蔓草の剛獣
「ギル?!」
誰かの叫びが聞こえる。
両手に持った武具を失った俺は剛獣の爪が食い込んだ自分の胸を見下ろした。
痛みが俺の意識を呼び覚ます。俺は作戦の通り両腕で奴の爪を抱え込む。
「シゲ!やれ!」
「イエエエェヤアアアァァァッ!」
普段に倍する雄叫びと共に振り落とされた肉厚の脇差。
一切の防御を放棄して全身に青白い煌めきを走らせ体重を乗せきった刃が剛獣の、縦に並んだ4本の爪のうち2本を切断して3本目に食い込んで止まる。
シゲが使える術技の一つ、雲耀。
守りを捨て一瞬だけ全身の力を増幅することで神速の一撃を叩きこむ技を使って、ようやく奴の武器を2本。
「あおおおおっ!」
しかし、剛獣は巨体を仰け反らせて叫び、のたのたと退いてから自分の左手を見た。
凶悪な4本の爪の半分を失った手を、そして俺たちを交互に見て、
「ふるるるるるるるる。」
忌々しげに唸る。
それから右手を掲げると魔導を放ち、渓谷の上へと舞い上がって気配を消した。
静寂が訪れた。
「ガハッ。」
胸の苦しさに咳き込んだ俺は、自分を襲った強烈な打撃のためだろう、目の前が暗くなって膝をつく。
さすがは凶化変異体。できる限りの技と策を駆使してもこの威力か。
「ギル、大丈夫ですか?!」
アルテの声だ。
「心配するな。俺は大丈夫だから、警戒を続けるんだ。」
声を絞り出して指示をしてから、板金の胸当てを留めているベルトの金具を手で探る。
意図を察したシゲが手早くベルトを外し、俺は歪んで胸を圧迫していた板金の防具を脱いでから、深呼吸をして息を整えた。胸当ては外したのに上手く息を吸えない。なぜだ。
「やったな、シゲ。さすがだ。」
受けた傷への不安をそらそうと俺が声をかけると、シゲは渋面になって口をへの字に引き結ぶ。
「ギルが身を挺して受け止めた好機。全て切り落とせぬは某の未熟にござる。」
「おいおい、あいつの爪は並の硬さじゃないだろ。それを2本切り落としたんだから、自慢しろよ。」
「そうだよ。第一、あいつに僕らを諦めさせるっていう目的は達成できたよ。シゲの見込み通りだ。上出来だよ。」
自分の技に不満を漏らすシゲに、警戒のためだろう、周りを見ながらミックとヒューイが文句をつけた。
「目的は達成した?ヒューイ、確かか?アルテはどうだ?」
「あいつ、爪を失って相当に驚いたんだろうな。ろくに気配も隠さず遠ざかっていったよ。」
「渓谷に沿って西に向かったみたいですよ。それよりギル、あんな無茶をして本当に大丈夫なんですか?って、ギル!?」
俺の疑問に2人が答え、危険を凌ぎ切ったとわかった途端に力が抜けた。
「おい、ギル?嘘だろ?」
慌てて振り返ったミックが俺の体を支えてくれた。
カクンと膝が折れて座り込んだ俺は、大丈夫だと手を振りながら胸に手を当てる。腹の辺りに濡れた感触。身体と頭が前に倒れ止めることができない。目の前が暗くなってきた。
「血は出ているけど、皮一枚切ったくらいだよ。」
アルテの顔色が今まで見たことがないくらいに青くなってから、厳しい表情になった。
「ギル!早く横になって。ミック、シゲ、服を脱がせてください。カームは水を用意して!」
あのアルテが?と驚くくらいに切迫した声で指示を飛ばし、ミックとシゲに上着を脱がされた俺はその服を敷いた上に寝かされた。
ちらりと見えたが、手のひら以上の長さの傷が胸から腹に3本できている。深さはわからなかった。
「こんな…アルテ、私にできることはある?」
「おそらく内臓には届いてないですね。ええとセシリィ、助手は要りませんよ。」
「セシリィ、ヒューイと周辺警戒だ。スフィーも。」
傷を見てショックを受けたセシリィの申し出をアルテは素早く断り、俺は彼女に指示をした。こういうときには役割を持たせてやらないと。
「ギルは黙って。カーム。」
「集めさせたよ。これでいいかな。」
アルテの言う通りに口を閉じてからカームを見ると、彼の手元には水が球になって波打ちながら浮いている。精霊術法か。
「染みますけど、我慢ですよ。」
アルテが冷たく言い放つと、カームが水を操って俺の体にかける。
不意の冷たさと痛みに俺は歯を食いしばった。
傷を洗ってから不思議な言葉を唱え、手の周りに金が混じった藍色で紋様を描いたアルテが傷口に手をかざす。すると焼けるような感覚と共に痛みが薄れていった。
「終わりましたよ。何が皮一枚ですか。もう。」
その声に起き上がって胸に手を触れてみれば、さっき見た傷は綺麗に塞がり、その痕跡が白く新しい皮膚の色でようやくわかる程度になっていた。
「ありがとうアルテ。ショックで感覚が麻痺していたみたいだな。思ったよりも深手で驚いたよ。」
