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「う…………」

 こめかみに走る、ズキリとした痛み。その不快な刺激でわたしの意識は覚醒した。

「…………」

 ただ、目を開ける勇気が湧かなかった。……目を開けてしまえば、現実が確定してしまうから。

 月明かりに照らされた林の中で、化け物に襲われたこと。

 崖から真っ逆さまに落下して、身体を激しく痛めたこと。

 全部全部……夢であったらどれだけいいか。瞼を開くと自分の部屋の天井があって、こめかみの痛みが単なる頭痛であってくれたら。それだけで、どれほど救われるか……。

 そんな淡い期待を壊したくなくて……わたしはなかなか瞼を開けることができなかった。

 だけど、いつまでも眠りっぱなしというわけにはいかない。もし化け物に襲われたことが現実ならば、いつまた襲われるのかもわからないのだから。

 痛みが走るということは、生きているということ。

 だったら、生き続けるために行動しなくちゃ――。

「…………」

 ぱちりと目を開く。

 視界に入ってきたのは、木組みの茶色い天井。

 当然ながら、見慣れない天井だ。ずいぶんと古めかしく……なんというか、小汚い印象がある。田舎にあるオンボロな家の天井みたいだった。

 ……わたしはどうやら、部屋の中に横たわっているようだ。どうしてだろう……崖から落ちて気を失ったあと、一体何があったんだろうか?

 ゆっくりと目線だけを動かしていくと、右側に障子があるのがわかった。こちらもまたずいぶんな年代もので、貼られた紙はところどころ汚れがついている。

 その障子と、天井の間の部分に見慣れないものがあった。

 ……あれは、神棚?

 だけど、わたしの記憶の中にあるものとは、ずいぶんと違う気がする。

 小さい神社の模型みたいなものや注連縄などはなく、簡素な造りの小さな箱が置かれている。箱は観音開きの蓋があり、こちらに向かってぱかりと口を開けていた。中には何かが置かれているようだけど……寝転がっている状態では、何が入っているのを見ることはできない。その箱の前には、申し訳程度にお供え物が置かれていた。

 その不思議な神棚をぼうっと眺めていると――障子がすっと開いた。

「…………」

 障子を開いて部屋へ入ってきたのは、可愛らしい女の子。

 見た目は十歳くらいに見える。利発そうな女の子だ。わたしが起きていることに驚いたのか、やや大きめなぱっちりとした瞳をさらに見開いていた。ちっちゃな口をぽかんと開けている様子が愛らしい。髪の毛は肩のあたりまで伸ばしていて、後ろでひとつに括っていた。

 着ている服は、着物だ。……ただ、お正月や七五三で子供に着せるような、きらびやかなものではない。なんの飾り気もない、無地の地味な着物で、あちこちほつれていることからだいぶ着古していることがわかる。

 そんな、なんの見栄えもしない着物を着ていても、女の子はとても可愛らしかった。透き通るような瞳に、柔らかそうな頬……。その可愛らしさは……そうだ、幼い頃の日向を思い出す。小さかった頃の日向は祝い事で着飾るたびに、出会った人々にちやほやされていた。

 ……あの頃は、隣にいたわたしも一緒に褒められていたっけ……。

 わたしがぼんやりと過去に想いを馳せていると、女の子ははっと気が付いたように後ろを振り向き、叫んだ。

「父さま! 母さま! 気がつかれましたよ!」

 そして、ぱたたと向こうへ駆けていき、一旦姿を消した。

 ……わたしは今一度、天井を見上げる。

 見慣れない天井。見慣れない神棚。……そして見慣れない女の子。

 目に入ってくる何もかもが――わたしの知らないものだった。

「…………」

 ――やっぱり、全て現実だった。

 わたしはどこかもわからない……人を襲う化け物が存在するような未知の場所に、迷い込んでしまった――。

 ……目尻から、涙がすっと零れていった。



 障子の向こうからどたどたと足音が響いたかと思うと、三人の人物が部屋へ入り込んできた。

 一人は精悍な顔つきの男性。一人は芯の強そうな女性。そして先ほどの女の子……おそらく、三人は家族なのだろう。女の子の顔つきは、どことなく三人の血の繋がりを感じさせた。

 腹筋に力を入れて起き上がる。ズキンと頭が痛んだが、堪えられないほどの痛みじゃない。

 上半身を持ち上げてようやく気付いたが、わたしの体には薄い布がかかっていて、身体の下にも布団が敷かれていた。頭を触ると、包帯のように巻かれた布の感触もある。

 ……明らかに、手当てをした跡だ。

 恐ろしい経験ばかり積み重なり、次は一体どうなってしまうのかと気が気じゃなかったけれど……どうも余計な心配だったらしい。――この人たちは、わたしを助けてくれたんだ。

 わたしが起き上がると、三人は何故か慌てたように近づいてきて、すとんと正座をする。そして三人を代表するかのように、男性が恐る恐るわたしに声をかけてきた。

「……お加減はいかがですか?」

「少し頭は痛むけど……大丈夫です。……助けてくれたんですよね? ありがとうございました」

 わたしはぺこりと頭を下げる……すると、男性は突然あわあわしだす。

「と、とんでもない! ご無事なようでなによりです……」

「……? あの、わたしは気を失っていて……どのように助けていただいたのかまるで覚えていないんです。すみません、よろしければ教えていただければ……」

「は、はい! あなた様は竹藪の端の方で、岩に頭をぶつけて倒れていらっしゃったのです。それをわたしの娘が見つけまして……粗末な家ではありますが、こちらへ運ばせていただいたのでございます……」

 ……なんだろう、この違和感は。

 男性の態度が、やけに余所余所しいような……。というよりも、まるでわたしのことを畏れているみたいだ。目上の人とか、年上の人を目の前に緊張しているかのような……そんな態度。

 わたしは怪我をして助けてもらった身だ。こちらが感謝して低頭することはあっても、向こうにかしこまられる理由なんてないはずなのに……。

「あ、あの……」

「は、はい! なんでございましょうか……すみません、われわれ田舎者ですので、言葉使いに不躾なところがあるかもしれませんが何卒ご容赦を……」

 ……ええっ?

 これはいくらなんでもおかしい。こんなにへりくだられる意味がさっぱりわからない……。

 ――もしかしてわたし、何か勘違いされてるんじゃ?

「い、いえ! ……あの、むしろなんでそんなに丁寧に話していただけているのかがわからなくて……。わたしみたいな単なる子供に……」

「えっ?」

 男性は目を丸くしてこちらを見た。同様に、女性や女の子も不思議そうな顔を向けてくる。

 女性がおずおずと尋ねてきた。

「あの……とても綺麗なお召し物ですから、てっきりお城にお勤めの方かと思ったのですが……違うのですか?」

 綺麗なお召し物?

 わたしは自分の体を見下ろす。……わたしが着ているのは、学校指定の制服だ。同じ高校に通っている女子ならば誰でも着ている、ありふれた服装。アクセサリーなどのきらびやかな装飾品だって、身に着けていない。

 お世辞にも『綺麗な服』とは言えない恰好だと思うけど……。一体、なんで……?

 ふと気がついて、三人の服装を見る。女の子が着ていたのは使い込まれた着物だったが、その両親が身に着けているものも同様に、ずいぶんと古びた着物だった。あちこち布があてがわれるところからも、かなりの年代物であることがわかる。……確かにそれと比べれば、多少汚れていようともわたしの制服は綺麗なものに見えなくもない。それで、偉い人か何かと勘違いされちゃったのかな……?

 ……それにしても。

 この三人の服装……さらに木製の古びた建物、障子の扉……。初めて来た場所にも関わらず、ここはなぜだか既視感がある……何故だろう?

