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「姉さま、見てください! あれが仮宿です」

 夕暮れ時、太陽がだいぶ低い位置まで沈み込んだ頃、リンカは前方に見えた建物を指さしてそう言った。

 竹藪を抜けた先は林道があり、そこをまっすぐに抜けると平坦な道がずっと続いていた。延々と道を歩き続け、目的地が一向に見えてこないことにわたしが内心焦りを感じ始めた頃に、ようやく仮宿は姿を現した。

 仮宿はわたしたちが住んでいた竹藪の家よりもほんの少し大きいくらいの建物だった。ただ、家の造りはずいぶんと違う。竹藪の家は良く言えば歴史のある、悪く言えば古びた家屋だったけれど、仮宿は同じ木造の家ながら屋根も壁も立派なもので、どこにも傷んだ様子が見られない。

 わたしがそのことをリンカに言うと、

「仮宿は、領が管理をしているのです。遠出をする民たちが仮宿を使おうとして、もしもその仮宿が宿泊のできない有様になっていては困ってしまいますから」

 ……つまり、公営の建物らしい。食料や宿泊設備なども、しっかりと確保されているのだそうだ。

「あそこの仮宿は、おじいさんとおばあさんの二人が宿主やどぬしをしているのです。いつもリンカに優しくしてくれる、とっても素敵な人たちなのですよ」

 そう言ってリンカは、屈託なく笑う。久しぶりに見知った顔に出会えるので嬉しいのだろう。……まだ両親を失った傷は完全に癒えていないだろうけど、笑顔を浮かべられるくらいには快復しているようだ。

 ……心の傷を癒すのに、わたしの存在が少しでも力になれてたらいいな。

「さ、姉さま、行きましょう。もうだいぶ日が落ちてきてしまいました……いつもなら、おじいさんたちが仮宿を利用する人がいないか確認するために、玄関で待っているのですけど……。今日はいらっしゃいませんね」

 リンカはわたしと繋いでいた手を離して、トトトと仮宿へ駆けていく。

 わたしは再度、近づいてきた仮宿を見る。いつもならおじいさんたちが待っている……ということだけれど、確かに今日は誰もいない。玄関の引き戸はぴったりと閉められていて、中に人がいるのかさえわからない。

 ――――いつもなら……?

 わたしは、急に嫌な予感がした。

 普段通りのものが、普段通りじゃない理由。それはいったい、なんだろう……?

 何の根拠もない。単なる気のせいかもしれない。だけどわたしは思わず、駆けだしたリンカを追いかけ、呼び止めていた。

「リンカ、待って……!」

 しかし、遅かった。リンカは一目散に仮宿の玄関へと向かっていき、

「おじいさん、おばあさん! 竹藪のリンカです、失礼いたします……」

 ぴたりと閉じられた玄関の戸に手をかけ、一息に開いた。

「え…………」

 戸を開け放したまま固まってしまったリンカに、わたしは予感が的中したことを悟る。

 リンカに追いついたわたしが玄関の向こうに見たものは――おぞましい光景だった。

「う…………」

 部屋の床に、壁に、天井に……赤黒い色の液体が、激しく飛び散ったような汚れが広がっている。

 そして床の汚れの上にはいくつも、散らかしたように肉塊が放置されていた。その殆どはぐずぐずとした肉塊で、原型すらわからないようなものだったが……一本の痩せこけた腕と、一つのしわくちゃな足先で、その肉塊が元は人間の形をしていたことがわかった。

 わたしは咄嗟に、リンカの目を塞ぐ。そのまま玄関から連れ出し、家の中が見えない位置まで連れてきてから手を離した。

 リンカは、目を見開いたまま固まっている……目の中に飛び込んできた光景が、頭の中で整理できていないのだろう。

「姉さま……姉さま、あれは……」

「駄目だよ、リンカ。思い出しちゃ駄目」

 震える声で問いかけてくるリンカを、わたしは強い声で抑えつけた。リンカの頬っぺたを両手で包み、まっすぐに瞳を覗き込む。

「……あれはリンカが見てはいけないもの。ずっと覚えてちゃ駄目なの。……わたしの顔が見える? どうしても忘れられないのなら、わたしの顔でもなんでもいいから、別のものを目に焼き付けて」

 リンカはきっと唇を引き、コクコクと頷く。青ざめてしまっているリンカの頬を、優しく撫でてあげた。

「……リンカ、少しここで待っていて。ただし、何かあったらすぐに呼ぶこと。いい?」

 リンカをその場に留まらせて、わたしは一人で仮宿の中へと足を踏み入れる。

「……っ」

 何度見ても、胸が悪くなる光景だった。

 まるでわざと撒き散らしたかのように、肉塊は部屋のあちこちに散乱している。ただ食べただけではない……死体を弄んだ様子が見て取れた。

 玄関を抜け、居間に上がって驚く。……正面の壁に、大きな穴が開いている。

 外側から内側に向かって破壊された跡だ。たぶん……妖獣が外からものすごい勢いで突っ込んできたに違いない。そういえば玄関の戸はぴったり閉じられていた……ここから妖獣が侵入してきたんだ。

 板張りの床には、生々しく血の跡が広がっている。恐る恐る触ってみると、もう殆ど乾いてしまっている。襲われたのは昨日の夜だろうか……それからずっと、この仮宿は放置されていた……。

 居間を抜けて、仮宿内にあるすべての部屋を調べる。人の気配はない……そして、妖獣の姿もない。夜が明けて、どこかへ去っていったのだろう。

 もし万が一にも、妖獣が仮宿の中に身を潜めていたら困ったことになっていた……わたしたちは今日、この仮宿で一晩を過ごさなくてはならないのだから。

 どの部屋にも共通して、あるものがあった。……竹槍。おそらく、ショウリンさんが作ったものだ……仕上げの感じに見覚えがある。部屋の隅に立てかけてあるそれらは、一つとして使われた形跡がなかった。仮宿の宿主たちは、竹槍を掴む間もなく殺されてしまったのだろう……。

