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本とパンが好き過ぎるお嬢様①

「やらきれ」の騎士レイモンド・ホーラスの妹、ミシェル・ホーラスのお話です。

レイモンドがリリアを公爵家へ迎えてから少し後、こんなことがありました。



 鶏の声が静まり、空高く太陽が昇る頃。


 カコカコッと蹄の音、ゴロゴロとタイヤの音が、石畳の上で鳴る。それがとまり、可愛らしい鈴の音がなると、子供たちが歓声を上げてあちこちから広場に集まってきた。

 そして彼らの行先には、馬車の窓からひょっこりと顔を見せる少女が一人。


「来たー!司書様が来たよー!」

「司書様ー!!」

「こんにちは!司書様!」

「今日の本はなーにー?」


 司書様、と呼ばれた少女が、おっとりした声で「はーい」と笑う。

 ゆっくり大きな馬車を停め、内側からカチャカチャと仕掛けを動かす。すると途端に側面がパカッと開き、あっという間に沢山の本棚とそこへ続く階段が現れた。

 子供達からまたもや歓声が上がる。


 その階段を、いくつかの本を持って降りてくる少女が一人。白いワンピースに灰色のエプロンドレス。瞳は甘いピンク色、髪は美味しそうなぶどう色。美しくお淑やかな雰囲気の顔立ちは、小さい背も相まって年上にも年下にも見える。

 誰もが息を飲んでしまう程の美貌……なのだが、子供にはまだ通用しないためそんなことはどうでもよかったりする。


「今日の絵本は『ビビアンとパンケーキパーティー』というお話よ。紙芝居は『小さな天使様』、朗読は『わんぱくジョッシュ、三日間の冒険』。わんぱくジョッシュのシリーズは、みんな覚えている?」


「覚えてる!虎と宝物を取り合う話!」

「キャベツ畑の見回りするやつ、好き!」

「私も!」「ぼくも!」


「まあ、よかった。小さい子のお昼寝の時間もあるから、いつも通り紙芝居から始めましょう。さあさ、みんなシーツを敷きますよ。大きな子達、手伝ってくださーい」


「「「はーい!!」」」


 十歳程度の子供達が、我先にと少女の周りに集まっていく。

 それと同時に馬車の御者が、裏に回って沢山のシーツを運んできた。シーツと言っても、決して薄いものではなく、しっかりとした生地のもの。とても重たい筈なのに、たっぷりと太った御者は軽々とそれを持って子供達へ呼びかける。

 子供達は慣れた様子で彼からシーツを貰うと、馬車から少し離れた広場の中央へと敷き始めた。広げられたシーツの上に次々と小さな子達が座っていく。彼らはシーツの端に石を置くのが仕事だ。

 シーツを配り終えた御者はそれをこまめに手伝って回っている。体格に似合わぬ速度で走る姿、すなわち運動のできるおデブな御者は、小さい子達に大人気だ。体のあちこちに子供をくっつけても、御者の男は楽しそうにニコニコしつつ動き回っている。


