもおそらく、ショウリンさんたちを殺した妖獣たちに! ……そんなこと、絶対にさせない!」

 わたしが発した大声に、モロウはうっとうしそうな表情を露わにする。

「いくら吠えたところで、お前が防人になるなどわたしが認めないよ! 小娘のお前が、どうやってリンカを守る? リンカを守るために、命を投げ捨てる覚悟がお前にあるか!」

「あるわよ! さっきも言ったでしょう、わたしにはもうリンカしかいないの! リンカのためなら……わたしは命の一つや二つ、いくらでも投げ捨てられる!」

 わたしの啖呵を、モロウは鼻で笑う。

「口ではいくらでも言えるさ。……大体、お前にはリンカしかいない、だって? お前は現世から来たんだ、現世に家族がいるだろう。現世でも天涯孤独だったとでも言うのかい?」

「……? それは、現世にはいるだろうけど。だけど、向こうに帰れないのなら、そんなのはいないも同じ……」

「じゃあ……現世に帰れる、と言ったらどうだい」

 …………え?

 わたしは一瞬……モロウの言った言葉の意味が理解できなかった。

「……どうした? 何を驚いているんだい。お前はこちらの世界に迷い込んできた……それならば当然、帰る方法もあるに決まっているだろう。わたしはこれでも神を名乗っているんだ、その程度のことを知らないとでも思っていたのかい?」

 理由も原因もわからず幽世に迷い込んで……幽世では現世が空想上の世界と思われていると知って、わたしはずっと、一生現世に帰る方法などないと思っていた――今後死ぬまで、この世界で生きていかなければならないのだと。

 だけど、この神獣はそれを違うと言う。

 ――衝撃を受けるなと言う方が、無理な話だった。わたしも……そしてリンカも、驚愕に目を見開いていた。

「当然、知っているだけじゃない……帰る方法はわかっているし、それを実践することだってできる。今すぐにというわけではないが……お前は確実に、現世に帰ることができるんだよ。……さあ、それでもリンカのために、命を捨てることができるかい? お前の実の親を、家族を……切り捨てることができるのか?」

 現世にいる……わたしの家族。

 お父さんと、お母さん。……そして双子の妹、日向。

 きっと、もう二度と会うことなどないと思っていた。こちらで長く生き続けているうちに、だんだんと記憶は薄れていき、いつかは忘れてしまうのだろうと。

 そう思っていた元の世界の家族に、また会える――?

「…………」

 思わぬ事実に困惑してしまったわたしの視界に飛び込んできたのは、

「…………姉さま」

 ――大切な妹の、寂しそうな顔だった。

「――だから、なんなの!」

 ……そうだ、今さら元の世界の家族に会えるからなんだというのだろう。

 わたしはもう、あの世界に別れを告げたはずだ。この世界でもう一度生きていこうと……リンカの姉として立派にやっていくんだと、心に誓ったはずだ。

 例え元の世界……現世に帰る方法があるのだとしても、その誓いを破るわけにはいかない!

 わたしはもう――幽世の人間なんだ!

「そんなことで、わたしがリンカのことを見捨てるとでも思ってるの? 冗談じゃない! わたしは絶対、リンカの傍から離れない! いつまでも、ずっと一緒にいるって……その子に約束したんだから!」

「……っ! 往生際が悪いやつだ……だが、わたしは絶対に認めないよ。お前もリンカも……防人になる方法はまだ知らないだろう。いくらお前が覚悟しようと、例えリンカが認めようとも、わたしはお前に防人になる方法を教えるつもりは……」

