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この作品は私が以前投稿した「霞の先の姫」の続編?的な作品となっています。
お時間がありましたら、そちらもどうぞよろしくお願いします。
天は二物を与えず、と昔の人が言ったらしい。
ようするに、いいところばかりの人間なんていない、ということ。人間誰しも良いところがあり、悪いところもある。優れている人にも弱点はあるし、逆に悪いところばかり目立つ人にも、何かしらいいところがある。極端な解釈をすれば、人は誰しも平等である……という言葉だと言えるかもしれない。
もしかしたら、これを言った人は『みんな仲良くしなさい』という教訓を込めてこの言葉を作ったんじゃないだろうかと、わたしは思う。
他人の良いところを見ると嫉妬し、自身の悪いところを自覚すれば劣等感を抱く。そういう感情はやがて、争いの元となるだろう。でも、人には誰しも美点と汚点がある。誰しも人を羨み、また誰しもが自分の至らなさに苦しんでいる。誰もが平等なのだからそんなこと気にせずに、みんなで仲良くしましょう……そう思っての言葉だったんじゃないだろうか。
もしそうだとしたら……それはとても素敵なことだ。
この言葉を言った人はきっと争いを好まない、誰からも愛され誰からも好かれる……素晴らしい人物なのだろう。
――でも。
この言葉は嘘だということを、わたしは知っている。
「もーっ、お母さん! なんで起こしてくれなかったの!?」
「何言ってるの、ちゃんと起こしたでしょう? あともう少し、って言ったのは日向でしょ」
毎朝の騒がしいやり取りを耳にしながら、わたしは皿の上に乗ったトーストをもそもそとかじる。
リビングには、いくつもの音がこだまする。母親があわただしく朝の準備をする音、父親がのんびりとコーヒーをすする音、テレビから流れてくる天気予報、そして母親と日向が言い争いをする声。
「まったく、日向ももう高校二年生なんだから、一人で起きてこられるようにならないとなぁ」
「だってお父さん、仕方ないんだよ。布団があたしを優しく包んで離してくれないんだもん……」
「何馬鹿な事言ってるの、ねぼすけなのを布団のせいにしないの!」
そう言って母親が日向の頭をぽこんと叩くが、そこに怒りの感情などはない。いわゆる家族の触れ合いというやつだ。日向もちゃんとそれを分かっているので、えへへと恥ずかしそうに笑っている。
焼いてバターを塗っただけのトーストは、ほんの数分で食べ終わってしまった。わたしは座っていた椅子から立ち上がりテーブルの上の皿を持つと、母親と日向がじゃれている横を通り抜けてキッチンへ。流しに皿を置いて、食器棚から取り出したコップに水を入れて飲む。空になったコップも流しに置き、再び二人の傍を通ってテーブルへと戻る。テーブル脇に置いてあったカバンを掴むと、ソファに座って母親たちの様子を眺めている父親の背後を横切って玄関へと向かった。
「……行ってきます」
リビングから出る際に一言、出かけの挨拶。
わたしの口から漏れ出た小さな呟きのような挨拶は、家族の談笑にかき消された。
玄関で、学校指定のローファーに履き替える。三和土には二足、まったく同じローファーが並んでいる。見た目が一緒でも、不思議と一度も履き間違えたことはない。
玄関から外へ出ると、太陽の光がわたしを照らした。青い空に、ふんわりとした白い雲が浮かび、のんびりと泳いでいる。なんの変哲もない普通の日だ。
晴れの日は好きだけど、強い日差しはあまり好きじゃない。わたしは地面に落ちた影を頼りに、できるだけ日陰を選んで歩く。
……自然と、視線は下向きになっていく。
そうして歩き続けて数分後、後ろから声がかけられた。
「待ってー! 日葵ー!」
立ち止まって振り返ると、太陽に照らされた道を笑顔で駆けながら、こちらに手を振っているわたしの妹がいた。
同じ顔を持つ――双子の妹。
わたしと違って笑顔の似合う、とても素敵なわたしの妹……日向。
天は二物を与えずという言葉が嘘だと言うことを、わたし……橘日葵は知っている。
なぜならわたしの傍には――二物以上を与えられた存在が、生まれたときからいたのだから。
「もう、日葵はいつも一人で学校行っちゃうんだから」
「……うん、ごめんね」
わたしたち……橘日葵と橘日向は、双子の姉妹だ。
隣同士並んでいる姿を何も知らない人が見れば、一体何事かと思うほど瓜二つ。子供のころから、まるで鏡合わせのようだとよく言われたものだ。同じ顔立ち、同じ髪型……背格好だってぴったり同じ。ここまで似ている双子も珍しいと、今まで生きてきた中で何度も何度も驚かれた。それほどに、わたしと日向はよく似ていた。
でも……似ているのは姿かたちだけ。わたしと日向の中身は、全くと言っていいほど似ていない。
引っ込み思案な姉……日葵。
なんにでも好奇心旺盛な妹……日向。
子供のころから、性格の違いだけは顕著だった。やがて二人の性格は年を経て、暗く陰気な姉と、明るく天真爛漫な妹へと変化した。
そして性格だけでは収まらず、人としての出来栄えでも、わたしたちの間には明確な差があった。
妹の日向は、何をやらせてもよく出来た。
身内びいきになってしまうけれど、日向ほど才能溢れる同年代の女の子を、わたしは知らない。勉学に関しては苦労知らずで、これといって特別に勉強などしなくても、普段受けている授業だけで上位の成績に食い込むことができてしまう。運動も得意で、どんなスポーツでもそつなくこなしてしまうため、高校入学当初はあらゆるスポーツ系の部活から引っ張りだこだった。
明るい性格のおかげで交友関係も広い。男子にも女子にも、年上にも年下にも好かれる。そんな、天から二物も三物も与えられた存在……それがわたしの妹、日向だった。
……対して、姉であるわたしには、これといって秀でたところはない。
勉強はいつも苦労しっぱなしだ。妹と同じ高校に入学できたのも、妹が受験勉強を手伝ってくれたからに他ならない。運動全般は苦手で、特に球技などは試合に参加していても傍観者に徹しているほどだ。
陰気な性格もあって、交友関係は殆ど家族だけで完結している。携帯電話の電話帳にも、家族の名前しか入っていない。それで全く困らないのが……わたしがわたしたる所以でもある。
天の神様は、わたしと日向に与える物のバランスを間違えてしまったらしい……そう思ってしまうほどに、わたしには何もなくて、日向はたくさんのものを持っていた。
……だからといって、神様や日向のことを恨んだりはしないけれど。
そう、唯一わたしが天から与えられたものがあるとするならば、日向という素晴らしい妹を持てたことだ。……かわりに、日向はわたしというどうしようもない姉を抱えてしまっている。