「ガスおじさんだっこー!」

「ねーねーかたぐるましてー」


「へいへい、もちろんいいだすよ〜! あっこらこら! お腹をつまむのはダメだす!」


「ガスのお腹ぷよぷよ〜」

「ぽよぽよだよ〜!」


 ダメと言いつつもお腹をつつかれてもニコニコしたまま、御者のガスは子供達を運んであげたり、シーツの手伝いをしてまわっていた。

 そしてこの間にもどんどん子供達が集まり、その後ろには大人達の姿もある。

 それに気づいた少女は、彼らに向かって手を振り声をかけた。


「こんにちはー! 最近の小麦の様子はいかがでしょうか」


「司書様のおかげさまで順調です!」

「今年の収穫は期待できますよ!」


「まあ! 知っての通り、私はとてもパンが好きなんですよ? とっても期待しちゃいますわよ?」


「どうぞ期待してください! 収穫が終わればうちの嫁が美味しいパンにしてくれますよ」

「おいおい、パンといえば俺の嫁さんに決まってるだろう」


「なーに言ってんだ! うちのアリシアのパンに敵うかよ! なんせ母親譲りで器用だからな! はっはっは!」


「まてまてまて!! アリシアちゃんはズルイだろ!!」

「アリシアちゃんを出すなよお前! そもそもお前の嫁さんはパン屋の娘だったろうが!!」

「ちょっ、おまっ、つつくな! いてて!」

「どさくさに紛れてズルするからだぞ〜!」


 笑い声が響く。その様子に微笑み、少女は頃合いを見て鈴を鳴らす。子供達はすでに準備万端だ。

 と、そこへ十九歳くらいの少女が慌てて駆け込んできた。

淡い青の髪をピンク色のリボンで纏めた、オレンジ色の瞳の彼女は、司書様へ駆け寄って飛びつくようにハグをする。


「ごめんミシェル! 洗濯物にてこずってた!」

「大丈夫よアリシア、ちょうど今準備できたの。それに、わんぱくジョッシュは貴女がいないと読めないから、来るまで待つつもりだったのよ」


「そーだよアリシアねーちゃん!」

「ジョッシュはアリシアねえさまだもんねー」


「「ねー!」」


「ええっ……皆そんなに私のわんぱくジョッシュが好きなの?」


「「すきー!」」


 しょうがないわね、と言いつつアリシアは嬉しそうに笑いながら司書様……ミシェルから絵本を受け取った。

 絵本はアリシアが、紙芝居はミシェルが。そして朗読は二人で役を分けながら読むのだ。なので最初は子供達の方がどちらかに分かれて座る。終われば交代するので、ちゃんと全員が全ての本を読めるので安心だ。


 そうして、今日も広場で読書会が始まった。


 ◇


 空が少しだけ赤く染まる頃。

 広場に集まっていた子供達は、それぞれ手に本を持って家へ帰って行った。御者のガスも馬を連れて水を飲ませに行く。ミシェルとアリシアはそれを見送りつつ、馬車の片付けを始めていた。

「最近聞いたんだけど、王都でお酒が禁止になったって本当?」

「うーん……本当じゃないけど嘘でもないの。王太子様のご婚約の時、パーティーで貴族皆が凄いことになったから、自粛してるのだそうよ」

「自粛!? そのパーティーは想像したくないわね」

「アリシアはもうお酒を飲めるわよね? シャンパンって、そんなに酔っ払うお酒なの?」

「まさか! 量を飲めばわからないけど、普通ならそんな事にはならないわ。私達の飲むような物よりも良いシャンパンなら尚更……って、まってまって。まさかパーティーで飲まれたのって」

「シャンパンよ。城に保管されていた高級な物から、王都で大人気のマリージュシャンパンまで……それはたくさんのシャンパンが出たそうなの」

 ギョッとしたアリシアが、落としそうになった本を慌てて持ち直した。

「マリージュシャンパン!? わ、私つい先週飲んだけど、グラス二杯でも全然泥酔しなかったわよ!?」

「そうなの……マリージュのお店は『お手頃価格で贅沢を』と『お酒が飲めない大人の為に』が宣伝文句じゃない? アルコールの量を最小限にする、ある意味グレーな手法で作られたシャンパン。聞いた時は嘘だと思っていたけど、その日出されたマリージュシャンパン、何本だったと思う?」

「ええっ? ん〜と……百本くらい? って、違うか〜」

「そうね、それはちょっと……」


「多過ぎるよね」

「少な過ぎよ」


 少女二人が、無言で互いの顔を見る。

 一人は驚愕、一人は無。

 数十秒後、アリシアは目を泳がせながら口を開いた。


「そ、そっかあー、じゃあ二百本くらい?」

「全然よ」

「えっ……と……五百本?」

「まだまだ」

「……ミシェル、私の心臓が止まりそう」

 真顔でそう告げるアリシアに、ミシェルは神妙な顔で真実を告げる。

「……せん……」

「せ、千本!?」


「四千本よ」

「さようならミシェル、来世でも仲良くしてね」

「アリシア、私を置いて行かないで欲しいわ」


 苦笑しながら、ミシェルはもたれかかってきたアリシアを抱きしめた。するとふわりとパンの香りがする。美味しそうとおもうやいなや、ぐうとお腹の音が鳴った。恥ずかしくて顔を赤くしたミシェルを見て、アリシアが打って変わって笑い出す。