「…………あ」

 ……そっか、テレビで見たことがあるんだ。今わたしの目の前に広がる光景は、いつかテレビで見た時代劇の……昔の日本の風景にそっくりだ。神棚の形だとか、少し変わったところはあるけれど……それ以外は全て、テレビの中に広がっていた映像と瓜二つだった。

 ――もしかしてわたし、タイムスリップでもしてしまったの……?

「……あの?」

 女性の怪訝そうな声に、はっと我に返る。そうだ、今は考え込んでいる場合じゃない。とりあえず、わたしが偉い人間だという誤解を解かないと……。単なる学生なのに、こんな風にかしこまられては申し訳が立たない。

「い、いいえ。わたしはその、単なる一般人です」

 慌てて答えると、三人の纏っていた空気が一気に弛緩した。

 はぁー、という吐息とともに、男性の表情には笑みも零れる。

「なんだ……失礼があったらどうしようかと思って緊張しちゃったよ……」

「あ、あの……ごめんなさい。勘違いさせてしまって……」

「ああ、いいのいいの。勝手に勘違いしたのはこっちなんだから!」

 男性はそう言って、にかっと快活そうな笑顔を向けてきた。……余計な心配をかけたのだから、少しは不機嫌になってもよさそうなのに……。見ず知らずのわたしを助けてくれた時点でわかっていたことだけれど、やっぱりこの人たち、とてもいい人たちだ……。

「いや、しかし驚いたよ。こんな可愛らしいお嬢ちゃんが、竹藪の端で血を流して倒れているんだからなぁ。それも岩陰に隠れるように……リンカが見つけなかったら、見逃していたところだった」

「リンカ……?」

 聞きなれない言葉に首をかしげると、男性はうっかりしていたとばかりに膝を打つ。

「ああ、お互い自己紹介がまだだったね。俺はショウリンというものだ。そしてこっちが……」

「ショウリンの妻の、ヨウファです。こちらが娘のリンカ。リンカ、ご挨拶は?」

 柔らかい微笑みと共に、女性は後ろに隠れるように座っていた女の子を促す。女の子は恥ずかしそうにしながらも、はっきりとした口調で名前を告げた。

「……リンカです。初めまして」

 三人の名前を聞きながら……わたしの頭は再び、困惑でいっぱいになっていた。

 ショウリン、ヨウファ、リンカ……なんだか、あまり日本人らしくない名前だ。どちらかというと中国っぽいような……。てっきりタイムスリップをしてしまったんじゃないかと思っていたけど……もしかして、そうじゃない?

 でも、彼らの見た目はどう見ても日本人に見える。まあ、日本人も中国人も同じアジア系だけれど……でもそれなら、彼らが日本語を喋っている意味がわからない。それに、今一度部屋の中を見渡しても、家の造りはどうみても日本家屋のそれだった。

「……? どうかしたかい?」

「あっ、いえ……ごめんなさい、なんでもないです」

 しまった、また一人で考え事を……。自己紹介をしてもらったのにこちらは返さないなんて、失礼にもほどがある……。

「わたしは、日葵です。橘日葵……」

 気を取り直して自分の名を名乗ったのだけれど……三人は何故か、狐につままれたような顔になってしまった。

「えっと……? タチバナヒマリ……って名前なのかい? ずいぶん変わってるね……」

「えっ? いえ、橘は名字ですけど……?」

「ミョウジ……? って、なんだい?」

 ……なんだい、と言われても……。

「……あの、名字は名字です……けど? 家の名前というか……家族の名前というか」

「へぇ、そうなのか……。家族に共通の名前がついてるってことかな……? 俺たちの領じゃ、あまり聞かない風習だねぇ。もしかしてお嬢ちゃん、よその領から来た人なのかい?」

 今度は、わたしが混乱する番だった。

 ……リョウ? リョウってなんのことだろう? 話のニュアンスから考えると、町とか国とかを指しているんだと思うけど……。だとすれば……領地とかの領、かな?

 そういえば、昔の日本では領主の支配している地域のことをナントカ領、って呼んでいたんだっけ。武田領とか、上杉領とか……歴史の授業やテレビなどで聞いたことがある気がする。……ということは、やっぱりここって過去の日本なの?

 過去の日本なのか、はたまた全く関係ない別世界なのか……困惑しているわたしを気遣うように、ショウリンさんが笑顔で問いかけてきた。

「えーと、とりあえずヒマリって呼べばいいかい?」

「えっ? あっ、はい、大丈夫です……」

「そうかそうか。いやしかし、別の領からきた人とは初めて会うな。そもそも、領から領へと渡り歩くことのできる人間自体が少ないからなぁ。それこそ一族の人間か、はたまた犯罪者か……。でも、ヒマリはどちらでもなさそうだなぁ」

「ちょっと、ショウリン。あまり若い娘さんをじろじろ見ないの」

 わたしのことをしげしげと眺めていたショウリンさんを、ヨウファさんが唇を尖らせながら窘める。

「おっと、こりゃ失礼した。……嫉妬深い妻でなぁ、怒らせると怖い」

 またこの人は、とヨウファさんはショウリンさんの頭を軽く叩く。その様子を見て、リンカちゃんが可笑しそうにくすくすと笑った。

 ……幸せそうな家族だ。

 その上、皆いい人たち……わたしを助けてくれたうえ、身の上の不確かなわたしに対しても親身になってくれている。

 化け物に襲われたり、怖い思いはしたけれど……こういう人たちがいるってことは、この未知の世界もそれほど悪い場所じゃないのかもしれない。……そう思うと、少しだけ胸が軽くなった気がした。

「まったく、冗談はほどほどにしなさいな。それでヒマリは、どこの領から来たのかしら?」

「……えっと」

 ヨウファさんの問いかけに、わたしは口を噤んでしまう。

 答えられるわけがない。そもそもわたしは、どこの領からも来ていないのだから。

 ……わたしは何らかの理由で、この日本に酷似した場所に迷い込んでしまったらしい。目を見張るほどに大きな月や、角の生えた猿のような化け物のことを考えるに、それは間違いないようだ。

 そうだとして……この人たちにそのことを、なんて説明すればいいんだろう?

 もし、初めて出会った人に「わたしはあなたの知らない、全く別の世界から来たんです」だなんて熱弁されても、わたしはまともに話を聞かないと思う。せっかく出会えた優しい人たちだ、この出会いを無駄にはしたくない……でも、なんとか上手く説明できないかとどれだけ頭を捻ったところで、わたしの残念な頭は解決策を導き出してはくれなかった。

 沈黙は続けば続くほど気まずさを増していく。かといって下手なことを言えないし……堂々巡りになって焦りだけが募っていくわたしに、救いの手を差し伸べてくれたのは――小さな少女だった。

「父さま、母さま……少しよろしいですか?」

「ん? どうかしたのかい、リンカ」

「もしかしたら……ヒマリ様は、他の領から来たのではないのかもしれません」

 わたしは俯きかけていた顔を上げて、声の主を見る。……リンカちゃんは少々緊張した面持ちながらも、まっすぐにわたしのことを見据えていた。

「他の領から来たんじゃないって……じゃあ、同じ領の民ってことかい?」

「いえ、違います父さま。……ヒマリ様」

「は、はい」

 リンカちゃんは真剣な瞳の奥に――好奇心の炎を揺らめかせながらわたしに問うた。

「もしかしてヒマリ様は――現世人うつせびとなのではありませんか?」



「うつせ……びと?」

 聞きなれない言葉に、わたしは首をかしげる。

 うつせびと、うつせびと……どういう字を書くんだろう? びとは人なんだろうけど……うつせって?