通学路を並んで歩きながら、日向と話す。日向は不満そうに頬を膨らませた。そんな様子も、また可愛らしいのが日向だ。
「家出るときは、ちゃんと声かけてよ。そしたらわたしも一緒に出るのに」
「……一応、行ってきますはしてるよ」
「じゃあ、もっと大きな声で! わたしにも聞こえるくらい、でっかい声!」
「うん……ごめんね」
「えっとー……、謝って欲しいわけじゃないんだけどなー」
日向が困ったような、微妙な笑みを浮かべながら言う。日向にそんな顔をさせてしまったことに、わたしの心はじくりと痛んだ。
……そもそも、わたしが姉で日向が妹というのも、単にわたしのほうが早く生まれてきたというだけの話だった。わたしは姉らしいことを、まるで日向にしてあげられていない。それなのに、日向は私が姉という立場でいることに、何の文句も言わなかった。
日向に頼るたび、日向を困らせるたびに……わたしはわたしがいなくなってしまえばいいと思う。
双子であるがゆえに、子供のころは何事も半分こにすることが多かった。服に玩具に、親の時間。誕生日ケーキだって半分こだ。
――わたしがいなければ、日向は全て独り占めすることができたのに。
そんなことを考えながらぼんやりと歩いていると、唐突に日向が問いかけてきた。
「……ねえ日葵、そっちのクラスはどお?」
「どう……って?」
「毎日楽しーのかってこと!」
学校が楽しいかどうか……その曖昧な問いに様々なことを脳裏に思い浮かべながら、わたしはとりあえず日向が満足しそうな答えを返した。
「……うん、まあまあ楽しいかな」
「まあまあかー。なかなか会いに行けないから、実際にどうしてるかは分からないけど……日葵がそう言うならいい……のかな?」
「受験の時は、日向にだいぶお世話になっちゃったから……。楽しまないと日向に悪いもんね」
「いや、あたしのことは別にいいんだけどさー……。……その、オトコのコから声かけられたりしてない?」
「えっ?」
あまりにも予想外な問いに、わたしは思わず聞き返した。
ところが聞き返された日向も、なぜだか驚いたような顔をする。
「えっ? って、こっちが言いたいよ。なんでそんな意外そうな顔をするの?」
「……いや、だって、わたしが男の子にどうとかって、ありえないから……日向じゃないんだよ」
「お褒めいただき光栄ですけど。あたしがそうなら、当然日葵だって可能性があるに決まってるじゃない! あたしたち双子なんだからね」
くりっとした大きな瞳に、モデル顔負けのちっちゃな顔。ふわっとしたボブカットの髪型が、とてもよく似合っている。どこに出しても恥ずかしくない美少女……それがわたしの妹、日向の姿だ。……これも身内びいきかもしれないけど。
そして双子であるわたしも、特徴だけならば確かに日向と同じだ。顔の造りは当然同じだし、髪型も日向と同じボブカット……というよりも、何故か日向がわたしと同じ髪型にしている。もっといろいろ髪型で遊べばいいのにと言っても「これが一番落ち着くから」と言って変えようとしない。不思議で仕方ないけれど、実際日向にボブカットはとてもよく似合っているので、文句の言いようがない。
……まあそれは置いておいて。ともかく、わたしと日向はまったく同じ姿かたちをしている。
日向はとても可愛い。そして男子によくモテる。これは疑いようのない事実だ。
それならば、モテる日向と同じ姿かたちであるわたしも、男子にモテるのかと問われれば……答えは当然、ノーだ。
わたしと日向が瓜二つなのは、あくまで証明写真に無表情で撮られている時だけ。
いつも笑顔いっぱいの日向と、下を向いて俯いているわたし。顔の造りが同じだろうと、性格は二人の表情に明確な差として表れる。
そして男子にモテるのは――日向のような笑顔溢れる女の子だ。陰気なわたしが男子の目に留まるなんてことは、天と地がひっくり返ってもあり得ない。
日向はそのあたりを、あまり理解していないようだった。同じ顔なのだからわたしも男子に狙われているはずだと、しきりに囃し立ててくる。
「だからさ、日葵のことが心配なんだよ。日葵って、ちょっと警戒心薄いところあるし、頼み事されると弱いでしょ? 変な男子に捕まったりしないかって、気が気じゃないんだから」
「……ふふ」
そんなことはあり得ないのに、やたらと真剣な顔でまくし立てる日向に、わたしは少しおかしくなってしまった。
思わず笑みを浮かべたわたしを、日向がきょとんとした顔で見ている。
勘違いとはいえ心配してくれている妹のことを笑うなんて……わたしは自分が恥ずかしくなり、日向の傍から足早に離れた。
「……わたしは大丈夫だから。日向は、日向の学校生活を楽しんでよ」
「う? ……うん」
……気が付けば、家を出てから、もうずいぶんと時間が経っている。
わたしは猛省した。日向と話していると、楽しい。だからついつい話し込んでしまいそうになるが……日向がわたしなんかのために時間を割くなんて、あってはならない。
日向の時間は有限だ。高校生活という限られた時間を、ほんの少しでも出来損ないの姉をかまうのに使ってしまうなんて……勿体ないにもほどがある。
だからこそ、わたしは一人早く家を出る。日向と両親が、ゆっくりと触れ合える時間を作るために。そして通学中に、わたしとのおしゃべりなんかで時間を潰したりしないように。
「もー、日葵ってば歩くの早いよ……」
あともう少し歩けば、日向の友達が合流するはずだ。辿り着きさえすれば、日向は大切な友達との会話に花を咲かせることができる。
わたしはその目的地を目掛け、いつもより気持ち早めに足を動かしていた。
学校に到着すれば、日向と話す機会はあまりない。
わたしと日向はクラスが違ううえ、そのクラスのある教室の位置も離れている。わたしは東棟、日向は西棟に教室がある。休み時間にわざわざ会いに行くなんてこと、わたしはしないし、友達が多くて忙しい日向もめったに東棟に来たりしない。そのため、偶然廊下ですれ違うこともない。
そもそも、わたしは殆どの時間を教室の中で過ごしている。授業中は当然として、休み時間中もお昼休みも、わたしはずっと教室にいる。大抵は本を読んでいるか、勉強をしているか……。日向のおかげでなんとか入学できたわたしは、あまり成績に余裕がない。休み時間を使ってようやく、勉強についていけているのだ。
……まあ、わたしが教室からあまり出ないのは、それだけが理由ではないのだけど。
「…………っ」
だけど当然、一日中教室にいられるわけじゃない。
……具体的には、生理現象が起これば席を立たざるを得ない。こればっかりは、人間なんだから仕方がない。
授業終了のチャイムが鳴り、教科書やノートをしまってから席を立つ。わたしの教室は、トイレの位置が若干遠い場所にある。自らのくじ運のなさを嘆きながら、わたしは廊下へと出た。