 巨体のオオカミと人間の小娘が叫びあう異様な光景に終止符を打ったのは、

「……接吻だ」

 ゴウランさんの、重く静かな一言だった。

 わたしもモロウも、ぴたりと発言を止める。わたしの疑わしげな視線と、モロウの怒りが込められた視線を浴びながら、ゴウランさんは淡々と話す。

「姫が防人にしたい人物を選び、牙を渡す。そして、一生傍に控え、その身を守って欲しいと祈りながら、接吻をする……それが、防人選定の儀式だ」

「本当……?」

「本当だ。……わたしが防人となったとき、姫が教えてくれたのだ」

 わたしは思わず目を見張った。

 ……ゴウランさん、姫の防人だったんだ。多くの人に慕われていたというお姫様を、ずっと傍で守り続けていた人……。

「あ……」

 そしてわたしはようやく気付く。

 ゴウランさんが……命を懸けて守ると誓ったはずの大切なお姫様が、既に亡くなっているという事実に。

 守るべき人を失うというのは……一体どれほど辛いことなのだろう。

 わたしには、わからない。――できれば、わかりたくない。

「ありがとう……そして、ごめんなさい。知らなかったとはいえわたし、ゴウランさんの前で……」

「……気にするな」

 そう言ったゴウランさんの表情は寂しげで――だけど何故だか、何かをやり遂げたかのような顔にも見えた。

「……ゴウラン! どういうつもりだ!」

 隠し通すつもりだった儀式の方法を勝手に話され、モロウは怒りに吠える。ゴウランさんは深く息を吐き、膝を折って首を垂れる。

「……処分は、如何様にでも。しかし、方法を知るだけならば問題はないでしょう。いずれにせよ防人となるには、それにふさわしい人物でなくてはなりません。ふさわしくない人物に儀式を施したところで、牙はその力を顕さない……そのことはモロウ様が一番よくご存じのはず」

 頭を下げたゴウランさんに、モロウは低く唸った。何も言い返さないということは、ゴウランさんの言葉は正しいのだろう。

 防人となるのにふさわしい人物――わたしは、防人になれるだろうか?

「……モロウさま」

 唸り声をあげていたモロウに、リンカが恐る恐る声をかける。流石に姫に対して険しい顔をするわけにいかないのか、モロウは唸り声を引っ込めた。

「モロウさま……あなたはおっしゃいました、リンカのことを守る防人を……ずっと傍に仕えてくれる者を選べと」

「…………」

「領に加護を与える姫を守る人間は、誰よりも強く、そして誰よりも領と民のことを深く愛している者がふさわしい……モロウさまはきっと、そう考えていらっしゃるのでしょうね。……姉さまは現世人で、こちらの世界の仕組みについてはまだ知らないことも多いです。それに心優しい姉さまは、きっと誰かと争った経験もないでしょう。……リンカ自身、姉さまに危険な目に遭って欲しくはありません。今でさえ、妖獣に手酷く襲われて、腕を折ってしまっているのに……」

 リンカは、わたしの動かない左腕を痛々しそうに見る。

「防人になるということは、姫の盾となって妖獣と戦うということ……その一生を、戦いの中に置くということです。それを考えると、リンカも少し尻込みしてしまいます……だけど」

 リンカは、手の中の牙をぎゅっと握りしめながら……わたしに笑顔を向ける。

「だけど……ずっと一緒に居て欲しい人を心の中に思い描いたとき……そこにいるのはやっぱり、ヒマリ姉さまなのです」

 モロウは大きな目を細め、リンカの顔をじっと見やる。やがて、わたしからモロウへ向き直ったリンカの瞳に、迷いが一切ないことを悟ったのか……首を小さくうなだれて、深く息をついた。

「……いいだろう。試してみるがいいさ、お前がリンカの防人としてふさわしいのかどうか。……妖獣たちも、近くまで迫ってきているようだしねえ」

 ハッと気付いて、耳を傾ける。……妖獣たちの咆哮と、防人の一族たちが上げる怒号が、はっきりと聞こえてくる。……急がないと。

「……リンカ」

「姉さま……」

 リンカに近づき、その手のひらに包まれている牙を受け取る。

 ……暖かい。まるで生きているみたい……。

 片手にすっぽりと収まる大きさのそれを、まじまじと眺めていると、

「姉さま、あの……少し身を屈めて戴けると、その……」

 ……そうだ、牙を受け取ったら終わりじゃないんだった。リンカがわたしに接吻をすることで、ようやく防人の儀式となる……。

 リンカを見ると、頬を赤くしてもじもじしている……。かくいうわたしも、流石に少し恥ずかしくて、顔が熱くなっているのを感じる。

「あの……どこにして貰えれば?」

 いたたまれなくて思わずゴウランさんに尋ねると、ゴウランさんは呆れたように首を振り、

「……どこでも構わん。姫様も、ご決断を。妖獣たちがここにたどり着くまで、もういくらも猶予はありませぬので」

 わたしたちは困ったようにお互い見つめ合い、

「じゃ、頬っぺたに……」

「は、はい」

 リンカの背丈に合わせて、わたしは膝を折って頬を差し出す。

「では、姉さま……リンカにもう一度約束してください。絶対に、リンカの傍を離れないと。ずっとずっと、一緒にいてくださると……」

「……勿論だよ。わたしはリンカの、お姉ちゃんなんだから」

 左頬に――ひやりとした感触がした。

「…………えっ!?」

 途端に、わたしの身体に異変が起こる。

 外見自体は変わっていない……いつも通りの制服姿だ。だけど、体中からふつふつと力が湧き上がってきていることがはっきりと感じ取れる……!