ようやく普通に呼吸ができるようになって俺が礼を言うと、
「…いいですよ。スノーパレード追加で勘弁してあげますよ。」
トラウマを抉る一言まで添えられ、俺は呻いた。
「このタイミングで言うなよ。ずるいぞ。」
言い返しながら立ち上がると一瞬めまいを起こし、ふらつく。
「ギル、無理はするな。ひでぇ傷だったんだぞ。」
「わかっているさ。だけどミック、ここは剛獣の領域だ。あいつがまた来るかもしれない。のんびり寝ているわけにはいかない。」
さっと手を伸ばして俺を支えたミックに、俺は仲間たちを見回しながら言う。ミックもスフィーを執拗に狙ったあの剛獣の習性を思い返したのだろう。
「そうだな。ギル、立って歩けるか?」
「大丈夫だ。」
彼の気遣いに、俺はその場で軽く跳ねてから返事をした。
法術での治療は本人の体力を消耗する。
深い傷なら傷は治っても消耗に耐えきれずに最悪の事態となることも多い。神の恩寵を授かる神霊術法の中には体力を補うものもあると聞くが、使い手は稀だ。
動ける程度の消耗で助かった。
素早く装備を整えると、俺はみんなを呼んだ。
「拠点の方に向かおう。渓谷に落ちた場所まで戻れば登れるはずだ。」
行動の方針について提案すると、スフィーが暗い顔で口を開く。
「ギル先輩、戻るのは無理、思います。」
「スフィー、それはどういうことだ。」
「獣の気配があります。あいつより小さいけど、多い。」
「そうか。よく見つけてくれた。アルテ、どうだ?」
獣粧族として魔導を持ち、熱を感じ取る能力を持つスフィーは夜の闇を通しても生き物の存在を把握できる。そしてアルテは、周囲の生物の感情を精霊たちから教えてもらえる。
「スフィーが言う通りですよ。けれど、怯えながらこちらを探っているみたい…待って…敵意もありますよ。」
「おいおい、どういうことだ。今までどこにいたんだそいつら。」
アルテの報告にミックが首を振る。アルテもスフィーもずっと警戒をしていた。それが今まで生き物の存在を把握できていなかったとは考えにくい。
「ギル先輩、たぶん、あいつです。あいつを恐れて離れていて、戻ってきた。」
スフィーが推測を話すと、みんな彼の顔を見てから頷いた。
「それなら納得だ。」
「獣ならば手強い敵からは逃げるが道理でござる。」
「それってさ、今の僕らは集まってきている奴らには手強い相手じゃないってことだよね。」
「少なくとも縄張りから離れるほど危険だとは思われていないようね。」
「だったら戻るのはまずいのか。でもここに居たってジリ貧だぞ。」
俺がスフィーの意見に同意すると、みんなもそれぞれの思いを口に出す。
それぞれに意見を言い合う仲間たちは、冷静さを失ってはいないが、落ち着いているとも言えない様子だ。あの剛獣に追われ続け、命がけの戦闘を乗り越えたところにこの状況。
いつ混乱に飲み込まれても不思議じゃない。
直樹の頃に、仕事の中でこういう状況があったな。
些細なトラブルから起こった修羅場の記憶が蘇り、その経験から現状の解決策に思い至る。まずはリスクの評価だ。
「よし、まず休もう。火を起こせば剛獣だってめったなことじゃ襲ってこない。」
俺が提案すると、全員が一斉にこちらを見た。
「ここに居ても危険なのは確かだ。だけど、現状の把握も難しい中で消耗したまま動けばもっと危険だ。警戒を保ちながら休憩して、それから状況を見極めて移動する。」
みんなが落ち着いて聞いているが、目には不安が窺える。
「それにニールがカーチスに報告をしている。朝には救助隊が森に入るはずだ。朝になったら信号弾を撃ってこちらの位置を知らせよう。」
希望になる考えも伝えると、ミックが笑みを浮かべて頷いた。
「そうだな。ニールとカーチスなら絶対に助けにくるぜ。」
きっぱりと言い切った幼馴染に俺が頷き返すと、みんなも納得したようだ。緊張した空気が緩む。
「スフィー、カーム、アルテ、火を起こして保存食を用意してくれ。ヒューイは警戒を続けて、残りは休む場所を作るぞ。」
号令をかけるとすぐに仲間たちは動き出し、手早く準備をした俺たちは焼いた干し肉とビスケットをお湯で飲み込んで、それから見張りを立てて横になった。
彼は血が滴る爪を抱え込むように持ち上げたまま、のそりのそりと森を進む。
魔導に目覚めてからずっと、彼を襲う敵を倒し、獲物を仕留めてきた爪。最も信頼してきた武器のうち2本が喪われた瞬間に、痛みと共に生来の臆病さが沸き上がって怒りを塗り潰した。
あのつるつる顔の生き物から逃げ出して頭が冷えてみれば、身体中に傷がある。
(帰らなければ。)
野生の世界は厳しい。
そして彼は、孤独だった。
武器を失ったことは、そのまま彼を守るものの喪失を意味する。