そうしてトイレに向かって歩いていると――恐れていた事態が起こった。
「あれっ、日向じゃーん。めっずらしい、こんなところで何してんのー」
背後から嬉しそうな声が近づいてきて、わたしの肩が叩かれた。
振り返ると、そこには知らない女の子たちがいた。……とはいえ、この子たちがどういう目的でわたしに声をかけたのかはわかる。
彼女たちは日向の友達で……わたしのことを日向だと勘違いして声をかけてしまったのだ。
明るい表情の日向と暗い表情のわたしは、正面から見ればどちらが姉で妹かすぐにわかる(日向がふざけて、わたしの真似をしたりしなければ)。だが、後ろ姿だと本当に判別がつかないらしく、後ろから声をかけられたと思ったら人違いだった、というのは今までの人生で何度もあった。
幼い頃は、そんな間違いを気にしたことはなかった。双子だからしょうがない、そんなにわたしたち似ているんだねって、日向と笑いあったりもした。
だが歳を重ねるにつれて……この勘違いはわたしの心を深く傷つけるようになった。
なぜならば、
「……あっ、ごめん、人違い……。てっきり日向だと思っちゃってさー……」
――日向だと思って話しかけてきた人は、わたしの顔を見ると決まってがっかりした顔をするからだ。
それも当然だ……日向と楽しく話せると思って声をかけたのに、実際にいたのは親しくもなければ愛想もない姉のほうなのだから。そんな気持ちにさせてしまうのが申し訳なくて、わたしはできるだけ声をかけられないように教室に籠っているのだけれど……こうしてちょっと廊下に出たタイミングで、日向に間違えられてしまうことがある。
この女の子たちも、振り返ったその人が日向ではなかったと知り、とても気まずそうな顔をしている。
「……ごめんなさい」
「? いや、こちらこそごめんねー……」
わたしは一言謝ると、足早に廊下を突き進み、トイレの中へと駆け込んだ。
女子トイレで個室に閉じこもると、はあと大きく息をついた。
……また、やってしまった。
日向本人だけでなく、日向の友達にまで迷惑をかけてしまう。そんな自分がとても嫌だった。
声をかけたのがわたしだとわかったときの、彼女たちの表情が忘れられない。……久々に日向と話せると思って声をかけたのに、その楽しみを奪ってしまった。罪悪感で、わたしの心臓は潰れてしまいそうだった。
……本当に潰れてくれたら、どんなにいいだろう。
わたしがいないというただそれだけで、日向とその周囲は幸せになる気がする。日向はどうしようもない姉を抱えずに済むし、両親はその愛情を一手に日向へと注ぐことができる。日向の友達は勘違いで嫌な思いをすることもない……全てが上手くいく。
――どうして、わたしは生まれてきてしまったの?
日向と同時に生まれ出てきてしまった、日向の残りかす。同じ見た目をしているだけで、秀でたところは何もない。それどころか下手に似ている分、余計な迷惑すらかけてしまう。
天に愛された日向にとって唯一の汚点――それがわたしだ……。
「……いやー、さっきはびっくりしたよー」
俯いていた顔を上げる。
トイレの個室、その扉の向こうから声が聞こえてくる。聞き覚えのある声……ついさっき、わたしのことを日向だと勘違いした女の子だ。
わたしは誰かと連れ立ってトイレに行ったことはないけれど、案外そういう子は多いらしい。そしてトイレでおしゃべりする内容は、誰かに聞かれたくない話なのだそうだ。
……どうしよう、図らずも秘密の話が聞こえてきてしまいそうだ。彼女たちが出ていくまで耳を塞いでおくべきなのかな……と思い悩んでいる間にも、彼女たちは話を進めてしまう。
――その内容を聞いて、わたしの身体は凍り付いた。
「もーマジそっくりなんだもん。ほんと心臓に悪いわ」
「ねー。あれを後ろから見分けられる人なんて、いないんじゃない? 前からならすぐわかるけど」
「ほんとほんと。……恥ずかしいやら気まずいやらで、めちゃくちゃ疲れたー」
「あはは、紛らわしいったらありゃしないよね」
「あー、それヒドイんだー」
その後、彼女たちは様々な会話をひとしきり繰り広げて笑いあったあとに、トイレから出て行った。
初めに聞こえてきた会話……その内容に、わたしは打ちのめされていた。
気まずい、疲れる、紛らわしい――。
それらは、わたしという存在を指すのにピッタリな言葉だと思った。……だってわたし自身、自分のことをそう考えていたのだから。
彼女たちの言葉で、わたしは自分の心の中で悶々と抱えていた悩みに終止符を打つことができた。悩んでいた答えに後押しを貰ったというべきか……彼女たちは、わたしにひとつの決意を与えてくれた。
そっか……わたしだけが考えていたわけではなかったんだ。
日向を取り巻く周囲の人たちも、同じようにわたしのことを捉えていた……自他ともにそうだというならば、その結論は間違いのないものだろう。
ほう、と。深くため息をつく。
それは後悔や苦悩のため息ではなく、諦観から溢れ出てきたもの。
「やっぱりわたしは――いないほうがいい人間なんだ」
授業が全て終わり、わたしは帰途につく。
部活には入っていない。何をしても冴えない人間なので、何かをしたいという気持ちすら湧かないから。妹の日向も部活には入っていないけど……こちらは逆に、何でもできるからなのだろう。
同じ帰宅部といえど、わたしと日向の下校時間が被ることはあんまりない。なぜならば、日向はわりと遅くまで友達と話し込んでいるからだ。友達のいないわたしは、誰からも呼び止められることなく、一直線に学校から出て行った。
「……はぁ」
今日何度目かわからないため息をつく。……トイレの中で聞いてしまった会話が、未だに頭の中でこだましていた。
紛らわしい……か。
実に的を射た言葉だと思った。何をしても優秀な日向は、非常に多くの人々に求められている。そんな日向と瓜二つな、特に秀でたところのない人間がいたとしたら……それは煩わしい存在に違いない。
例えばの話、非常に人気のある炭酸飲料があったとする。
老若男女、世界中から愛されている炭酸飲料……もし、その飲み物とラベルが酷似した、炭酸の抜けた商品を買ってしまったとしたら……消費者はどう思うだろう。
さわやかな炭酸の刺激を期待して購入したのに、蓋を開けてみれば気の抜けたただ甘ったるいだけの飲み物……きっとガッカリするはずだ。こんなややこしいラベルで商品を販売しないでよと、販売元に文句をいいたくなるだろう。クレームが募れば、いずれ販売停止になってしまうかもしれない。
同じことが、わたしと日向にも言える。
日向を取り巻く周囲の人々はきっと、わたしのことを煩わしく思っているはずだ。
――そんな誰にも求められていないわたしが、この世界にいる意味はあるんだろうか?