 大口を開けて笑い転げる彼女を見て、ミシェルは抱きついていた手を肩にかけ揺さぶった。

「もうっ!笑いすぎよリーシャ!」

「あははっ!ごめんごめん!」

 笑い声が響き、二人の作業が再開する。

 そうして片付けを終えた後、戻ってきたガス達と一緒に、少女達は馬車を連れて広場を去っていった。



 ◇◆◇



 司書様ことミシェルの本名は、ミシェル・ホーラス。

 ホーラス公爵家の末っ子の少女である彼女は、まだ成人していないものの、その容姿に『次代のエメラティ』を期待されていた。

 事実ミシェルは色こそ違えど、母のエメラティと同じ美しい髪や瞳である。殆ど表に出たことはないのに、既に貴族達の間では『ホーラスの妖精』と呼ばれており、人気もある。ありまくる。しかし残念なことに、ミシェルは社交界というものが大の苦手だった。

 ドレスを着るのも、たくさんの人と踊るのも、味がよくわからない高級な食事をするのも、ミシェルは好きではない。


 彼女が愛するものは二つ。一つはパン。もう一つは本……いや、情報と言うのが正しいか。


 ミシェルは「何かを知る」ことが大好きだ。

 幼い頃から古今東西あらゆる書物を自らの手で集め、公爵邸の自室は既に本棚とベッドに占領され書庫同然。だがそれだけでは勿論足りない。

 絵本や紙芝居や、絵巻物、楽譜、何かの情報が読み取れるものなら何でもござれな情報愛好家。それが最早紙ですらなくても、そこに未知があるのなら、彼女は躊躇わず手を伸ばす。

 結果、哀れな別邸が本の山に埋れ、父であるシュタイン公爵は頭を抱えた。

 しかし、その収集をやめろとは一切言われなかった。

 なぜなら、ミシェルはホーラス公爵家の『何かしらの才能に恵まれる』という遺伝子を確と受け継いでいたからだ。

 彼女は一度知った物事を決して忘れない。それは新しいものに更新されたとしても、前後全て記憶に残っている。

 この才能を知っているのは、家族を除くとほんの数人。ミシェルの中に蓄積されている知識は、下手をすれば国立図書館どころか世界の中でも最多となる。その価値は途轍もないのだ。

「値段をつければ国が二つほど買えてしまうのではないか……いや買えるなこれ。やったなミシェル、国が買えるぞ」

 ミシェルの兄、アレンはそう評価した。

 そういうわけで、歩く図書館ことミシェル・ホーラスは謎の人物となることを許されている。社交界に顔を出さずとも良いと、ほかでもない国王陛下から許可されているのだ。


 貴族の女性にとって、社交界に出ないということは、自らを引き受けてくれる伴侶との出会いを拒否する事と同義。いくら危険があろうと許可があろうと、自らの将来の為に頑張って乗り込んで行かねばならぬ世界……なのだが、公爵家の生まれであるミシェルは、結婚しなくても何とかなってしまう。

 最も、国は何としてでもミシェルを確保・収容・保護しようと、国立図書館へ来るようしつこく勧誘を続けていた。だが彼女はそれを数年間ずっと拒否している。


 その理由は、他でもないアリシアとの出会いに大きく関連していた。


 ◇


 ミシェルがこの村で読書会をするようになったきっかけは、彼女がまだ十歳の頃に遡る。

 当時からパンを愛してやまない彼女に起こった悲劇。王都にあったお気に入りのパン屋が潰れてしまったこと。舌の肥えたミシェルを満足させるパンは、当時そのパン屋のものだけだった。

