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「あら。おはよう、ヒマリ」
「おはようございます」
早朝、まだ太陽が地平線から頭を少し覗かせたくらいの時間。
わたしは目が覚めてすぐ身だしなみを整え、炊事場へと向かう。そこではいつものようにヨウファさんが朝食と、昼食のお弁当を作っていた。
早起きはわりと得意なので、太陽が昇ると同時に起床する幽世での生活にもすぐに慣れた。そもそも寝つく時間が現世にいた頃と比べれば圧倒的に早いので、朝早く起きようとしなくとも、自然と目が覚めてしまうのだけれど。
わたしはキョロキョロと室内を見回す。……炊事場にいるのはヨウファさんだけ、工場のほうにも人の気配はない。
「ショウリンさんは……水汲みですか?」
「ええ、そうよ」
毎朝、一番初めに目を覚ました人が、今日一日分の水を近くの沢から汲んでくる……それが家族の決まり事だった。
……とはいえ、殆ど形骸化している決まり事だ。一番に目を覚まそうとどれだけ頑張ってみても、まるでわたしの起床時間を読んでいるかのようにショウリンさんかヨウファさんが先に目を覚ましていて、既に水汲みを済ませてしまっている。
わたしは後から家族に加えてもらった身だ。それなのに家主よりものんびり朝を過ごしているなんて……不甲斐ないやら何やらで、わたしは頭を下げた。
「……すみません、いつもいつも」
「ふふ、どうして謝るの? おかしな子ね。……さ、朝食作りを手伝って貰えるかしら」
「はい」
にっこりと笑うヨウファさんに促され、わたしは彼女の隣に並んで料理を手伝い始めた。
誰かの隣に並んで一緒に料理をする……こんなこと、実の母親ともやったことがなかった。
わたしが料理を覚えるために使った方法は、大抵がインターネットで見ることのできるレシピサイトや調理動画だった。もちろん、母親が作っているのを眺めて、なんとなく動きを真似したことはあるけれど……手取り足取り教えてもらったことはない。
こうしてヨウファさんと共に料理を作ってみると……どうしてずっと一人で作っていたんだろうと疑問に思う。誰かと料理をするのは、楽しい。会話も弾むし、あれこれコツを教えてもらえるのも嬉しい。わたしが幽世の料理をすぐに覚えることができたのは、きっとヨウファさんに直接教えてもらったからに違いない。
「あくまで、趣味のつもりだったから……なのかなぁ」
わたしが、誰にも頼らずに料理をしていた理由……それはたぶん、単なる趣味のひとつだと考えていたからだと思う。長続きする保証もなかったので、真剣に誰かの師事を受けて料理をしようという気にはならなかった。レシピサイトを見て作って、面白かったら続けてみよう……そんな気軽な気持ちで始めた趣味。思いのほか続いていたけれど、始まりがそんなふうだったから、あえて誰かと一緒に作ろうなんて考えもしなかった。
「ん……んん、完璧ね。ショウリンもリンカも、きっとわたしたちのどちらが作ったのかわからないでしょうね!」
「……ありがとうございます」
ヨウファさんが味見をしながら、わたしの料理を褒めてくれる。
趣味で料理をしていたときは、自分好みの味付けをすることしか考えていなかった。だけど今は、ヨウファさんの味付けに近づけるということを目標にしている。
……いわゆる、お袋の味というやつ。
日ごとに、わたしの味付けはヨウファさんのものに近づいている……。わたしにとってその事実は、たまらなく嬉しいことだった。
「……おはようございます。母さま、姉さま」
背後から寝ぼけた声が聞こえて、後ろを振り返る。
リンカが眠そうに目を擦りながら、ふらふらと歩いてきた。頭が良くて要領もいいリンカだけれど、朝早く起きるのは少し苦手なようで、いつも一番最後に布団から出てくる。
「おはよう、リンカ」
小さくあくびをするリンカの微笑ましい姿に、わたしは双子の妹である日向のことを思い出す。そういえば、日向もリンカと同じように、朝起きるのが苦手だったっけ。とはいえ今はまだ明け方だから、リンカは寝坊したわけじゃないんだけれど。
「おはようございます……。……あの、母さま。髪を……」
炊事場に現れたリンカは普段と違い、髪の毛を後ろで括っていない。リンカは朝起きるとすぐに身支度を整えるが、髪の毛を括るのだけは母親のヨウファさんに頼っていた。
「あらあら……お寝坊さんの上に、まだ自分で髪を結うこともできないのかしら? ……ヒマリ、少しお願いね」
「はい」
ヨウファさんはわたしに炊事場を預けると、リンカの元へ。髪を括る紐を受け取ると、リンカの細くて柔らかい髪に、愛おしげに触れた。
一人でできないリンカを叱るような物言いをしたヨウファさんだけれど、リンカの髪の毛を優しく結んであげる姿には親の愛情が溢れている気がする。そして髪を結って貰っているリンカも、嬉しそうに頬を赤くしていた。
――たぶんだけれど、リンカは自分で髪を結うことができる。
ヨウファさんに髪を結って貰うのは、きっとリンカなりの母親への甘え方なのだろう。
そして、聡明で滅多に我が儘を言わない子供が唯一甘えてくるこの時間を、ヨウファさんが疎ましく思うわけがない。
リンカの髪をヨウファさんが結うこの一瞬は……きっと二人にとってとても大切な、家族の触れ合いなんだ。
「さ、できました」
「……ありがとうございます、母さま」
リンカが無邪気に顔を綻ばせる。それをヨウファさんが、愛おしそうに見つめる。
親子の愛が溢れるその姿に、わたしの心はじんわりと暖かくなった。
水汲みを終えたショウリンさんも帰ってきて、家族全員で朝食を済ませると、それぞれが仕事に就く。ショウリンさんとヨウファさんは竹を採りに行き、わたしとリンカは食料調達のため竹藪を抜けて山の方へと入っていった。
今日も変わらず、いつも通りの日々……そう思っていたのだけれど、
「あれ……? 姉さま、見てください。あちらにもあんなに山菜が」
「本当だ……。あっという間に一杯になっちゃったね」
今日に限っては、ずいぶんと勝手が違っていた。
普段通りであれば、あちこち探し回って集めるはずの食料が、まるでこちらに吸い寄せられているかのようにすぐに見つかる。もちろん、採りすぎてはいけないので全部を摘んでいるわけではないけれど……それでも余るほどの量が次々と目に飛び込んできた。