「……どこか、別の世界に迷い込んでしまえたらいいのに」
自宅への道をとぼとぼとなぞりながら、わたしは願望を呟く。
今すぐこの世から……日向の傍から消え去りたい。
かといって、自殺をするような度胸すら、わたしは持っていない。そして遠い場所……海外はもちろん国内であっても、家から出て一人で暮らそうと決意する気概だって、わたしにはない。
いなくなりたいと思いながら、生まれた家の居心地の良さに甘え続けている……そんな自分が嫌で、猛烈な嫌悪感に苛まれる。それなのに、一念発起して家を出ようという気持ちも起こらない。それがさらに、わたしの気分を落ち込ませるのだった。
わたしが期待するのは、不可抗力による消滅。
何らかの、自分以外の別の何かによって、強制的に日向の元から離れるという展開だ。例えば誘拐だとか、交通事故に巻き込まれて死んでしまうとか……。それならば、わたし自身が何かを決心することなく、日向の元から離れることができる。
今までは、誘拐されるのも死んでしまうのも怖いから、想像しつつもやっぱり嫌だと拒否していた。だが、今日トイレで女の子たちの会話を聞いて、少し考えが変わりつつあった。
――どんな理由であっても、早急に日向の傍からいなくなったほうがいい。
わたしの存在は、日向に迷惑をかける。そして日向の周囲にも。もしかしたら、いずれ不幸まで訪れるようになるかもしれない……そんな気さえするのだ。
……わたしは、日向が不幸になることを望まない。
わたしのほんの些細な不幸で、日向に幸せが訪れるのなら。
――そんな素敵なことは、ないよね……?
「…………あれ?」
ふと、わたしは足を止めた。
……なんだろう、何かおかしいような……? そう思って顔を上げ……わたしは絶句した。
「……なに、これ」
考え事をしながら歩いていたせいで、周囲で起こっていた異常にわたしは今更気付く。
――白い霞。
もやもやとした霞が、辺り一面に広がっていた。
「あ、あれ? あれ?」
なんでこんなに霞がある場所にいるのだろう? わたしはただいつも通り、帰り道を歩いていただけのはずなのに……。
キョロキョロと辺りを見渡すが、前後左右どの景色も、白い霞で覆われていた。
霞の量は多く、周囲の景色を全て白く塗りつぶしてしまいそうなほど。――なんとなく、自分だけが霞の中に閉じ込められてしまったかのような錯覚を起こしてしまう。
「今日はずっと晴れだったのに……」
今朝ちらりと見た天気予報では、今日は一日中晴れ模様だったはず。現に朝はすっきりと晴れていたし、授業中も学校を出たときも、空にはまばらに雲が広がるだけで晴れていたのは間違いない。
それなのに、辺りは霞一色になっている。昨日までの天気を思い返してみても、雨が降ったのは一週間ほど前の話になる。梅雨時でもないので、空気が湿っているわけでもない……霞が発生するような天気は、ここ最近なかったはずなのだけど。
こんなことはあり得ないと目を擦るが、どれだけ擦ろうとも、目の前には白い霞が広がっていた。
「ど、どうなってるの……?」
戸惑いながらも、わたしは足を前へと運ぶ。
周囲がこんなことになっていたのに全く気が付かなかっただなんて、どれだけ間抜けなのだろう。とにかく、いま自分がどこにいるのかを確認しなければ……と、わたしは目を凝らして、霞の向こうにうっすらと見える景色を見た。
見覚えのあるマンション、看板、それにお店……それらに目が留まり、ほっと息をつく。
……なんだ、もう家の近くまで辿り着いていたんだ。
ここはわたしが、通学時も帰宅時も使っている慣れ親しんだ道で、それもあとはまっすぐ進めば勝手に自宅まで辿り着くような位置だった。考え事をして上の空だったわりに、わたしの足はしっかりと帰り道を進んできていたらしい。
それがわかると、不可解な霞に困惑していたのが馬鹿馬鹿しくなってきた。確かに視界は悪いけれども、まったく先が見通せないわけじゃない。進む道だってまっすぐで、車の通りも殆どない場所なので、よほど不用意に進まなければ危険なこともないはずだ。
ざわついていた心を落ち着かせるよう、一つ息を吐き、わたしは霞の中を進み始めた。こんなどうしようもないことで、その場にぽつんと立ち止まっていてもしょうがない。早く家に帰って、今日の授業の復習をしないと……そう考えながら、歩き続ける。
進んで、進んで、進んで――。
「…………」
ものの数分で、わたしは自身の判断を後悔した。
――霞の密度が、濃くなっている。
視界を遮る程度だったはずの霞は、わたしが歩を進めるたびにその量を増していき、今や視界を白一色で覆い隠すほどまでになっていた。
目を凝らせば見えていた景色も、今やどれだけ集中して見通そうとしても、まったく見えない。見える景色はただただ真っ白な、なんの味気もないものだった。
真っ白な画用紙に、ぽつんと落とされた黒いインク……今のわたしを表現するのなら、それがぴったりだろう。
もはや、自分がまっすぐ進んでいるのかどうかもわからない。もうどれくらい進んだのか……その検討さえつけられない。……ただ確かなのは、進みさえすれば自宅に辿り着くはずだということ。
きっと、あと少しのはず。そうすれば多少視界が開けて、自宅の姿が目に入ってくるはずだ。そう信じて、わたしは足を動かし続ける……少しずつ、歩幅が狭くなっていることを自覚しながら。
「…………あっ」
慎重に慎重に歩を進めていると――ついに、濃厚な霞の幕に終わりが訪れる。
ずっと白一色だった景色に、ぼんやりと色が見える。霞が薄くなっている場所があるのだ。……その先にはきっと、自宅があるに違いない。
それが見えた瞬間に、わたしの心は安堵の気持ちでいっぱいになった。
白一色な世界をなんの手がかりもなしに進み続けて、自分が思っている以上に疲れてしまっていたらしい……。とにかくすぐに家に帰って、ベッドに倒れ込みたかった。制服にしわができるから普段は絶対にしないけれど、今日だけは特別ってことで、いいよね……。
わたしの足は、自然と早足になっていく。一刻も早く、この霞の幕から抜け出したかったのだ。
早足はやがてリズムを速め、だんだんと駆け足になっていく。制服で走るなんて、高校に入ってから初めてかもしれない……なんて、呑気なことを考えていた。
駆け足で進むと、周囲を取り巻く霞は一気に薄くなっていく。身体に纏わりつく霞を振り払うかのように、わたしはカバンを持っていない手を大きく振り、一息に走り抜けた。
視界を遮っていた霞がついに、完全に晴れ渡る。
そこには、
「――――え?」
――夜の帳が下りていた。
突き抜けるように背の高い木々が並ぶ風景。
落ち葉が一面中敷き詰められた土の地面。
わたしが立っていたのは、そういう場所だった。満点の星空と、異様に大きく明るい月に照らされて……わたしは見覚えのない林の中に、ポツンと立っているのだった。
「あ……え?」
本当に困惑してしまったとき、人間はまともに喋ることすらできなくなるのだと、わたしは初めて知った。何もかもに理解が追い付かず、わたしの頭は真っ白になっていた。
どうして、いつの間にか夜になってるの……?