 愛しいパンが消え、途方に暮れたミシェルは、専属の御者であるガスと愛馬ラブリーを連れて、美味しいパンを探す旅に出た。


 それは辛く苦しい旅だった。

(ガスとラブリーは)雨にも負けず風にも負けず(ミシェルの)肥えた舌を満足させる為に妥協せず、様々な街や国や村を周り、結果二ヶ月旅は続いた。こんな旅は本を買い付ける時以外で初めてだった。

 そしてとうとう(美味しいパンに)飢えたミシェルは(精神が)限界を迎え、何とか王都へ戻ろうとした。公爵家のパンで我慢していいとようやく妥協したミシェルは、一刻も早く公爵邸へ行くために、いつもは通らない村へ近道の為に入り……アリシアに出会った。



それはまさに衝撃的な出来事だった。



「美味しい匂いがする」


 そう言い出して馬車から飛び降りたミシェルは、パンを運んでいたアリシアの足元に倒れ込み、鈴のような可愛らしい声を残念にする程ドスの籠もった声で

「そのパンを、ください!!!!」

 と叫んだのだ。アリシアはあまりにも突然の出来事にポカンと口を開け、よろけて、パンを一つ落としてしまった。

 それを光の速さで空中キャッチしたミシェルは、まるで飲み物のようにパンを口に吸い込み咀嚼し……カッ! と集中線つきの勢いで目を見開くと、きらめく笑顔でサムズアップした。

 アリシアは数十秒ポカンと口を開け、そしてなんとか「パン屑ついてるよ」と声を絞り出し……笑った。


 これが、アリシアとの運命的な出会いであった。


 その後すぐミシェルは王都に帰ったが、三日もしないうちにまたアリシアを訪ねてきた。

「貴女のパンが忘れられない、どうしても食べたい」と詰め寄るミシェルにタジタジになるアリシア。

 一見すると大変アブノーマルなスキャンダルにしか見えないのだが、二人の空間にはパンしかなかった。

 遂にはガスとラブリーからも深々と頭を下げられ、アリシアは定期的にミシェルの為にパンを作ると約束した。

 もちろんタダで、なんてミシェルは言わなかった。

「私の持つ知識を、貴女に何でも教えるわ。読み書きや算術なんてものじゃない、もっと楽しくて面白いものを、貴女にあげる。出し惜しみなんてしない。それがパンの報酬よ」

 何とも情熱的な売り込みに、アリシアもそれがいい、それにして欲しいと返事した。せざるを得ない状況だったとは言わない。だがその約束のおかげで、この村はとんでもない事になった。


 まず、村の全員が読み書きと算術ができるようになった。勉強嫌いの人も施しなんていらないと言っていた人も、まるまる全員。

 それだけでもこの村は途方もない発展を遂げたのはおわかりいただけるだろう。だがそれで終わりではなかった。

 ミシェルは農業、畜産業、林業、鉱業、繊維産業、運輸業、村で営まれているあらゆる産業を、異常なまでに発展させた。

 わかりやすく言うと、村人は職人にチェンジした。

 徹底的に効率化された器具、畑、そして村全体の造り。

 特に小麦は細かく用途を区別し改良され、それぞれを分担して育てられていた。ミシェルによる『私が考えた最強の小麦』とやらに到達するのも、遠い話ではないだろう。

「なんなんだこれは。どうしてこうなった」

 こっそり視察しに来たミシェルの兄は呆然とした。

 今日の食い扶持を稼ぐ為だった仕事が、さらなる高みへと至るための試練になった。言ってしまえばただそれだけの変化だったのかもしれない。


 だがその少しの変化でこの村は、王室により「今後の産業発展の成功モデル」と正式に認定され、一般人のみならず貴族ですらも許可無く入れない『まぼろしの村』になったのである。


