修行
どさりと原っぱに倒れ込んだ俺は、宙弦がおぼろげに光って揺れる青空を見上げて荒い呼吸を繰り返す。
「ちくしょう、あのくそジジイ。」
毒づく言葉をようやく絞り出すと、隣で倒れ伏していたミックが
「だめだろギル。聖騎士様にくそジジイなんて…」
と俺をたしなめる。だけど声は途切れて、それが彼の本音を語っていた。
ニールは、うつぶせに倒れたままピクリともしない。
3日前、ラドワンの指導を受ける直前には2人とも大喜びしていた。
父からラドワンが、ラテニア圏域内でも最強と名高い「聖騎士」であると聞かされたからだ。
このラテニアには多くの国があり、そのほとんどが騎士を擁している。騎士は国や領地に仕えるものであり、それらを守るために戦う。
しかし、聖騎士は己が定めた主のみに仕える特権を許されている。それが許されるほどの実力と功績があって初めて、聖騎士の称号を与えられるのだ。
聖騎士の話は子供向けの物語にもたくさんあって、俺達もその存在は知っていたし、有名な聖騎士の名前も知っていた。だけど俺の父が聖騎士の弟子だとは知らなかったし、目の前にお話の主人公が突然現れるなんて想像もしていなかった2人は、話を聞いて舞い上がってしまっていた。
俺は、さすがに世の中そんなに上手い話はないと訝しんでいたけど、それでも自分が強くなれるチャンスに心躍ったのは確かだ。
「ワシが追って打つ。打たれぬようにせよ。」
初日に言われたのはこれだけだ。
そして地獄が始まった。
走って逃げる。
後ろを振り向くとラドワンが木剣を振り上げている。
迷いなく木剣が打ち込まれ、痛みに呻く間もなく振り上げられた木剣に、また走って逃げる。
見て避けようとしたときには打たれているので、やがて俺たちは、見ないで逃げることに集中するようになった。でも打たれる。
憎たらしいことにこのジジイは、俺たちが動けなくならない程度に、でも痛みにはうんざりするくらいに加減して木剣を操っていた。だから俺達は、とにかく走って逃げる。それだけしかできないまま、気が付いたら日が暮れていた。
最初の浮ついた気持ちは、一欠けらも残っていなかった。
それが三日続いた。
ニールが打ち込まれる木剣を数度避けたら、「もう慣れたか。なかなかのものよ。」と一言言われて、それからまた避けられなくなった。ミックも同じだった。俺は言われることもなかった。
もちろん、その理由ははっきりしている。俺が煌糸の力を使えていないからだ。
その分俺の動きには無駄が多い。ラドワンが打ち込んでくるタイミングはわかるようになっていても、身体が追い付かない。
「それにしたって、これで煌糸の力が使えるのかよ。あのくそジジイ。」
悪態をついた俺の傍らで、ひゅん、と木剣を振るう音が鳴った。
「ほう、まだ口が利けるだけの体力があったか。ワシの眼もまだまだよ。」
ラドワンだ。
血の気が引いた俺に木剣が振り落され、衝撃を感じたと思って目を開けたら俺は立たされていた。たぶん、剣の先で体を起こされたんだろう…。
「煌糸の力などと言っておるうちは無理だ。走れ。ほれ、お前らもだ。」
俺と同じように立たされた2人と顔を見合わせて、3人でバラバラに逃げる。
「やってられるかくそジジイ!」
俺は叫んだ。反対側でミックが同じようなことを叫んでいて、ニールは「僕が馬鹿だった!」と声を上げている。
そして1時間ほどたって、俺達は同じ場所で、うめき声も出せない有様になって倒れていた。
「明日には起きられる程度にしておる。また朝に来い。」
家族もラドワンの指導を受けられることを喜んでいたから、逃げようもない。
しばらくして起き上がれるようになった俺達は、足取りも重く家路につく。
こんな毎日が途切れることなく毎週続いた。
そんな毎週が1ヶ月続いた。
2週目で、ラドワンをジジイと呼べなくなった。言っても何も変わらなくて、体力の無駄だと皆が悟ったからだ。
走っても追いつかれるから逃げ回るのもやめた。その分、集中して避けるようになった。