わたしの通う高校から自宅までの距離は、時間にして三十分もかからない。全ての授業が終わってすぐに学校を後にしたのだから、例えどれだけの時間、あの霞の中で立ち往生していたとしても、夜になっているということはないはず。
そもそも、なぜわたしはこんな林の中にいるのだろう。わたしが歩いていたのは、アスファルトで作られた平坦な歩道だったはずだ。ところが、今踏みしめている地面は、やわらかい土だ。落ち葉が風に吹かれて、かさかさと音を立てていた。
……あの歩道をどう歩こうと、こんなところに迷い込むことはない。そもそもわたしの町には、山や林というものが少ない。あってもせいぜい自然公園くらいで、それも自宅から車で二十分ほど離れた位置にある。やはりどう考えても、わたしがこんなところにいていい道理はなかった。
ところが間違いなく、わたしは夜の闇に包まれた林の中に立っている。
ぼんやりと空を見上げると、目に入ってくるのは大きな月だ。……こんなにも大きくなった月を、わたしは見たことがなかった。まるで今にも落っこちてきそうで……美しく輝いているはずなのに、心の中に沸き立つ感情は『恐怖』だった。
……いや、月ではなく、この状況にこそわたしは恐怖しているのかもしれない。
だってどう考えても、何もかもがあり得ない。どれだけ頭の中で理屈をこねまわしても、今の状況を説明できる気がしなかった。
……どうしよう。わたしはこれから、どうすればいいの?
いくら問いかけようと、答えてくれる存在はいない。結局は自分でなんとかしなければいけないのだが……よくわからない場所に突然迷い込んだ時の対処法なんて、知っているわけがない。
……そうだ。迷い込んだのなら、戻ればいいんじゃ……?
ふとわたしの頭に浮かんだのは、そんな考えだった。
前に進んできたんだから、後ろに戻れば元に場所に戻れるのでは? そんな、あまりにも単純すぎる思考。混乱さえしていなければ、携帯電話で現在位置を調べたりできたかもしれないけれど……頭の中がハテナで埋まっていた今のわたしには、その程度のアイディアしか頭に浮かばなかったのだ。
見とれていた月から目を離し、わたしは後ろを振り返ろうとする。
「……えっ、あっ」
その際、足をもつれさせて転んでしまった。足元に大きな石が埋まっていたことに、わたしは全然気づいていなかった。地面からぽこんと顔を覗かせた石を踏んづけたわたしは大きくバランスを崩し、受け身も取れないまま地面に倒れ込んでしまう……。
「?」
――ヒュン、と。
後頭部を、何かがかすめた。
突風が吹いたような感触ではない。何か質量のあるものが、後ろ髪をかすめたような気がした。それも小石とかボールみたいなものじゃなくて、かなり大きなもの……。
「……あいたっ」
ばたんと地面に倒れ込む。落ち葉が散りばめられていたおかげで制服に土汚れはあまりつかなかったけれど、ぼろぼろになった落ち葉の屑はびっしりとついてしまった。
「うー、きたない……」
……それにしても、後頭部をかすめたのは一体何だったんだろう?
石に躓いて倒れ込んでいなければ、先ほど後頭部をかすめた『何か』は、わたしの頭を直撃していたのではないだろうか。何が飛んで行ったのかはわからないけれど、わたしにしては運がいいのかも……そんなことを考えながら、わたしは両手で地面を突っ張って体を起こす。そして、『何か』が飛んでいった方向を見た。
その『何か』が視界に入った途端、わたしの体は凍り付く。
「…………ぇ」
――暗い闇の中で、影が蠢いている。
それは、わたしの身長よりも少し低いくらいの背丈をしていた。低いといっても、単純に背が小さいわけではない。極端に背中を丸めているから、小さく見えるだけだ。
……それは一見、猿のように見えた。
ぶらんと垂れ下がった腕は長く、逆に足は短い。地面に手を付け、ぐるりと方向を変えてこちらを見たその姿は、動物園やテレビで見かける猿の動きに酷似していた。
ところが、間違いなく猿ではないことはすぐに分かった。
――だって。
猿だったら、頭に禍々しいツノなんか、生えているわけがない――!
「ひ、あ」
二本の、凶悪なツノを持つ猿……まるで悪魔のような姿をした『何か』に、わたしは震えあがる。
――あれは、何? 一体なんなの!?
わたしは、どこに迷い込んでしまったの――!?
こちらを見た『何か』の瞳が、赤く光る。暗闇の中でぼんやりと光る二つの目玉は、まっすぐにこちらを見据えている。その血走った眼を見て、わたしは理解した。……理解してしまった。
あの赤い目は獲物を……餌を前にした獣の目だ――!
体が震え……硬直する。一方的に命を狙われているという状況に、わたしの心は恐怖で満たされていた。
わたしは、あの獣に抗う術を何も持っていない。できるとするなら、ただ背中を向けて逃げるだけだ。
でも、身体はいうことを聞いてくれない――!
――お願い、動いて。
今すぐ逃げなきゃ、きっと殺される……!
その時、突然叫び声が響いた。
「えっ……!?」
目の前でわたしを睨んでいた『何か』に、別の『何か』が襲い掛かっていた。
見た目は同じ、やはり猿のような体に角の生えたもの。突然現れたもう一匹のそれは、今までわたしを睨みつけていたものに向かって横合いから飛び掛かった。
二匹の叫び声が、林の中にこだまする。その叫び声で、二匹の『何か』が猿ではないということが充分に理解できた。ただの猿が、あんなおぞましい叫び声を上げるはずがない――!