 まるで体中の血液が煮たっているいるかのように、全身が熱い。風邪を引いて高熱を出した時に感覚は近いけれど、むしろ体調はすこぶる良くて、活力とか気力が体中に満たされて、どんなことでもできそうな万能感が頭を支配する。

 これって、もしかして、もしかしなくても……!

「……防人として認められたか」

 ゴウランさんの静かな声が、耳に飛び込んでくる。

 モロウは苦々しい顔を浮かべ、お兄さんは口をあんぐりを開けたままわたしの姿を呆然と見ている。

 そしてすぐ傍にいるリンカの顔には……溢れんばかりの笑顔。

 ――やった。

 わたし、リンカの防人になれたんだ――!

「体中を駆け巡る力を感じ取れているか。それが儀式を経て、姫様を伝ってお前の体に流れ込んでいる力――お前がこれから振るうことになる、神の力だ」

「神の……神獣の、力」

「そうだ。今のままでも、並の人間以上に頑丈で健康な肉体を得たことになる。……左腕を見てみろ」

 ゴウランさんに促され、わたしは左腕を確認しようとして――自然な動きで、折れて動かなくなっていたはずの左腕を動かした。

「えっ! ……嘘、治ってる……」

「爆発的に神の力が流れ込んだことで、一足飛びに怪我が完治したようだな」

「すごい……」

 骨折なんて、完全に治るまで一か月以上はかかるはず。それがほんの一瞬で……。

 これが、神の力……そして防人の力。

 確かにこれさえあれば、きっとリンカを守ることが……!

「勘違いするな、ヒマリ。怪我が治ったのはあくまで、お前が防人になってすぐだったから……神の力が一気に体中に満たされたからだ。防人は傷つかなかったり、怪我をした傍から治っていくほど、人の理から外れてはいない。力に溺れて無茶をすれば、守りたいものも守れなくなるぞ」

「は、はい」

 浮かれるわたしの心を見透かしたかのように、ゴウランさんはぴしゃりと言う。

「……それに、防人の力は体が丈夫なことではない。丈夫な体も、力強い肉体も……全ては神の武器――神獣の牙を操るためにある。……強く欲しろ、姫を守るための力を。そして握りしめるのだ。さすれば、お前の心に見合った形を伴って、神の牙は現れる!」

 わたしは右手に秘められた牙を、改めて強く握りしめる。

 ほんのりと暖かかったはずのそれは、今や燃えるように熱く熱を帯びていた。けれども構わず、わたしは牙を握りしめ――心に強く願う。

 お願い、わたしに戦う力をください――!

「!」

 右手に――硬く、重い感触がある。

 わたしの手の中から牙の姿は消え失せて……代わりに物々しい刃物を携えた武器が握られていた。

 握りしめている柄は槍のように長く、美しい深紅に彩られている。

 その柄の先には、反りのある刀身がついている。月の光を反射する銀の刀身は、これまで見たどの刃物よりも……いや、どんな芸術品よりも美しかった。

「また変わりものを握ったものだ……これも現世人だからなのか?」

 わたしの手に握られていた武器は――長刀なぎなただった。

 防人の一族は、刀を用いて妖獣たちと戦う……という話はショウリンさんから聞いていた。それを考えると、わたしの武器である長刀は、刀と言うには少し特殊な形をしている……ゴウランさんが困惑するのも仕方がないのかもしれない。

