本とパンが好き過ぎるお嬢様②
お久しぶりです。読みやすいように調整いたしました。
翌日の早朝。
アリシアは少しの私物と調理道具を纏め、ミシェルと共に馬車に乗り込んだ。
次の読書会がいつになるかわからないので、ミシェルは選んでおいた絵本、紙芝居、小説を村長に預けた。
最早何が起きても動じる事のないスライムの様に柔軟な心を手に入れた村長は、アリシアの出発を穏やかに見送った。若干目のハイライトが怪しくなっていたが、絶対に穏やかだった。
王都までの道中で、アリシアはミシェルの家族のことを詳しく聞いた。
これまでは「公爵家の令嬢」扱いをミシェルが嫌がっていた為、アリシアは彼女の家のことは何も聞かないようにしていた。だから公爵家のことを知るのはこれが初めてだ。
「私には兄が三人、姉が一人いるわ。長男であり次期当主であるアレンお兄様は、今は大臣のお仕事で忙しいの。お父様はお城で宰相のお仕事をしているから、その見習いみたいなものだそうよ。長女のヴィクトリアお姉様はもう結婚なさっていて、フラーチス公爵夫人になったわ。元気な男の子が生まれてからはあまり会う機会がなくなってしまったけど、今度は家族三人で会いに来てくれるってお手紙に書いてあったから、楽しみなの」
規模が違い過ぎやしないだろうか。大臣の長男に、公爵夫人の長女。一々気にしていてはもたないと、アリシアは早々に深く考えることをやめた。
「ミシェルはもう甥っ子がいるのね。なんだか羨ましいわ。村の子達のお世話は好きだけど、甘やかせないのがちょっと不満なのよね」
「アリシアお嬢さんはそうでなくても、みんなの優しいお姉さんだすからなあ〜。おいらも子供好きなんだすが、お嬢さんのようには中々できませんだすよ」
「私一人っ子だから、弟や妹が欲しくてつい……じゃなくて! ええと、じゃあ他の二人のお兄さんが……」
「ええ、騎士のレイモンドお兄様と、シェフのジュリアスお兄様。ジュリアスお兄様はわたしの六歳上で、今年二十三歳になるわ」
「え? ずいぶん若いのね。てっきり三十歳くらいの方だと思っていたわ。私と四つしか違わないなんて」
「うん、若いわ。王城の厨房で最年少だもの。けどジュス兄さまがお城に上がったのは十五歳。八年間ずっと料理のことだけに打ち込んできた天才よ。きっとアリシアに良い助言をくださるわ」
「十五歳…!?」
絶句したアリシアは、ミシェルの家族……いや、一族の話は本当なのだと理解せざるを得なかった。
様々な人材が生まれ育つホーラス公爵家。
ミシェルの特殊な才能を知る数少ない人間として、アリシアはそれを疑ったことはない。だがここまでだとは思い至らなかった。
これから会いに行く人が、訪ねていく場所が、どんなに自分とは遠くかけ離れたものか。そう考えるといまさらながら緊張してきてしまった。手が冷たくて、心臓が落ち着かない。
そうやって黙り込んで、暗い世界に落ちてしまいそうになったアリシアの手を、ミシェルはしっかりと握った。
我に返ってハッとピンクの瞳を見ると、力強く、美しく、アリシアの心を照らしてくれているのがわかる。
「アリシア、貴女は私が認めた天才の一人よ。職人の腕前に貴賎はない。堂々と胸を張って、パンを作って。そうじゃないと貴女が認めてもらえないかもしれない。私はそんなの絶対にイヤよ」
「……そうよね。ミシェル、ありがとう。貴女がこうして手を握って私を見てくれるから、どんなことにも立ち向かえるって思えるの。見てて。私、やるわ」
貴女のためなら、恐怖なんて切り捨てられる。
アリシアの凍えそうな心を、ミシェルの信頼が包み込んでくれるから。