「うっ……」

 居間に戻ってくると、血と脂の臭いが鼻を衝いた。少しでも臭いを晴らそうと、思わず窓を開ける。……太陽が、もうずいぶんと低い位置にある。急がないと……。

 わたしは意を決して、部屋中に散らばった肉塊を集め始めた。こんな恐ろしい部屋に、リンカを寝かせるわけにはいかない。気休め程度でもいいから、綺麗に掃除をしなければ……。

 ぶよぶよとした肉塊に触れるたびに吐き気を催す。……だけど、いちいち吐いていたら時間が足りない。わたしは感情を押し殺しながら肉塊を拾い、妖獣に開けられた壁の穴から外へと放り出した。

 唯一大きく残っていた腕と、足の先を拾う。……この肉塊が元は人間の形をしていたのだと、はっきり窺い知ることのできる残骸。時間さえあれば、せめて穴を掘って埋めてあげたいところだけど……残念ながら、そんなことをしていたら夜に間に合わない。わたしは心の中で手を合わせながら、腕と足の先も外へと投げ出す。

「…………っ」

 肉塊を大方片付けたところで、わたしはそれを見つけてしまった。

 髪の毛だ。白髪の、長い髪の毛。この宿にはおじいさんとおばあさんがいたとリンカが言っていたので、きっとおばあさんのものだろう。

 その髪の毛の束は……頭皮に生えている状態で床に投げ捨ててあった。髪を掴まれ、無理矢理に生皮を剥がされたのか、頭を丸ごと齧られたのか……なんにせよ、惨たらしいことをされなければこんな風にはならないだろう。

「…………」

 血に染まった白髪を掴み持ち上げると、頭皮がべちゃりと音を立てて床から離れる。それも他の肉塊と同様に、開いた穴から外へと放り出し、

「……っう、……ぅえっ……」

 堪えることができず、わたしは外で少し嘔吐した。

 室内へ戻り、寝具の置いてあった部屋へと向かう。

 時には大勢が泊まることもあるからか、布団はたくさん用意してあった。手当たり次第に居間へ布団を運び、床中に敷き詰める。乾ききった血痕を拭う時間はないため、布団で覆い隠すことにしたのだ。壁にこびりついた血痕までは隠しきれないけれど……こればっかりはしょうがない。

 最後に、妖獣に開けられてしまった穴を塞ぐため、汗だくになりながら箪笥を動かして穴の前に置いた。これで穴を塞いだことになるかはわからないけれど……そのままにしておくよりはずっといいはず。

 ……これで、一先ずはいいだろうか。少なくとも、リンカに見せられないようなものは全て退かしたし、妖獣が侵入したと思われる穴も塞いだ。あとは、無事に朝を迎えられるかどうかだけれど……そればっかりはわからない。

 そういえば、とわたしは視線を上へと向ける。

 ……あった。居間から炊事場へと続く障子の上に、竹藪の家にあったのと同じような神棚があった。祀られている小箱の中にもやはり、同じような紙人形。

 ……この仮宿も、当然のように御神体を祀り、きちんと戸締りをして夜を迎えたんだ。そうすれば、安全が保障されると信じて。それなのに、妖獣は情け容赦なく壁を破り、仮宿の宿主たちを殺してしまった……。

「…………」

 自然と、御神体を睨みつけてしまう。

 神獣……そして、神獣から寵愛を受け、領に加護を与えているという姫。

 多くの民に好かれる、素晴らしい姫様だと、ショウリンさんたちやリンカも言っていた……それなのに、どうしてこんなことに?

 ショウリンさんたちも仮宿の宿主たちも、神獣と姫を信頼して御神体を祀っていたのに、彼らはそれを裏切った。閉じられた家はあっけなく暴かれ、なすすべもなく命は奪われた。

 そもそも、この御神体とはなんなのだろう。単なる紙人形にしか見えないそれは、確かに家を護っていたはずだった。それならば、どうして突然その力を失ったのか。なぜ、ショウリンさんたちは殺されなければならなかったのか……。

「……城下町に行けば、会えるのかな」

 わたしは神獣と姫に、会ってみたい衝動に駆られる。

 単なる小娘のわたしと話してくれるのかはわからないけれど……そうしなければ、気が済まない。

 なぜ御神体は力を失ったのか。なぜわたしたち家族を見捨てたのか。

 そして……ショウリンさんたちの命が奪われた事実を、心優しいという姫はどう捉えているのか……。

 わたしはそれが、知りたくなった。



 外に待たせていたリンカを呼び寄せる。あとほんの少し時間が経てば、太陽は完全に沈んでしまう。開けられた穴を塞いだだけのこの仮宿で夜が明かせるのか……不安じゃないと言うと嘘になる。だけど、それしか方法はない。

 仮宿には、備蓄されていた食料は豊富にあった。それを拝借して、簡単な食事を作り食べる。わたしもリンカも朝から何も口にしていなかったけれど、血に塗れた室内を見た後なのでお互い食は進まなかった。

「……それでも、何も食べないわけにはいかないからね。食料が妖獣に荒らされてなくてよかった……」

「……それはそうです。妖獣は人間しか襲わないし、食べませんから」

「人間だけを襲う……?」

 まるで悪意だけでできているような生き物だと思った。リンカ曰く、妖獣が動物たちを襲ったという話は聞いたことがないらしい。人間を乗せた動物を襲うことはあれど、人間以外の動物を積極的に害そうとする行動を妖獣たちは取らないのだそうだ。

 そんな生き物、あり得るのだろうか……わたしは不思議に思ったけれど、考えてみればコアラはユーカリの葉しか食べないらしいし、アリクイはその名の通りアリばかり食べる。人間を標的にしているから邪悪な存在に思えるけれど、生物としてはそんなに不思議でもないのかもしれない。