おかげで、あっという間に今日の食料調達は終了してしまった。
まだお昼を食べるような時間にすらなっていない。早く仕事を終えるのに越したことはないし、わざわざ苦労をしたいというわけでもないけれど……ここまで時間が余ってしまうと、かえって困ってしまう。
「うーん、だいぶ時間が余っちゃったね……。どうしようか、早く帰ってショウリンさんたちのお手伝いをする?」
ちょうどいい大きさの岩に座って、わたしはリンカに問いかける。
このまま都合のいい時間までのんびりしてもいいけれど……せっかく時間ができたのだから、有意義なことに使いたい。それならばすぐに家に帰って、家族の仕事を手伝うべきだろう。それにリンカだって、たまには両親と長く一緒に過ごしたいはず……。
リンカもきっとそう言うだろうと思って提案したのだけれど、
「あ、あの……姉さま。実はお願いがあるのですが」
意外なことに、リンカの答えは違うものだった。
「リンカが、わたしに……? どうしたの、改まって」
夜寝る前には、わたしに現世の話をねだるリンカだけれど……それ以外の時にわたしに頼みごとをすることなど滅多にない。今日は変わった出来事が多いなあ……と内心不思議に思いながらリンカを促すと、リンカは少しためらいながらも、はっきりと言った。
「……あのですね。リンカは姉さまに、文字を教えて欲しいのです」
「……文字?」
幽世では、文字といえば漢字のことだ。
それ以外の文字……平仮名や片仮名は、どうやら存在しないらしい。ショウリンさんが以前、町で貰ってきたという御触れ書きを見せてもらったけれど、見事に漢字だけがびっしりと紙面を埋め尽くしていた。
漢字、というのは中国の漢民族が使っていたからそう呼ばれているわけで……幽世では漢字のことは、単に『文字』と言うようだった。
「……うーん、文字を教える、かあ……」
せっかくの妹の頼みなのだから、叶えてあげたいのだけれど……わたしは頭を悩ませてしまう。
実を言うと……ショウリンさんに見せてもらった御触れ書きを、わたしは殆ど読めなかったのだ。
それもそのはずで、御触れ書きに使われているのは確かに漢字だったけれど、文法は日本語と全く違うものだった。見たところ漢文に近いようだったけれど、わたしは漢文なんて授業でちょこっと習った程度、しかも教科書に載っている漢文と違い、送り仮名や返り点などのいわゆる訓点は一切書かれていない。そのうえ書き文字は達筆で、はっきりこれだと分かった漢字は数えるほどしか存在しなかった。結局、その御触れ書きに書かれていた内容で分かったのは、ほんのわずか『妖獣に注意しろ』くらいのもので……どうしてそのような御触れ書きが出たのかまではさっぱりわからなかった。
「……ダメ、でしょうか……?」
難しい顔をするわたしの顔色を見ながら、リンカが悲しそうに顔を俯かせる。それを見て、わたしは慌てて表情を取り繕う。
「ああ、違うのリンカ。別にリンカに教えたくないわけじゃなくて……わたしじゃたぶん、まともに文字を教えられないから……」
リンカは不思議そうな顔をしながら首を小さくかしげる。
「どうしてですか? 姉さまは確かに文字をお読みになられて……」
「うーん、なんていうかな……。わたしが知っている文字と、リンカが覚えたいと思っている文字は、似ているけどちょっと違うみたいなの。山菜や茸にも、よく似ているけど一方は食べられて、もう一方には毒があるものがあるでしょう? それと同じで……わたしが知っている文字をリンカに教えても、リンカには無意味な可能性……それどころか、変な知識を覚えてしまって逆に悪影響になってしまうかもしれないから……」
山菜や茸に例えた説明はどうやらリンカもしっくり来たようで、「そうですか……」と納得してくれた。
だけど、やっぱり諦めがつかないようで、リンカは続けてわたしにねだってくる。
「それじゃあ……姉さまのお名前だけでも、どういう文字を書くのか教えていただけませんか?」
「わ、わたしの名前?」
こんなにも粘り強くお願いをしてくるなんて……今日のリンカは、本当に珍しい。
わたしの名前かあ……それくらいなら、教えても問題ないかな?
確か、日本で使われている漢字と中国で使われている漢字は若干の違いがあったはず。だとすると幽世で使われている文字ともなんらかの違いがあるかもしれないけれど……まあ、わたしの名前だけなら、いくら幽世のものと違っていても「現世ではこう書くんです」で通じるだろうから、リンカに教えても悪影響にはならないよね……?
それに、せっかくの妹のお願いだ。できることなら、いくらでも叶えてあげたいし……。
「わかった、いいよ。えっとね……」
わたしは座っていた岩から立ち上がると、近くに落ちていた小枝を拾い、地面を足で蹴って均した。小石を取り除いて平坦なものにした地面に、小枝で『日葵』と、生まれてから何度も書いてきた自分の名前を縦書きで書く。名字である『橘』を書くか少し迷ったけれど……まあ、今は必要ないよね。
「これが……ヒマリと読むのですか?」
「そう、上側の文字が『ヒ』、下側の文字が『マリ』。下側は一文字だけだと、マリとは読まないんだけれど……わたしの名前はこう書くの」
「えっ? 名前の時だけ読み方が変わるのですか?」
リンカが驚いたように文字を覗き込む。
……なんだか懐かしいなあ。小学校の授業で自分の名前の由来を調べたときに、わたしも同じように疑問に思ったっけ。
「そうなの。上側の『日』という文字は、太陽のことを表している文字。そして下側の『葵』という文字は、本当は『アオイ』って読むの。アオイっていうのは花の名前から来ているんだけど……この世界にもあるのかな?」
「アオイですか! それならリンカも知っています! お薬の原料になる花ですよね」
「そうなの? ……ともかく、その二つの文字を合わせて、ヒマリって名前になっているんだ」
リンカはわたしの説明を反芻するかのように、地面に書かれたわたしの名前をじっと見つめながらぶつぶつと呟いていた。
「妖獣を追い払う太陽のことを表す文字……そして人々を助ける薬の原料である花を表す文字……。――素敵です! 姉さまの名前は、人の助けとなるものが組み合わさって出来ているのですね……」