「……違うのですか?」

 首をかしげたわたしを見て、リンカちゃんは残念そうにしょんぼりとした表情を浮かべる。

 ……うっ、あんな顔をされると思わず「そうだよ」と言いたくなってしまうけれど……一度勘違いされた身だ、下手な嘘はつくべきじゃない。わたしは甘やかしたい欲求をぐっと堪えて、正直に答えた。

「えっと……ごめんなさい。単に言葉の意味がわからなくて……うつせびとって、なんのこと?」

「そうだなぁ、俺も聞いたことがない」

「リンカ、わたしたちに教えてくれる?」

 わたしと同じように首をかしげたのはショウリンさんで、教えを乞うたのはヨウファさんだ。

「えっ? お二人も知らないんですか?」

 子供のリンカちゃんが知っていて、両親の二人は知らない……それがとても奇妙に思えたわたしに、ショウリンさんは自慢げに笑いながら答えた。

「ああ。リンカは親に似ず、頭のいい娘でなぁ。町に行くたび、色んな人たちから様々な知識を仕入れてくるもんだから、田舎者で碌に学のない俺たちなんかよりもよっぽど物を知っているのさ。なあ?」

 ショウリンさんは愛おしそうに、リンカちゃんの頭を撫でる。……その娘を溺愛する様子は、日向のことを可愛がる父親の姿と重なった。

 リンカちゃんはくすぐったそうにしながら、褒められたことが嬉しいのか顔を赤くしながらはにかむ。そして一度えほんと咳払いすると、語り始めた。

「えっとですね……現世人とは、リンカたちがいる国とは別の場所――現世うつしよから来た人のことを差すのです」

 ――別の場所。……別世界?

「現世? ああ、現世か……でもそれは」

「はい、父さま。現世と言えば、おとぎ話に出てくる幻の土地のことです。母さまも、リンカがもっと小さいときによく聞かせてくださいましたね。――この世の果てに存在し、我々が住む世界とはまったく異なる風習のある土地。妖獣が存在せず、夜であっても人間が出歩くことのできる夢のような場所……それがおとぎ話の中の現世です」

「あの……妖獣って?」

 何気ない質問のつもりだったのに、ショウリンさんとヨウファさんは目を見開いて驚いた。対してリンカちゃんは、確信を得たような得意げな顔をする。

「……妖獣とは、人を襲う化け物のことです。夜になると現れ、目に入った人間を選別なく襲い掛かる、人間の敵……。……赤子を除いて、妖獣の存在を知らない人間など、この領にはいません。いや、他の領にだっていないでしょう。……そう、妖獣のいない世界の住人でないかぎりは」

 あの猿の化け物……あれが妖獣。人を襲う化け物……。

 危険だと感じたわたしの直感は、間違ってなかったんだ。

「――やはり本当に、現世は実在するのですね……!」

 わたしの発言から現世の存在を確信し、リンカちゃんは感極まる様子だ。

 ……しかし、現世という言葉は聞いたことがある。たしか、神話とか神道の言葉だったような。ようするに現実世界のことで、わたしたちが今生きている世界の事を指していたはず。

 そして……現世には対義語がある。――それは、幽世かくりよ。現実世界とは相反する、永久に変わらない神の世界……あるいは、死後の世界のことだ。

 わたしが元居た世界のことが、現世と呼ばれているのだとしたら。

 ――つまりここは、幽世の世界ということ……?

 わたしが考え事をしているのをよそに、リンカちゃんは嬉しそうに説明を続ける。

「過去に何度か、現世からこちらへ渡ってきた人がいたという話は、あちこちの領で話されているそうです。……そして、その現世から渡ってきた人の事を、現世人と呼んでいるのです」

「へぇ、そうなの……そんなにあちこちで知られている話だったのね。……知らなかったのが恥ずかしいわ」

 ヨウファさんが恥じるように頬に手を当てる。それを見て、リンカちゃんは罰の悪そうな顔をした。

「いえ、母さま……それなのですが。実を言うと、話されていると言っても噂話程度のものでして。というのも、実際に現世人を見た、という方は少ないのです」

「それはやっぱり、滅多にこちらへ来ないから?」

「それもあるのですが。……現世人がこちらへ来るのは、大抵が山奥などの、人里から遠く離れた場所なのだそうです。それゆえ妖獣に襲われやすく……現世人の遺した物だけが見つかる、ということも多いのだとか」

 角の生えた猿に追いかけられた記憶が蘇る。

 わたし自身、石につまずいて転んだり、化け物同士が争ったり、崖から落ちたりしなければ――間違いなく殺されていただろう。

「そして現世人は決まって、煌びやかで、色鮮やかな服装をしているのだそうです。……リンカたちとはまったく異なる風習を持ち、逆に常識とされているものを知らない。立派な服装を身にまとい、山奥などに突然現れる……それが、現世人と呼ばれる人たちの特徴です」

 リンカちゃんが、瞳を輝かせながらわたしを見つめていた。

「どれも、ヒマリ様に当てはまります! ミョウジという風習など、リンカは今まで聞いたことがありません! お召し物はとてもお綺麗で、竹藪の端という人里離れた場所に倒れておられました。ゆえにリンカは……ヒマリ様は現世人だと思うのです! ……どうでしょうか?」

 リンカちゃんの問いかけに――わたしは力なく頷いた。

「……うん、そうだね……。そうかもしれない」

 リンカちゃんの説明は、わたしの状況と確かにぴったり一致していた。

 過去の日本によく似た家や衣服に、タイムスリップの可能性を考えたが、やはり違うようだった。妖獣……人を襲う化け物の存在が、過去の日本という説を完全に否定する。そのような恐ろしい化け物が跋扈していたという話は、どんな歴史の本でも見たことがない。

 妖獣が人を襲うこの世界――仮に幽世と呼ぶことにする。

 わたしは幽世という、日本とよく似た異世界に迷い込んでしまったらしい。

 そして、迷い込んだ大抵の人間は死んでしまうというこの世界で運よく生き残り、素敵な家族に拾われた――。

「…………」

 これが、今のわたしの状況。

 生き残ったことは幸運なことだろう。加えて、親切な現地の人々にも出会うことができた。不幸中の幸い、という言葉は、まさに今使うべき言葉なのだろう。

 ――でも、この後は?

 生き残った現世人は、これからどうすればいいのだろう……?

「やっぱり、現世人なのですね! 幻の存在とも言われている現世人に、会うことができるなんて……! リンカは嬉しいです!」

 リンカちゃんは喜色満面な様子だ。噂話でしか聞いたことのない存在が目の前に現れて、その上おとぎ話の中でしか存在しない世界が実際にあると知って、嬉しいのだろう。

 対してショウリンさんとヨウファさんは……わたしのことを沈痛そうな面持ちで見つめていた。

 やがて、ヨウファさんが優しげにリンカちゃんに問いかける。

「ねえ、リンカ。その現世人のことだけれど……現世に帰ることのできた人はいたのかしら」

「えっ? えっと、そのような話は……。……あっ」

 ……やっぱり、リンカちゃんは賢い子のようだ。先ほどまでの嬉しそうな顔はどこかへ消え去り、申し訳なさそうに項垂れている。

「えと……。……現世人が現世に帰っていったという話は、誰からも聞いたことがありません。帰ることができず、一生を終えたという話なら……あるのですけど……」

 ――なんとなく、そんな予感はしていた。

 わたしが元居た世界に、こんな別世界があるなどという話はなかった。そして同様に、この世界――幽世でも、現世の存在は幻のものだとされている。

 そんな二つの世界を行き来する方法など……そのあたりに転がっているわけがない。

 もしかすると、幽世を端から端まで渡り歩けば、どこかにはあるのかもしれない。でも……わたしは単なる学生で、旅をした経験なんてない。そんなわたしが、どうやって元の世界へ帰る方法を求めて世界中を回ればいいのだろう。