 だけど、わたしにとってはこの形が必然のような気すらしていた。

「……まるで、槍みたい」

 なぜなら、わたしにとって誰かを守るための武器とは……ショウリンさんの作った竹槍のことだから。

 長い柄を握る感覚が、なんだかすごくしっくりくる。これこそがわたしの武器だという気がしてやまない……。

「戦う覚悟は、整ったか?」

「……はい! いつでも行けます!」

 ゴウランさんの問いかけに、わたしは強く頷く。そんなわたしを、リンカが心配そうに覗き込んできた。

「姉さま……お気をつけて」

「……大丈夫。リンカを狙う妖獣たちをみんなやっつけて、すぐに帰ってくるからね」

 リンカの身体をぎゅっと抱きしめてから、わたしは再度長刀を強く握りしめて、駆けだした。



「うわっ……?」

 自分でも少し戸惑ってしまうほど、身体が軽い。まるで足に羽が生えているかのようだ。一歩進むごとに景色は後方へ流れ去り、あっという間にリンカたちから離れていく……。

「妖獣たちと遭遇する前に、身体を慣らしておけ。いくら強い力を持っていると言えども、使いこなせなければ意味がない」

「は、はい!」

 確かに、少し走るだけでも困惑してしまうほど、防人となった今のわたしは普通の人間だった頃と全然違う。全身の動きを隅々まで確認しながら、わたしは大地を走る。

 先行しているゴウランさんの背中を追いかけながら進む。……ゴウランさんはもう姫の防人ではないのに、油断したら置いて行かれそうなほど足が速い。ちらりと後ろを伺うと、目つきの悪いお兄さんもしっかりとわたしの後ろについていた。……やっぱり、防人の一族の人たちって凄いんだ……。

 耳に届く妖獣と防人の一族たちの叫び声が、だんだんと近づいてくる。あともう少しで、戦いが始まる……!

「ヒマリは、何かと戦う経験がないのだったな」

「は、はい……。ちっちゃな鳥みたいな妖獣と、イノシシみたいなのには立ち向かいましたけど……。イノシシには吹っ飛ばされたあげく腕も折られて……」

「そうだったな。初めて戦いに赴く者に、助言の一つでも与えたいところだが……」

 ゴウランさんはちらりとわたしの方を、というよりもわたしの握る長刀を見て、ふうと一つため息をついた。

「生憎、わたしはあまり長刀についての心得を知らん。……しかし、戦い方については問題ないだろう。わからなければ自分に聞け。……行くぞ!」

「……えっ?」

 聞き間違えたのかと思い問い返したのだけれど、ゴウランさんはわたしを置いて一足先に行ってしまった。

「……急げよ」

 戸惑っていると、後ろから来ていたお兄さんまで、わたしを追い抜いて先に行ってしまう。

 ……わからなかったら、自分に聞け? わからないのは自分なのに……一体どういうこと?

 だけど、困惑していられる時間は長くなかった。

「!」

 わたしに向かって、妖獣が二匹飛び掛かってきた。おそらく、他の防人の一族たちの防衛線を抜けてきたのだろう。

 戦い方なんてわからない。長刀の振り方だって知らない。

 だけど……ここを抜けさせるわけにはいかない!

「やあああああああああっ!」

 わたしは妖獣たちに向かって、心のままに突き進んでいき――、

「…………!」

 これ以上無いというほどの鮮やかな動きで、二匹の妖獣を一太刀の元に両断していた。

「……自分に聞けって、こういうこと……!」

 妖獣と相対してようやく、ゴウランさんの言った言葉の意味がわかった。

 わたしの身体は、まるで見えない糸に操られているかのように勝手に動いていたのだ。

 そこに違和感のようなものは一切なかった。歩いたり走ったりするのと同じような、出来て当たり前のような感覚さえあった。……わたしの身体は、戦い方を既に知っていた。

「これも、神獣の力……?」

 二匹の妖獣を瞬く間に倒したわたしは、次なる相手を探し前へと出る。……目指すはショウリンさんとヨウファさんの仇。人を食べたという妖獣――猿魔!

 妖獣たちをすれ違いざまに斬り殺しながら、わたしは戦場を駆け抜けていく。最も争いの激しそうな場所へ向かって一直線に、時に劣勢になっていた防人の一族たちを助けながら、わたしは突き進んでいく――!

「あれは誰だ!」

「強すぎる……! 普通の人間ではない……まさか!」

「……防人だ! 防人に選ばれた誰かだ! ……モロウ領に、再び姫が帰ってきたのだ!」

 わたしが派手に暴れるたびに、防人の一族たちは声を上げて歓喜し、そして気勢を上げる。その勢いは大きな流れとなり、やがて力となって妖獣たちを押し返す。

 ……もう、普通の妖獣たちは大丈夫だ。あとは――!

「…………!」

 空気が振動するほどの妖獣の咆哮が、周囲に響き渡った。

 ……いる。そこら中に群れている妖獣たちとは、比べ物にならないほど強力な妖獣が、向こうに……!