「ん? ……うん、ありがとう」
……本当のことを言うと、わたしの名前の由来はもっと単純なものだ。
双子として生を受けた娘たちにどんな名前をつけるか考えたわたしの両親は、とりあえず双子なのだから似通った名前にしようとしたのだそうだ。
そこで思い浮かんだのが、両親が好きだった花のヒマワリだった。ヒマワリは漢字で書くと『向日葵』……その向日葵という名前を、前と後ろで二つに分けた。
日向と日葵……ちょうどいい具合に女の子の名前にぴったりだということで気に入った両親は、そのまま決めてしまったらしい。話を聞いた時は、ずいぶん安直だなあと呆れたっけ……。
なので、本来のわたしの名前の由来はヒマワリなのだけれど……リンカはなんだか感動しきっているようだし、今更双子の妹の話をすると話が長くなりそうなので、わたしはあえて黙っておくことにした。
せっかくの妹の感動を奪いたくはないし……素敵な名前だと言われて、実はほんの少しだけ嬉しかったのだ。
「『日葵』、『日葵』……。たいようと、あおい……」
リンカはわたしの使っていた枝を拾うと、わたしの書いた文字を見ながら、地面に『日葵』の文字を書き連ねていく。……そういえば、小学生の頃はこうやってとにかく何度も書いて、漢字を覚えていたっけ。今じゃ機械が勝手に変換してくれるから、漢字を書く練習なんてしなくなっちゃったな。
リンカはわたしの書いた文字の隣に、次々と真似た文字を書いていく。……こんなにも自分の名前を書かれた経験なんてないので、なんだか妙に恥ずかしい……。
やがて『日葵』という文字が地面にずらりと並び、最初はよれよれだったリンカの書く文字もだいぶ形を成してきたところで、満足したかのようにリンカはようやく枝を置いた。
「ふぅ……。どうですか? だいぶ上手に書けるようになりました!」
「うん、ばっちりだよ。こんなにすぐ書けるようになるなんて、さすがだね」
「えへへ……。……あの、姉さま。できればもっと、色んな文字を教えて欲しいのですけど」
「もちろん、いいよ。何がいいかな」
わたしが問うと、リンカは少しだけ頭を悩ませて……なぜか恥ずかしそうにしながら答えた。
「あの……では、リンカの名前はどう書くのですか?」
「えっ?」
リンカの名前を漢字で書くとどうなるか……それは、わたしにはわからないことだ。
リンカ、という名前はたぶん、ショウリンさんとヨウファさんが付けた名前なのだろうけど……当の二人は文字を読むことも書くこともできない。ということは、文字の表す意味や記号をもとに名前を付けたわけではないわけで……。
「うーん、ごめんね。リンカって名前にこちらの世界ではどんな文字を充てるのか、正確な答えがわからないから……」
わたしが勝手にショウリンさんたちの気持ちをおもんばかって、適当な字をリンカに教えるわけにはいかない。そう思って断ろうとしたのだけれど……今日のリンカは、やっぱり妙に食い下がる。
「では、現世の文字で構いません! 姉さまのいた場所ではどう書くのかだけでも……!」
リンカの大きな瞳には、好奇心の炎が揺らめいていた。
……ああ、きっと町で商人たちから色んな話を聞いているときも、こんな目をしているんだろうな……。こんなにきらきらした目で見つめられたら、どんな質問にだって答えたくなってしまう……。
「……わかった。じゃああくまで、現世ではどう書くか、って話だからね。えーと……」
わたしは悩んだ。
せっかく自由に文字を充てていいのだから、どうせならうんといい名前にしたい。とはいえあんまり凝った名前にするのも嘘くさい感じがして嫌だし……。
リンカ、リンカ……。『ン』の音が入っている以上、どうしても『リン』と『カ』に分けざるを得ない。『リン』の字と言えば、何があるだろう? 隣人の隣、輪廻の輪、倫理の倫……どれもリンカのイメージに合わない。
合うとするなら竹林の林だけれど……名字ならともかく、女の子の名前に林というのは、あんまり可愛くない気がする。リンカのイメージ合う漢字……頭がよくて、可愛くて、一人でなんでもできてしまう立派な妹に相応しい漢字……。
「……うん、こうかな」
わたしは再び枝を持ち、決めた漢字を地面に刻む。
「……これが、リンカの名前ですか?」
わたしが書いた文字は『凛花』。凛とした姿……品のあるイメージと、可愛らしい花を組み合わせた名前。竹藪の中に住む、聡明な少女にはぴったりだと思ったのだ。
わたしが文字の意味をそう説明すると、リンカは食い入るように地面に書かれた文字を見つめる。
「『凛花』……『凛花』。これがリンカの……名前」
リンカは先ほどとは比べものにならないほど集中した様子で、同じように地面に文字を書き始める。やはり自分自身の名前ともなると思うところがあるのか……少し難しい『凛』という字を使っているのにも関わらず、あっという間に自分の名を表す文字を習得してしまった。
「姉さま! 次は父さまと母さまの名前も教えてください!」
そして、新しい知識を身につけて楽しくなってきたのだろう、続けてわたしにねだってきた。
寝る前に現世の話をするときと違って、今日は充分時間がある……だからこそ今は、普段控えめなリンカも遠慮なくわたしに催促をしてくるのかも。
――それならば姉として、妹の期待には応えなきゃね。
「ショウリンさんと、ヨウファさんの名前ね。それじゃあ……」
わたしは手の中で小枝を弄びながら考える。
お二人にふさわしい名前は、どんな字を使えばいいだろうか?
ショウリンさんは……安直だけれど、少林とか? 音の響きだけだと、パッと頭に思い浮かぶのはやはりその二文字だ。できれば、もうひとひねりしたいところだけど。
問題はヨウファさんだ。『ファ』という音に該当する漢字を、わたしは知らない。というより、存在しているのだろうか? 日本人で『ファ』の音を使う名前を持っている人に、わたしは今まで会ったことがない……。
となると、中国語の発音を使うしかないのだけれど……残念ながら、わたしは中国語の名前に関する知識は殆ど持っていない。せいぜいテレビや映画、漫画などで得た知識だけだ。
ファ、ファ……中国語でファと読む漢字といえば、どんなのがあったっけ……?
