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「…………ん」
ふと、目が覚めた。
ぼうっとしながら、ゆっくりと瞼を開く。ぼんやりと見えたのは、暗い室内。かつては見慣れないものだったはずの汚れた天井は、今やわたしの中で当たり前の光景になっている。
ところが、
「……あれ、もう朝……?」
部屋がいつもよりも暗いことに、わたしは疑問を覚える。
わたしは普段、明け方頃に目を覚ます。だけれど、その時の暗さとは少し違うような……不思議に思い、わたしは寝転がったまま首だけを動かし、壁の床側についている小さな窓を見る。
それは、掃除のための掃き出し窓だ。大きさはかなり小さめで、リンカだったら楽々通り抜けられるだろうけど、わたしが通り抜けようとするといろいろなところがひっかかりそうなくらい。ショウリンさんなんかは絶対に通り抜けられない大きさだ。
そして、この掃き出し窓には小さな障子がついていて、きちんと開け閉めができるようになっていた。障子に貼られた薄い紙からうっすらと明かりが漏れ出ていて、そこから外の明るさを伺い知ることができた。
……どうやら、まだ夜は明けていないみたいだ。障子から漏れる明かりは月明かりのもので、太陽の暖かな明かりとは違う。
「……ふぅ」
夜が明けていないのならば、起きてしまってもしょうがない。
幽世において、夜は妖獣の時間――人間は家の中で、静かに日の出を待つしかない。わたしは窓から目を離し、真っ暗な天井を見上げ、何を考えるでもなくぼうっとしていた。
……そういえば、夜明け前に起きてしまったのは初めてのような気がする。
もしかして、ショウリンさんたちよりも早く起きられた? だとすると、日の出と同時に動き出せば、今日こそわたしが水汲み当番をすることができるかもしれない……。二人の役に立てるかもしれないのが嬉しくて、わたしの頬は自然とほころんだ。
となれば、夜明けまでしっかり起きていないと。二度寝なんかしてしまったら元も子もない……そう思い、わたしは横たえていた上半身をぐっと起こす。
「すぅ…………」
隣には、まだぐっすりと寝ているリンカがいた。
「…………」
昨夜、ショウリンさんとヨウファさんに聞かされた提案……わたしは、まだ答えを決めあぐねている。
心の内では、受けたいという気持ちでいっぱいだった。二人の娘となり、竹藪での仕事を受け継いで、この世界で生きていく――想像するだけでも、幸せな光景だ。
ただ……その光景の中に、リンカの姿はない。わたしがこの家の仕事を継ぐためには、リンカが町へ行かなければならないから。
ショウリンさんたちは、リンカが学舎に通うことこそが、娘の幸せに繋がると信じている。だけどそのことを聞かされて、リンカは素直に頷いてくれるだろうか……。
リンカはもともと好奇心旺盛で聡明な子供だ、学舎での生活を魅力に感じるかもしれない。それに賢いあの子のことだ、面と向かって話し合えば、ショウリンさんたちがリンカを学舎に通わせたいと本気で願っていること、それがリンカを想っての行動であることは理解できるだろう。
……だけど、理解はしても納得はできないかもしれない。親と一緒にいたいというのは、子供たちの持つ普遍的な願いだから……。
学舎に入り好奇心を満たすことと、両親と共に日々を過ごすこと……二つを天秤にかけられたとき、リンカはどちらを選ぶのだろう。
そして、リンカが辛い決断を下すとき……わたしは傍にいることができない。
わたしはリンカの姉になると……いつまでも一緒にいると、リンカに約束をした。その約束を……わたしは破らなければならない。
リンカが『家族と一緒にいたい』と願っていることを知った上で、町へ送り出す……それは、リンカに対する酷い裏切りのような気がしてならない。いや、裏切り以外の何物でもないだろう。
それゆえに、わたしは未だにショウリンさんに答えを返すことに、戸惑いを覚えている……。
「リンカの、幸せ。リンカの望むもの……」
リンカとその両親二人……子供と大人の狭間で、わたしは揺れ動いていた。
リンカのことを本当に思うのであれば、ショウリンさんたちの意見はきっと正しい。この幽世という世界で長い時間を生きてきたショウリンさんたちが、子供のためを想って下した決断だ……まず間違いなく、悪いようにはならないだろう。
だけど一方で、リンカの気持ちだって充分に理解できる。今のリンカに、将来の幸せについて話したところで、本心で納得できるわけがない。……だって、まだ十かそこらの子供なのだから。親と一緒に暮らすことこそが、何よりも幸せに感じる年齢だろう。
親の心子知らず、という言葉がある。今の状況は、まさにそれだ。
ショウリンさんたちのリンカへの想いが、リンカに正しく理解されることは、たぶん無い……。
「…………」
――わたしは、どうだったんだろう……?
わたしは、両親の気持ちを理解できていただろうか。
日向と比べて出来の悪い、ダメな方の娘……両親にはそう捉えられていると、わたしはずっと思い込んできた。だから歳をとるごとに会話も減っていき、両親の関心は全て日向に向かっているのだと……ずっとそう納得してきた。
……もしかしたら、違っていたのだろうか?