 そのうえ、幽世には妖獣という恐ろしい化け物もいる。妖獣は夜になると、遠慮容赦なく人間に襲い掛かってくるらしい。そんな化け物がうろついている世の中では、旅などという行為自体が危険極まりないものだろう。

 したがって――わたしが元の世界に帰れる可能性は……万に一つもありはしないのだ。

 父親にも母親にも日向にも……もう一生、会うことはできなくなってしまった――。

「あの……ごめんなさいヒマリ様。リンカ、ヒマリ様の気持ちも考えずにはしゃいだりして……」

「……いいの。気にしないで、リンカちゃん」

 顔をくしゃくしゃにしながら謝るリンカちゃんに、わたしは笑いかけた。

 ……リンカちゃんが謝っても、仕方のないことだ。それどころか、この世界がどのような世界か知ることができたので、むしろわたしが感謝しなければならない場面だろう。

 それに、わたしの心はそれほど深く落ち込んではいなかった。うっすらと覚悟をしていたおかげだろうか……激しく動揺することもなかった。

 そして、もともとわたしは元の世界で……日向の傍から消えてしまいたいと思っていたのだ。日向という太陽のような存在に照らされながら生きているのが辛くて……その光から逃れたいと望んだ。……日向の傍から離れるというわたしの望みは、幽世に来たことである意味叶えられたと言える。

 幽世にどうして迷い込んでしまったのか……理由は一切わからない。

 妖獣に襲われたり、崖から落ちて命を失いそうになった。そして、元いた世界には帰ることができないという、絶望的な事実も知ってしまった。

 ――だけれど、わたしの心の中に寂しさや失意というものはなかった。

 あるのは、不安と安心という相反する気持ち。

 見ず知らずの世界でやっていけるのか……という不安。

 日向の傍から離れることができた――これでわたしは日向の光に照らされずに済み、日向も姉という存在から解き放たれたのだ……という安心。

 本当に――ただ、それだけだった。



「あの……お願いがあるんです」

 わたしは布団に伸ばしていた足をたたみ、布団の上に正座をして三人に向き直る。

「助けてもらっておいて、さらにお願いをするというのは……図々しいことだとわかってます。だけど、お願いがあるんです」

 深く深く――頭を下げる。

「……わたしをしばらくの間、ここに置いていただけませんでしょうか……!」

 ……これからは、一人で生きていかなければならない。この幽世という世界で……。

 しかしそうするには、わたしは幽世という世界に関する知識があまりにも欠けすぎている。

「リンカちゃんの言う通り、わたしはおそらく現世人という存在です。実際、この世界のことに関して、なんの知識も持っていません。なのでせめて、一般常識を身に着けるまででいいんです……わたしをこの家に置かせてください!」

 今のわたしが頼れるのは、怪我をして倒れていたわたしを、親切心で助けてくれたこの人たちだけだ。

 そんな素敵な人たちにさらにお願いをするのは厚かましいことだと分かっていたけれど……それでもわたしは、頭を下げる。

 今更、妖獣に通学カバンを投げつけてしまったことを後悔する。単なるカバンではあるけれど、幻と呼ばれる現世のものには違いない。この世界では、多少は価値のあるものとして扱われるだろう。それならば代金替わりとして、この人たちに渡すことができたのに……。

 だから、わたしは誠心誠意、頭を下げることしかできない。

 どれだけ惨めでもかまわない、どんな扱いをされても構わない――。とにかく、彼らの許しを得るためならばなんだってするし、なんだって受け入れなければ……!

「……差し上げられるものはこの通り、何もありません。なのでここにいる間、どんな風に使っていただいて構いません。どんなことでも手伝いますし、絶対に文句は言いません! ご家族の生活を邪魔したりもしませんし、なんなら寝床だって家の外に……」

「馬鹿な事を言うんじゃないッ!」

 ショウリンさんの大声に、わたしはびくりと肩を震わせた。

 ――やっぱり、厚かましすぎた?

 はっと気づく……必死に願いを乞うあまり、わたし、ショウリンさんたちの目も見ていなかった。ただただ頭を下げるだけで、向こうの気持ちを全く考えていなかった……。

 どうしよう、この人たちに見捨てられたりしたら、わたしは……。

「あ、あの……わたし」

 恐る恐る顔を上げる。

 するとショウリンさんとヨウファさんはわたしにそっと近づいてきて――優しく肩を抱いてくれた。

「えっ……」

 動揺するわたしに向けて、ショウリンさんはやわらかい笑みを浮かべていた。

「……本当に、現世人ってのなんだな……ヒマリは。夜に外で寝るだなんて、させるわけないだろう」

「そうよ。さっきリンカも言っていたでしょ? ……妖獣は夜に現れるの。夜中に家から出たりしたら、あっという間に襲われて死んでしまう。そんなこと、絶対にしては駄目。ちゃんと覚えたわね?」

 幼い子供を叱るかのように、ヨウファさんは厳しい顔で言う。わたしがコクリと頷くと、ヨウファさんは張りつめていた頬を緩ませた。

「それに、そんな風に頭を下げなくてもいいの。怪我をしてる女の子を、目を覚ましたからって追い出すわけないでしょう? 心配しなくても、あなたの面倒はちゃんと見てあげるわ」

「そうだ。それにいろいろと手伝ってくれるってんなら、こちらとしても大助かりさ。しばらくの間置いて欲しいってことだが、なんだったらずっといてくれてもいいんだぞ?」

 そう言って、ショウリンさんは朗らかに笑う。

 ショウリンさんの提案は、とても魅力的に聞こえた。……それが逆に、わたしを不安にさせる。

 だって……わたしがこの人たちの力になれるかなんて、なんの保証もない。なんでもするつもりなのは本当だけれど、所詮わたしはただの学生で……そのうえアルバイトだってしたことがない。働いた経験のないわたしはむしろ、迷惑をかけるだけかもしれない……そのことも、ちゃんと言っておかないと。

「あ、あの……でも。もしかしたら迷惑をかけてしまうかも……」

「迷惑? ……まったく、そんなことを気にしている場合じゃないだろう?」

「いま誰よりも困っているのは、あなた自身でしょう? それなのに、他人の心配なんてしなくてもいいの。ヒマリが優しい子なのはわかったけれど、だからといって自分をないがしろにしてはいけないわ」

 ヨウファさんの優しい言葉が、胸の中に染みわたっていく。

 ……本当に、いいんだろうか。

 こんなに優しい人たちに、わたしなんかが受け入れられるなんて……許されるのだろうか?