(だからといって、ショウリンさんたちが殺されたことが、仕方ないことだとは思えないけれど……)

 食事を終えた頃には、もう太陽が落ちかけていた。二人がかりで仮宿内の窓と扉を確認し、全てが閉まっているかどうかを確かめる。御神体の力が信用できない今、これをしても絶対の安全は保障されないけれど……習慣というのは恐ろしいもので、やはりこれをしないと眠ろうという気にはなれなかった。

 全ての窓と扉を確認し終え、居間に敷き詰めた布団に二人して寝転がる。その際わたしは、部屋の隅に立てかけてあった竹槍を一本、寝床のすぐ近くに置いておいた。

「姉さま……これ、もしかして……」

「うん……たぶん、ショウリンさんが作った竹槍だと思う」

 ……いざというときは、きっとショウリンさんが力を貸してくれるはず。

 わたしは竹槍を、ぎゅっと握りしめた。

 人が死んだ現場ですぐに寝つけるはずもなく、わたしは布団の上でリンカとお喋りを繰り広げていた。

 昨日の夜は殆ど寝ておらず、日中はずっと歩きっぱなし。その上、妖獣が食い散らかした跡の掃除までして……そろそろ体力的にも精神的にも限界が近い。けれども、瞼は一向に降りてこなかった。

「城下町では、どのようにして暮らしましょうか」

「そうだね……まずは仕事を見つけないとね。何か、わたしにでもできる仕事があればいいのだけど……」

「姉さまでしたら、どんなお仕事だってすぐにできるようになります。それに姉さまは文字も読めますし、もしかしたらお城で官のお仕事をされることだって……」

「あはは。だからわたしが読める文字は、あくまでも現世の文字なんだってば……」

 なんのとりとめのない会話。

 だけど今は、こんなひと時こそが幸せだったのだと分かる。ショウリンさんやヨウファさんとは、もうこんななんでもないような会話すらできないのだから……。

 わたしとリンカは寝ることも忘れ、延々と会話を紡いでいく。

 失ってから後悔することのないように。

 楽しい思い出だけを、頭の中に詰め込もうとしているかのように……。



「あれ……?」

 リンカが不思議そうな声を上げたのは、わたしが学校生活についての話をしていたときだった。

 興味深そうに授業やテストのことに耳を傾けていたリンカが、ふいに何かに気を取られたかのように首を動かす。

「どうしたの?」

 疑問に思って問いかけると、リンカは怪訝そうな顔をしながら、

「何か、聞こえたような気がしたのですが……」

 幽世の夜は、恐ろしく静かだ。

 そんな中で音を立てる存在……まさか、妖獣? わたしは咄嗟に飛び起きて、傍に置いておいた竹槍を掴む。するとリンカが慌てたように言った。

「あ、姉さま……リンカが聞こえたような気がしたのは、人の声で」

「人の……?」

 昨晩家から飛び出したわたしが言うのもなんだけれど、妖獣が歩き回るこんな時間に外を出歩いている人がいるなんて……? 疑問符を浮かべるわたしに、リンカは布団から身を起こしながら言う。

「……もしかしたら、防人の一族かもしれません」

 防人の一族……ショウリンさんとの会話で聞いたことがある。

「人々を守るために妖獣と戦ってるっていう?」

「はい。現世人である姉さまならともかく、普通の人はまず夜に出歩こうとは思いません。昨日のリンカたちのように運良く生き延びることができることも、なくはないですが……危険だとわかっていて外に飛び出す人などいないでしょう。しかし唯一、積極的に夜間に外出する人もいます。それが防人の一族の方々です」

 姫と、そして民を護るという防人の一族。

 彼らがいま、すぐそこまで来ている……?

「防人の一族は、定期的に妖獣たちを退治し、その数を減らしているらしいのです。そのため危険を承知で夜に出歩き、わざと妖獣を自らにおびき寄せて戦っているのだとか……」

「じゃあ、リンカが聞いたという声も?」

「わかりません……。ただ、夜中に人が外にいるというのは、間違いなく普通のことではないのです。もし可能性があるのなら、一族の方くらいしか思い当たらないので……」

 なるほど……リンカがそう言うのなら、きっとそうなのだろう。

 もし防人の一族がいるのだとしたら、わたしたちは何も心配することはない。それどころか、彼らに頼めば城下町に辿りつくまで保護してもらうこともできるかもしれない。こちらとしては願ったりかなったりの状況だ。

 だけど、本当に防人の一族が来ているのかは確認することができない。そもそも、リンカが聞いた声というのがはっきりしないのだから。となると、今わたしたちができることは……。

「……リンカ、まだ眠くない?」

「はい、大丈夫です」

「じゃあ、しばらくのあいだ起きていよう。……何があっても、すぐ動けるように」

 そうして、わたしたちは布団の上に座りながらじっとしていた。

 お互い、何も喋らない。リンカが聞いたという声をもう一度拾おうとして聞き耳を立てているが、室内も、仮宿の外も、変わらない静寂に包みこまれている。

 どれほどの時間じっとしていただろうか、握りしめた竹槍に手汗が滲み始めた時、

「…………!」

 わずかに、声が聞こえた気がした。

 男の声だ。ただ距離が遠くて、何を言っているのかまでははっきりしなかった。

 ちらりとリンカに目配せをする。リンカもわたしの目を見ながら、こくりと頷いた。……どうやら、わたしの勘違いではないようだった。

「…………か」

 また声が聞こえてきた。だんだんと近づいてきているようだ。

 声がしたのは玄関のほうだった。手汗を拭い、もう一度竹槍を握りしめ、玄関の方を睨む。

「……誰か」

 今度ははっきりと聞こえた。『誰か』……人に向かって呼びかける声。

 その声の主は、玄関の目の前まで来ていた。閉じられた玄関の戸の向こうから再び、声がかけられる。

「誰か」

 明らかに、中にいる人間に向けて呼びかけている声だ。中にいる人間……つまり、わたしたちに。

「姉さま……」

 リンカが不安げな顔でわたしを見る。

 たぶん、リンカもわたしも同じことで迷っている。……玄関の扉を、開けるか否か。

 今の時刻は真夜中……まだ太陽が現れるには時間がかかる。そんな時間に、安易に扉を開けたいとは思わない。もしこの声が気のせいだったとしたら、ただ単に危険を増やすことになりかねない。