リンカが自分のことを悪い子だと思い込んでいたように、わたしの考えも思い込みだったのだろうか。
本当はわたしの両親も、わたしのことを日向と同じくらい大切に考えてくれていたのだろうか――。
「…………ふぅ」
……今更こんなことを考えても仕方ない。
わたしは幽世に迷い込んでしまった。元の世界に帰る方法もわからない。
それならば、ここでどう生きていくかを考えないと。
昔のことばかり考えても、いいことなんてない――。
――――ぴちゃり
「…………?」
どこからか、水の撥ねるような音がした。
……雨が降ってきた? そう思って掃き出し窓を見るが、雨の降っている様子はない。
それに、今の音は外ではなく、家の中から聞こえてきたような……。
ショウリンさんたちが寝ている居間に、水音を立てるようなものは置いていない。あるとすれば炊事場のほうなのだが、水は瓶の中に入れて保管しているから零れることはないと思う。現世に居た頃ならば、蛇口から水が零れた音だと思っただろうけど……。
不審に思い、わたしは耳を澄ませる。
――――ぴちゃ、ぴちゃ
……また音がする。
間違いない、居間の方から聞こえてきた。
水が床にこぼれたような音とは違う。どちらかというと、子供が水遊びをしているときのような……。
――あるいは動物が、舌で液体を舐めるときのような、そんな音。
居間のほうへ視線を向ける。目の前には、ぴったりと閉められた障子がある。
貼られた紙にはところどころ破けた部分があり、穴の向こうには暗闇が広がっている。不可解な音のする――奈落の底のような暗闇が。
――――ぴちゃ……ぐちゅ
わたしの体は固まってしまったかのように動かない。
向こうで何が起こっているのか確認するのは簡単だ……穴を覗けばいい。
だけど、わたしはその場を一歩たりとも動けなかった。
体を起こして、ちょっと身を乗り出して覗き込む……たったそれだけのことなのに、まるで脳が拒否してしまっているかのように、体を動かす気が起こらない……。
――――ぶちゅ
――――ぽき
障子の向こうから、水音以外の音が聞こえ始める。
果物が潰れて、果汁が吹き出すような音――。
何か太くて硬いものが、ぽっきりと折れてしまったような音――。
それらは全て、なんでもないような小さな音だ……なのに。
――――ぷち
――――ぐじゅ
――――ごとん
それなのに――どうしてこんなにも、不快な音に聞こえるの……?
「…………っ?」
ふわりと、鼻を何かの臭いがかすめる。……錆びた鉄のような臭い。
――これ、血の臭い……?
「…………ッ」
噛み締めた奥歯が、カチカチと音を立てて震えだした。
心臓は今にもはち切れそうなほどに激しく鼓動をうち、全身からぶわりと冷や汗が溢れ出る。
障子の向こうからは、途切れることなく嫌な音が漏れ聞こえてくる。
真っ暗闇の中、不快な音だけが聞こえてくるこの状況に、わたしの頭の中は恐怖に染まる。
気がつけば、部屋中がむせ返りそうなほどの血の臭いで充満している。
――居間で、何かが起こっている。
日常とはかけ離れた、想像もしたくもない――何か。
寝ているはずのショウリンさんとヨウファさんの身に何かが起こっている……そこまでわかっているのに、やはりわたしの体は言うことを聞いてくれなかった。
こわい、こわい、こわい――――!
どうしよう。どうすればいい?
何をすればいい? ……そもそも、わたしに何ができるの?
単なる高校生の……幽世の人間ですらないわたしに、何が――。
「…………んぅ」
背後から聞こえてきた声に、わたしはハッとして振り返った。
リンカは、居間から聞こえてくる異音に気がつくことなく眠り続けていた。今の状況とは場違いなほどに、幸せそうな寝顔――その顔を見て、わたしの体の震えが止まる。
……居間の様子を、確かめなきゃ。
何かが起こった時、何があろうとリンカのことを守る……それがわたしの家族としての、そして姉としての責任だ。
音に怯えて震えているだけでは、リンカを守ることなんてできやしない。まずは、状況を把握しなくちゃ。でないと、何もしようがない……!
「…………」
音を立てないように、わたしは動き出す。
ゆっくりと、四つん這いの状態で……一歩一歩に神経を使いながら、障子へと近づいていく。
近づくにつれて、鼻を刺激する臭いが血のそれから別のものへ変化していく。それが何の臭いなのかは具体的にはわからないけれど……嗅いでいるだけで気分が悪くなる臭いだった。
暗闇に目が慣れ始めてきたことに気付く。これならば、障子の穴越しに何が起こっているか、把握に困ることはないだろう。――それがいいことなのか悪いことなのかは、わからない。
「…………」
わたしは覗き込む穴にあたりをつけ、騒ぐ心臓を抑えつけながら――居間の中を覗き込む。
――――赤い瞳が、光っていた。
「…………!」
妖獣――ツノの生えた猿のような容姿をした……あの化け物たち。
幽世に来たわたしに容赦なく襲い掛かってきたあれが二匹――居間で『何か』を食んでいた。
妖獣たちが何を口に運んでいるのか……わたしはすぐに理解した。
――だって、眠りにつく前に、その人たちと大切な話をしていたのだから――。
「…………っ」
ショウリンさんとヨウファさんは、死んでいた。
一目見れば分かる――だって、ショウリンさんは……腕を噛みちぎられているのに、悲鳴の一つもあげないのだから。ヨウファさんは……胴体と首が、完全に離れてしまっていたのだから。
悲哀が、恐怖が、後悔が、絶望が――とめどなくわたしの心を責め立てる。
……呼吸がうまくできない。
凄惨な状況に吐き気を催す。酸欠と嘔吐きで、頭がぐらぐら揺れている……。
それでもわたしの両の目は、しっかりと居間の様子を捉えていた。リンカを守らなければならないという信念だけで、わたしはなんとか気を失わずに済んでいた。
(どうして……!?)
なぜ家の中に、妖獣が……その疑問に対する答えは、あっさりと見つかる。
玄関の戸が、押し壊されたように内側へ倒れている……!
もともとそれほど頑丈には作られていないし、人間が強くぶつかってもガタが来てしまいそうな扉だったから、妖獣が思い切りぶつかったりすればいとも簡単に壊れてしまうだろう……だけど。
――昨日の夜、戸締りはきちんとしたはずなのに……!
(幽世の家は、御神体が守ってくれているんじゃなかったの!?)
夜は戸締りをきちんとすれば、御神体が妖獣から家を守ってくれる……それが幽世での重要な決まり事だったはずなのに。
実際、今日までこの家で過ごしてきたけれど、夜に危険を感じたことはなかった。初めの頃は家の周囲を妖獣がうろついているんじゃないかと怖い想像をしたけれど、幽世の夜は恐ろしく静かで、妖獣の気配すら感じられなかった。
それがなぜ……どうして今になって破られるの!?