目の前で始まった二匹の争いに、わたしは一瞬ぼうっとしてしまう。
――もしかして、助かった? そんな甘い考えが脳裏に浮かぶが、すぐに振り払う。
同じ見た目の片方だけが優しくて、わたしを助けてくれるなんて、ありえない。あの『何か』は――間違いなく化け物だ。
今はきっと、わたしという餌を捕食者同士で奪い合っているだけ。
……あの戦いに勝ったほうが、今度こそわたしを襲うんだ――!
「う、あ……!」
わたしは弾かれたように立ち上がり、両足を無茶苦茶に動かして走り出した。手には通学カバンを抱え、胸元でギュッと抱きしめる。……そうしないと、不安で押しつぶされそうだった。
あの化け物たちが、いつまで争っているのかはわからない。そして、どれくらいの速さで走れるのかもわからない。獣のような見た目から考えても、運動が不得意なわたしが逃げ切れる可能性は極めて低いだろう。
……でも、あのまま座り込んでいたら、わたしは間違いなく殺される……!
だったら少しでも、生きる努力はしなくちゃ……!
逃げる方向なんてわからない。だって、いま自分がどこにいるのかもわからないんだから。とにかくあの生き物から離れることだけを考えて、わたしは走った。
「……ひっ」
背後から、叫び声が聞こえてくる。この世の物とは思えない、恐ろしい叫び。
――生き残った片方が、こちらに向かってきているんだ……!
「ひっ、はぁ……! はぁ……ひぐっ」
わたしは走りながら、泣きじゃくっていた。
どうして、こんな恐ろしい目に遭っているのだろう。ほんの少し前まで、家に帰ろうとしていただけのはずなのに。
家に帰りたい。父に、母に――日向に会いたい。
……そうか、きっとこれは罰なんだ。日向の傍からいなくなるために、事故や誘拐にあいたいなんて不謹慎なことを考えていたから。
――あの化け物に殺され、食べられてしまえば、わたしが望んでいたものは満たされる。わたし本人は何をすることもなく、日向の傍から消えることができる。わたしという日向の類似品は消え、日向と日向の周囲はきっと幸せになるだろう。
それなのにわたしは……必死に足を動かして逃げていた。この世から消えることのできる絶好のチャンスから、逃げ出していた。
――だって、死ぬのは怖い。
「うっ……ぇぐっ……!」
……結局わたしは、自分が大事なだけだったんだ。
日向の傍からいなくなりたいのも、日向のためを思ってのことじゃない。日向と比較されるのが辛いだけ……自分が苦しかったから、そこからいなくなりたかっただけ。だからこうして、もっと辛い死の恐怖に襲われれば、わき目も振らずに逃げ出してしまう。
わたしはなんてダメなんだろう。
わたしはなんて愚かなんだろう。
こんなダメな姉なのに、日向はいつまでも仲良くしてくれた。それなのに、わたしは自分を大切に思うばかりで、日向の傍からいなくなりたいなんて考えていた。
――罰が当たって、当然だ。
ごめん、ごめんね日向……!
こんなダメなお姉ちゃんで、ごめん――!
背後から聞こえる叫び声が大きくなる。かなり近い。もう、追いつかれる――!?
後ろを振り向いている場合じゃないのはわかってる。今は少しでも、足を動かして前に進むべきだ。……それでもわたしは、迫る恐怖に負けて後ろを振り向いてしまった。
「ひぁっ……!」
赤い瞳が、すぐそこまで迫ってきていた。らんらんと血走った眼は、わたしを捉えて離さない。長い両腕を狂ったように動かして迫る様は、わたしから正気を奪うのに充分だった。
「いやあああっ!」
わたしは恐怖のあまり、手に持っていた通学カバンを化け物に向かって投げつけてしまう。
何の変哲もない通学カバンだけど……中にはいろいろなものが入っていた。筆記用具にノート、生徒手帳や財布もカバンに入れたままだった。ノートはいざというときに、燃やして火を作ることができたかもしれない。生徒手帳があれば身元の証明になるし、財布にはわずかではあるがお小遣いも入っていたのに。
……そして、カバンの中には携帯電話も入れっぱなしだった。電話をすれば助けを呼べたかもしれないし、ここがどこだかを調べることもできたかもしれないのに。
家族の電話番号しか登録していないような寂しい携帯だけど……だからこそ、わたしにとっては家族との繋がりを証明する大切なものだった。にもかかわらず……わたしは恐怖で頭が回らなくなり、それらを全て纏めて化け物に投げつけてしまったのだ。
化け物は奇怪な叫び声を上げながら、投げつけられたカバンを長い腕で吹き飛ばす。
その際、硬いものが砕けるような音がした。おそらく、中に入っていた携帯電話が壊れた音だろう。……家族とわたしを繋ぐ唯一のものは、あっさりと砕け散ってしまった。
――死ぬ。
きっとわたしは、死ぬ。死んでしまう。ここがどこなのかもわからないまま、何なのかもわからない化け物に襲われて。
いったいどんな殺され方をされてしまうんだろう。……痛いのはやだな。でも相手は、人間に対して慈悲の心を持っていなさそうな化け物だ。きっと本能のままに、めちゃくちゃにされてしまうだろう。もしかしたら、生きたまま噛りつかれてしまうかもしれない……。
いやだ、いやだ、いやだ――!
死にたくない死にたくない死にたくない――ッ!
「あッ……!?」
わたしは、最後まで間抜けな自分自身を呪った。
恐怖に駆られたまま走り続けて、既に棒のようになっていた足をもつれさせ、わたしは再び転んでしまったのだ。さっきは転んだおかげで運よく化け物の攻撃を避けたけれど、追いかけられてる今はそうもいかない。すぐに追いつかれて殺されてしまう――!
絶望するのも束の間、わたしの体に激しい痛みが走る。
――ただし、化け物に襲われた痛みじゃなかった。
「う、あっ、いたっ……!」
わたしが転んだ先は、急な斜面になっていた。全力で走っていたため、転んだわたしはかなりの勢いで斜面に飛び出してしまったのだ。そしてそのまま、細かい石が散乱している斜面を転がり落ちていく。ごつごつとした石が、わたしの体を容赦なく傷つける。
受け身も何も取れなければ、転がることを自ら止めることもできない。わたしは両手で頭を抱えて、後頭部だけはなんとか守っていた。……もし頭をぶつけて気絶なんてしてしまったら、それこそ一巻の終わりだ。この斜面が終わるまでなんとか耐えて、すぐに立ち上がって逃げないと――!
しばらくの間激しく転がり続けると――体を打つ痛みは唐突に終わりを告げた。
「――――え?」
目をつぶっていたから、気が付かなかった。
……この斜面の先が、崖になっているだなんて。
――わたしは勢いよく、宙に投げ出されていた。
「…………ぃ、ぁ……!」
落ちる、落ちる、落ちる――!