「ヒマリ様……」

 正面に座ったリンカちゃんが、わたしの目をまっすぐに見つめながら言う。

「困った人に手を差し伸べる……それは、リンカたちの領ではとても尊いこととされています。いま現在、領を護ってくださっている姫様が、それを体現なされているようなお方だからです。だからこそ父さまも母さまも、リンカも……ヒマリ様を放ってはおけません。……どうか躊躇わず、リンカたちの手に縋ってくださいませんか?」

「お姫……様?」

「ええ、そうです。領には必ず、姫様が一人います。姫様は神獣しんじゅう様の寵愛を受けた女性で――妖獣の力を抑え込む加護を領に与えてくださっています。姫様がいなければ、リンカたちはこうして普通に生活をすることすらままならないのですよ」

「ちょっと待ってな」

 ショウリンさんは立ち上がると、障子と天井の間にあった神棚に一礼をしてから、中に置いてあった小箱を降ろす。そして中身をわたしに見せてくれた。

 ――中にあったのは紙を折って作られた紙人形だった。ただ、何をかたどられているのかは一見して判断がつかない。なんとも形容しづらい、不思議な紙人形だった。

「これは御神体ごしんたいという。御神体には姫様が加護を込めてくださっていて、これを家の中に奉ることで妖獣たちの侵入を阻むことができるのさ。逆に言えば、これがなければ妖獣たちは遠慮なしに襲い掛かってくる。……これでわかっただろう? 外で寝るなんてことはあり得ないんだよ」

 紙人形をようく見ると、何か文字が書かれていることがわかる。

 ――これは。あまりにも達筆だから一瞬わからなかったけれど、間違いない。

「これ、漢字……? ……『戌神いぬがみ孟狼もうろう』……?」

 書かれていた漢字を読んでつぶやいたわたしを、ショウリンさんたちがたまげたように見る。

「なんとまあ……! ヒマリは文字が読めるのか!」

「えっ? ……いやでも、合ってるかどうか」

「いいえ、合っています!」

 リンカちゃんは興奮したように頬を紅潮させている。……ただ漢字を読んだだけなのにここまで喜ばれるだなんて思っていなかったので、なんだか戸惑ってしまう……。

「リンカたちの住む領は、モロウ領というのです! 神獣であるモロウ様の見初めた姫様が、加護を与えている領……だからモロウ領です。御神体は、そのモロウ様を象って作られたもの……書かれた文字はまさに、モロウ様の名前が書かれていたのです!」

「……これはいよいよ、うちにいて欲しくなったなあ」

 興奮しきりのリンカちゃんに、何かに納得するかのように頷くショウリンさん……二人の様子に、わたしは戸惑うばかりだ。

 どう言えばいいのかわからないわたしの手を、ヨウファさんが優しく握る。そしてこっそりと、わたしに耳打ちをする。

「あのね、ヒマリ。リンカは頭がいい、という話はしたでしょう? あの子は頭がよくて、その上好奇心も旺盛で……今や親であるわたしたちよりも、よっぽど世の中のことを知っているわ。……でもだからこそ、わたしたちはあの子の話についていくことができないの」

「……はあ」

「せっかく文字を覚えても、それを褒めることもできない。……だって、わたしたちは文字が読めないのだから。合っているか間違っているかもわからないんじゃあ、どうしたってリンカを喜ばせるような話はできないわ」

 ……子供のことを褒めたいのに、どう褒めたらいいのかわからない。

 それは親にとって、とてもつらいことなのかもしれない。わたし自身はまだ子供だから、本当のところはわからないけれど。

「でもあなたなら、それができるんじゃないかしら。ヒマリ……あなたには、リンカの姉になって欲しいのよ。リンカと一緒に遊んで、学んで、お喋りすることができる……一番身近な存在に。あなたなら、きっとなれるはずだわ」

 ……どきりとする。

 わたしが……リンカちゃんの姉に?

 双子の妹である日向にとってずっと情けない姉だったわたしが、またしても誰かの姉として生きていく。その姿を想像して、わたしの胸は高鳴った。

 それは、とても不安なことでもある。また同じように、ダメな姉になってしまうかもしれない……。

 だけど同時に、やり直しのチャンスを神様に与えられたみたいで……。

 胸の高鳴りを抑えきれず――わたしは無意識のうちに、首を縦に振っていた。

「……ありがとう、ヒマリ! ……リンカ、来なさい。ヒマリは今日から、あなたのお姉さんになってくれるわ。これからは姉妹として、ずっと仲良くしていくのよ」

 ヨウファさんが顔を綻ばせながら、リンカちゃんを手招きする。

 リンカちゃんは最初、ヨウファさんの言葉が上手く理解できなかったのか目をぱちくりさせていたが、ショウリンさんに背中を押されてわたしの前に来ると、ずっと欲しかった宝物が突然目の前に現れたかのような歓喜と困惑が入りまじった表情でつぶやいた。

「ヒマリ様が……リンカの姉さまになるのですか?」

「う、うん……」

「で、では……その。……ヒマリ姉さま、と呼んでもいいのですか……?」

「……うん」

 わたしがどきどきしながら頷くと――リンカちゃんは感極まったかのように抱き着いてきた。

「わぁっ?」

「……嬉しいです! ずっとずっと……きょうだいが欲しかったのです! これからは、一緒に父さま母さまのお手伝いをしたり、遊んだり、お喋りをしたりできるのですよね? リンカは、現世のお話を聞いてみたいです!」

「……うん、いいよ。かわりに……わたしにも、こちらのことをいろいろ教えてね?」

「……! はい!」

 リンカちゃんがわたしの胸に顔をうずめる。どぎまぎしながら戸惑っていると、ショウリンさんとヨウファさんが微笑ましそうにわたしたちのことを見守ってくれていることに気付いた。

 ――本当に、家族の一員になるんだ。

 嬉しいことも辛いことも、全部共有する……家族に。

 こんなにあっさりと、幸せを手にしていいんだろうか? そんなわたしの戸惑いは、胸の中の幸せそうな笑顔に吹き飛ばされる。

「ずっと一緒ですよ……姉さま」

「…………うん」

 元の世界……現世にいたころ、わたしは家族から距離を置いていた。日向という素敵な妹に対するコンプレックスに苛まれ、両親たちからも一線を引いていた。――家族の中で、わたしだけが邪魔者だったように感じて。

 ……もしかしたら、それは勘違いだったのかもしれない。わたしが勝手に線を引いて、勝手に家族の輪から零れ落ちていっただけなのかもしれない。そう思うと、胸の中に後悔の念が押し寄せる。

 ――だけど、もう遅い。わたしはこの世界……幽世に迷い込んでしまった。現世へと戻れない今、いくら後悔しても、もうどうすることもできない。

 ――それなら、今度は間違えないようにしないと。

 この家族の中で、わたしは姉として……そして娘として立派に生きていく。

 それだけが、もう二度と会えない両親と、同じ顔を持つ妹への贖罪になると……そう信じよう。

 リンカちゃんの小さな体を……わたしはぎゅっと抱きしめる。

 何も頼るものがなかった幽世の世界で――。

 わたしは、かけがえのない家族を手に入れた。



 そうして、わたしの幽世での生活は始まった。

 ショウリンさん一家は周囲が竹藪で囲まれた土地に住んでおり、家の周囲に他の住人はいないとのことだった。周囲に呆れるほど生えている竹こそが一家の収入源であり、竹藪で取れた竹をそのまま、あるいは竹細工などを作って、ここから西にあるという城下町に卸しているらしい。

 竹を取り、竹細工を作るのは、ショウリンさんとヨウファさんの仕事。

 わたしとリンカの主な仕事は、日々の生活に欠かせない食料の調達だ。

 家の周囲で取れるのは主に野草や山菜、茸など。……そしてもちろん、竹藪ならではの実りである、タケノコ。

 ヨウファさんから渡された弁当を持ち、リンカと共に竹藪の中へ。必要な分の食料を確保したら、昼食を取りつつ家へと戻る。そんな毎日の繰り返し。

 ……だけど、何の変哲も変化もない生活が、わたしにとっては宝石のような日々だった。

「……つまり、リンカたちの住んでいるモロウ領は、アマツ国という大きな国の一部なのです。モロウ領の神獣、モロウ様はそもそも、アマツ様という神獣のしもべであったとか。それゆえ、国の中でもアマツ様がおられるアマツ領が国の中心というべき領であり、そこを守られる姫様のことを姫の中の姫……大姫たいきと呼ぶのです」