(逃げないと……!)
家の中に妖獣が入り込んだ今、この寝室ももはや安全とはいえない。いつあの化け物たちがわたしとリンカの存在に気付き、障子を突き破って襲い掛かってくるかわからない――!
わたしは障子から身を引いた。――障子の穴から目を離しても、あの悪夢のような光景が瞳に焼き付いて離れてくれず、一気に焦りが押し寄せる。
どれくらい時間に余裕がある? ……あの化け物たちは、いつまでショウリンさんたちに気を取られている?
そして、逃げるってどこへ? わたしは幽世の地域や地理を殆ど知らない。リンカを連れて逃げ込める、妖獣に絶対襲われない場所は……?
意味もなくきょろきょろと部屋の中を見回したわたしの目に飛び込んできたのは、枕元に置いておいた小さな麻袋。……ショウリンさんから預かった、大切なお金。
――――城下町。そうだ、そこしかない。
城下町へは、ショウリンさんもリンカも徒歩で向かっている。きっとそれほど遠くはないのだろう。お姫様のお膝元だという城下町ならば、間違いなく妖獣への警備は厳重なはず。
さらに、城下町には学舎もある。お金を払い、試験に合格すれば、リンカの生活は保障されるらしい。わたしの生活はどうなるかわからないけれど……ひとまず、リンカの無事が保証されるというならそれが一番だ。
心の迷いが晴れると、動きの迷いも消えた。わたしは麻袋を手に取り、制服のポケットに入れる。かちゃりと音がしてヒヤリとしたが、居間から妖獣たちが襲い掛かってくる様子はなかった。
――ほんの少しの音なら大丈夫? そう思ったわたしは障子とは反対側の壁へ向かい、掃き出し窓をするりと開ける。
決死の覚悟をして外を覗く――何もいない。別の化け物の姿は見当たらない。
今のうちなら、逃げられるかも……!
わたしは掃き出し窓から離れ、リンカを起こそうとし――ふと、障子の上に設置された神棚に鎮座しているものを見た。
小さな箱の中に祀られている、家を守るための御神体。
(何が御神体――!)
結局守りは破られ、わたしとリンカの大切な人たちの命は奪われた。
嘘つき……戸締りさえきちんとすれば、家族を守ってくれるんじゃなかったの? わたしたち家族を裏切った御神体が、未だに神棚でわたしを見下ろしているのが我慢ならなくて……わたしは神棚から御神体を取り出した。
……手に持つと、単なる紙人形にしか思えなかった。こんなちっぽけなものに命を預けていたのだと思うと、今更ながら恐ろしくて体が震える。
(……神様だっていうのなら、リンカ一人くらいは守ってみせてよ……!)
わたしは御神体の紙人形を、寝ているリンカの懐に押し込む。そして、リンカの肩をゆさゆさと揺らす。
寝起きの悪いリンカはかなり激しく揺らし始めたところでようやく目を覚まし、
「……ぅむ? はれ……姉さ、んむ……!?」
声を漏らさないようにとわたしに口を塞がれて、身体の上に覆いかぶさっているわたしのことを怯えた目で見た。
(静かにして)
わたしは口だけを動かし、声を出さずにリンカに話しかける。自分の上に乗っかっているのがわたしだとわかり、口の動きだけで何を言っているのか理解できたからか、リンカは大人しく頷いた。
(起きて。……すぐに家を出るの)
わたしがそう口に出すと、リンカは呆けたような顔をした。こんな夜中にどうして家を出るのか、まったく意味がわからないのだろう。
だけど、説明している暇はない。すぐにでもここから逃げ出さないと、いつ居間にいる化け物たちがこちらに感づくか――。
――――ぼきり……べちゃ
居間の方から不穏な音が聞こえてきて、わたしもリンカもびくりと肩を震わせ、固まる。
……そして漂ってくる、強烈な血の臭い。リンカの綺麗な瞳が、恐怖と困惑で濁ってしまうのも無理はなかった。
(さあ、起きて! できるだけ音は立てないように!)
横になっているリンカを引っ張って、無理矢理起き上がらせる。
リンカは全身をガタガタと震わせていた。わたしの尋常じゃない様子と、居間から聞こえてくる異音……鼻を衝く酷い臭いで、なにか恐ろしい事が起こっていることは察したようだった。
(掃き出し窓から出るの、ほら……!)
わたしはリンカの背中を押し、壁の方へと追いやる。
だけど、リンカはなかなか足を進めてくれなかった。居間のほうとわたしの顔を交互にちらちらと伺い、何か言いたそうな表情でわたしのことを見つめてくる。
今は一刻も早くここから逃げ出さないといけないのに……! わたしは焦り、リンカをぐいと強く押した。
(さあ、急いで! ここから逃げるの!)
「で、でも……! 姉さま……!」
(お願い! 言うことを聞いて!)
リンカは怯えたように縮こまり、わたしのことを化け物でも見るような目で見た。
……そのあとリンカは、大人しくわたしの指示に従った。恐る恐る、掃き出し窓から外へと這い出る。わたしも、リンカのあとに続いた。
家の外は恐ろしく静かで、巨大な月に照らされて……夜とは思えないほど明るかった。
その光景はある種幻想的で、おそらくはきっと美しい光景なのだろうけど……今のわたしにとっては、どこに妖獣が潜んでいるのかわからない、恐怖しか感じられない光景だった。
わたしはリンカの手を引き、走り出す。
手を引かれているリンカは、力なくわたしについてきた。
だんだんと離れていくわたしたちの家は暗闇に包まれていて――中で凄惨な出来事が起こっているとはとても思えないくらい、奇妙に静まり返っていた。
月明かりの照らす竹藪の道を、わたしたちは進む。
進む方向は、城下町の方角。正確な道筋をわたしは知らないので、ショウリンさんが商品を荷車に載せて旅立っていった方角に向けて、とりあえずがむしゃらに足を動かし続ける。
「あの……! 姉さま……待ってください!」
時折リンカが、わたしに声をかけてくる。……言いたいことがあるのはわかる、だけど今はとにかく、あの家から遠く離れないと……!