このように、隙があれば二人だけのパンの世界を作り上げる美少女たちにももう慣れたもので、ガスは何も言わずに馬車を走らせ続けた。
◇
それから約五時間後、アフタヌーンティーの頃にミシェル達の馬車はようやく王都へ到着した。
流石にいきなりアリシアを公爵邸へ連れて行くわけには行かないと気遣ったガスは、今日は王都の宿に宿泊し、その間に明日の準備を整えてはと二人に提案した。
それがいいと、ミシェルはアリシアの来訪を知らせるのをガスに任せ、王都の一泊観光を楽しむことにした。
明日の準備とはつまり、よそ行きの服を用意するということ。そういうわけで、宿に着いたらすぐにショッピングに行くこととなった。
「このお宿は、リリアお義姉様がとってもいいところだって教えてくださったの。なんでも、お兄様とお世話になったらしくて……部屋は空いてるかしら?」
「す、すごいわね。あちこちがキラキラして……るけど、なんだか落ち着くわ。絵本で読んだお嬢様のお部屋に似てる気がする。木の匂いが心地いいわね」
「アリシア! こっちこっち!」
夢見心地なアリシアの手をとって、ミシェルは受付の婦人に挨拶をする。そして彼女が名乗ると、婦人は嬉しそうに笑い、上機嫌でいい部屋の鍵を渡してくれた。
二人して顔を見合わせて首を傾げたが、詳細はレイモンドに聞けばいいと流しておいた。
王都を歩き回って、アリシアは悩んだ末に上品なドレスとワンピース、耳飾りをミシェルに買ってもらった。
裕福な方の平民であるアリシアでも口から色々飛び出しそうな値段だったそれを、サインだけで購入するミシェル。
改めて世界が違うと思ったが、そんなことよりもどんどんアリシアにドレスや宝石を買おうとする親友を抑えるのでいっぱいいっぱいいで、宿に帰り着いた頃には複雑な気持ちなぞどこかに吹き飛んでいた。
その後、夕食をとっている間に公爵邸からガスが戻ってきて、出迎えの準備はできているから明日の朝出発しましょうと伝えてくれた。
多分すぐにでも連れてくるよう言われただろうに、恐らくアリシアのために時間をいただいてきてくれたのだろう。ガスは運動だけでなく気遣いもできるおデブなのだ。その大きな体でなんでもやさしく受け止めるのが彼の美点である。
そういうわけで、スイートルームでの一泊を少女二人は思う存分楽しんだ。
大きいベッドで飛び跳ねたり、絵画を外して裏を見てみたり、大きな浴室でそれはそれは仲睦まじくはしゃいだり。体力を存分に使い果たした美少女達は、仲良く寝転んで爆睡したのだった。
◇◆◇
少し時が戻り、アリシアとミシェルが王都観光を楽しんでる頃。
ホーラス公爵邸ではちょっとした騒ぎが起こっていた。
「はぁぁああああ!? ミシェルのパン屋が来る!!?? え、今!?!?」
「落ち着いてくだせえだジュリアス坊ちゃ……失礼しただ、ジュリアス様」
「お、おおちついてる! おちついてるぞ! よおしおちついた。それで、なんだ? なんだっけ?」
「おいジュス、涎が……」
「拭いた! 今拭いたから!! いや、やっぱ待ってくれガス、深呼吸だ、深呼吸する」
ひっひっふー、ひっひっふー
「よし、もう大丈夫だ! 俺は、しょうきに、戻ったじょ!」
「だめだなこれ」「だめだすなぁ」
たまたま……本当に偶々、家に戻ってきていたジュリアス・ホーラスは、寝耳に水な人物の来訪にひっくりかえっていた。
彼にとって長い間謎だった、ミシェルお気に入りのパン屋。どんな人なのかずっと気になっていたその御方が、ミシェルと共にここに来ようとしている。
正気でいられるわけもなく、療養中である兄レイモンドにまで呆れられた。
