金沙湾
金沙湾は、この陸洋島ホウシェンに14ある十万都市の一つ。
外洋に面し、遠浅の砂浜が楕円形の湾内全てに広がる金沙湾の北の半島にあって、外洋と浅い湾の幸に恵まれた豊かな都市。
昔、まだ小さな頃にそう聞かされた。
その豊かさの証が、今目の前にそびえる高い城壁と尖塔、そして、街を照らす奏具の光。
「さすがはホウシェン随一の十万都市だ。」
城壁を潜る馬車の中、窓の隙間から外を見ていたら、お頭の上機嫌な声が聞こえた。
(この様子なら酷いことはされないかな。)
そう思いながら、ほっと息を吐く。
すると、何かが緩んだのか、胸の奥の痛みに私はうずくまる。涙が流れて頬をつたった。
肩を震わせる私の背に、温かな掌が触れる。
手の持ち主に、私は縋りついた。
華奢ではあっても痩せてはいない胸元に顔を埋めて声を殺し、ただ、涙が溢れるままにしがみつく。
「ティーエ…。」
か細い囁きが、私を呼ぶ。
返事もせずひたすら泣き続けて、気持ちが落ち着いてから、私は上を向いた。
囁きの主が、困ったように目を細めて、私を見ている。ほんの少しだけ口元が緩んでいるのが、彼女の微笑み。
「ありがとう、リーヴァ。」
「ううん。いいの。」
お礼を伝えると、彼女は静かに首を振った。
彼女の方が年上なのだけど、リーヴァは魔眼族の隠れ里にいた頃から周りに疎まれていたらしい。そこにお頭たちに拐われてからの仕打ちもあってか、誰に対しても腰が低い。そして私が敬語を使ったら、ものすごく困った様子だったから、自然と対等なくらいの話し方に落ち着いている。
「辛い思いをしてきたのだから、泣いた方がいいわ。」
囁きながら、そっと頭を撫でられた。少しくすぐったくて間を空けてから、
「みんなと一緒に来たかったなって、家族のことを思い出しちゃった。でも、もう大丈夫。」
リーヴァには、私が家族に売られたことを話してある。思い出については隠したけど、周りから気味が悪いと避けられていた話はした。
「ティーエは、強いのね。」
大丈夫だと笑みを作った私にリーヴァが囁いた。
彼女が馴染んだ言葉では私が名乗ったティエ・インという名は発音しにくいそうで、あれこれ言い合ってから今の呼び方に落ち着いた。
その、私たちが決めた名前で呼ばれて、強いと言われるのは、少し後ろめたい感じがあった。
「そんなことはないと思う。」
だから、つい、キツい言い方で応えてしまう。
応えてから、私自身の弱さを感じた。
私には思い出の知識しかない。苦力としての生活で育った身体は、小柄な方だ。力もその身体に見合う程度。
そして、知識は確かに力になるのだけど、私の中にある思い出は、ただの知識でしかない。
それを力に繋げるためのものが、私には無い。
結局、私は無力で、あの時スコルシザーを前にしてもただ震えていることしかできなかった。なんとかしたのは、リーヴァだ。
「私は、強くなんてない。」
独り言のように、私は私の弱さを悔いた。
ガタン、と、馬車が揺れる。
道をゆく馬と車輪の音が変わって外を見ると、馬車は岸辺の橋を渡っていた。真っ平らな水平線の向こうには宙弦が揺らいで、気が遠くなるような大きさの円弧を描き彼方の空に霞んでいる。
リーヴァは、何も言わない。
ただ、海の果てのように遠くなった家族への想いを噛み締めている私の隣で、時々馬車の揺れで服が触れあうくらいの近さで、座っていた。
やがて、馬車は港らしい場所から色々な建物が囲む広場を抜けて、人気の無い古びた倉庫が並ぶ中の、手入れは辛うじてされているとわかるような傷んだ倉庫の前で止まる。
「今日からここがお前らの寝ぐらだ。」
馬車の戸を開けた大男の横で、お頭が顎で出て来いと示しながら言った。
男達に囲まれて倉庫に入ると、そこは広い空間に雑多に荷物や箱が積まれていて、私たちはそれらの間を通り抜けて、倉庫の奥にある薄い壁で囲まれた一角から階段を降りた部屋に連れて行かれた。一番奥に鉄格子で区切られた牢屋がある。
「立って手を出せ。」
お頭が冷たい声で命じる。
こういう声の時は、逆らっちゃダメなのだと、売られてからの経験でしっかりと学んでいるから、私もリーヴァも、言われた通りにした。
ぐいっと無造作に手を押さえられて、
ガシャ
と、冷たい重みが手首に食い込む。
あっという間に、私もリーヴァも鉄の板を切り出したような粗雑な手枷をはめられ、足首にも鎖で繋がれた鉄の輪が付けられていた。
「この中なら他の連中に文句を言われることも無ぇ。お前らは道中舐めた真似をしていたからな。しっかりと躾け直してやる。覚悟しておけ。」
戸惑う私たちを見下ろしながら、お頭が告げた。