「姉さま!」
リンカが、ぐいっとわたしの手を引っ張った。体勢を崩しそうになって思わず立ち止まる。
立ち止まったわたしもリンカも、激しく肩で息をしていた。死に物狂いで、体力も度外視して走り続けたからだろう……わたしよりも体の小さなリンカは、今にも膝から崩れ落ちてしまいそうだった。
「何……!? 話なら後で聞くから、今は……!」
「あ、後でって……いつになったらなのですか。そもそも、どこへ向かっているのです?」
「城下町に行くの。お姫様がいるんでしょ? あそこなら、妖獣に襲われることなく安全に過ごせるから……!」
早口で説明すると、リンカは信じられないものを見るような顔をする。
「あ、安全か危険かで言うなら、夜中に外を歩き回ってる今の方がよっぽど危険です! どうしてあんなにも無理矢理、リンカを外に連れ出したのですか? 居間では一体何が……」
目頭に涙をためて……リンカは泣き叫ぶように言う。
「父さまと、母さまを……どうして放っておくのですか!?」
……リンカは居間の惨状を見ていない。
障子に開いた穴から目に飛び込んできた光景が、再び目の前にフラッシュバックする。――吐き気を催すような、絶望的な状況。
ショウリンさん、ヨウファさん……身元がわからない現世人のわたしを、家族として迎え入れてくれた二人。そして本当の娘になって欲しいと、わたしに微笑んでくれた二人……。
あの二人の笑顔を見ることは、もう二度とできない――。
わたしまだ……二人のことをお父さん、お母さんと呼んでいなかったのに――!
「姉さま、やっぱり家に帰りましょう……? きっと父さまも母さまも心配しています。そうです、こんなふうに外に出たりして、叱られてしまうかもしれません。だから……」
二人の悲惨な姿を見ずに済んだのだから……リンカはまだ幸せかもしれない。リンカがあの状況を見てしまったら、きっとショックで立てなくなってしまう……。
――わたしが姉として、しっかりリンカを導かないと……。
「……あの家は、もう安全じゃないの」
「……? どういうことですか? 家の中なら、御神体が守ってくれるから……」
「リンカ……懐を見て」
怪訝な顔のリンカが、自らの懐に手を入れ――そこにつっこまれていた、くしゃくしゃになった紙人形を見て硬直した。
「え――ど、どうして御神体が、ここに……?」
紙人形を捧げ持つリンカの手はガタガタと震え、見つめる瞳は困惑に揺れる。
「わたしが神棚から降ろして、リンカに持たせたの。せめてリンカだけでも守ってもらおうと――」
「……なんということを!」
リンカが堪えきれないとばかりに叫んだ。
「リンカ! 声を落として……」
「なんと、なんということをしたのです姉さま……! 神棚から御神体を抜き取るなど、決してしてはいけないのに……! これではリンカたちの家は、ご加護を受けられなくなってしまうではないですか! このままでは、父さまが、母さまが……!」
リンカの叫ぶような声は収まらない。焦り、感情が昂ったわたしは、負けずに強く言い返し――、
「もう遅いの! 家には既に、妖獣が入り込んでる……! だから逃げ出したの、リンカだけは絶対に殺させたくなかったから! ショウリンさんもヨウファさんも、もう死んで――っ!」
――リンカの、輝きを失った瞳を見て、言葉を失った。
「……父さまも母様も、死んでしまったのですか?」
「あ……」
「やはり、そうなのですか? 居間で聞こえたおかしな音は……妖獣が父さまたちを食べる音だったのですか? 鼻にこびりつくような臭いは……母さまたちの流した血の臭いだったのですか?」
「う……あ……」
「――姉さまが御神体を神棚から降ろしたから、妖獣が入ってきてしまったのですか!?」
「……! ち、違う! 違うの!」
「何が違うのですか!」
リンカに睨みつけられるなんて初めてで――わたしの身体は金縛りにあったように動かなくなる。
「違うのだとしたら、どうして……どうして父さまたちが妖獣に襲われなくてはならないのですか! 父さまも母様も……いつも真面目に毎日を過ごしておりました! 父さまのお仕事は多くの人々に認められる立派なものでした! 母さまはいつも優しく、リンカのことを見つめてくださっていました! 家の仕事を覚えず他のことばかり覚えるリンカを、二人とも褒めてくださいました! どうして父さまたちなのですか? ……神獣様に見放されるのであれば、悪い子であるリンカなのに!」
何も言えなかった。
年相応の子供らしく感情を爆発させるリンカを――わたしは呆然と見つめていた。
「……もうリンカは、父さまと町に出かけられないのですか? 母さまに髪を結っていただけないのですか? もう二度と……会えないのですか……」
リンカの大きな瞳から……ぼろぼろと大粒の涙が零れ落ちる。
(二人の悲惨な姿を見なくて済んだから、リンカは幸せだった――?)
――一体、何を考えていたんだろう、わたしは。
ショウリンさんとヨウファさんの二人が死んで、誰よりも悲しみに包まれているのは――実の娘であるリンカに他ならない。
ここまでわたしについてきてくれたのは、必死になっているわたしを信頼してくれたからだ。
本当なら家を逃げ出さず、すぐにでも居間の中に飛び込みたかったに違いない。愛する両親に何かが起こっているのなら、助けてあげなくちゃと思っていたに違いない。
誰よりも賢く、思いやりの深いリンカだからこそ……溢れ出る気持ちを我慢して、わたしについてきてくれたんだ。
――それをわたしは、何を勘違いしていたの?