 だけど、聞こえてくる声ははっきりとした人間の声だ。もしこの声が防人の一族だったとしたら……わたしたちは一気に安全を得ることができる。城下町まではまだ二日以上ある……ここで防人の一族に護衛を頼むことができたら……それはとても魅力的なことだった。

 あまり迷っている時間はない。返事をせずにじっとしていれば、声をかけている人も去っていくだろう。そうなれば、もう護衛を頼むことはできない……。

「……扉を開けよう」

「はい、リンカもそうすべきだと思います。きっと防人の一族が、妖獣たちの異変を聞きつけて様子を見に来たのではないでしょうか……。御神体の加護を破る妖獣があちこちに出ていたとしたら、調査に来ていたとしてもおかしくはありません」

 わたしは立ち上がり、玄関へとゆっくりと歩を進ませる。

「誰か」

 もう一度声が聞こえてきた。どうやらまだ扉の向こうにいるようだ。

 防人の一族……妖獣と戦う力を持つ人々。一体、どんな人たちなのだろう。

 三和土に降り、木製の引き戸の前に立つ。やっぱり、いざ扉を開けるとなると心臓がどきどきする。大丈夫、リンカだって防人の一族の可能性が高いと言っていた。そして彼らがいるとなれば、周囲に妖獣がいることもない――。

 わたしは深く呼吸をしてから、引き戸に手をかける。そして開こうとぐっと力を入れた時、

「誰か」

 その声が、扉の『下の方』から聞こえたことに気付いた。

「あっ……!? 違う……姉さま、駄目!」

 背後からリンカの叫び声。

 だけど、もう遅い……わたしは既に、扉を引いてしまっていた。

「――だれか」

 そこにいたのは、目玉とくちばしだけの小さな生き物だった。

 いや……身体に対して、一つ目の目玉とくちばしが大きすぎるのだ。鳩くらいの大きさの体に、飛ぶことすら怪しそうな小さな翼。そして巨大な一つ目に、ギザギザの牙が生えたくちばし……。

「だれか」

 そんな、鳥をむちゃくちゃにしたような異形の化け物が……男の声で『鳴いて』いた。

「だれか。だれか、だれかだれかダレカダレカダレカダレカァァァァァァッ!」

「あああああっ!」

 わたしは握りしめた竹槍を、思い切りその小さな妖獣に向かって突き刺した。

 竹槍は叫び声を上げるくちばしから口内を貫き、胴体も貫き、そのまま地面に突き刺さる。一つ目の妖獣は「ア……オ……」と苦しげな声を上げながら、翼と足をばたつかせながらもがいている。――体を完全に貫かれているのに、死んでいない……!

「はぁっ……! はぁッ……!」

 どっと冷や汗が溢れ出る。緊張の一瞬に、体中が強張っていた。

 騙された、という思いが頭をよぎる。まさか、人の声真似をする妖獣がいるなんて――! もし扉を開けた瞬間に襲われたりしていたら、危ないところだった……!

 だけど……殺すことはできなかったとはいえ、少なくとも地面に釘付けにすることはできた。この小さな妖獣の短い足では、竹槍から自身の身体を引き抜くことなどできないだろう。今すぐ玄関を閉めて仮宿の中に引きこもれば、夜が明けるまでは耐えられるはず――。

「あああっ!」

 突然、背後からリンカの叫び声が聞こえて、わたしは心臓が破裂しそうになる。

 まさか、別の場所から妖獣が……!? 最悪の想像が頭をよぎり、わたしは慌てて仮宿の中へ引き返した。

 リンカは……妖獣に襲われたりはしていなかった。

 だけど、尋常ではない様子ではあった。顔は恐怖に引きつり、頭を抱えながら叫び声を上げ続けている……! 妖獣を目の前にしてパニックになってしまったのかと、わたしはリンカを宥めすかそうとし、

「リンカ、落ち着いて! あの妖獣なら、わたしが……」

「ああ……駄目! ……来る! 妖獣たちが、一斉に……リンカたち目掛けて近づいてきている!」

 リンカが必死の形相で叫んだ言葉に、凍り付いた。

 どういうこと? どうして妖獣たちが……思わず考え込んだわたしは、すぐに理由に思い当たり、玄関の方を振り返った。

 ……あの妖獣! 扉を開けた途端、遥か遠くまで聞こえるような大声で叫んでいた……!

 もしかしてあれは、他の妖獣を呼び寄せるための……!

「リンカ、立って!」

 わたしは頭を抱えて蹲るリンカを無理矢理立たせた。

 妖獣たちがわたしたちの居場所に目途をつけたのならば、こんなところにじっとしていたら危険だ。今や妖獣たちが御神体の加護をものともしていないことは、竹藪の家やこの仮宿の惨状を見れば疑いようのない事実。

 それならば、今わたしたちがやるべきことは、ここから少しでも遠く離れること……!

 リンカの手を引っ張って、玄関の方へ。壁際に立てかけてあった、先ほどのものとは別の竹槍を再び握り、外へと出る。

「……ひっ」

 竹槍で串刺しにされた妖獣を見て、リンカが小さく悲鳴を上げた。妖獣は未だに翼と足をばたつかせながら、生きていた。竹槍ではやっぱり、妖獣を殺すのは難しいんだ……!