声を出すことも叶わない。地に足のついていない違和感と、落下による猛烈な不快感がわたしを襲う。化け物から追われる恐怖は、落下する恐怖で一気に塗り替えられてしまった。
地面までの高さ――すごく高い。たぶん……いや、絶対落ちたら死んじゃう!
何か、何か掴まれるものは――! そう考えて、落ちる先へと目を凝らす。
すると何という幸運だろう、崖から一本の木が生えているのが見えた。しかも、ちょうどわたしが落ちる先に引っかかるような位置だ。
……あれになんとかして掴まらないと! わたしは落下の恐怖で縮こまりそうになる体を、めいっぱい広げた。腕でも足でも、なんでもいいからあの木に引っかかってくれれば……!
重力に従って、わたしは真っ逆さまに落ちていく――そして、
「…………ぐふっ」
腹部に猛烈な痛みが走った。
あまりの痛みに、意識が飛びそうになる。しかしなんとか堪えて、大きく広げていた体を今度は小さく縮こまらせる。引っかかった木から、落ちたりしないように。
わたしが落下したことで、木は大きくたわむ。そのおかげで衝撃が多少紛れたのだろう、直撃したにも関わらず、骨が折れているような感触はなかった。……骨折した経験はないから、あくまで予測なのだけれど。
――ともかくわたしは、崖から落っこちたにも関わらず生きていた。
「……あ、はは」
度重なる恐怖から突如解放され、少し頭がおかしくなってしまったのか……口から思わず乾いた笑いが零れた。まるで漫画みたいな展開だ。ただ、激しく打ち付けた腹部の痛みだけが、これが現実であることを訴えていた。
わたしは恐る恐る上を見上げる。崖の上に、あの化け物の姿は見当たらない。というよりも、わたしが落ちた崖の先がそもそも見えなかった。あんな化け物でも、この崖を飛び越える力はないということか。……とりあえず、もう化け物に襲われる可能性はなさそうだ。
化け物の襲撃と、崖からの落下。
一度に訪れたいくつもの命の危機から、わたしは逃れることができた……。
「……それで、これからどうすればいいの?」
地面に向かって一直線に落下するという事態は避けることができたが……いま自分がいるのが高い崖の途中であるという事実は変わっていない。
顔を下に向けると、落ちている最中には遥か下にあった地面が見えるようになっていた。ところが、それでも充分な高さだ。学校の二階よりちょっと高いくらい。ここから飛び降りるというのは、ちょっとぞっとしない。
それじゃあ、この木を伝って崖のほうへ近づき、なんとかして崖を伝って降りるしかない。
クライミングの経験なんてもちろんないけれど……それ以外に方法がないなら、やるしかない。せっかく拾った命なのだから。
……とはいえ、さすがにすぐに動ける気はしなかった。打ち付けた腹部は未だに痛いし、落下する前は化け物から逃げるために全力で走っていた。おかげで、ただでさえ少ないわたしの体力は、ほぼ底を尽きかけていた。
木にぶら下がった状態で休憩できるかどうかは怪しいけれど、しばらくの間はじっとしてよう……。もう少し心を落ち着かせて、それから崖を降りる。……うん、それがいい。今日はあまりにもいろいろなことがありすぎた……。
そう思いわたしがふうとため息をつくと同時に――パキリと何かがひび割れる音がした。
「…………えっ」
視線を、掴まっている木の根元に移す。
ひび割れた音は、確かに根元から聞こえた。嫌な予感がして、冷や汗がだらりと頬を伝う。わたしを落下死から救ってくれた一本の木だが……改めて観察すると、痩せていてとても貧相だった。
バキリと、先ほどよりもはっきりとした音が響く。続けて二度、三度と木の皮が破ける音が鳴り続ける。
――落下の衝撃で、木が根元から折れそうになっている……?
「えっ、やだっ、うそうそうそっ」
慌てて手足をばたばたさせるが、お腹でぶら下がっている状態でそんなことをしても何にもならない。それどころか、下手に暴れたせいで余計に破裂音は加速する。
――願いもむなしく、わたしを支えてくれていた木は、ぽっきりと折れた。
「いやあああああああああああああっ!」
何の意味もないのに折れた木に縋り付きながら、わたしは地面へと落下した。
中学生のころ、名も知らない男子が学校の二階から飛び降りていたところを見たことがある。彼は教師から怒られはしたが、怪我をしていたような様子はなかった。
それならば、今の高さから落ちても大丈夫なのかもしれないが……飛び降りようと思って飛んだ男子と、不可抗力で落ちてしまったわたしは全く違う。まともな着地姿勢も取れないまま、木に縋り付いた状態で地面へと落下したわたしは、運よく木が下敷きになってくれたおかげで直接地面に叩きつけられはしなかったが、そのまま大きく弾かれてしまう。
そして運がいいのか悪いのか……弾かれた先には、小ぶりな岩があった。
「……あぐっ」
がつん、と側頭部に衝撃が走った。
同時に、こめかみからたらりと不快な感触。……たぶん、血が出てる。そう自覚した瞬間に、急激に意識が遠ざかっていく。
……ああ、ダメ、こんなところで気絶なんかしたら。
いつまた、あの化け物が現れるかわからないのに……。
そう必死に言い聞かせても、頭はぼんやりとして、瞼はどんどん重くなっていった。両腕両足はだらりと土の地面に投げ出され、指先一つ動かすことができなかった。
狭まっていく視界に見えるのは……やはり大きく、銀色に輝く月の姿。そしてそれに照らされた、無数にそそり立つ細長いもの――それは竹のように見えた。
意識が、遠くなる。瞼がゆっくりと、完全に閉じる。
そしてわたしは、気を失った。
■
板張りの廊下を、足早に進む男がいた。
男の名はゴウランという。険しい表情を顔に張り付けた筋肉質な男で、全身を鎧で固めている。
廊下に等間隔に置かれた蝋燭の灯りを頼りに、ゴウランは城の廊下を進む。……物心ついたときから過ごし続けた城だ、灯りがなくともゴウランは歩くことができるのだが。
いくつかの木組みの階段を駆け上がり、最上層へと到達する。慣れた足取りで辿り着いた先は、雅な絵が描かれた襖の前。ゴウランは一息つくとすっと膝を折って正座をし、襖の中へ声をかけた。
「失礼いたします」
襖を開くと、そこにいたのは布団に横たわる女性だった。
美しい女性だ。……だが、女性の顔には疲れがありありと見えていた。目はかろうじてうっすらと開いている程度で、頬も痩せてしまっている。艶のある長く黒い髪も、ほつれて見るに堪えなかった。
襖を閉めながら、ゴウランは――彼女がかつて浮かべていたはじけるような笑顔を思い出し、歯噛みする。
城の中、町の小道、あるいは領の端まで……様々な場所を共に歩いた女性のあんまりな姿に、胸が潰される思いだった。今や、会うたびに痩せこけていっているように見える。彼女の見た目はまだ三十の半ばといったところであり、病に臥せっているわけでもない。
だというのに、あれでは今にも死にそうではないか……!