リンカは聡いから、両親の死さえ受け入れているのだと勘違いしていた。
やるべきことがわかっているから、わたしの言うことを聞いているのだと思っていた。
(そんなわけないのに……)
――十歳の女の子が、そんな簡単に両親の死を受け止められるわけないのに……!
リンカの泣き叫ぶ声が、月明かりの竹藪に響く――。
両親を想い涙を零すリンカの目の前で……わたしは力なく立ち尽くしていた――。
月明かりが煌々とわたしたちを照らしている。――夜はまだ、明けない。
リンカが泣いている間、幸いなことに妖獣たちに襲われることはなかった。ずいぶんと大きな声で泣いていたはずだけれど……もしかしたら、御神体が守ってくれていたのかもしれない。
泣き止んだリンカは、何も言わずにとぼとぼと歩き出した……家とは真逆の方向に。わたしの当初の予定どおり、城下町を目指してくれているようだった。
無言で歩き出したリンカに……わたしは声のひとつもかけられない。
……一体、どんな言葉をかけろというのだろう。わたしは改めて、自らの至らなさに辟易していた。
――どうしてわたしはいつも、自分のことしか考えられないのだろう?
現世では我が身可愛さに、眩しい存在だった妹の日向から距離を置いていた。幽世に来て、命の危機にさらされて、ようやく自分の醜さに気付いた……はずだったのに。
(……わたし、またおんなじことをしてる)
いい姉になろうと思った。リンカにとって頼りになる……いや、頼りにされずとも、仲の良い姉妹であろうとした。
だけど、わたしはリンカを傷つけた。泣かせてしまった。……両親を亡くして悲しみの底にいるリンカの気持ちになんて、これっぽっちも考えがいかなかった。
結局、いい姉になろうとわたしが今まで行動していたことは全て、独りよがりの産物だったのだ。いい姉であろうとするならば、まず何よりもリンカの気持ちに寄り添ってあげるべきなのに……わたしはそれができていなかった。
(……ほんと、最低……)
前を歩くリンカの背中――すごく小さい。
両親を失って、住む家を失って――リンカは失望の中にいる。
そんな妹の背中を、わたしはただ見ていることしかできない。……出来損ないの姉だから。
(……くやしい)
何か――何か、ないのだろうか。
本当にわたしは……リンカに何もしてあげられないのだろうか――? こんなわたしを慕ってくれたリンカに……悲しみの淵にいるリンカに、何も……?
「…………?」
ふと、リンカが立ち止まり、後ろを振り返る。
どきりとする。先ほどの、リンカに睨まれたときの記憶が蘇った。
もう二度と、リンカのあんな顔は見たくない……。だけど、その顔をさせてしまったのは他の誰でもない、わたしだ……。
しかし、リンカはわたしのことを見ていなかった。後ろを歩いていたわたしよりも、もっと後ろ……竹の生い茂る道の先を見つめている。
「……どうしたの?」
勇気を出して、声をかける。ありがたいことに、リンカは普通に言葉を返してくれた。
「……何か、来ます。足音のようなものが聞こえる……」
「足音……?」
わたしも体を翻して、背後を見た。月に照らされた竹藪は風に揺られて、ざあざあと音を立てている。その音にかき消されているのだろうか、わたしの耳に足音は聞こえない。
「足音なんて、聞こえないけど……」
「いえ、足音ではなく……あれ? なんだろう……よくわかりません。でも、何かが来るんです。だんだんと近づいてきている……」
……どうしたんだろう? こんなにも要領を得ないことを言うリンカは初めて見た。
だけど、冗談を言っている様子じゃない。自分自身に戸惑いつつも、表情は真剣そのものだ。
リンカはわたしよりもずっと耳がいい。きっと、竹藪や山の中で生活をしていたからだろう。それなら、わたしがリンカの言葉を疑う理由なんてない……おそらく、わたしじゃ聞き取れないほど遠くの音を捉えたのだろう。
……『何か』が近づいてくる。
この真夜中に、人間であるわたしたちに近づいてくる存在――。
「……隠れよう」
――妖獣。それしか考えられない。
途端に頭が、体が……恐怖を思い出す。ショウリンさんとヨウファさんは、声を上げる間もなく殺されてしまった。わたしたちも追いつかれたら……きっと抵抗すらできず殺されてしまう。
リンカが殺されてしまうことだけは、なんとしても避けないと……。
「リンカ……どこかに、少しでも身を隠せそうな場所はない?」
今わたしたちがいるのは、道のど真ん中……あまりにも見通しが良すぎる。せめて、姿だけでも隠せる場所を探さなければ。
リンカはほんの少しだけ考え込むと、すぐ心当たりを思いついたようだった。
「……確か、もう少し進んだところに岩場がありました。でも、完全に身を隠せるかは……」
「行こう。こんなところにいるよりはいいはず……」
リンカに案内されるままに道を駆けていくと……前方に灰色の塊が見えた。
道から少し外れた位置に、リンカの言っていた岩場はあった。ごつごつとした巨大な岩がいくつも折り重なっている場所で、なるほどここなら岩陰に身を隠すこともできそうだった。
わたしとリンカは適当な岩の隙間を見つけて、そこに滑り込んだ。
……完全に身を隠せてはいない、それどころかこちらからは道が丸見えだ。
だけど、じっくり場所を選んでいる時間もない。夜の暗さもあって、少なくとも向こうからは見えづらくなっている……はず。リンカをできるだけ奥へと押し込み、わたしの身体で壁を作るようにしてわたしたちは岩陰に身を潜めた。
「…………」
後ろから何かがやってくるという話だったけれど……しばらく待っても、妖獣の姿は現れない。
リンカの勘違い……? もしそうなら、それならそれで構わない。妖獣に追いかけられるなんて経験……わたしは二度としたくないし、リンカにもさせたくはないから……。
そうだ、できればこのまま岩陰で朝日を待った方がいいかもしれない。下手にフラフラうろつくよりも、そちらのほうがきっと安全なはず……。
「……来る」
突然、リンカが小さくつぶやいた。
わたしは道に向かって目を凝らす。……もしも妖獣に見つかった場合に、すぐに動くことができるように。
手に、額に、背中に、胸元に……じとりと汗が滲む。
音が……聞こえる。地面を蹴る音……たしっ、たしっという、ゆったりとした足音。
足音は、さっきまでわたしたちが歩いていた道を進んでいるようだった。だんだんと、わたしたちの隠れた岩陰から覗ける位置まで近づいてくる。
もう少し、あと少し、今にも姿が見えるはず……体中に緊張を張り巡らせて、わたしは道を睨みつけ――。
そして、『それ』は現れた。
「――――ッ!」
思わず、叫びだしそうになるのを必死に抑え込む。
それは――『顔』だった。
巨大な猿の顔面に、手足が生えている――一見すると滑稽にすら見える歪な生き物が、道の上を堂々と歩いていた。
ぎょろりとした二つの目玉は、どちらも焦点があっておらず、不規則に蠢いている。子供を丸呑みできそうなほど大きな口は、だらしなく開けられていた。
耳の下あたりから猿の前足が、そして本来首のあるあたりから後ろ足が生えている。大きな頭とは不釣り合いなほど、手足は細く長い。道を行く姿は、手足の動きだけ見れば猿そのものだった。
――妖獣の姿を見る覚悟はしていた。
……だけど、あんなにも歪な化け物がいるなんて……!