ジュリアスにとってパンは、人生において決して壊せない壁だった。
誰もが自分のパンを褒める。王城で振る舞えている。なのに、ミシェルは……可愛い妹の舌だけは、ジュリアスのパンでも満足できなかった。なぜ。どうして。
だが原因がわかるようになる頃には、ジュリアスの手はパンに伸びなくなっていた。
ミシェルが愛するパンは、職人すべてのものが注ぎ込まれたパン。料理人の自分では妹の求めるパンを作れない。
そんなミシェルが、彼女に足るパン職人を見つけたと知った時の衝撃を忘れたことはない。なぜならその人物は自分よりも年下だったからだ。
王都にあったミシェルお気に入りのパン屋はもう相当なお年を召していて、それを理由に引退した。
それほどの年月をかけ作りあげられたパンを超えたのだ。それもたった十代の少女が。
敗北感と共に、ジュリアスはその人物を心の底から尊敬した。羨望もした。その才能は自分にはなかったものだから。そしてその才能を、しっかりと活かしているから。
つまりジュリアスはその人を本の中の人物のように捉えていたのだ。
決して交わることのない高い世界にいる御方であると。
それが、ミシェルと一緒に来るらしい。遅くても明日には。
「うわああぁぁぁあああああおおおおぉぉおおおお!!!!」
何度目かの奇声を上げて転げ回る弟にレイモンドは深くため息をつき、愛しい婚約者の名を呟いた。彼女は今入浴中なので、慰めてもらえるのは数十分後なのだ。しんどい。しんどすぎる。
頼れるのはガスだけなのに、その彼はニコニコして「よかっただすな〜」と言ってる。これのどこが良かったのか。嬉しいのはいいことだが限度があるだろう。
しばらくして、ようやく入浴から帰ってきたリリアが「明日にはいらっしゃるのですから、しっかりご準備して歓迎いたしましょう」と魔法の言葉を唱え、見事彼の奇行を鎮めて見せた。
(正気に戻った弟にリリアから頭を撫でられ慰められる様子を見られても、レイモンドは気にしなかった)
◇◆◇
その日の朝、王都の人々はとある宿にこっそり集合していた。
昨日の午後に王都を観光していた二人の美少女が、この宿に宿泊していると言う噂を聞き、一目でも見たいとミーハーな人達が集まったのだ。
その中には昨日彼女達を見かけた者、店にて接客をした者が混ざっており、ヒソヒソと彼女らの容姿を広めている。
この謎の騒動の元凶は、それを広めた者というわけだ。
ざわざわと大人しい囁き合いが満ちる。
宿の食堂と受付周り、エントランス。
凄まじい人口密度のそこからは、しかし先程の効果音しか聞こえず、むしろいつもより静かなくらい。
何故ならこの宿の最上階から聞こえる微かな声に、皆が耳を澄ませているからだ。
鈴のような可愛らしい声と、張りがあり艶やかな声。魔法か酒か、それを聴いただけで陶酔しきっている者もいる。
だがそれも仕方ない。
「もう、しっかりしてミシェル! もう朝よ! ああもう、綺麗な髪がこんなに……」
「う〜んリーシャが梳かして〜」
「梳かしてあげるから、ちゃんと起きてこっちに来てよ」
「や〜よ〜この楽園から出たくない〜」
「だーめ、ほらおいで?」
「うっ……いまいく! ダーイブ!」
「きゃあっ! アッハハ! ミシェル重いー!」
「もう、私そんなに太ってないわ!」
おわかりいただけたたろうか。
美少女達の姿を目撃していた者は鼻血を出して目を剥いて過呼吸になりかけている。誰かが呟く。尊いと。
まるで小説のような愛らしいやりとりを、美少女達がしてる。最早それだけでお腹いっぱいなのだが、ここで帰るわけにはいかない。その姿を一目、ひと目だけでも……!