「ヒマリ、こちらだ!」

 ゴウランさんの声を聞きつけ、わたしはそちらの方向へと急ぐ。そこで待っていたものは、

「大きい……!」

 わたしの記憶の中にいるより、一回り大きくなった猿の化け物の姿だった。

 頭に生えた角はさらに禍々しく、腕も足も丸太のように太く、背丈は屈んだ状態でも人間の身長を優に超えている。凶悪に赤く光る目玉だけが、以前と変わらないぎらつきを見せていた。

 猿の化け物――猿魔は三匹いて、各々が連携も取らずに暴れまわっている。まるで暴風雨のような荒々しい暴れ方に、ゴウランさんたち防人の一族たちはなかなか攻め時を探れずにいるようだった。

「どいてください! わたしがやります!」

 わたしは戦うゴウランさんたちの合間を抜けるようにして素早く前へ出る。ゴウランさんたちの止める声が聞こえてきたが……いま以上の好機はない気がした。

 初めは戸惑った防人の力も、もう完全に馴染んでいる。

 身長よりも長い長刀も、もはや自分の体のようだ。

 このまま一気に……仇を取る!

「はああああああああああああっ!」



 ■



「……なんて奴だよ」

 ゴウランの部下――目つきの悪い男――ゼンホウは、目の前に広がる光景を見て思わずつぶやいた。

 三匹の猿魔……それも人を喰い、通常の猿魔より何倍も強大な力を得た妖獣を相手に――たった一人の少女が大立ち回りを演じていた。自身の身の丈よりも大きな長刀を操り、まるで舞踏でもしているかのような華麗な動きで、凶暴な猿魔たちを翻弄し続けている。

「……防人ってのは、あそこまで強くなれんのかよ」

 ゼンホウは、あの少女がつい先ほどまで単なる民であることを知っていた。対して強くもない妖獣に襲われ、簡単に腕を折られたようなか弱い少女のはずだった。……それが今や、自分を含む実力者たち全員でかかっても苦戦した妖獣を相手に、優位に立ちまわっている。

 ――姫と、そして領の民を守るために日々鍛錬に勤しんできたゼンホウが、それを見て悔しがらないわけがなかった。

「わたしが防人であったときも、あそこまでではなかった。……おそらく、新しい姫であるリンカ様の力が強大なのだろう」

「……ゴウラン様」

 自分が知る中で最も強い男であるゴウランも、もはや戦いに参加しようとせず少女の戦いを見守っている。初めは突撃していった少女を止めようとしたゴウランだったが、すぐに自分たちにその場を下がるよう指示を出した。……むしろ足手まといになることを、瞬時に悟ったのだ。

「……つまり、あいつじゃなくても良いってことかよ。今の姫に防人として選ばれれば、誰だってあれほどの力を得ることができたと……」

「かもしれんな。……だがまあ、姫が選んだのはあの少女だったのだ。それを変えることは、もはやできん」

 ゼンホウは睨みつけるようにして、再び少女の戦いぶりを見る。

 ――長刀の一振りで、猿魔の丸太のような腕を両断した。

 ――複数の方向から迫りくる攻撃も、しなやかな動きで全て捌ききった。

 ――右側の猿魔の首が、飛んだ。地面に倒れ伏した首なしの胴体は、もはやピクリとも動かない。あの猿魔に、自分は一太刀すらも浴びせられなかった――。

「…………クソ」

 ゼンホウは己の刀をぎりぎりと強く握りしめる。

 防人の一族になってから、いやなる前からも常に、自らの身体を鍛え続けてきた。防人であったゴウランにも負けない程の強さを手に入れたという自負もあった。

 実際、前姫の身体の容体が悪くなり、いずれ新たな姫が誕生するとなったとき、防人の候補としてゼンホウの名前は真っ先に上がった。自分か、あるいは自分に並ぶ実力を持つ数人から、新しい姫は防人を選ぶのだと……ずっとそう思い続けていた。それは彼にとって誇りとなり、より一層研鑽を積むようになった。

 だが。

 防人の地位は、突然現れた少女に奪い取られてしまった。

「クソッ……!」

 ……少女の長刀が、一振りで二匹の猿魔の首を飛ばす。

 少女は猿魔の返り血を浴び、全身が黒く染まっていたものの……結局傷ひとつ負うことはなかった。

 空を舞うように戦っていた少女は羽のようにふわりと着地すると、ひとつ小さく息を吐き、戦いの終わりを一族たちに告げる。

 周囲が歓声に沸く中で――ゼンホウだけが一人、情けなさと悔しさでその身を震わせていた……。

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