 その通達を受けた時の村長の顔を、アリシアは生涯忘れる事はないだろう。貴女は本当は幽霊なんですよ、と言われたとしてもあんなに顎が外れることはない。

 こうして伝説の村は爆誕し、ミシェルは最高に美味しいアリシアのパンを食べまくれる幸せに溺れた。だがパンに夢中になりすぎて、久々に未読の本をため込んでしまったのだ。

 パンを食べながらでも読もうと、それらの本を村に持ってきたのが、読書会の始まりだった。


 置いてある本に興味を持つ子供、読んでいいよと譲るミシェル。

 それを繰り返すと、子供達の「これなに? あれなに?」攻撃が大人達に炸裂した。

 仕事に集中したいとミシェルに相談する大人達。そこに居合わせた、面倒見の良いアリシア。

 あれよあれよという間に、解説を加えつつ、これから文字を覚える子供達も混ぜて読み聞かせをしようと結論が出た。

 そうして今に至るというわけだ。

 ミシェルからすれば、パンを食べてたらやりがいのある事を見つけた、とそれだけだろう。だがこの少女は村長の頭が肌寒くなる程度の途轍もないことを成したのである。



 ◇◆◇



 閑話休題。


 時間が経って、今は夜。ミシェルはアリシアの家で晩御飯を食べていた。

 王都からこの村までは約7時間近くかかる。読書会が終わるのは大体夕方なのだが、今の時期は日が落ちるのが早い。そのためこの時期に読書会に来るとき、ミシェルは念のため必ず一泊している。なぜって夜道は危ないから。

 国の兵士が警備してるなどと野暮な事は誰も言わない。公爵家の令嬢が村娘の親友の家にお泊まりするのは、色々と理由が必要なのだ。

「それにしても、お嬢様とアリシアお嬢さんが出会ってから、もう5年近く経ったんだすなあ〜。おいらもすっかりこのパンのファンですだ。初めて食べた時はどのパンとどう違うかさっぱりだったのが、このパン以外はパンじゃないとまで思ってしまうんだすよ〜。ほってーにすげえもんだすなあ」

「ふふ、ガスってば、見る目が……いえ、食べる舌がないんだから。アリシアのパンは国一、いいえ世界一よ。私の知識とアリシアの腕があれば、それこそパンの王国を作れるわ」

 鼻を高くして得意げに語るミシェルに、アリシアは苦笑をこぼした。

「パンの国ってなによ、もう。大体、私の腕はまだまだ磨かれるんだから待って頂戴。ミシェルの知識はオーパーツすぎるのよ。この前聞いたのだって、まだ作るのは無理だし」

「そ、そんな……! ガーリックバタートーストをローズジャムの生地で作るって約束したじゃない!」

「ストップ、そんな絶望した顔しなくても大丈夫よ。私がまだ未熟ってだけで、貴女の提案は現実的。だからいつか必ず作ってみせるわ」

 ミシェルの頭を撫でて苦笑するアリシアだったが、内心悔しいのは同じのようで、こっそりため息をついた。


 驚くことなかれ、実はアリシアの家はパン屋ではない。

 あくまでも農家であって、アリシアも商品としてパンを作ったことは一度もない。彼女の母親の実家がパン屋だったから、遊びに行くたびに祖父母から作り方を聞いて作っていた。パンを作る理由なんてそれだけだ。


 それだけだった筈なのに。


 ミシェルと出会ってから、アリシアはパンを作る事に情熱や矜恃を持つようになっていった。ただ習うだけではなく、自分で腕を磨き、突き詰めるようになった。

 三ヶ月前、祖父母や母から「パン作りについて伝えるべきものは全て伝授し終えた」と言われてからは、辛く厳しい課題……つまりは師のパンを超えるための修業に励んでいる。

 どれもこれも全て、ミシェルが美味しいと笑う顔を見たいがため。あの出会いの日が、アリシアを変えたのだ。


 ──だが今、アリシアは不安を抱えている。


 率直に言うと、彼女は今現在スランプ状態になっているのだ。

 いくらパンを焼いても、満足できるものが作れない。味見をするたびに憂鬱が心に積もっていく。なによりも辛いのは、ミシェルは変わらず美味しいと食べてくれる事だ。

 ミシェルは聡い上舌が正確だから、アリシアの苦悩にも気付いている。誰よりも美味しいパンを愛する彼女に気を遣わせていることが、アリシアには一番辛かった。

 今夜のパンだってそうだ。ミシェルのお気に入りのクリームパンを作ったけれど、本当はもっとカスタードクリームがパンの温度によって絶妙な滑らかさになる一品にする筈だった。