「…………あ」
一文字だけ、ファと読む漢字に覚えがあった。
それを思い出すと同時に、わたしの頭に閃きが走る。わたしにしては珍しく、気の利いたアイディア。せっかく思いついたのだから、使わない理由はない。
そうなると、ショウリンさんの名前も違うものにして……。
「……よし。ショウリンさんとヨウファさんの名前はね……」
わたしは再び、地面に文字を書き込む。今度は二人分、隣同士並べて書いた。
「これが父さまと母さまの名前……。……あれ? この文字って……?」
わくわくしながらわたしの書きこんだ文字を覗き込んだリンカが、すぐに気がついた。
ファの音に充てる文字としてわたしが思いついたのは『花』という文字だった。テレビか映画か……何で見かけたのかは覚えていないけれど、確か中国語では『花』という文字を『ファ』に近い発音で読んでいたと思う。
そこでわたしは、ちょっとした遊びを思いついた。ヨウファさんの文字に『花』を使うと、リンカに充てた『凛花』と一文字被ることになる。そして、父親であるショウリンさんとリンカにも、『リン』という音の被りがある。それならば、いっそのこと漢字もかぶせてしまおうと思ったのだ。
そうしてわたしが書いたのは、『照凛』と『陽花』だった。いつも明るくわたしたちを見守ってくれている二人に、ぴったりな文字だと我ながら思う。
――そして、二人の名前から一文字ずつ組み合わせると……『凛花』になる。
文字を教えて欲しいというリンカの頼みを、きちんと聞いてあげられないことへの謝罪の気持ち。
そしてわたしを受け入れてくれた家族への、ほんのささやかな贈り物……そんなつもりで、わたしはリンカに二人の名前を贈る。
リンカは地面に書かれた新たな文字を、じっと見下ろしていた。
「…………?」
最初は、また集中して文字を覚えようとしているのかと思ったけれど……どうも先ほどまでの様子とは違う。
ぼうっと地面を見下ろしている姿は、どこか寂しげな様子にも見えた。文字を教えて欲しいと懇願していたときに見せていた好奇心の炎は、どこかへ消え失せてしまっている。
一体、どうしたんだろう……? 気を利かせた名前のつもりだったのだけど……何か気に入らないことでもあったのだろうか。
やがて、リンカはぱっと顔を上げた。
こちらを向いた顔はにっこりとした笑顔で、わたしは少しだけほっとする。だけれど……なんだか、無理をしているようにも見えた。
「……ありがとうございます、姉さま。今日はたくさんのことを教えていただきました」
「え? う、ううん、いいんだよ気にしなくても。それより……ショウリンさんたちの文字は覚えなくてもいいの?」
さっきまでの調子で、無我夢中に文字を書き連ねるだろうと思っていたのに……。喜ぶどころかあっさりと話を打ち切られて、わたしは何かおかしなことをしてしまったのかと不安になる。
知らぬ間にリンカを傷つけてしまったのなら、謝らないと……。
「はい……今日はこれくらいで充分です」
「そう……? ……ごめんね、何かおかしなことを言ってしまったかな」
「えっ? い、いえ! 違います! 姉さまは何も悪くありません!」
リンカは慌てたように両手を振った。そして地面に書かれたショウリンさんたちの名前を見下ろしながら、ポツリと言葉を零す。
「……悪い子なのは、リンカのほうなのです」
「えっ……」
唐突かつ意外すぎるリンカの発言に、わたしは言葉を失う。
リンカが、悪い子?
こんなに頭が良くて、気が利いて、いつも元気に明るく振る舞っているリンカが、どうして悪い子になるの……?
ショウリンさんたちの家族としてもう随分長い時間が流れたけれど、リンカがショウリンさんたちを困らせているところも、厳しく叱られているところも見たことがなかった。そりゃあ、朝早く起きられなくてヨウファさんに小言を貰うことはあるけれど……たったそれだけでリンカのことを悪い子だなんて、言えるわけがない。
「どうしたの、リンカ……。どうしてそんなこと」
もしかしたらリンカは、何か思い違いをしているんじゃないだろうか。そうでなければ、こんなことを言う理由がわからない……そう思い、わたしはリンカに問いかけた。
するとリンカは、自らが地面に夢中になって書いた文字を後悔するかのように眺めながら言う。
「……本当は、こんなふうに文字を教わってはいけないんです。それをリンカは、姉さまに甘えてつい教わってしまいました……」
「どうして? 文字を覚えることが、どうしていけないことなの?」
「……だってリンカは、竹藪で生まれた子ですから」
リンカは地面に書かれた『照凛』、そして『陽花』の下二文字を、指でぐるっと囲む。
「竹藪の家で生まれたからには、リンカは竹の採取や竹細工の作成をまず第一に覚えるべきなのです。それが竹藪で生まれた子の義務……。それなのに、リンカは町に出かけるたびに、竹藪の仕事とはまるで関係のない知識ばかり追い求めてしまいます。本来なら、父さまが行なっている仕事を手伝いながら覚えなければいけないのに」
ショウリンさんはある程度商品を作り終えると、商品を荷車に載せて町へと出かけていく。
その際お供として、リンカも一緒にでかけることが多かった。ただ、作った商品の販売は、ほとんどショウリンさん一人で行っているらしい。商品の納品、値段の交渉、新たな客層の開拓など……商売に関するもの全てをだ。ショウリンさんが商売をしている間、リンカは他の商人の話を聞きながら、父親の仕事が終わるのを待っているのだと、ショウリンさん本人から聞いていた。
「……だけど、ショウリンさんは……」
しかし、そのことについてショウリンさんが苦言を呈したことなどない。むしろ利発な我が子が町へいくたびに賢くなっていくことを、自慢に思っているようにすら見えた。
だけど――リンカは弱々しく首を振る。
「父さまも母さまもお優しいので、リンカのことを叱ったりはしません。でもきっと、心の奥底では……リンカにもっと、竹藪の子としてきちんとして欲しいと思っているはずなのです。町で出会う同い年の子供たちは、皆立派に家業を継ぐための勉強をしていました……。リンカだけなのです、無用な知識に興味を示すのは。そしてそのことが分かっているのにもかかわらず、リンカは未だに、自らの好奇心を抑える術を知りません……」
わたしは言葉を失った。
リンカがこんな悩みを抱えていただなんて……全く知らなかった。頭も要領も良く、両親からもいつも褒められているリンカは、順風満帆に日々を過ごしているのだとばかり考えていた。
リンカの言う理屈は、わたしにはあまりピンと来ない。リンカがいろいろなものに興味を持ち、熱心に習得しようとする姿はとても素敵だと思う。
それに、もしリンカがこんな風に知識を身に着けていなかったら、わたしは未だにこの幽世の世界がどんなものなのか、全く知ることもできずに右往左往していただろう。そういう意味でも、わたしはリンカがいろいろなことを知ろうとする子供だったことに、感謝すらしていた。
そして、ショウリンさんたちも、そんなリンカのことを間違いなく自慢に思っている……はずだ。二人がリンカのことを褒める様子に、嘘や偽りなどは見られなかった。――心の底から、賢い娘のことを誇りに思っていたはず……。
だけど、リンカの言う町の子供たち……親の家業を継ぐために必死に手伝いを頑張っている子供の姿が、幽世にとって当たり前のものなのだとしたら――?