「さあ、走って!」

 わたしとリンカは手足をがむしゃらに動かして走り出す。

 空に浮かぶ巨大な月が、煌々と大地を照らしている。空の色は黒一色で、そのどこにも白んでいる様子はない。

 ……夜が明けるまで、あとどれほどの時間があるのだろう。わたしたちは、どこまで逃げればいいのだろう……? わたしたちを狙っているという妖獣たちは、一体どこから現れるのだろうか。木や岩の陰、あるいは丘の向こう側……視界に入るあらゆる場所に、妖獣たちが潜んでいるような気がした。

 わたしは周囲を警戒しながら、リンカの前を行く。危なっかしい足取りで走るリンカは、涙で顔がくしゃくしゃになっていた。もう二度と怖い思いはさせたくないと思っていたのに……しゃくりあげながら走り続けるリンカに、わたしの胸は痛む。

 ……それにしても、どうしてリンカは妖獣が来ることがわかったのだろう。昨夜、猿の顔だけの妖獣が近づいてきたときにも、リンカは随分と早く妖獣が来ることを察していた。

 そのときは耳がいいからだと思っていたけれど――さっきのは流石に……?

「うあっ……!」

 ふと頭に浮かんだ疑問に思わず気を取られていると、リンカが突然声を上げた。何事だろうと振り返ると、そこには真っ青になったリンカの顔があった。

「駄目……駄目です、姉さま! 追いつかれる! 妖獣が来ています、もうすぐ、そこまで……!」

 わたしは遥か背後を睨む。

 ……猛烈な勢いで、何かがわたしたちに迫っているのが見える。それは……イノシシのようだった。

 もちろん、普通のイノシシではない。イノシシであれば瞳があるはずのところには、がらんどうとした空洞がぽっかりと開いている。なんの感情も読み取れないはずの空洞のはずなのに……わたしたちへの害意だけははっきりと感じ取れた。

 そして近づいてきてようやくわかったが、そのイノシシ……いや、妖獣には――足がなかった。

 ……違う。足はある……ただ、見えなかっただけ……!

 体毛の下に隠された、ムカデのように生えたうぞうぞとした多数の短い足。それを猛烈な勢いで動かしながら、蟲のように地面を這い、わたしたちに向かってきている……!

「くっ……!」

 ……まずい。明らかにあの妖獣のほうが、わたしたちよりも速い……!

 周囲を見回す。隠れられそうな場所……無い。あの妖獣の突進を防ぐことのできそうな障害物……無い。仮宿から出てからはずっと見通しの良い平地が続いていて、ぽつんと立った木々や小さな岩以外には、障害物となるものはまったく見あたらなかった。

 どうする、どうする、どうする……!

 逃げることも隠れることもできないのなら……!

 リンカを守るため、わたしができることは……!

「……戦うしかない」

 両手にぎゅっと力を込める。

 わたしの手に握られているのは、ショウリンさんが精魂込めて作った竹槍。人々が命を懸けて戦うときに、少しでも力になれるようにと……職人の誇りをかけて作り上げた武器だ。

 ――お願い、ショウリンさん。

 あなたの娘を……わたしたちの家族を守るために、わたしに力を貸して――!

「リンカ、先に行って!」

「……姉さま!?」

 わたしは一人踵を返し、握った竹槍を前に構えながら迫りくる妖獣へ向かっていった。

 ……小さな妖獣すら殺せなかったんだ、あのイノシシを殺せるとは思えない。

 だけど、あのまま追いつかれて二人まとめてやられるくらいなら……!

「うああああっ!」

 足も手も……全身が震えてる。

 だけど……動ける。握りしめた竹槍から、勇気が与えられているような気がする。

 リンカのためなら、わたしは……戦える!

 妖獣が眼前へと迫る。……狙うなら、あの空洞。瞳のあるべき場所に空いた、真っ暗な穴。

 あそこに竹槍を突き立てれば、身体の中まで貫けるはず……!

「姉さまっ!」

 背後で、リンカの叫び声。それと同時に、わたしと妖獣の身体が重なる。

 わたしが握った竹槍は、吸い込まれるように妖獣に突き刺さる。竹槍が突き刺さり、肉をえぐっていく確かな感覚が、わたしの手に伝わってくる。

 ――だが。

 それを上回る強烈な衝撃が、わたしの全身に襲い掛かった。

「…………?」

 初めは、何が起こったのかわからなかった。

 竹槍で妖獣を突き刺してやった……そう思った次の瞬間にガクリと脳が揺れ、視界がぶれ、平衡感覚は失われていた。

 ――あれ、わたし……宙に浮いてる?

 足が地面についていない。手足はぶらんと投げ出され、思う様に動いてくれない。景色はぐるぐると回り、どちらが上でどちらが下かもわからない……。

 わたしは妖獣に突き飛ばされて――力なく宙を舞っていた。

 糸の切れた人形のように……面白いほど簡単に空中に投げ出されたわたしはそのまま受け身すら取ることもできず……硬い地面にぐしゃりと落ちた。

「あっ……ぐ……!」

 頭から落ちなかっただけ、幸運だったのかもしれない。……わたしはなんとか、生きていた。

「いっ……!」

 ただ、全身が悲鳴を上げている。腕一本、いや指一本でも動かすたびに、まるで雷にでも撃たれたかのように体中に激痛が走る。特に酷いのは、鈍い痛みが続く左腕……たぶん、折れてる。左腕から地面に落下したから、それで……。

「姉さま、姉さま!」

 リンカの声が聞こえる。痛みにあえぎながら顔を上げると、リンカがこちらに向かって走ってくるのが見えた。

 そのリンカの背後には、わたしを突き飛ばした妖獣の姿。どうやらわたしは宙を舞って、リンカを飛び越してしまったらしい。

「…………っ!」

 リンカの背後に見えた妖獣の様子に、わたしはぞっとする。

 顔面に、深々と竹槍が突き刺さっている……。それにも関わらず、妖獣はなんでもないかのように体を揺すると、じろりとこちらを――瞳が存在しないのに――睨んだ。

 ……いや、睨んだのはわたしのほうじゃない。

 あの妖獣、リンカを――!