俺も老人が手加減した木剣を避けるようになり、また打たれるようになり、それを3回繰り返して4週目を終えた。
1ヶ月が過ぎても俺の動きは相変わらず2人には劣っていた。朝、稽古が始まるまでのわずかな時間に3人でやり始めた試合の結果からも明らかだった。
しかし、その試合で3人とも以前より確実に実力を増しているのだと実感して、俺たちはさらに熱心に稽古に挑むようになった。
そして俺は、厳しい稽古が終わる頃には体力も気力も尽き果てていて、2人との差に悩むどころではなかった。
やがて、2人は師匠の木剣を半分ほどは避けられるようになり、俺だけが確実に打たれる日々となった。
前の俺なら、なぜ俺だけがと拗ねただろう。だけど、今は厳しい稽古のおかげで視野が広まり、師匠が3人に対して同じく攻めているのがわかった。
(つまり、これが煌糸の差なのか)
2人と俺との差は本当にわずかで、ようやく、その差が見えてきた。
以前は俺だけが緩く打たれていた師匠の木剣は、今は2人と俺のわずかな差を分ける巧みさで3人に均しく繰り出されているのだと、俺はわかるようになっていた。
しかし見えたからどうなるというものでもなく、打たれて転んでは起き上がり打たれる1日をさらに一月重ね、ちょうど2ヶ月が経った日の夕方。
稽古の疲労と身体中の痛みでふらふらになり、立っていることも難しい体を無理やり動かしながら。
師匠の木剣を肩に受けた俺は、驚いて動きを止めた。
(なんで肩に?)
「動け。動いたままやれ。」
師匠の打ち込みに考えるより早く動く。
あの打ち込みは、頭に当たるはずだった。嫌になる程打ち込まれ続けたから、どこに当たるかははっきりわかるようになっていた。
なのに肩に当たった。
次の次の次に木剣を振り下ろされたとき、不思議なほど素直に身体が動いて、肩口に当たるはずの一撃は俺の腕をかすめただけだった。
師匠がピタリと木剣を止める。
俺たちは驚いてその場で止まり、止まった途端に自力で身体を支えられなくなって座り込んだ。
「今日はこれで終わる。帰ってよく休め。」
突然のことに3人で顔を見合わせたが、しかし、師匠の稽古で力がついているとわかっていた俺たちは、互いに頷いてから立ち上がり、言いつけ通りに家に帰った。
家に帰るまでも、帰ってからも、俺はあのときの自分の動きを思い出して、何をやったのか考えていた。そして、入浴をしてベッドに倒れ込んでからも。
頭に当たるはずの木剣を避けたとき、俺は疲労困憊で動くどころか考えたりする余裕もなかった。
それなのに木剣を避けるときの動きは明らかに早くなっていて、それは、俺以外の何かが身体を動かしたような感覚として記憶に残っていた。
「ミックに言われた通りだったのか。」
師匠と出会う前の日にミックに言われた、「考えすぎている」という指摘は、確かに的を射ていた。
日本に生きていた頃の俺は運動もできたから、身体に染みついた動きが直観的にできた感覚も覚えている。そして、今日体験したものは直観という「脳の働き」よりももっと早かった。
「煌糸が働いているのは、『身体の使い方』なんだろうな。」
煌糸の力という言葉から、俺は、煌糸が筋肉の力と同じようなものだと思っていた。でも、今日の体験から考えると、煌糸は神経が指令を伝えるのに先立って、身体に指令を伝えているようなのだ。
この世界の人の身体は、そういう煌糸+神経の作用に従って動くようにできている。
「なのに俺は、身体だけのやり方で頑張っていて、なぜ上手くいかないのか、俺の枠の中だけで考えてた、と。」
つまり、考えすぎていたんだ。直樹の身体と今の身体の違いが分かっていなかった。
「だったらさ……今の俺は……。」
父と師匠が試合をしたあの時、話を聞きながら閃いたことが、脳裏をよぎる。
それは俺にとって煌糸を使えていなかったことよりも受け入れ難いことで、俺は悩みながら疲れに飲まれて眠りに就いた。