それならば……リンカが自分のことを悪い子だと思ってしまうのもわかる。リンカは、他の子なら当たり前にやれているはずのことを、やれていないのだから。
頭のいいリンカは、わたしから見れば優等生そのもの……だけど、常識が――基準がズレれば、どちらが優れていてどちらが劣っているかなんて、簡単にひっくり返る。
家業を継ぐために努力することが美徳であり、それ以外にうつつを抜かす子供は怠け者……幽世では、それが当たり前の価値観なのかもしれない。だとしたら、城下町で親のために頑張る子供たちを見たリンカが何を思ったのか――わたしにも分かるような気がする。
だって――目の届く位置に自分よりも優れた存在がいる苦しみなら、わたしにも分かるから……。
「…………」
絶句したわたしをどう思ったのか……リンカは少しだけ寂しそうな顔で、地面に書いた文字を足で消していく。
「……リンカは父さまも、母さまも大好きです。ずっとずっと、いつまでも一緒にいたい……。そう願うのならばまず、リンカは竹藪の子としてやるべきことを頑張らなければいけませんよね……」
まだ書き慣れず、へなへなな文字。だんだんとコツがわかってきて形が整ってきた文字。わたしの書いたものとそっくりなほど、完璧に書けるようになった文字……。
「こんなことを……している暇はないのです」
リンカが地面を踏みにじっていく。……跡形も残らないように。
全部全部……地面に書かれた様々な文字は、リンカが努力した証なのに――そんなふうに消してしまうなんて……。
そう思ったのにも関わらず――わたしはリンカが字を消すのを止めることができなかった。
「……さて、姉さま。そろそろ帰りましょう! 今日はたくさん食材が採れたので、父さまも母さまもきっと喜んでくれますよ!」
地面の文字を完全に消し終え、食材を入れた籠を抱えたリンカは、もういつも通りの笑顔だった。
いつも通りのはずなのに――わたしはいつものように笑い返すことができなかった……。
家に帰った後も、リンカはごく普通に、いつも通りに振る舞っていた。
お手伝いをして、掃除をして、食事をして……お昼に見せた陰りのある表情が幻だったかのように、リンカは普段通りのいい子でい続けていた。
「ヒマリ? どうかしたの、ぼーっとしちゃって」
「えっ? ……い、いえ、なんでもないです。すみません、ヨウファさん」
そんなリンカの様子にどうしても目が行ってしまい、気もそぞろになっていた。夕飯時にヨウファさんから心配げな声をかけられ、わたしは慌てて食事を口に運ぶ。
夕飯が終われば、今日という一日はもう終わったようなものだ。お腹をこなすためにしばらくゆっくりしたあと、明日の準備をいくつか済ませれば、家の外はもうだいぶ暗くなってきている。
「よし、そろそろ戸締りをするか」
「はい」
ショウリンさんの一声で、家族一丸となって戸締りを行う。もう何度も行なっていることだけれど、わたしも他の三人も、手を抜くことは一切しない。
怠れば、失われるのは自分の……そして家族の命だ。蟻一匹すら通さないとばかりに、家中の扉と窓を確認する。
「よーし、全員確認し終わったな? じゃあ、明日に備えて寝るとしようか。リンカ、ヒマリ……おやすみ」
「おやすみなさいませ……父さま、母さま」
「おやすみなさい」
障子をぴったりと閉めて、わたしとリンカは敷かれた布団の中へと入る。
いつもならばこの後、わたしがひとつ現世の話をしてから二人で眠りに入るのだけど、
「ごめんなさい、姉さま……リンカ、今日は少し眠くて……」
リンカが眠たそうにしていることはわかっていた。夕飯の後、普段通りならショウリンさんやヨウファさんと楽しそうにおしゃべりをして過ごすのに、今日に限ってはぼうっとした様子で、時折船を漕いでいた。おそらく、お昼にわたしが文字を教えていたおかげで、いつもとは違う体力を使って疲れてしまったのだろう。
「いいよ。じゃあ、今日は現世のお話はお休みね」
「申し訳ありません……」
消え入りそうな声で謝るリンカの頭を、わたしは優しく撫でる。後ろで括った髪をほどいたリンカは、昼間の活発な姿とは打って変わって、おしとやかなお嬢様のようだ。
「謝らなくていいの。別に今日一日お休みしたって、明日も明後日も時間はたっぷりあるんだから。わたしはいつまでもリンカの傍にいてあげるし、リンカが望むならいつでも何度でも、現世のお話をしてあげるからね」
柔らかな髪を撫でながらそう言ってあげると、リンカは屈託のない笑顔を浮かべる。昼間、地面に書いた文字を消した後に見せたような無理のある笑顔ではなかったので、わたしは少しほっとした。
「ありがとうございます、姉さま。……それでは、おやすみなさい」
「うん、おやすみ」
リンカがわたしの胸に顔をうずめながら、ぎゅっと抱きついてくる。
そしてわたしも、リンカに応えるかのように、妹の小さな体を優しく包み込んであげた。
「…………」
今日はリンカの、本音を聞かせてもらった。
今まで想像もしていなかったようなリンカの気持ちに、かなり驚いてしまったけれど……それがリンカの望みだというのなら、わたしも姉として、その気持ちを受け止めなければならない。
そしてリンカの望むような、立派な姉にならなければ……。
明日から、また二人で笑いあえるように――。
本当に疲れていたのだろう、リンカはほんの少しも経たないうちに安らかな寝息を立て始めた。
わたしはいつも、リンカが眠ったことを確認してから自分が眠るようにしている。
特にこれといって理由はないのだけれど……強いて言うなら、年上のわたしのほうが先に寝入ってしまうのは少し情けないような気がするから。子供より先に寝てしまう親はいないように――まあ、わたしはリンカの親ではないけれど――リンカがしっかりと眠ってから目を閉じるようにしていた。
リンカは現世の話をしたあと、興奮でなかなか寝付けないこともあった。そのことを考えると、今日は普段よりもだいぶ早く眠ることが出来そうだ。もしかしたら、明日はわたしが水汲み当番を担当できるかもしれない……。
そう思って瞼を閉じようとしたのだけれど、
「…………?」
障子の向こうに、ぽわっとした明るい光が見えて、わたしはそちらに注目してしまう。
あれは……たぶん蝋燭の灯りだ。
太陽が完全に沈んだ後、真っ暗になった家の中を歩き回るには、蝋燭で灯りをつけるしかない。だけど、よっぽどのことがない限り、蝋燭なんて使わないはずなのに……?