たかが掠り傷、まだ爪がある。
そうではない。
今までなら撃退できたはずの相手でも、今の彼なら傷を負うかもしれない。そうして力を失えばさらに危険は増大する。
己の身の他に頼るものが無い彼にとって、身体が傷つくことは生命の危機だ。
(帰らなければ。)
痛む身体を動かして森を進み、彼は、長い年月を過ごした大樹の元に辿り着いた。
しかしそこにはあの忌々しい蔓草が茂って辺りを覆い、絡みつかれた大樹はかつての堂々とした力強い姿を失っていた。
折れて失われた枝葉の隙間を見上げれば、頂上の枝まで上らなければ見えなかったはずの夜空と星々、そしてゆっくりと揺れる光の弦が見える。
どれほどの枝が落ちたのだろうか。
(帰らなければ。)
彼は折れた爪の痛みに耐えて大樹を登りはじめた。
幾度かの手痛い経験で蔓草の棘は彼にとっても危険なものだと学んでいたから、彼は蔓草を避け、慎重に切り払い、無事な枝を選びながら魔導で飛び移る。
やがてまだ生きている丈夫な枝に辿り着くと、彼はだらりを体を横たえて足をぶら下げ、ぐるんと首を回して下界を見下ろした。
変わり果てた故郷の姿があった。
稚拙な知性であっても大樹の行く末を理解するには十分で、彼はその結論と思い出と現実と己が力の限界との、受け入れがたい狭間に立たされていた。
(帰りたい。)
未発達な脳から生じた衝動を人のそれに置き換えるなら、なんと呼ぶのがふさわしいだろうか。
「るおおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉん。」
身の内から湧き上がる衝動のままに、彼は鳴いた。
そして彼は痛みに疲れた体を枝に吊るすと、泥沼に沈むように眠りに落ちた。
「ギル、ギル。時間ですよ。」
アルテに肩を揺すられて、俺は目を覚ました。
「ありがとうアルテ。完全に眠っていたよ。今何時になる?」
起き上がって周りを見れば、学友たちがもぞもぞと体を動かしている。疲労は激しいはずだが眠りは浅いのだろう。
怪我と法術の治療で疲弊しきっていた俺は不幸中の幸いと言うべきか、短くてもしっかりと眠ることができたようだ。
「もうすぐ3時ですよ。それから、もう限界ですよ。」
アルテの答えに俺は気分が重くなった。
「アルテ、今までは君が…いや、精霊たちが守ってくれていたのか?」
周りに聞き取れないよう声を潜めて俺が尋ねると、彼女は目を伏せて肯定した。
「そうか、ありがとう。それに君がいなかったら俺たちはとっくに冷静じゃなくなっていたかもしれないな。そうだろう?」
「お願いしましたけど、それだけでは無理。ギルたちが頑張ったんですよ。」
装備を整えながら互いに小声で確かめる。
アルテを助けようとする精霊たちは、彼女の周りの「雰囲気」を操作する。それは微弱で俺たちに意識できるほどの効果ではないが確実に作用して、剛獣に襲われ疲弊した俺たちが恐怖に囚われることを防いでいたというわけだ。
「それで、もう限界というのは、剛獣か?」
「ええ。私たちがお邪魔みたいですよ。それから、」
アルテは精霊たちに頼んで、俺たちを襲いにくくなるような「雰囲気」を剛獣たちに感じさせていたのだろう。そうして押さえ続けていても限界はあって、そろそろ時間切れということか。
「それから?」
続きを促すと、アルテは渓谷の上、西の空へと指先を向けた。
「あっちの方だけ、剛獣が近づかないみたいなんですよ。」
彼女の報告の意味を考える。その方向は森の奥地で、しかもあのナマケモノに似た剛獣が去っていった方向だ。他には何かあっただろうか。
「よし。アルテが教えてくれて助かったよ。みんなを起こして行動を開始しよう。」
いくつかの知識から推測し、進むべき方向を決めた俺はアルテに感謝を伝え、それから学友たちを起こし始めた。
彼が目を覚ますと、朝日が彼の身体をやさしく温め始めていた。
しかし彼の気持ちは暗い。
この暖かな日光を蔓草に奪われて、彼の故郷となっていた大樹は枯れようとしている。
蠢いて葉を広げ始めた蔓草を忌々しいと切り払ったが、焼け石に水だ。
そうして疲れた体を枝に吊るすと、彼は物音に首を廻らせる。
(あいつらだ。)
あのつるつる顔の生き物、彼の爪を受け止め切り落とした奴らが大樹を囲む広場に姿を現し、周囲を見回している。
故郷を奪われた怒りが彼の体を震わせたが、爪を失った痛みが冷静さを保った。
「ふるるるるる。」
奴らに気取られないように唸りを漏らし、彼は最初に身に着けた魔導を使って己の気配を枝葉と同じく偽装した。今までこの魔導を見破った敵はいない。
そうして息を潜め、身の内に燃える怒りを晴らすべく機会を待った。