「あんた達! お嬢さん方がビックリするでしょうが! ほら散った散った! 見たいだけなら外で待ちなさい!」
鋭い一喝に、皆がハッと正気に戻った。
声の主は宿の受付をしている婦人だった。普段の丁寧な接客対応に定評のある受付嬢の本気のドス声。実にレアなそれだが、皆は気にしている暇などなくそそくさと散り始めた。
大人しく外に出た人々は窓に群がり中を見ることにしたようだ。プライバシーとか大丈夫なのだろうか。
ここに宿泊している人々は部屋に戻るかここで待つかオロオロしている。するとそこにタイミング良く男性が姿を見せた。
「お客様、朝食の準備が整いましたので、どうぞ食堂へお越し下さいませ」
物腰の柔らかな初老の男性。この方こそがこの宿の主人である。
素晴らしい彼の助け船に、宿泊客たちはゾロゾロと食堂に向かった。さりげなく少女達が来たら真ん中に座るように、気配りしつつテーブルを案内する主人は皆から内心で崇められた。この宿が過去最多の好感と今後の客を獲得した瞬間である。
◇
数十分後。
朝食を食べるためにガスを伴って食堂に現れたミシェルとアリシアは、スムーズに中心の席へと案内された。
そして二人の華麗さに、周囲の皆が息を呑んだ。窓から覗いている何人かに至っては感涙している。
デザインは違うが同じピンク色のワンピースを纏い、実に仲睦まじく食事をする様子は、それこそ小説の中のワンシーン。
ミシェルのワンピースはシフォンケーキのようにフワフワしたもので、アリシアのワンピースはショートケーキのように清楚なもの。彼女達のイメージをよりハッキリさせているそれも、非現実感を感じさせている。
「美味しい! 昨日もだけど、この宿の食事はとても美味しいわ! 食べ慣れてるものばかりなのに、初めて食べた気分になるのよね……不思議……」
「お義姉様が褒めてらしたのはサービスの素晴らしさだったけど、食事も大満足だわ。そういえば、普段アリシアは朝どんな感じ? 朝食はお母様が作るの?」
「うん、基本そうかな。私はパン種を作ってるから、ちょっと手伝う程度。その間お父さんとお爺ちゃんは畑を見回ったりしてるわ」
「じゃあ、朝食は別々に食べるの?」
「ううん、皆で食べるわよ。その日の当番とか作業とかを相談して決めるの。掃除、洗濯、洗い物、道具の手入れ……あと食事当番も」
「家族で分担してるのね! いいなあ、私も洗濯とかお料理とかしてみたい」
「ミシェルはメイドさんにして貰ってるんじゃないの?」
「そうだけど、経験したいのよ。でももし怪我をしたら危ないからダメって、メイドだけじゃなくお母様やお兄様にまで言われて……子供扱いしすぎなの! 私だって次の年には成人するのに」
親友の膨れっ面を見て苦笑しつつも、アリシアは内心ほっとしてきた。何故ならミシェルはとんでもなく不器用だから。
本や書類等の扱いに関してだけは完璧なのに、他の事となると目も当てられない状況になった事はしょっちゅうだ。
いつだったか、ミシェルがやってみたいと言ったのでアリシアが洗濯物を一緒にしようと誘った時は酷かった。
何もないところで転び、桶をひっくり返し、その水と洗い物を全て被ったミシェルを見たアリシアがどれだけ驚いて心配したか! なんとか怪我もなく風邪を引くこともなかったが、大切な親友に危険が及ぶ事を考えると、アリシアは心を鬼にしてもうやらないでと言い聞かせるしかなかった。
それを思い出しつつ、やんわりと否やを伝える。
「うーん……ミシェルには悪いけど、私もまだ反対かな。子供扱いとかじゃなくて、向き不向きの意味でね」
「そんなぁ、リーシャまで……。あのね、私の家は家族で一緒に食べる機会があんまりないんだけど、お兄様の婚約が決まった時に皆でディナーを食べたの。その時も皆から『ミシェルは家事に向いていない』って言われて……」
「ごめんごめん、落ち込まないでミシェル。誰にだって苦手なものはあるわ。私も祭りのダンスとか下手だし、ね?」
アリシアはしょぼんと眉尻を下げたミシェルに、パンケーキについていたベリーを差し出す。
それをあーんと食べたミシェルは少し気を取り直したようで、話題を変えた。
「それでこの後なんだけど、家に着いたら早速パンを作って欲しいの。小麦はいつも使ってる村のものと、王都で使われてるものを用意してあるから、取り敢えずは村の小麦でパンを作ってみて。ジュスお兄様への挨拶は出来上がってからで……」
言いかけたミシェルに、今までひっそりと二人を見守っていたガスが少し慌てて声をかけた。
「すみませんだ、お嬢様。ジュリアス様はアリシアお嬢さんにすぐに会いたいそうなんだす。ほってーに楽しみにしてらすから、どうか挨拶を先にしてもらって欲しいですだ」
「そうなの? じゃあ挨拶は軽く済ませちゃいましょ。早くリーシャのパンが食べたい……じゃない、パンを見てもらいたいしね!」
「お嬢様、涎が」
「ミシェル……」
苦笑するアリシアは優しく口元を拭ってやりつつ、わかったわと頷いた。
ああ素晴らしきかな美しい友情。その一連の流れでノックアウトされた見物者は数知れず。
ごちそうさまと揃って宿主へ挨拶をしつつ食堂を出る二人を、皆は名残惜しい気持ちで見送ったのだった。