 妖獣が動き出す。ぞぞぞぞ、と地面を滑るかのように複数の足を動かして、ものすごい速さでリンカに向かい突進してくる――!

 リンカは気付いていない。わたしを呼びながら、おぼつかない足取りでこちらへ向かってくる。

 このままじゃ、背中からあの妖獣に突き飛ばされる……! わたしですらこんな状態なのに、もしリンカが不意打ちで突進を食らったりしたら……!

「う、ああ……!」

 右手だけで地面を突き、震える両足に無理やり言うことを聞かせて立ち上がり、体中から感じる痛みを無視して……リンカの元へと走る。

 ……だけど、間に合わない。妖獣のほうが早い……!

「駄目……やめて」

 ――お願い、わたしからリンカを奪わないで……!

「リンカぁっ!」

 妖獣の巨体が、リンカの背中に激突しようとしたまさにその瞬間。

 ――突如として、眩い光が閃いた。

「…………っ?」

 その光は、一瞬だけわたしの目を眩ませ、すぐに収まった。

 思わず瞑った瞼を開けると……状況は一変していた。

「え…………」

 妖獣の巨体が……真ん中から、綺麗に真っ二つになっている。

 体が左右に分かれた妖獣は、がくがくと痙攣したかと思うと断末魔さえ上げずに、そのまま地面へと倒れ伏し……ぴくりとも動かなくなった。――死んでいる。

 リンカは……地面に倒れ込んでいた。もしかして妖獣の体当たりを食らったのかとヒヤリとしたけども、しばらくすると顔を上げて、一体何が起こったのかとしきりに辺りを窺っていた。

 そして……リンカと妖獣の間に、一人の人間が立っていた。

 その人は深く息を吐き出すと、低く重い声でつぶやいた。

「……間に合ったか」



 なんの前触れもなく現れたその人を、わたしは呆然と見つめていた。

 まるで、戦国時代の武士のような格好の人だった。鎧で覆われた体格はがっしりとしている。呟かれた声からしても、男の人なのは間違いない。

 その手には、一本の刀が握られている。時代劇の中で見たことがあるような、日本刀。

 ……さっき瞬いた光は、あれだ。あの刀の、刃の部分に月の光が反射して、一瞬輝いたように見えたんだ……。

 男は妖獣に向けて振り下ろしていた刀を持ち上げ、一度地面に向かって強く振った。びちゃりと音がして刀身についていたどろどろとした液体――たぶん、妖獣の血か何か――が地面に撒かれ、汚れていた刀は美しさを取り戻す。そして、腰に下げていた鞘にするりと納めた。

 刀を収めたときのかちんという音に、はっとする。

 ――わたしたち、助かった……?

「リンカ……!」

 わたしは慌てて、地面に倒れ込んだリンカの元へと駆け寄る。足を動かして体を震わせるたびに、体中が悲鳴を上げる。歯を食いしばりながらリンカの元へ辿りつくと、リンカもゆっくりと立ち上がる。……どうやら、怪我のひとつもしていないらしい。

「リンカ……よかった、無事で」

「姉さま……。……? 姉さま、左腕が……」

 左腕が変な方向に曲がっていることに気がついたのだろう、リンカが心配そうにわたしの手に触れる。その瞬間、鋭い痛みが走る。

「あッ……つ……!」

「ご、ごめんなさい! ごめんなさい姉さま!」

「……だ、大丈夫……。心配しないで、これくらい、なんでもないから……」

「なんでもない、わけがないだろう」

 脂汗をかいて強がるわたしに、男から声がかけられる。

 こうして近くで見ると、ずいぶんと背が高いことに気付く。少なくとも、ショウリンさんよりは頭一つ分大きいはずだ。がっしりとした体格に似あう、いかつく険しい顔つきの男の人だった。

 男は腰にぶら下げた袋から何かを取り出す。そしてわたしに差し出した。

「痛み止めの丸薬だ、噛み砕いてから飲み込めば、だいぶ痛みが和らぐだろう。……ただ、折れたことに変わりはないのだから、無茶はするな」

 男から受け取った黒い飴玉のようなものを、わたしはしげしげと見る。

 ……受け取っていいのだろうか? わたしはこの人のことを、何も知らない。でも、リンカを妖獣から助けてくれた人だし……。

 ……なんにせよ、妖獣より悪い人ではないだろう。

 わたしは意を決して丸薬を口に放り込む。そして奥歯で、がりりと噛み砕いた。

「…………苦い……」

「良薬とはそんなものだ。しばらくすれば効いてくる」

 口中に広がる苦みに涙をこらえていると、左腕に続いていた鈍痛がすっと消えていく感じがした。恐る恐る、指で左腕をつついてみる――痛くない。それに気がつけば、体中に感じていた痛みも驚くように消え去っている。

「……あの、ありがとうございます。助けていただいて……」

 わたしが礼を言おうと振り向くと、男は再び腰にぶら下げた袋から何かを取り出していた。今度は小さな筒のようなもので、一体何に使うのか、見当もつかない。

「礼を言うのは早いぞ。まだ、危険が去ったとは言えないのだからな」

「えっ……」

 男はそう言うと、わたしたちから少し離れて、筒を地面に強く打ち付けた。

 すると、筒の先から空に向かって火花が飛び出した。まるで小さな打ち上げ花火……火花は空高くまで登っていくと、最後は弾けて消えてしまった。

「これは……?」

「……おそらく、火投筒ひなげづつです」

 わたしと同じように、空に昇った火花を見上げていたリンカが言う。

「モロウ領よりも北の地で採れる、強い衝撃を与えると火を放つという植物の種を用いた道具で……空に打ち上げることで、自らの位置を知らせるためのものです。……しかし、このようなものを持っているのは」