わたしが幽世に来てすぐに出会った妖獣も、ショウリンさんたちを殺した妖獣も……猿にツノが生えた歪な姿をしていた。今思えば、あれは同じ種類の妖獣だったのだろう。だからてっきり、妖獣とは動物が少し変になったような姿をしているものだと思い込んでいた。
だけど……違った。
妖獣はあんなにも、わたしの常識からかけ離れた化け物なんだ……!
「…………!」
一定の速度で歩き続けていた妖獣が、ぴたりと止まった。
――もしかして、居場所がバレた? ううん、そう考えるのはまだ早い。隠れている岩陰から妖獣のいる位置までは充分すぎるほど距離が離れているし、向こうからはわたしたちの姿は見えにくいはず……。恐怖に駆られて、自滅することだけは避けないと……!
猿の顔の妖獣は体を左右に振り、きょろきょろと辺りを見回している……ように見えた。両目ともうつろな様子なので、まともに物を見ているのかさえ判断がつかない。……ああもう、早くどこかへ行ってよ……!
――ぴたりと、わたしと妖獣の目線が合う。
「…………っ」
……気のせいだ。気のせい、気のせい、気のせい……!
そんなことあるわけない……! 偶然視線が交わったのを、目が合ったように錯覚してしまっただけ……! だから大丈夫、この場所のことは、気付かれていないはず……!
妖獣はしばらくの間、顔をこちらに向け続けながら立ち尽くしていたが――。
――やがてこちらから顔を背けて歩き出し、わたしたちの目の前から姿を消した。
「…………っは」
呼吸するのを忘れていたことに、今更気付く。……今の一瞬で噴き出した汗で、着ていた制服はびっしょりと濡れていた。
もう一度外の様子を伺う……大丈夫、もう何もいない。
わたしは一度、安堵の息を吐いた。
「姉さま……?」
後ろに隠れているリンカが、かすかな声で呼びかけてきた。
わたしの緊張が伝わったのだろうか、奥にいたリンカは妖獣の姿を見ずに済んだにも関わらず、目の前に妖獣が現れたかのように怯え……震えていた。
「大丈夫……もう、大丈夫」
わたしはリンカを抱きしめる。リンカを励ますためではなく……わたし自身、誰かと触れ合っていないと心細くて仕方がなかったからだ。
リンカも、ぎゅっと抱きしめ返してきた。
わたしたちはそのまま、くっついたままで朝が来るのを待った。――妖獣に追われているという恐怖を実感し、もう一歩たりともその場を動くことができなかった……。
木々の隙間から、太陽の光が差す。
ようやく夜は終わった……妖獣たちが跋扈する恐怖の時間は、終わったのだ。
わたしの腕の中で、リンカは眠りに落ちていた。泣き疲れ、歩き疲れ……もう限界だったのだろう。震えるリンカの頭を撫でてあげるうちに、ことりと夢の中へ沈んでいった。
わたしは……一睡もできなかった。この世のものとは思えない化け物を見た衝撃で、まったく眠気が起こらなかったから。……もともと不寝番をするつもりだったから、好都合ではあったけれど。
わたしたちが隠れている岩場も少しずつ太陽に照らされ、周囲の明るさは増していく。だけど、すぐに動こうという気にはなれなかった。もしかしたら、まだその辺りに妖獣が潜んでいるんじゃないか……そんな考えが頭を離れない。
……リンカが起きるのを待ってから、行動を始めよう。
できれば今日中に城下町に着きたい……これ以上どこかで夜を過ごすなんて、あまり考えたくない話だ。ここから城下町まで、あとどれくらいの距離があるのだろう……。
「う…………」
ぼんやりと考え事をしながら待っていると、ようやくリンカが目を覚まし――わたしの顔を見るなり、ぎゅっと力強く抱き着いてきた。
「り、リンカ? どうかしたの、調子でも悪いの?」
リンカはわたしの身体にこすりつけるかのように頭を振り、
「……怖かったのです」
「え……?」
「目が覚めて、もし姉さままでいなくなっていたらどうしようかと……。リンカが寝ている間に、また大切な人と会えなくなったりしたら……そんな考えが頭をよぎってしまって」
リンカが寝ている間に、ショウリンさんたちは妖獣に襲われた。寝ていたリンカは、二人の死に目に会うこともできずに、家を飛び出さなければならなかった……。
別れの言葉すら告げられないまま、永遠の別れとなるのは……どれほど辛いことだろう。
「父さまも母さまも……リンカを遺して逝ってしまわれました。妖獣に、命を奪われてしまいました……! ……もうリンカには、姉さましかいないのです……!」
リンカが目に涙を溜めながら、縋るようにわたしを見つめ――声を絞り出す。
「姉さまは、いなくならないで……!」
その言葉に応えるように、わたしはしっかりとリンカを抱きしめる。
「大丈夫……わたしは絶対、リンカの傍を離れないから……。ずっとずっと、リンカと一緒にいてあげるからね……」
――そうだ、これしかない。
どうしようもないわたしが、リンカにしてあげられること。
もう二度と、迷ったりしない。……わたしは、リンカと共に生きていく。
わたしの人生を、命を……全て、この子のために――。
「あの……姉さま、髪を結ってくださいませんか?」
「いいよ、貸して」
リンカが髪紐を懐から取り出して渡してきたので、受け取ってからリンカの柔らかな髪に触れる。
泣き止んだリンカが最初にわたしに求めてきたのが、これだった。ヨウファさんにも頼んでいたこと……やっぱり、リンカにとってはこれが親愛の証なのだろう。