 食料調達の傍ら、リンカがこの世界のことを教えてくれる。そうしてわたしは少しずつ、この世界へと馴染んでいった。

「……じゃあやっぱり、アマツ領のほうが栄えているのかな?」

「それは……すみません、リンカにはわからないです……。リンカにとっては、モロウ領の城下町も充分すぎるほど華やかだと思うのですけど……あれより華やかな町となると、リンカには想像すらできないのです……」

「そう……それじゃあ、城下町はどんな町なの?」

「とにかく、人が大勢いるのです! 城下町の住人以外だと、やはり商人の方々が多いでしょうか。城下町はモロウ領の中心……全ての物は城下町を通じて、モロウ領各地に行き渡ると言われています。父さまたちの作っている竹細工も、城下町から流れ流れて、西の端まで届けられるのだとか」

「ふぅん……。リンカは商人の人と話したことはあるの?」

 わたしはリンカのことを呼び捨てするようになっていた。

 最初の頃は『リンカちゃん』と呼んでいたのだけれど、リンカ本人から「他人行儀な感じがして嫌なのです」と懇願されて、リンカと呼び捨てることとなった。

「はい! リンカにいろいろなことを教えてくれるのは、大抵商人の方々なのです。うちは城下町が近いので父さまが直接物を売りに行くのですが、普通は商人の方があちこちで物を仕入れ、町で捌くのだそうですよ」

 小売と卸売みたいなもの……かな? どちらのほうが儲かるのかまではわからないけど……とりあえずショウリンさん一家は、それで食べていけているようだった。

 わたしが来るまで、食料調達は主にヨウファさんとリンカが行っていたらしい。たまにショウリンさんも加わって、小川で釣りをして魚を採ることもあったそうだ。……わたしが見つかったのは、ちょうどリンカがショウリンさんと出かけていたときのことだった。

 わたしが家族の一員に加わったことで、妻であるヨウファさんもショウリンさんの仕事を手伝うことができるようになり、人手が増えたおかげで仕事が大いに捗るようになったと喜ばれた。

 ……だけど、人ひとり増えたぶん、生活にかかる費用だって増えている。特に食料に関してはわかりやすく消費が増えたはずだ。

 だからこそ、日々の食料調達は重要な仕事……しっかりとこなさないと。

「あ、ヒマリ姉さま。そちらの山菜には毒がありますよ。よく似ていますけど、食べられる山菜はこちらの、葉の先が二つに分かれているほうです」

 ……とはいえ、今までスーパーやコンビニでしか食べ物を手に入れたことのないわたしが、食料調達において役に立つはずもなく。

 できる妹の指示を受けながら、わたしは今日も野草を摘み、山菜を採り、茸を抜き、タケノコを掘るのだった。



 食料調達が早く終わると、ショウリンさんの仕事を見学したり、家事をこなすヨウファさんの手伝いを行う。

 わたしたちの住む家の半分ほどは、ショウリンさんが竹細工を作る工場こうばになっている。今はまだ手伝えるような立場ではないけれど、いつかはショウリンさんの助けになりたい……そう思い、わたしは頻繁にショウリンさんの元に通っていた。

「これは……竹刀ですね」

 現在ショウリンさんが手掛けている商品を見て呟く。

「おお、そうさ。うちで一番の稼ぎ頭だな」

 竹刀……剣道の試合をテレビで見たことがあるので知っているけれど、実際に手に持ったことはない。男子なら体育の授業でやることもあるみたいだけれど……あいにく、わたしは生まれてからずっと女だ。

「稼ぎ頭……そんなに売れるんですか?」

「ああ、それも結構な値段でな。なんせ、買ってくれるのは一族の皆さんだからなぁ」

「一族?」

 わたしが首をかしげると、ショウリンさんが作った竹刀の出来を確認しながら答えてくれる。

「そうか、ヒマリは一族のことも知らないか。一族っていうのは、防人さきもりの一族のことを言うんだ。防人っていうのは、姫のことを護るために選ばれた人間のことで、その防人の身内だとか、腕に自信のある人間たちによって結成された組織なんだ。彼らの目的はもっぱら姫を護ることなんだが、それ以外にも領の民を危険から守るため、妖獣の退治なんかもしているのさ」

 ……軍隊とか、警察みたいな組織なのかな? なるほど、領の中心である姫を護る組織……きっと権力も強いに違いない。それならば、金払いがいいというのも納得できる。

「その防人の一族が、ショウリンさんの竹刀を買ってくれるんですね」

「ああ、訓練のためにな。防人の一族は刀を武器として妖獣と戦う。だが、訓練で真剣を使ったら危ないし、もし手違いで刀を折ってしまったりしたら目も当てられない。だから竹刀が重宝されているってわけだ。訓練で酷使するからって割と頻繁に壊れるから、何度だって買ってくれるしなぁ」

 ショウリンさんは顔をほころばせる。確かに、それは素晴らしい上客だろう。

 ……だけど、妖獣と戦う人たちなんているんだ……。

 あの月明かりに照らされた夜……猿のような妖獣に襲われ、死に物狂いで逃げたときのことは、今でも鮮明に思い出せる。

 わたしには、あれと戦うなんて想像すらできない。妖獣と人間は、捕食者と獲物の間柄……その力関係はあまりにも明白だった。

「妖獣って……倒せるんですか?」

 つい、そんな言葉が口からまろび出る。ショウリンさんはわたしの様子には気がつかずに、竹刀の調整を行いながら言う。

「倒せるとも。……といっても、もちろん防人の一族みたいに訓練した人間ならだけどな。俺たちみたいな普通の民には、どだい無理な話さ。戦いに関する心構えや技術はもちろんのこと、そもそも身に着けている武器だって違いがありすぎるからなぁ」

「武器の違い……ですか?」

「さっきも言った通り、防人の一族は刀を使う。……刀ってのは高いんだ、竹刀とは比べ物にならないほどに。ただの民じゃあ、普通に生きてる限り手は出せん。となると民が武器にするのは……ああいうものになりがちだ」

 ショウリンさんが、工場の隅を顎で指す。

 工場の隅には、何本かの竹が立てかけてあった。ただ生えているのを切っただけの竹のように見えるけど……よくよく見ると、先端が妙に鋭く尖っている。

「竹槍さ。単に竹の先っぽを斜めに切り落としただけの、簡単な武器」

「……あれで、妖獣が倒せるんですか?」

「一匹に対して、五人から十人くらいでかかれば、なんとか倒せるかもしれないな。竹槍ってのは脆い……一回突き刺したら、もう壊れちまう。しかも、妖獣ってのはどうすれば殺せるのかがよくわかってない。首を落とせば死ぬそうだが……竹槍じゃ妖獣が死ぬまで、何本も突き刺し続けるしかねえ。そうしてる間に、きっと何人も殺されてしまうだろうな……」

 ……やっぱり、人間と妖獣の間には、明確な力の差が存在するんだ。

 だとすると……それを倒すことができるという防人の一族とは、一体どんな人たちなのだろう?