疑問に思ったわたしがじっと障子を見つめていると、障子の向こうからかすかな声が聞こえてきた。
「……ヒマリ?」
ショウリンさんの声だ。こっそりと耳打ちするかのような、かすかな声。
それはたぶん、寝ている誰かを起こさないためのもの。そう理解したわたしは、わたしの腕の中で眠るリンカを起こさないよう、同じように小さな声で返事を返す。
「はい」
「ああ、まだ寝ていなかったんだね、よかった。……リンカは、もう寝ているかな」
「ええ、ぐっすり寝ています。……今日は少し疲れてたみたいだから」
「そうか、それなら丁度良かった。……少し話があるんだ。こちらへ来なさい」
わたしは抱き着いてきているリンカの体から、ゆっくりと腕を抜いていく。リンカを起こさずになんとか布団から抜け出すと、床が軋まないようそうっと歩き、できるだけ静かに障子を滑らせた。
障子の向こうには、ショウリンさんだけではなくヨウファさんも待っていた。蝋燭の灯りが怪しく揺らめいているせいだろうか……なんだか神妙な様子に見えて、わたしは小さく喉を鳴らす。
「すまないね、ヒマリ。もう眠る時間だというのに」
「いえ、かまいませんけど……一体どうしたんですか? ……リンカには、聞かせられない話でも?」
開けるときと同様に、わたしは障子をゆっくりと動かす。リンカはまだ、布団の中で寝息を立てている……ほっとしながら、ぴったりと障子を閉めた。
「ああ……そうだ。座りなさい」
蝋燭を境にして、向かい合わせで座る。
……一体、なんの話だろうか。
リンカに聞かせられないということは、あまり楽しい話ではないのだろう。……もしかしたら最悪の場合、この家から出て行って欲しいという話の可能性もある。
……わたしはもう、この人たちと家に愛着を持ってしまっている。今更離れるのは、さすがに辛い……。
だけど、もともとこうして家族として迎え入れてもらっただけでも奇跡のような話だったのだ。例え今になって、家族になって欲しいという言葉を反故にされたところで、わたしは文句を言える立場ではない……。わたしは覚悟を胸に秘めながら、ショウリンさんの言葉を待った。
ところが、ショウリンさんの話はわたしの予想とはまるで外れたものだった。
「ヒマリは……俺たちが最初に君を助けたときの言葉を覚えているかな」
「……えっ? 助けたときの言葉……ですか?」
「いや、俺たちではなくて、リンカが言ったのだったかな。……ここモロウ領では、人を助けることは尊いこととされていると。モロウ領を護る姫様よろしく、困っている人に手を差し伸べることは、それはそれは素晴らしいことだと……。だから俺たちは君を助けて、家族として迎え入れた……そうじゃなかったかな?」
ショウリンさんに言われて、わたしははっきりと思い出した。確かにリンカはそう言って、その後に家を守っている御神体の話を聞いたんだ。
モロウ領を守るお姫様、そしてそのお姫様に寵愛を与えているという神獣……後日リンカから詳しい話を聞いたところによると、お姫様というのはそもそも、領に生まれた普通の女性なのだそうだ。その女性がある日神獣の寵愛を受けると、領を護るための力を得ることができるのだという。
つまりお姫様と言っても、生まれや育ちはリンカたち一般の民と変わらないということ。それなのに今のお姫様は、民の誰からも愛されるような素晴らしい人柄なのだそうだ。そういう人はきっと、姫になる前から人々に愛される素敵な人だったんだろうなと、わたしは想像力たくましくしたものだった。
「ええ、思い出しました。それが……?」
今のモロウ領のお姫様がそういう人柄でなければ、わたしはきっとこの家族に拾われていないわけだ。顔も知らないお姫様に感謝をしながらショウリンさんに続きを促すと……ショウリンさん、そしてヨウファさんも、少しだけ険しい表情を浮かべる。
「そのことなんだがね……。本当のことを言うとね、ヒマリ……君を助けた理由は、それだけではないんだよ」
「というと……?」
「わたしたちにはわたしたちの理由があって、あなたを助けたの。……決して、人を助けたいからという美しい理由だけではなかったのよ」
ヨウファさんの言葉に、わたしは驚かなかった。
なぜなら、その方が自然だと思ったからだ。人助けは確かに尊いことだけれど、まったくの無償で他人に手を差し伸べられる人というのは、普通はいない。程度の差こそあれど、なんらかの理由……あからさまな言い方をするなら、見返りを求めて行う方が、人として当然の心理だと思う。
その見返りは金銭であったり、自尊心を満たすためであったり様々だけれど……ショウリンさんたちがわたしを助けた理由とは、一体なんだろうか?
「……そうですか。それで、その理由というのはなんなのでしょう。こうして家族の一員に迎えていただいて、長い時間を一緒に過ごして来たのでお二人もお分かりかもしれませんが……わたしには大した価値なんてないですよ?」
「いいや、ヒマリは俺たちにとって大きな価値がある子なんだよ。……その価値とは、リンカに関係することなんだがね」
リンカ……二人の愛娘で、今ではわたしの大切な妹。わたしが家族として迎えられたのも、元を辿れば『きょうだいが欲しい』というリンカの願いを叶えるためだった。
ありがたいことに、リンカはわたしのことを姉として慕ってくれている。そしてわたしも、リンカのことは本当の妹のように捉えているつもりだ。
それ以上の何を、二人は望んでいるのだろう……?
「実を言うとね……リンカには、町に行ってもらおうと思っているんだ」
「…………えっ?」
わたしは最初、自分の耳を疑った。
リンカを、町に? わたしではなくて、ショウリンさんたちの実の娘であるリンカを?
一体なぜ……咄嗟に理由は思い浮かばない。ショウリンさんもヨウファさんも、リンカのことは随分と可愛がっている。そうでなくとも、リンカはまだ十かそこらの年齢だ。可愛い盛りの娘を自らの傍から離すなんて、とても辛いことだろう。
「あの……何故なのですか?」
どうしても理解ができず、わたしは問いかける。
「リンカはこの家を……家族をとても好いています。それなのに、まだ幼いあの子を、一人で町に行かせるなんて……。リンカ自身が町へ行きたいと言ったというならわかりますけれど、リンカはそんなこと、これっぽっちも思っていません。今日だって、竹藪に生まれた子として立派になろうと……」
「それなんだよ、ヒマリ」
わたしの必死の主張を、ショウリンさんが遮った。
「リンカは、俺たちの家業を継ごうと考えている。そのことを、俺たちはとても嬉しく思う反面……そうあって欲しくないとも願っている」
「なぜ……ですか?」
「……リンカには、学舎に通って欲しいんだ」
――学舎?