ヨウファさんがリンカにしてあげてるのを毎日のように見ていたので、できるだけ似たような動作で髪を結ってあげる。耳の上あたりを指でつつっとなぞりながら、後ろ髪を一つにまとめ上げていく。首の近くで髪紐を縛り、完成。
「……ありがとうございます、姉さま。……今日からは、毎日姉さまが髪を結ってくださいね、絶対ですよ」
「はいはい、リンカが望むのならいつだってやってあげるから。……でも、綺麗な髪をしているのだから、もっといろんな髪型をしてもいいんだよ? どんな髪型だって、絶対に似合うと思うな」
「いいえ! リンカはこの髪型がいいんです」
何か特別な思い出でもあるのだろうか……リンカは長い髪を後ろでひとつに纏める今の髪型にこだわりがあるようだった。
……そういえば、日向も頑なにボブカットから変えようとしなかったっけ。幽世に来てから、わたしは一度も髪を整えていない。いま日向に会ったら、もう瓜二つの双子じゃなくなっているだろうな……。
髪を結んで少しだけ元気を取り戻したリンカと共に、城下町へ続く道を行く。
「ねえ……城下町へは、あとどれくらいで着くの?」
わたしは今更な質問を問いかける。そんなことも知らずに、わたしはリンカを家から連れ出していた……リンカを守るため、冷静な判断をしていたつもりだったのに、今考えると無謀もいいところだ……。
「そうですね……あと、二日ほどでしょうか」
「二日? ……でもそれじゃあ、途中でどこかに泊まらないと」
「はい。ですので、今日は道中にある仮宿まで向かうことを目標にしましょう」
リンカは今朝から、ずっとわたしの腕にぴったりとくっついていた。少し歩きにくいけれど、こうしているとリンカがわたしに心を寄せてくれていることがわかって、とても嬉しい。
「仮宿って?」
「領内には蜘蛛の巣のようにいくつも、人が通行するための道が張り巡らされているのですが……その道中には必ず一定の間隔で、宿泊用の仮宿というものが営まれているのです。仮宿は誰でも宿泊することができ、寝具や食料などもあります。民がどこかへ遠くへ出向かうときは、仮宿を転々としながら目的地へと向かうものなのです」
「そっか……妖獣がいるんだから、野宿なんてできないものね……」
そう考えると、今こうして朝を迎えられたこと自体、奇跡のようなことなのだろう。
「……ごめんねリンカ」
「えっ? ど、どうしたのですか」
「リンカに、あんな危険な一晩を過ごさせてしまったこと。わたし、妖獣たちから逃げようと焦るばかりで『どうやって逃げるか』なんて考えてもいなかった……。城下町へどうやって行くのか、どれくらいの時間がかかるのかさえ知らないで……リンカを振り回して。本当に、ごめんね」
もしかしたら、あのまま朝までじっと部屋で静かにしているほうが正解だったのかも……そんな考えが頭をよぎる。
今考えると、御神体の供えられているわたしたちの寝室は、あの家で一番御神体の加護を受けた部屋だったんじゃないかと思う。だからこそ、ショウリンさんたちはあの部屋を寝室としていた。わたしが家族として増えたあとでも、リンカをあの寝室から動かそうとしなかったのはそういう理由もあったのかもしれない。
もしそうだったとしたら、わたしはリンカを無駄な危険に晒しただけだ……。
「姉さま……そんなことおっしゃらないでください」
だけどリンカは……あんなにも怖い思いをしたはずなのに、わたしを許すように手を優しく握ってくれた。
「姉さまは、リンカを助けようとしてくれたのですよね」
「えっ……まあ、そう考えて行動をしていたつもりだけど、でも結果的に……」
「結果でしたら、リンカはこうして無事生きています。姉さまは、足が震えて動かないリンカの手を引っ張ってくださいました。岩陰に隠れた時、絶対妖獣に見つからないよう、その身を盾にしてリンカを隠してくださいました……そんなふうに、必死に助けようとしてくれた姉さまに謝られては……リンカは困ってしまいます」
「…………」
「それに……謝らなくてはならないのはリンカのほうです。父さまと母さまのことで頭がいっぱいになって……リンカは姉さまに、ひどい言葉を。姉さまが妖獣を家に呼び寄せるなんて、あるわけがないのに……。それなのに姉さまは、リンカのことを見捨てず、ずっと傍にいてくれると約束してくださいました。姉さま……ごめんさない、そしてありがとうございます」
「そんな……! ……リンカが取り乱すなんて、当たり前のことだよ。わたしがしっかりするべきだったの。それなのにリンカの気持ちを考えてあげることもできなくて、遠出の方法も知らないのに無茶な行動ばかりして……」
「現世人の姉さまが仮宿のことや城下町への距離を知らないのは当然のことです! 姉さまが責任に感じる必要なんて……むしろリンカこそ、しっかりしなくてはいけなくて……」
お互いが、どちらも自分が悪いと言い合っている。……そのことに気付いた時、わたしとリンカは小さく噴き出した。
「……似たもの同士だったんだね、わたしたち」
「まるで本当の姉妹みたいで……リンカは嬉しいです」
……本当の姉妹、か。
「ねえリンカ、実はね……妖獣に襲われたあの夜、リンカが寝ている間にショウリンさんたちと話をしたの」
「えっ?」