「……だが、例え死ぬとわかっていても、戦わなくちゃならないときもある。そんなとき、民は竹槍を握る。簡単に壊れる頼りない武器に……命を懸けてな。――そう思うと、竹槍一本でもなんでも、精魂込めて作ろうって気がしてくるもんさ」

 ショウリンさんはそう言うと、真剣な眼差しで仕事に取り組み始めた。

 わたしはその職人の背中を、じっと見つめていた――。



 ショウリンさんだけでなく、もちろんヨウファさんの手伝いもする。

「ヒマリ、しばらく鍋の様子を見てもらえる?」

「はい」

 わたしは料理がわりと好きだ。学校が休みの日は、自分でお昼ご飯を作って食べていた。なので料理に関してはショウリンさんの仕事と違い、すんなりと手伝うことができた。

 とはいえ、蛇口を捻れば水が出て、取っ手を捻ればコンロから炎が出るというわけじゃない。わたしはまず初めに、火の起こし方を覚えなければならなかった。

「ヒマリは料理に手慣れてる様子なのに、火の起こし方を知らないのねえ……現世って変わってるのね」

 初めてヨウファさんに火を起こしてくれと頼まれ、どうしたらいいかわからないと答えたときには、ずいぶんと呆れられたものだ。

 基本的なことを教えてもらった今では、料理の大部分を任せてもらえるようになった。火の強さを調節したりだとかは手間がかかるけれど、出来上がる料理自体は簡素なものが多い。数回やってみれば覚えられるようなものが殆どだった。

「うー……姉さまは凄いです。リンカは料理だけは、まったく上達しません……」

 リンカがいじけたように言う。両親よりも様々な知識を蓄えているリンカだけれど、なぜだか料理だけは致命的に下手だった。

 一度作っているのを見させてもらったけれど……普段の効率の良さがウソみたいな動きになっていた。一つのことに集中しすぎてしまうきらいがあるようで、ご飯が炊けたことを忘れたり、火の調節を忘れて鍋を噴きこぼしたりといったことはしょっちゅうだった。だけど、どうもそれだけじゃないような……致命的に才能がなさそうな感じにも見える。おかげでひとつだけ、確実に姉としての威厳を保てる要素が持てたので、わたしはこっそり胸をなでおろしていたのだけれど……。

「いただきます」

 夕方頃には全員で夕飯を食べる。

 食卓に並ぶ料理は、毎日ほぼ一緒だ。ショウリンさんたちが城下町に行ったときしか米などを買い込むことはできないし、わたしとリンカが行っている食料調達で手に入るものも大方は決まっているので当然と言えるだろう。

 だけど――リンカたちと食卓を囲んで食べる夕飯は、今まで食べたどの料理よりもおいしい。

 わたしは今まで、他人のために料理を作ったことがなかった。作るのはあくまで自分が食べる分だけで、人に作った料理を食べてもらうという経験をしたことがない。なので、初めてみんなに料理を食べてもらったときは不安で仕方がなかった。

 けれど、リンカたちはいつも嬉しそうに、わたしの料理を食べてくれる。

 人に料理を食べてもらうことがこんなに嬉しいことだなんて、今まで全然知らなかった……。

「……日向にも、食べて貰えばよかったかな」

「……? 姉さま、何か仰いましたか?」

「ううん、なんでもない」

 不思議そうな顔をしているリンカの頭を撫で、わたしは自分で作った料理をじっくりと味わった。



「玄関、工場の窓。炊事場、厠に……各部屋の窓。……うん、大丈夫」

 夕食を済ませたら、日が完全に落ちる前に就寝する。

 太陽が落ちると、辺りは一気に闇に包まれる。巨大な月の明かりが地上を照らしてくれるものの、家の中までは差し込んでこない。暗くなった部屋の中では仕事も家事もままならない……したがって、幽世では日が落ちたら就寝するというのが一般的のようだった。

 一応、蝋燭などで灯りを取ることはできるのだが……そんな小さな灯りでは精密な作業を行うのは難しい。毎日使っていたら、蝋燭代だって馬鹿にならない。なので、よっぽど重要な要件でもない限り、蝋燭を使うことはない。

 寝る前には、太陽の光が届くうちに家族総出で家の中の扉という扉、窓という窓を閉め切る。――そして、家族全員で全ての扉と窓が閉まっているかを確認する。

 わたしが彼らの家族となったその日……これだけは、何があっても絶対に欠かしてはいけないと、ショウリンさんたちに強く念を押されていた。

「御神体の話はしたね?」

「はい。妖獣に襲われないように、家を守ってくれるんですよね?」

「ああ、その通り。……だけどね、ただ置いておくだけではダメなんだ。確かに御神体は、家を特別な力で守ってくれる……」

 わたしがイメージしたのは、バリアや結界のようなもの。

 わたしには理解できないような、見えない不思議な力で家が覆われている様子だ。

「だが、妖獣が通れるような場所……例えば大きな窓や玄関の扉。そういったところが開いてしまっていたら、当然妖獣たちは家の中に入ってくる。だから夜、就寝する前には必ず、家族全員で戸締りを確認する。これだけは絶対に忘れてはいけないよ。そうすれば、必ず御神体は俺たち家族を守ってくれるから」

 ……それを聞いてイメージされたのは、穴の開いた網戸だった。大きく開いた穴から、コバエがするりと入ってくる様子……。……抱いていた神聖なイメージが、一瞬で崩れ去ってしまった。

 だが、実際に入ってくるのはコバエではなく、人に襲い掛かる恐ろしい化け物……妖獣。それに襲われる恐怖は、わたし自身、身をもって経験している。そのため油断なく、家じゅうの戸締りを確認して回る。

 全員が全ての戸締りを確認し終えると、ようやく就寝する。

 わたしの寝床は、助けられた日に目を覚ましたあの、神棚のある部屋。そこはもともと、家族三人の寝室だったらしい。わたしという家族が一人増えた今は、わたしとリンカの寝室となっている。

 ショウリンさんとヨウファさんは、玄関からすぐの居間に布団を敷いて寝ていた。……つまり、わたしに追い出されてしまった形になる。それではあまりにも申し訳がないからと、わたし一人が居間で寝ると主張したのだが、

「リンカが一緒に寝るといって聞かないんだよ。あの子は滅多に我が儘を言わないからさ、たまの我が儘は聞いてあげたいんだ。それに布団だってまだ三つしかないし」

「それは……あ、でも、それならお二人が寝室から出る必要は……今まで通り三つ布団を並べて」

「駄目よー、ヒマリ」

 ヨウファさんがいたずらっぽくにやりと笑う。

「あなたはリンカと違って、年頃の娘でしょう。……家族になったからって、中年の男と一緒の部屋で寝るのは抵抗があるでしょう」

「そ、そんなこと……」

 否定しようと思ったけれど、わたしはつい言い淀んでしまった。それを見てヨウファさんは大笑いし、逆にショウリンさんはしょんぼりとした顔で項垂れる。

「す、すみません……」

「いいの、いいの! こんな男のこと気にしない! ……それに、いずれリンカが大きくなったときには、そうするつもりだったのよ。ちょっと早く巡ってきただけなの」

 ……そんなわけで、わたしはリンカと一緒の布団で寝ている。

 布団が三つ並んでいたはずの部屋に、今ではひとつしか敷かれていない。やたらとだだっ広い気がする部屋の中を見回すと、隅の方に竹が立てかけてあるのが見える。ずっと、単なる竹だと思っていたけれど……今ではそれが、竹槍であることがわかる。竹槍はこの部屋だけでなく、居間や炊事場など、家の中のいたるところに立てかけてあった。