「現世には、学舎はないのかい? 人々が集まって、あれこれ難しい物事を学ぶところなんだが」
「ああ、学校のこと……」
「現世ではそう言うのかい? しかし、知っているというのなら話は早い。俺たち二人は、リンカに学舎で生活してもらうことを望んでいる。……それが、リンカの幸せに繋がるのだから」
学校に通うことが、リンカの幸せ……?
わたしは素直に納得ができない。
なぜなら、彼女が何よりも望んでいたのは家族と共に暮らすことだからだ。そのために今日だって、文字を覚えたいという欲を断ち切って、竹藪の子として立派になるのだと宣言した――自分の努力の証を、自分の手で消してまで。
それほどまでに家族のことを想っているリンカを、遠く離れた町へと旅立たせる。それのどこが、リンカの幸せに繋がるというの……?
わたしの複雑な心境が顔に出ていたのだろう、ヨウファさんが諭すように話しかけてくる。
「あのね、ヒマリ。現世での学舎がどういう場所なのかはわからないけれど……ここモロウ領での学舎とは、お城へ勤めるための入り口なのよ」
「お城……というと、お姫様がいるという……?」
「そう、つまり領の中心ね。お城には姫様と、姫様を守る防人の一族……それに領を統治する官の方々がいるわ。それに、お城に努める方々を身の回りをお世話をする女中の方々もね。……いずれにせよ、城の中で勤めるには、どの職であっても学舎で必要な物事を学び、卒業をする必要があるの」
官……領を統治しているということは、政治家や裁判官みたいな人たちだろうか。
つまり学舎というのは小学校や中学校のようなものではなく、有名大学のようなものなのだろう。勉強をし、学歴を磨くことでエリートコースへと進むような……。
「……それはわかりましたけど。それとリンカに一体何の関係が……」
「それはもちろん、リンカにはお城で勤めてもらいたいのさ」
ショウリンさんが若干興奮気味に言う。
「ヒマリ……リンカは頭のいい子だ。それもそんじょそこらのものじゃない、俺は町で暮らす子供たちを何人も見たことがあるが、リンカほど才能に溢れ、未知の物に興味を覚える子はいない。これは俺だけじゃない、町でリンカの相手をしてくれる商人たちからもお墨付きなんだ」
わが子の才能を誇るショウリンさんは、だんだんと姿勢が前のめりになってくる。
「リンカならきっと、学舎を立派に卒業することができるだろう。卒業さえすれば、まず間違いなく城で働くことができる……! 女中として働くだけでも充分だし、もしかしたらリンカのことだ、官として抜擢されるかもしれん! そうなれば、リンカの一生は幸せが約束されたも同然だ」
「ちょ、ちょっと待ってください……! 城で働くことができたからって、それでリンカが幸せとは限らないんじゃ……」
「何を言うんだ! 城で働く以上に恵まれた仕事なんてないよ」
ショウリンさんは呆れかえるふうだ。そしてヨウファさんも、ショウリンさんの言葉にうんうんと頷いている。
「お城で働く方々は、わたしたちとは比べ物にならないほど贅沢な生活をしているのよ。豪華なお召し物、頬が落ちるほどおいしい食事……。日中は竹を切り、夜は妖獣に怯えながら眠る……そんな今の生活と、どちらが幸せか……考えるまでもないでしょう?」
わたしはショックを受けた。
……確かに、今のショウリンさんたちの生活は素朴なものだ。朝は日が昇ると同時に目を覚まし、遊ぶ暇などないほどに日中は仕事に明け暮れ、夜は日が沈むと共に眠る。お城での生活がどんなものなのかは知らないけれど、少なくともここでの生活よりは恵まれているのだろう。
だけど……だけど。
……わたしにとっては、ここでの生活こそが救いそのものだったのに。
それなのに、わたしを救ってくれた二人が、今の生活をそんなふうに言うなんて――。
「なあ……ヒマリ? 別に俺たちは、今の生活が不幸だとは思っていないんだ。確かに毎日忙しいが……食っていけないわけじゃないし、家族で食うメシはどんなものよりも美味いと思う。だけどな……どうしても思ってしまうんだよ」
沈痛そうなショウリンさんに、わたしは恐る恐る尋ねる。
「……な、なにを……?」
「……あまりにも、もったいないと思わないか。リンカほどの才能を持つ子が、こんな竹藪で一生を終えるなんて」
心臓が、どくりと跳ねた。
何故なら――その気持ちは、わたしにもわかってしまったから。
昼間にリンカに文字を教え、最後にリンカ自身で地面に書かれた文字を消し始めた時――わたしはリンカを止めたかった。
……あんなにもたくさん努力したのに。あんなに上手に文字を書けるようになったのに。
リンカがものすごい集中力で文字を書き、すさまじい速度で文字を習得したとき……わたしの心は高鳴っていた。妹の見せてくれた、素晴らしい才能に。
比較の対象となっていた双子の妹の時と違い、幼い妹であるリンカが才能溢れる姿を見せてくれることは、わたしを素直に喜ばせた。その気持ちはたぶん、親が子に抱く感情に似ている。この子はきっと、大きくなったら素敵な子になる……そんな期待に、わたしは胸を膨らませていた。――だからこそわたしは、リンカが自らの努力を無に帰そうとする行為を止めたかったんだ。
わたしがリンカの行動を止めなかったのはひとえに、両親とずっと一緒にいたい……両親にとっていい子でありたいというリンカの気持ちも理解できたからに他ならない。大好きな親の期待に応えたいというリンカの純粋な気持ちを、わたしの自分勝手な感情で止めるなんてあってはならないと、そう思ったから。
今でも――その思いに、偽りはなどはない。
「……確かに、もったいないと思うことはあります。だけど……それじゃあまりにも、リンカの気持ちをないがしろにしているような気がします……。だいたい、リンカが学舎に入ってお城で働くようになったら、ショウリンさんの仕事は誰が引き継ぐんですか?」
その言葉を待っていたとばかりに、ショウリンさんがにやりと笑う。
「……そう。だからこそ、ヒマリは俺たちにとって価値のある子なんだよ」
「…………?」