わたしはショウリンさんたちと話した最後の会話の内容全てを、リンカに伝えた。ショウリンさんたちはリンカが学舎に通い、城に勤めることを望んでいたこと。そしてそのために、わたしに家業を継がせようと思っていたことを。
「父さまたちが、そんなことを……?」
「そう、だからね……二人とも、リンカのことを家業を手伝わない悪い子だなんて、これっぽっちも思っていなかったの。それどころか、才能あふれるリンカのことを誇りに思って、幸せになって欲しいと願っていた……」
「……そうですか。そうでしたか……」
リンカの頬を――ツゥと一筋の涙が伝う。
両親を想い、悼むリンカの涙は……とても美しかった。
「リンカ、これを」
わたしは制服のポケットに入れておいた麻袋を、リンカに手渡した。
「これがショウリンさんたちがわたしに預けた……二人がリンカのためだけに貯めていたお金。リンカのためのお金なのだから、使い方はリンカが決めて」
「使い方……?」
「二人が望んでいたように、学舎へ入るために使ってもいいし、何か他の……別のことに使っても全然構わない。リンカが考えて決めたことだったら……きっと二人は納得するはずだから」
リンカは手の上に載せられた麻袋をじっと見つめ……やがて、わたしのほうを見て笑った。
「……父さまと母さまには申し訳ないですけど、やっぱりリンカは学舎には行きません。このお金は、生活のために使いましょう」
「……そう。いいんだね?」
「だって、リンカだけが学舎に入ってしまったら、姉さまと離れ離れになってしまうではないですか。リンカはずっとずっと、姉さまと一緒にいます。……この世でたった一人の、家族なのですから」
「……うん」
リンカが右手を差し伸べてくる。わたしはそれを左手で握る。
手を繋いで、隣同士並んで……わたしたち姉妹は、城下町への道を進む。
■
「ゴウラン様!」
斬り殺した妖獣の体液がついた刀をゴウランが拭っていると、部下の男が一人、慌てたように駆けてきた。
姫の命が潰えると同時に、妖獣たちの動きはあからさまに活発になった。辺りを我が物顔で動き回り、防人の一族たちの気配を感じとるや一目散に襲いかかってくる。あまりにも節操の無い動きに、新たな姫の捜索は早々に躓きを見せていた。
ゴウランもまた、姫の居場所を探るため夜中であるにも関わらず外へと出向いていた。襲い掛かってくる妖獣たちを一刀のもとに斬り伏せていき、襲撃がようやく落ち着いたところで部下が駆けてきたのだった。
「何かわかったのか」
低い声から苛立ちがありありと感じ取れたのか、部下の男はびくりと震える。
ほんの少し妖獣を斬り殺しただけで斬れ味が鈍るとは……ゴウランは消えてしまった自らの『牙』と、現在帯刀している刀の差に辟易する。今の刀も名刀と呼ばれるほどの一品ではあるのだが……『牙』と比べては子供の玩具だ。
とはいえ、『牙』はそれこそ人の常識を超えた力を持つ武器だ。人間の作り上げたものと比べられるものではない……ゴウランはそう自分に言い聞かせ、ふぅーと息を吐いた。
「いや、すまん。それで、報告の内容は」
「はっ……妖獣たちの動きですが、やはり全体的に東の方へと動いているようです。……新たな姫がそちらの方面にいるのは確実かと」
「そうか……ならばこのまま先へと進むぞ。一刻も早く、姫を探し出さねば……。モロウ様はまだ動けぬはず……頼りにすることはできん」
「はっ。……それと、もうひとつ報告なのですが」
言いづらそうな顔をする部下に、ゴウランは眉を顰める。
「どうした、報告があるならば早くしろ。今はとにかく時間が惜しい」
「失礼いたしました。各所から報告が来ているのですが……妖獣たちがどうも、強力になっているようなのです。交戦をした一族の中に、経験の浅いものを中心として怪我を負った者が多数出ているようで」
「……ぬう」
先ほど戦った妖獣たちも、やたらと手ごたえがあったことをゴウランは思い出す。てっきり刀の差が苦戦の原因かと思っていたが、妖獣たちの力そのものが増しているらしい。
「その上、無軌道に暴れまわった挙句民家に突っ込み、そのまま家人に襲い掛かるという案件も報告されています」
「何! 御神体に守られているはずの民に被害が出ているというのか!」
ゴウランが知る限り、ここまで妖獣の力が増したという記録はない。今のモロウ領がどれほど危険な状態にあるのか……そのことをまざまざと見せつけられたようで、ゴウランの心はざわつく。それは部下も一緒だったようで、心配そうな顔でゴウランに問いかけてきた。
「あの……ゴウラン様。もし、姫が見つからなかったらどうなるのでしょう。もしも……襲い掛かられた民の中に、次の姫がいたとしたら……」
「……わからん。そんな例は過去にないからな」
前姫であるシャンクゥが命を賭して維持し続けたモロウ領の平和……それが今、ぼろぼろと崩れ落ちていく。妖獣たちは力を増し、民を守る防人の一族たちをあざ笑うかのように、人々に襲い掛かる……怒りのあまり、ゴウランは奥歯が砕けそうなほど強く歯を食いしばった。
――妖獣たちが暴れまわる世の中になど、絶対にさせるものか……!
「……とにかく今は、姫を探し出すことだけを考えろ。夜を迎えるたび、姫に危険が訪れるのだ……次の夜までには、必ず探し出す……!」
そう言って、ゴウランは堂々と歩き出す。
情けない表情を浮かべていた部下も顔を引き締め、その背中を追いかけていく。
夜が、明けようとしていた。