 リンカが呆然とした顔で、男を見た。

「……姉さま。この方は……防人の一族です」

 防人の一族……姫を守り、民を守るために妖獣たちを狩る人々。

 妖獣を刀で真っ二つにしたことから、なんとなくそうじゃないかとは思っていたけど……。

「……その通り。よくご存じですな」

 男は膝を折り、リンカに視線を合わせるようにした。大柄な男が急にかしこまったのに驚いたのか、リンカはわたしの後ろに隠れてしまう。

「わたしの名はゴウラン。あなたのおっしゃる通り、防人の一族でございます。……お名前をお聞きしても?」

「え、あの……。……リンカです」

 これはどういうことだろう。

 急に現れた防人の一族を名乗る男……ゴウラン。わたしが話していた時には、厳格な雰囲気を醸し出していた彼は、何故かリンカに対してへりくだった態度を取っている。

 リンカは単なる、竹藪に住む少女だ。そんなリンカが、お城で姫を守っている人に敬語まで使って話される理由なんかないはずなのに……。リンカも、わたしと同様に戸惑っている様子だ。

 そんなリンカを、ゴウランさんは何故か……愛おしげな視線で見つめ、

「……リンカ様ですか。これからは、そのお名前で呼ばれることも少なくなるでしょう。遅くなりまして、誠に申し訳ございません……。――ようやくお会い出来ましたな、モロウ領の姫よ」

 全く理解できない言葉を口にした。

 ……姫? リンカが?

 この人は突然、何を言っているのだろう。だってリンカは竹藪の子で、わたしの妹で……。それにお姫様は、城下町にあるお城にいるんじゃあ……?

 わたしの背後に隠れたリンカをちらりと伺うと、困惑したような表情を浮かべていた。だけれど、ゴウランさんは戸惑うわたしたちを気にする様子もなく、

「先ほど打ち上げた火投筒を見た部下が、こちらへ向かっているはずです。中でも優秀な者たちはいち早く駆けつけるでしょう。そうなれば、当分は心配いらないかと思いますが……」

 ゴウランさんはすっくと立ちあがると、先ほど鞘に納めた刀に手をかける。

「どうやら、あなたを目指して妖獣たちが集まってきているようです。おそらく、部下たちが集うよりも、妖獣たちが群がるほうが早い。……部下たちが来るまで、このゴウランが時間を稼ぎます。その場から動かないように」

 腰に差した鞘から、すらりと刀が抜き放たれる。月光を閃かせる刀身は間近で見るとそれは美しく、思わず見入ってしまいそうなほど。

 だけれど……聞き逃せない言葉があった。

「妖獣が……? まだ襲われるんですか!?」

「……ああ、そうだ。何故かはわからないが、妖獣たちが一斉にこちらに向かって行ったからな。それらを倒しながら進んでいたら、この場に辿り着いたというわけだ」

「一斉に……あ、もしかして、男の人の声を出す妖獣のせい……?」

「……そうか、夜魔呼やまびこにかかったか。それは……こうして生きているのが不思議なほどだな。……お前、名は何という」

「……日葵です」

「ヒマリか。姫がその場から動かないよう、傍に居てやって貰えるか。妖獣に襲い掛かられて冷静さを失ってしまわれては、守るのが難しくなる」

 ……そんなこと。わたしは右手でぎゅっとリンカを抱きしめながら言う。

「そんなこと、言われるまでもありません。……それに、リンカはそんなに愚かな子じゃないです」

「……? 何故、姫に……いや、いい。それならば頼む」

 ふいに、ざざざと風が吹き始める。

 雲の流れが速くなり、地上を照らす巨大な月が少しずつ覆い隠される。

「……来ます、姉さま」

 リンカがぎゅっと、わたしの右腕を掴んだ。

「左……!」

 リンカの声に、首を動かす。

 平地の向こうに、何かがうぞうぞと動いているのが見える。距離はまだ遠く、どんな姿かたちをしているかまではわからないけれど……こんな夜中に動き回る存在なんて、ひとつしかない。

「できるだけ体を小さく、頭を低くしろ!」

 ゴウランさんが大声で叫び、わたしはリンカと共に地面に座り込んだ。

 ……そこからは、怒涛の勢いだった。

 まるで堰を切ったかのように、妖獣たちが次々とわたしたちに襲い掛かってきた。そしてそれを、ゴウランさんが一刀のもとに斬り伏せていく。左から来た妖獣を斬ると、すぐさま右から妖獣が現れる。そしてそれをまた、ゴウランさんが斬り倒す。あまりにも鮮やかな手際に、どのような妖獣が襲い掛かってきたのか確認する暇もない。わたしとリンカは頭を低くしながら、嵐が過ぎ去るのを待っていた。

 五匹、十匹、十五匹……今までいったいどこに隠れていたのだろうか、妖獣たちの襲撃は衰えることがない。遥か地の果てにいる妖獣までもが、わたしたちの元へと向かってきているようだった。

「……多すぎる。夜魔呼の声だけが原因ではない。やはり姫の存在を察知しているのか……!」

 次第に、ゴウランさんの声にも焦りが見え始める。妖獣を斬り伏せるペースが、少しずつ落ちて行っているようにも思う。一刀両断できていたものが、二刀三刀と必要になり、襲い掛かる妖獣たちは少しずつわたしたちに……リンカに肉薄していく。

「一体いつまで……!」

 わたしが思わず声を上げたそのとき、今まで一緒に縮こまっていたリンカが叫んだ。

「……あっ! 姉さま!」

「いかん!」

 同時に、ゴウランさんの鋭い声。わたしは顔を上げて、素早く周りを見渡した。

「……!」

 背後から、妖獣が迫ってきていた。その姿は巨大な蜘蛛のよう。胴体に生えた複数の足は歩くたびに地面に突き刺さり、いくつもの穴を穿ちながらわたしたちへと近づいてくる。

 ゴウランさんは、反対側で別の妖獣と対峙している。おそらく、ゴウランさんよりも妖獣が辿り着く方が早い。

 ゴウランさんに頼れないなら、わたしが……!