 なのに、クリームの質に拘りすぎて、肝心のパンの潤いが足りていない。舌の上でパンが崩れるなんて、あってはならないことなのに。


「……ミシェル、おいしい?」

「うん! 特に、クリームがすごく滑らかで美味しいわ! パンの熱が丁度良くクリームを温めているのね?」

「よくわかったわね、流石ミシェル」

「ホェー! そった仕組みになってるとは……すげえだすなあ。アリシアお嬢さんはもう国一のパン職人だすよ!」


「国……そう、そうだわ!」


 突然ミシェルは何か思いついた様子で、片手で口を押さえ悪戯っぽくウインクをした。この愛らしい仕草にアリシアは頬を染めて固まる。この少女は長い付き合いの親友ですら骨抜きにしてくるのだ。それも無意識に。自分が男だったらと想像した回数は少なくない。

 しかしそんなこと死んでも口に出せないアリシアは、軽く咳払いをして平静を装った。


「コホン……何を思いついたの?」

「ねえアリシア、私と一緒に王都に来て!そしてね、この村の小麦とはまた違う質の小麦や、乳製品、あと茶葉を使ってパンを作って欲しいの!」

「お、王都に!?」

「正式には私のお家に! 最近お兄様が婚約したから、顔合わせの食事会もあるし、そこでアリシアのパンを皆に食べて貰いたいの! それに私、アリシアのパン作りのお手伝いもしてみたいわ。一緒に材料を選ぶとか、焼き立てを味見……じゃなくて、つままれないよう見張るとか!」


 席を立ってまで力説するミシェルに、アリシアは目を丸くしてポカーンとしていた。

 それを解すように鳴り響いたのはガスの晴れやかな笑い声。

「……ぷっ、うはははっ! お嬢様、素直に言えばいいですだよ〜、リリア様に御礼がしたいんだすよね」

「ち、違うもん! あ、いえ、違くないけど、そういう意味だけじゃなくて、私は、その……アリシアのパンを食べてもらいたいの。ほら、お兄様も最近食事の量が増えて来たから丁度いいじゃない」

「ああ、それもありだすねえ。お嬢様は前から言っておられますただ。アリシアお嬢さんのパンを食べれば、元気になれるのにって」

 ただでさえ呆然としてしまって置いてけぼりだったアリシアがようやく二人をおさえにかかった。


「あーもうストップ! ミシェル、ガスさん、順を追って説明してちょうだい! それからミシェル、頬っぺたにクリームついてる!」

「むあ」


 ハンカチで丁寧に拭って貰いつつ、ミシェルはドキリと頬を染めた。アリシアは自覚がないが、この子はとんでもない美少女なのだ。こういう風に急に顔を近づけられると親友でもドギマギしてしまう。

 そんな二人の様子を見て「お二人はほってーに仲がいいだすなあ」と笑うガスは大物である。

 その証拠に、存在感を限界までなくしたアリシアの家族は、揃って頬を染めて耽美な妄想に浸っているのだから。


 ◇


 やりとりが終わり、互いに落ち着いた頃。

 ミシェルはアリシアの母が淹れてくれた紅茶を飲みつつ、ここ最近起こった兄についての詳しい話をした。


「ミシェルのお兄さんが、そんな大変な病気だったなんて……本当にリリア様に出会えて良かったわね」

「うん。私の知識だけでは、お兄様の心を癒すことはできなかった。だからリリアお義姉様にお礼をしたいの。でも、何を贈れば喜んで貰えるかわからなくて。だから私が一番大好きなアリシアのパンを、焼き立てで食べていただきたいと思ったの!」