襖が閉じられた音と共に、ゴウランは胸に去来した想いを抑え込む。……彼女の前で、情けない顔を見せるわけにはいかない。つらいのは自分ではない、彼女なのだ。
布団の傍まで近づき正座をすると、女性から――ゴウランが敬愛し、親愛し、情愛を注ぐ自らの姫から、声がかかった。
「ああ、ゴウラン……帰ってきたのね。お疲れ様でした」
布団に臥せっている姫の名はシャンクゥという。
モロウ領の姫になって二十年余り。姫としての立場を立派に勤め続けて、多くの民に愛されている……防人であるゴウランにとって、誇りともいえる素晴らしい姫だった。
シャンクゥはゴウランの姿を見るや上半身を起こそうとするが……自らの力では起き上がることができず、ゴウランに肩を押されて再び布団に横になった。
「いけません、無理をなさっては」
「……ごめんなさい、横になったままであなたを迎えるなんて」
「何をおっしゃいますか」
この世のどこに、シャンクゥを非難できる者がいるというのか。自らの姫の健気さに、ゴウランはより一層姫への敬愛を深くする。
「……モロウ様はどちらに?」
部屋の中を見渡しながら問いかけたゴウランに、シャンクゥはか細い声で答える。
「西の方へ。……一族の手が足りていないのでしょう?」
「……左様でございましたか。モロウ様直々に動いてもらうことになるとは……感謝の言葉もございません」
十五年前の、国を揺るがす事態以降……領内に現れる妖獣の数は増加の一途を辿っている。
今まではなんとか妖獣たちを討伐することができていたが、近ごろはあまりにも妖獣が出現する頻度が高く、防人の一族だけでは抑えることが叶わなくなってきていた。一族たちが疲労し、本来の実力を発揮できなくなっているという理由もあるが……やはり何よりも、領に加護を与える姫であるシャンクゥへの負担が、ついに限界に達してしまったというのが大きい。
シャンクゥは真面目な姫であり、領のために力を尽くすことを躊躇わない姫だった。おかげで十五年間、モロウ領は大きな事件もなく平和に時を刻むことができていたが……その代償とばかりに、シャンクゥの体は日々蝕まれていった。その結果が、布団に臥せっている今の姿である。
ゴウランは膝の上で拳を握りしめた。
姫を守り、姫への負担を減らすことこそ防人の使命。だというのに、現在のモロウ領の平和はシャンクゥにおんぶに抱っこな状態である。
自らの姫がやつれていく姿を、ゴウランはただ眺めていることしかできない。それが悔しくて、不甲斐なくて……ゴウランは至らない自分自身が許せなかった。
「……ゴウラン、あまり自分を責めないで」
姫の優しげな声に、ゴウランははっとする。……こんな状態の姫に、気を使わせてしまうなんて。自らの未熟さを深く恥じ入ったゴウランは頭を下げる。
「申し訳ございません……!」
「いいの。……それよりゴウラン、お願いがあるのです」
「お願い……でございますか。姫が望むことならば、どのようなことでも」
「ありがとう。――わたしは、もうすぐ死を迎えるでしょう」
ゴウランは息を呑んだ。できるだけ考えないようにしていた未来を、まさか姫の口から聞かされるとは思ってもみなかった。
「……そのようなことを、あなたが仰らないでください……!」
「いいえ、ゴウラン。自分のことですもの、わたしが一番よくわかっています。わたしはもうすぐ死ぬ……これは避けられぬ運命。それならば、わたしたちはその先に備えなければなりません」
「その、先……」
ゴウランは思い出す。
二十年前のあの日……シャンクゥと初めて出会い、自らの全てをこの人に捧げると誓った、あの日のことを。
「わたしの死と共に……また新たな姫が現れます。しかし今は、世に妖獣が蔓延る世の中……姫となった少女がその瞬間に、妖獣に襲われるとも限りません。……新たな姫が命を落とすなど、絶対にあってはならないこと。ゴウラン、姫の誕生に備えるのです。……わたしの死と同時に、新たな姫を探し出し守り抜くことを、約束してください」
ゴウランは、奥歯が砕けそうなほどに強く噛み締めた。
この方は、自らを看取ることを許さぬと言っているのだ。領のために命を尽くした自分のことなど気にかけず、新たな姫のために動けと。……それはシャンクゥに全てを捧げると誓ったゴウランにとって、何よりも辛いことだった。
……わたしは、この方のために何もできぬのか。
命尽きるまで力を使い果たそうとする方の傍に、最期まで仕えることすらできぬのか――!
「ゴウラン、おねがい……」
今にも消え入りそうな姫の声に――ゴウランは深く頭を下げる。
「……承知いたしました。このゴウラン、命に代えても姫の願い、叶えてご覧に入れます」
なんとか絞り出したゴウランの返事を聞いて、シャンクゥは安心したように笑った。
「……ありがとう。すみません、安心したらまた眠気が……せっかくあなたに来てもらったのに」
「お気になさらず。ゆっくりお休みくださいませ……」
シャンクゥは薄く開けていた目をぱたりと閉じる。
小さく寝息を立て始めたシャンクゥを見届けると、ゴウランはできるだけ音を立てないよう立ち上がる。畳の上をするりするりと歩き、ゆっくりと襖を開け部屋から出ていった。
「姫がお休みになられた。頼むぞ」
城を下層まで降りる途中、世話係の女中に声をかける。女中は頭を下げると共に、つらそうに顔を歪ませた。彼女もまた、日々やつれていく姫の姿に、心を痛めているようだった。
鉄製の扉を潜り抜けて、ゴウランは城から出ていく。後ろを振り返り、高くそそり立つ城を見上げた。漆喰による白壁と瓦葺きの破風。剛健な外見は、妖獣の攻撃から姫を守るためのもの。そんな城の中に身を置いていても……妖獣たちの存在は姫の命を蝕んでいく。
――十五年前の件さえなければ、こんなことには……!
ゴウランは城を出ると、壁に強く拳を叩きつけ――湧き上がる感情を吐き出した。
「糞ッ……! いったいどこへ消えてしまったというのだ、大姫は……!」