 わたしはリンカから体を離し、立ち塞がるように体を広げた。

 倒すことはできなくても……ほんの少しだけでも時間が稼げれば……!

「姉さま! やめて!」

 リンカの悲痛な叫び声が耳に響き――。

「あァ、そうだな。民が無茶してんじゃねえよ」

 聞き覚えのない声と共に、妖獣の動きが止まった。

「え…………?」

 ……目の前まで迫ってきていた蜘蛛の妖獣の体に、長い刀身の刀が突き刺さっている。

 そしてその刀を握る人物は、妖獣の背中に乗りかかっていた。まるで空から降ってきたかのように現れたその人は、刀を握る手にぐっと力を入れたかと思うと、一息に妖獣の体を両断してみせた。

「……オレが一番乗りか。それにしてもひでぇ有様だ」

「遅いぞ。姫様がお待ちだというのに、一体何をしていた」

「ゴウラン様……勘弁してくださいよ。それを言うなら、オレよりも遅い連中にして欲しいもんだ」

 妖獣を斬り倒したゴウランさんが、わたしたちの傍へと歩み寄ってくる。親しげに話す様子に、わたしは理解した。そうか、この人……火投筒を見てこちらに向かっているはずだという、ゴウランさんの部下の一人……。

「うわっ……?」

 突然、お腹のあたりに衝撃が走った。一体何事かと見下ろすと、

「リンカ……?」

 リンカがわたしのお腹に抱き着いて、胸に顔をうずめていた。

「あ、あの、リンカ」

 リンカは黙ったまま、何も言わずに回している両腕に力を込める。

「……もう、しないでください」

「え?」

「もう、あんな……! 自分の命を投げ出すようなこと、しないでください……! 姉さまは、約束してくださいましたよね、リンカとずっと一緒にいてくれると……! リンカの傍を離れないと……!」

 震える声に、わたしははっとする。……わたし、またリンカを守りたいと思うばかりに、リンカの気持ちを無視して……。

「……ごめん。もう無茶はしないから……許して」

「……許しません。姉さまが離れようとするなら……リンカが離しませんから」

 幼い子供のように――幼い子供なんだけれど――頑なな態度のリンカに、わたしは気付く。

 ……そっか、そうだよね。わたしがリンカを大切に思うのと同じくらい、リンカもわたしのことを大切に思ってくれているのだものね……。

 目の前で何度も死にかけるようなことをして……気が気がじゃなかったよね。――本当に、ごめん……。

 宥めるように、リンカの頭を優しく撫でる。……だけれどやっぱり、リンカはなかなか手を放してくれなかった。

「すまないな、その場から動かないほうが安全だと言っておいて、この様だ。……言葉もない」

 近づいてきたゴウランさんが、わたしに深く頭を下げる。

「い、いえ……。……それよりも、妖獣たちが」

「ああ、おそらくもう問題ないだろう。見ろ」

 ゴウランさんが指差した方を見ると……四つの影が妖獣たちと争っているのが見えた。そのうちの一人は、先ほど蜘蛛の妖獣を倒した人だろう。

「部下たちがようやく到着した。姫の警護に関しては、これで充分であろう。あとは神獣様を待つのみだ」

「神獣……」

 姫、神獣、防人の一族……。幽世に来てから、全く縁のなかったはずの存在を、このゴウランさんは次々と口にする。

「あの……」

「うん?」

「……先ほどから言っている、リンカが姫だというのは……どういう意味ですか?」

 わたしが問いかけると、ゴウランさんは眉をひそめた。

「どういう意味も何も、そのままの意味だが」

「そのままの意味って……。だってリンカは、竹藪で生まれた子で……わたしの妹です」

「……今までは、そうだったかもしれんが。リンカ様は、神獣様に選ばれたのだ。神獣様に選ばれた少女は、例えどのような生まれであろうとも姫となる。知らないはずがあるまい」

 ……そういえば、いつだかリンカにそのような話を聞いたことがある気がする。現在のモロウ領の姫様も、元は単なる民の少女だったと。

 でも、なんで今更リンカが? いま現在、モロウ領を守っているはずの姫様はどうしたの?

「先ほどから、妖獣の気配に敏感な様子も見せておられる。それに何より、我々の心のうちに湧き上がる感情が、その方が新しい姫だと認めているではないか」

「湧き上がる、感情……?」

 今度は、何を言っているのかさっぱりわからなかった。

 わたしにとって、リンカは変わらず家族で、妹だ。それを大切に思う気持ちは誰にも負けるつもりはないけれど、だからといってそれ以外の感情なんて……。

「……どうも妙だな。ヒマリ、お前は……」

 ゴウランさんが怪訝そうな顔でわたしを覗き込んだそのとき、

「仕方がないさ、その子はこちらの人間ではないからね」

 空から、声が降ってきた。

 空を見上げる。わたしも、ゴウランさんも……ずっとわたしの胸に顔をうずめていたリンカも、まるでそうするのが義務であるかのように、夜空を見上げた。

 暗闇の広がる空に、白い光が見える。月や、星の光ではない。たゆたう炎のように舞い降りてくるその光は、近づくたびにその姿を露わにした。

 犬……いや、オオカミだろうか。

 白と茶の入り混じった、美しい毛並み。すっと細い顔つきに、鋭い瞳。ピンと立った耳が、凛とした雰囲気を醸し出す。

 わたしの背丈よりも大きなオオカミが……空を走り、わたしたちの傍へと降り立った。

「……モロウ様」

 ゴウランさんが小さく呟き、膝を折ってオオカミへ敬意を表する。

 モロウ。

 戌神・孟狼モロウ――。

 では、これが。

 この目の前の、巨大なオオカミが――モロウ領の、神獣……?

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