「そういうことなら任せて! 腕によりをかけて、美味しいパンを作ってみせるわ」

「ありがとう! リーシャ大好き!」

 ガバッと抱き着いてきた美少女を軽く受け止めて、若干乱れた髪を手櫛で整えながら、アリシアは微笑んだ。

「うんうん、私もミシェルが大好きよ。それで? もう一つの企みを聞かせてもらってもいいかしら?」

「う、うん……あのね、アリシアは少し前からパンのことで悩んでたじゃない? 何か突破口がないかなって探してたの。それでこれならって思いついたことが……怒らないでくれる?」


 おずおずとアリシアの顔を伺うミシェルに、思わずアリシアは笑ってしまった。キョトンとする可愛い親友に、お返しと言わんばかりに抱きつく。

「怒るわけないでしょ! 逆よ逆。ありがとうミシェル、考えてくれただけでも凄く嬉しい」

「ほ、ほんと?」

「うん、本当。その突破口を教えてもらってもいい?」

「わかったわ」

 ミシェルは何かを覚悟するように背を伸ばし、小さく深呼吸をして……ピンク色に輝く瞳でアリシアをまっすぐに見据えた。


「私、貴女を王城の料理長に紹介しようと思うの」

「……へ?」

 想像していたものからぶっ飛んだ話に、アリシアは言葉を失った。なにを言い出したのだろうこの子。

 しかしそんな親友の動揺に構うことなく、ミシェルは話を続けた。

「私のお兄様に王城でシェフとして働いている方がいるの。正確に言うと、そのお兄様に貴女の腕前を見て貰いたいと思ったのよ。アリシアがパン作りで行き詰まったのは、私以外の誰かに意見を貰う機会が少ないからじゃないかしら。だったら、プロの意見を聞くべきよ」

「え、あ、で、でも、私はただの村娘で、パンしか作れないし、王城のシェフにだなんて……恐れ多すぎるわ」

「何を言ってるの、アリシア。貴女は私の舌を満足させられる唯一の職人よ。職人の腕前に貴賎はないって、アリシア自身が一番良く知ってるでしょう?」


 ミシェルは身を乗り出して、アリシアの瞳を見つめる。

 あまりにも近いピンクの瞳とオレンジの瞳は、互いを映し宝石のようにキラキラと輝いて。

 心臓が破裂しそうな心地でミシェルを見上げるアリシアは、互いの吐息が交わるのを感じながらなんとか声を絞り出した。


「ほんとうに、いいの?」


「勿論よリーシャ。あのね、私は貴女のパンが好き。でもそれと同じくらいアリシアのことが好き。だからもうそろそろ独り占めをやめるわ。貴女を次のステージに連れて行く。きっと大変なことも沢山ある。でも同じくらい……ううん、きっとそれ以上に素敵なことが沢山あるわ。私を信じて、一緒に来てくれる? アリシア」

 問いかけられたアリシアは、ゆっくりと目を閉じた。そして今度こそハッキリとミシェルに向き合い背筋を伸ばす。

 深呼吸はしなかった。

「ありがとう、ミシェル。私、行きたい。貴女と一緒に先に進みたい。だって私は貴女のためにパンを作りたいから。この村を導いてくれたように、ミシェルならきっと私も導いてくれるって信じる」


 二人はようやく顔を離し、しっかりと手を結んだ。

 その友情はあまりにも美しく、野次馬と化していたアリシアの家族と村の人々は感動のあまり号泣した。

 それに気付いたアリシアが顔を真っ赤にして皆を追い払ったものの、この夜のことはあっという間に村中に知れ渡ることとなったのだった。



改めまして、お読みいただきありがとうございます。

前作を高く評価していただき、本当にありがとうございました。

お礼の気持ちを込めて、後日談を執筆いたしました。

皆様からいただいたものはかけがえのない宝物で、きっと私にはお返しすることが叶いません。でもできる限り、感謝の思いを届けたいと思っております。

前作をお読みいただいた皆様、この作品をお読みいただいた皆様、ありがとうございます。

そして、よろしくお願いいたします。

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