「ヒマリの言う通り、仕事は誰かが引き継がなければならない。俺の勝手で、竹藪の仕事を閉ざしたりしてしまったら、領中……とまではいかないまでも、それなりに大勢の人間に迷惑をかけてしまう。実際俺たちはそう思っていたから、リンカに町へ行って欲しいと願いながらも、決心がつけられずにいたんだ。……ヒマリが来るまではな」
「えっ……」
ショウリンさんはわたしを見て――優しげに笑った。
「ヒマリ……君はいい子だ。リンカの姉として、あの子にずいぶんと良くしてくれた。共に生活をして、大いに慕われるようになった。その上、俺の仕事に関しても熱心に見てくれているね? あれはいつか、俺の仕事を手伝いたいと思ってのことだろう」
ショウリンさんの問いかけに、わたしは小さく頷く。実際、その通りだったからだ。
さらに、ヨウファさんの言葉が続く。
「それに、あなたは料理だって頑張っているわ。今じゃ、半分以上をあなたに任せても何の問題もなくなったわね。ショウリンもリンカも、あなたが作っていたなんて気がつかなかった……それくらい、ヒマリの作る料理の味は、わたしの作るものとそっくりになったわ」
顔が赤くなりそうだった。この二人に褒められると否が応なしに体が火照ってくる。それくらい、わたしはショウリンさんたちを敬愛していた。
「なあ、ヒマリ……」
ショウリンさんとヨウファさんの熱いまなざしに、わたしは体を固くする。
「もう一度、正式に……家族になってくれないか。そして……俺たちの家業を引き継いで欲しい」
その言葉は――わたしにとって、あまりにも嬉しい言葉だった。
例えどれだけリンカに好かれようと、ショウリンさんたちを手伝おうと……わたしが本当の家族になるなんて、ありえないと思っていた。
血の繋がった家族の絆に踏み入ることなんてできるはずがない……ずっとずっと、そう思いながら過ごしてきたのに。
「ヒマリはまだ、俺たちのことを父と――そして母とは呼んでくれないね? ずっと気になっていたんだよ」
……気付かれていたんだ。わたしがまだ心の奥底では、家族の一員になっていないことに……。
「ヒマリが家業を継いでくれれば、俺たちは安心してリンカを町に行かせることができる。……わかってるよ、全部俺たちの都合だってことは。俺たちはリンカが大切で……リンカに幸せになって貰うことが何よりも大事だ。そのために、ヒマリに竹藪の仕事を押し付けているようなものだ」
「だけどね……誰でもいいだなんてことは、絶対に思っていないわ。あなたがあなただったから、わたしたちも家業を継いで欲しいと……本当の娘になって欲しいと思ったのよ」
心の奥から嬉しさがこみあげてくる。
湧き上がる感情のせいで、今にも目がしらから嬉し涙が零れ落ちそうになる……。
だけど……だけど。
わたしが家の仕事を継ぐということは、リンカを町に追い出してしまうことになるわけで――。
「……ヒマリ、これを預かってくれないか」
ショウリンさんは、懐からこぶし大くらいの麻袋を取り出した。
差し出してきた袋を両手で受け取ると、ずっしりと重い。そして、中からは金属同士が擦れあって立てる、がちゃりという音がした。
「それは、リンカが学舎に入るための金さ。こんな時のために、普段から少しずつ貯め続けて、先日ようやくまとまった金額になったんだ。学舎に入るには金を払って試験を受ける必要があるが……その試験で認められさえすれば、日々の生活は保障してくれる。……そして、リンカは必ず受かると俺は信じている」
わたしたちの生活は、それほど潤っているわけじゃない……蝋燭代を惜しんで、日が沈むと同時に眠りにつく程度には。
そんな生活を続けてきた二人が、愛する娘のために貯め続けてきたお金……。
――この両手に感じる重みは、二人のリンカに注いだ愛情の重みでもあるんだ……。
やっぱり二人は、リンカのことを誇りに思っていた。リンカが新しい知識を覚えてくることを喜ばしく思っていたし、その才能を活かすための道……お城で働くための資金まで用意してくれていた。それは自分たちの娘の幸せを想っての行動に他ならない。
……でも、リンカの望みはそんなことじゃない。確かに好奇心に負けてしまうことはあるけれど、一番の望みはショウリンさんたちとずっと一緒に暮らすことだ。それは、昼間に打ち明けてくれたことからもはっきりしている……。
――わたしは、どちらを優先するべきなの?
リンカにとっての、姉か。
二人にとっての、娘か――。
「もし、この話を聞かなかったことにしたいというのなら……今じゃなくてもいい、俺にそのまま返してくれればいい。とても残念ではあるけれど……ヒマリがよく考えて決めたのならば、それも仕方のないことだ」
「だけど、わたしたちの提案を受け入れてくれるのなら……今度ショウリンがあなたを町に連れていきます。あなた自身の手で、お金を学舎に届けて欲しいの。そして……」
二人がわたしに向けるまなざしは、リンカへ向けているものと大差ないように見えて――。
「――その時には改めて、わたしたちのことを父と……そして母と呼んでちょうだい」
「…………はい」
――わたしは麻袋を、ぎゅっと胸に抱いた。
■
巨大な月に雲のかかった夜、一人の姫がその命を終えた。
領のため、自らの持つ力を全て注いだ姫の最後の瞬間……傍にいたのは一匹の神獣だけだった。
自らが仕える姫の命に終わりが訪れたことを、遠く離れた場所にいるゴウランは思い知る。
全身から、力という力が抜けるような感覚。
そして――与えられた日から一時も離したことのない、自らの『牙』が消えた感触。
自らが単なる人間に戻っていくことを感じながら、ゴウランは姫と共に過ごした日々を思い返し……静かに目を閉じる。
姫の死と共に、また新たな姫が領に生まれる。
新たな姫の誕生は爆発的な波動となって領内を駆け巡り、その存在を知らしめる。
ただし……波動を感じられるものはごく一握り。人間には感じることのできない、見えない波動を捉えることができるものとは……世の理を超えた存在。
すなわち――神獣。
……そして、妖獣たち。
「連絡を密にしろ! 町を守る最低限の人員以外は、全員動け! 各方面に散った一族、総出で探し出すのだ!」
深い悲しみを胸の奥に閉じ込め、ゴウランは声を張り上げる。
全ては――自らの仕えた、親愛なる姫の望みを叶えるために。
「妖獣たちの向かう先――新たな姫は、そこにいるはずだ!」