 ――どの部屋の隅にも、竹槍が立てかけてある理由。

 それは……いざというときには、あれを使って自分の身を……そしてなによりリンカの身を守らなくちゃならない、ということ。

 二人に寝室を譲られたのは、きっとそういう意味も含まれているはず。何が起ころうとも、わたしは姉として、リンカを守り抜かなくちゃいけない――。

 家族としての責任も、部屋と共に譲られたんだ……。

「姉さま、今日も何かお話してください」

 布団の中から、リンカの期待に胸を膨らませた声が聞こえてきた。

 昼間はリンカから幽世のことを教わるけれど、夜……寝るまでの時間は立場が逆転して、わたしがリンカに現世のことをお話することになっていた。

 家のこと、学校のこと。食事のこと勉強のこと文化のこと技術のこと――。

 本当に取り留めのない、わたしの退屈な人生の欠片を、少しずつ聞かせているだけだけれど……リンカはどんなことにも目を輝かせてくれた。

 そうしているときが一番、わたしはこの子……リンカの姉になったんだと実感できる。そしてその実感は、幸せとなって胸の中に溢れかえる。

「そうね……今日は何を話そうかな」

 毎日やっていることは、大したことじゃない。

 だけどその日々の積み重ねは、わたしの心を確実に満たしてくれていた。

 夢のような暖かい日々は、矢のように過ぎ去っていく――。



 ■



 モロウ領城下町。領に加護を与える姫の住む城を中心として、様々な商店・学舎・詰所・民家などが詰め込まれるように建っている、まさに行政・商業の中心となる町。

 城下町の周囲は、上空から見るとほぼ真四角な形になるように石垣が連なって建っている。妖獣の襲撃を少しでも抑えるための防御壁だ。延々と続くかのように町を囲んでいる石垣には、東西南北、各四か所に門が設置されており、日々人々を迎え入れ、そして送り出している。

 その門に付随するかのように、石垣の外側に小屋が立っていた。

 小屋と言っても、そこらの民家と比べればかなり大きく、そして頑丈な造りになっている。大の男が優に四十人は入るような大きさだ。その小屋――防人の一族の詰所に、ゴウランはいた。

「…………」

 ゴウランは無言のまま、板張りの床に胡坐をかいていた。両腕は何物も寄せ付けないかのようにがっしりと組み、視線はどこでもない場所を睨んでいる。全身から緊張感が発せられているようで、それを鋭敏に察した部下たちは、こそとも音を立てぬよう控えていた。

 ゴウランがこちらの詰所に現れたとき、出迎えた一族の者たちはゴウランの腰に差された刀に目を奪われた。

 モロウ領がいくつか所有する名刀……その中でも最上級の業物である。刀身、柄、鍔、鞘……構成する全てのものが雅であり、まるで芸術品のよう。それでいて、その切れ味は世に溢れかえっている刀とは比べ物にならないほど鋭く、繊細。妖獣を十匹以上斬り倒しても、血糊が付かないとまで言われている代物だった。

 普段であれば、それほどの業物が城の外に持ち出されることなどない。ましてやこのような、城下町のはずれで目にするようなものではないはずだった。だがゴウランは、名刀を腰に差した状態で現れ、一族の者たちにこう告げた。

「俺はしばらく、この詰所に控える。重要な任務を仰せつかったのでな……。必要になった場合、指示を出す。その際は、何を置いても俺の命に従うよう」

 そうしてゴウランが現れてから、もう二週間以上経つ。ゴウランが業物を腰につけて現れたこと、そして二週間もの間ずっとこの詰所で夜を過ごしていることで、部下たちの間には一つの確信が広がっていた。

 ――姫の命が、尽きようとしている。

 本来であれば、ゴウランはあのような業物を腰に差す必要などない。なぜなら姫の防人であるゴウランは、名刀中の名刀よりもさらに優れた武器を、姫から賜っている。戦うときは姫から賜った武器を使うのが防人というものだ。

 そのゴウランが、必要のないはずの武器を持ち、二週間も姫の元に戻らない。――これで姫の身に何も起こっていないなどと考える呑気な者は、一族の中にはいなかった。

 ゴウランと同じ部屋に控えていた部下たちは、胸の奥にずうんと重しがのしかかったかのような感覚を得た。

 一族の誰もが敬愛する姫……シャンクゥ。彼女の笑顔が永遠に失われようとしているなど……考えたくもなかった。

 その時、詰所の外で人々の騒ぐ声がした。

「……何事だ」

 ゴウランの重々しい声が響く。

「確認してまいります。お待ち下さい」

 一人の部下がそうゴウランに告げ、詰所の外へと出ていく。冷静な顔で詰所を出たその部下は、ほんの数秒後、慌てふためいた顔で詰所の中へと駆け込んできた。

「ご、ゴウラン様! ……神獣様が!」

「何!」

 部下の報告に、ゴウランは目を見開いて驚き、ぱっと腰を上げた。

 部下たちとともに外に出たゴウランが目にしたものは――暗くなりかけた空に浮かぶ白き光。

 月でも星でもないその光は、ゆらりと揺れながら地上へと舞い降りる。そして詰所の前に整列したゴウランたちの目の前に姿を現した。

 神獣――モロウ。

 茶と白の入り混じった、美しい毛並みを持つ――犬神だ。

 人間の背丈ほど大きな体を持つモロウは、優雅な足取りで地面に腰を下ろす。

「ゴウラン……こちらへ来な」

「はっ」

 男とも女とも判断のつかない声で、モロウは喋った。

 整列した一族の者から、姫の防人であるゴウランだけを自らの傍へと招く……すなわち、部下たちにはあまり聞かせられない話かと、ゴウランは心の奥で覚悟を決める。

 モロウは傍へと近寄ってきたゴウランの、腰に差された刀を見て、わずかに悲しげな表情を浮かべる。

「……あと、二・三日後というところかねぇ。お前がそんな刀を振る羽目になる日は」

「……ッ!」

 モロウの言葉に、ゴウランは吐き気すら催しそうになった。

 身の内から爆発して溢れそうな感情をなんとか抑え込みながら、ゴウランは答える。

「……そうですか」

「わたしの可愛いシャンクゥ……あの子は、こんなに早く命を散らしていい子じゃなかった。わたしは、腸が煮えくり返りそうだよ……! あんたもそうだろう、ゴウラン」

 ゴウランは無言のまま、眼差しだけでモロウの問いに答える。それで、モロウは満足したようだった。

「……シャンクゥから、あんたに贈り物さ」

 モロウが自身の毛並みから何かを取り出し、ゴウランへと放った。受け取ったゴウランは、手の中に納まったそれをしげしげと見つめる。

「これは……木霊貝ではないですか」

 木霊貝とは、アマツ国南部の、ごく一部の地域でのみ採集される貝のことである。

 木霊貝の貝殻は、貝殻の中に音を吹き込むことによりその音を記憶し、耳に当てることで吹き込んだ音を再度聞くことのできる不思議な貝だ。吹き込むことのできる音は種類を選ばず、どんなものでも覚えさせることができる。――もちろん、人間の声すらも。

「シャンクゥが、あんたのために用意したものさ。既に声は吹き込んである……聞きたいときに聞くんだね。……もう二度と、会わないんだろう?」

「……ありがとうございます」

 ゴウランは淡い桃色と黄色で彩られた美しい貝殻を握りしめ、大事そうに懐に収めた。

「……あんたを防人に選んだシャンクゥの判断は、やはり正しかったようだね……。今度わたしたちが会うとしたら、それはいつか……わかっているね? あの子の頼みだ、必ず叶えようじゃないか」

「もちろん……この命に代えましても」

 ゴウランの言葉に頷くと、モロウは再び光を纏い、空へと昇って行った。再度城へと戻り、姫の元で時を過ごすのだろう。……それがゴウランには、たまらなく羨ましかった。

「シャンクゥ様……」

 夜の帳が降り始めた空を見上げ――ゴウランは心情を零すように小さくつぶやく。

 木霊貝の収められた胸元を、きつく手で押さえながら――。

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