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魔眼族

 お頭に殴られた頬を撫でると、もう、痛みは引いていました。

 それをあの子が、驚きを露わに見ています。

「相変わらず、三つ目は化け物だな。見ろよ。頬の骨を折ってやるつもりだったのに、もう痣も無いぜ。」

 お頭の嘲り。顔は私に向けていても、周りの人、特にあの子に聞かせるために言っているの。

 それは、今まで私が受けてきた仕打ちから、よくわかります。だから、あの子もきっと、他の人たちがそうだったように、私を恐れて遠ざかるのです。そうなるまで、お頭は、やり続けます。

 だけど、

「すごい。」

 あの子の口から漏れ出たのは感嘆でした。

 そちらを見ると、彼女は私をまっすぐ見ていました。驚いてはいても、ひとかけらの恐れもない瞳で、私を見ていたんです。

 他の人たちは、私を伺ってはいても見ようとしていません。私がマギナシアだから。

 なのに、あの子は。

 チッ

 小さな音に身体の芯が凍えて、背に冷たさが流れました。

 お頭はあの子の態度への不満を露わに、隣の男に声をかけます。

「おい、苦力ってやつは学がないらしい。売られてから苦労したら可哀想だからな。魔眼族のことも、よく教えてやれ。」

 お頭の命令に、顔の右半分に火傷の跡がある男は、その傷のために引きつって釣り上がった頬を震わせながら笑い、ねっとりとした目で彼女を見下ろしました。

「わかりやした。しっかりと躾けまさぁ。」

 男の声はじっとりと肌に粘りつくようで、何度も受けた仕打ちの記憶が否応もなく蘇り、私は肩を丸め震えます。

 そんなことをしても意味はありません。いいえ、男たちは喜ぶでしょう。けれど、彼女の助けになることはないのです。

「フン。お前も、売り物らしくするんだな。」

 お頭の声。

 どこか満足げな声音に、どうか、機嫌を損ねないでと祈りながら、私は肩を震わせて俯くだけでした。



「静かにしてろよ。」

 夜、粗末な食事を終え眠る支度を整えた私達に、お頭が命じました。

 普段とは微かに違う言葉使いに、その鋭い刃を思わせる韻の踏み方に、心臓を掴まれたように、鳩尾の奥に氷を差し込まれたように、身体が固まって震えます。

 今夜は、何かあるのかもしれません。無いのかもしれません。確かなのは、この命令を破れば、酷いことが起こる。それだけです。

 私の前に火傷の跡の男に背を押されて馬車に入ったあの子も、その声は聞こえていたのでしょう。声の主を見ようと振り向いて、でも、途中でやめて、馬車の隅に座り込んで毛布をかぶりました。

 2日の間に彼らのやり方を学んでしまったのでしょうか。賢い子です。

 私は馬車に乗り込み、もう1人の人からもあの子からも離れた隅で身体を丸めて横たえます。近づかないようにと。

 ギィッと戸が軋んで閉じられると馬車の中は壁や窓覆いの隙間から入る光だけになって、真っ暗な中で私は両目を閉じました。


 モゾリ、と、寝返りの音が聞こえて、微睡かけていた意識を呼び覚まします。昼間は薄暗い馬車の中でじっとしているばかりで、食事や、他の用件の時だけ外に出される日々なので、夜の眠りは深くありません。

 ですから、馬車の中で誰かが動けば、大体は目が覚めてしまいます。

 いつものことと、目を閉じると


 ガサ、カチン

 何度か聞いたことのある音が聞こえて、その痛みと苦しみの記憶にはっきりと目が覚めました。

(スコルシザー)

 この圏域のタイルでは、刺鋏蟹でしたか。

 この地に住むものであれば一度は被害にあったことがあるはずの、ハサミに毒を持つ砂蟹です。

 今聞こえたのは、確かに、スコルシザーが威嚇のためハサミを打ち鳴らす音でした。

 ガサガサッ

 モゾリ

 スコルシザーの毒は致命的ではないのですが、刺されれば激しい痛みに襲われ、3日間は高熱に苦しめられるのです。

 他の2人もそれに気がついたのでしょう。私と同じように、蟹を刺激しないよう身動ぎする気配がします。

 ガサッガサガサッカチン

 ガサッカチン

 隙間から月明かりが差し込むだけの馬車の中、スコルシザーが立てる音は少しずつ移動しながら何度も繰り返されます。

 少しずつ、あの子に近づいています。

 その途端に、脳裏に、馬車にあの子を押し込んだ男が、口元を痙攣らせたように歪めた笑みを浮かべていたことを思い出しました。

 あぁ、お頭の声に気を取られていなければ、もっと早く気付いたのに。

 あいつが、何かをしたんです。あの子に。

 だから、刺激しなければ影に逃げ込むだけの生き物は威嚇のためにハサミを打ち鳴らしながら、あの子に近づいているのでしょう。

 暗い馬車の中、もう1人の女性が私に寄ってきました。そして、あの子は隅で動かずにいて、スコルシザーがガサガサッと足音を立てて隅へと近づいていきます。

 足音が変わり、蟹が毛布の上に乗ったのだとわかりました。

 ひっ

 と息を飲む声が聞こえて、

 隙間からさす細い月明かりに滑らかで白い甲羅が光った途端に私は

 なぜでしょう

 身を乗り出して

 それを掴み取っていたのです。

 まず右の手の親指の付け根と手首に針で刺される痛みが、直後に、そこから激痛が燃え広がります。

 手から肘へ、肘から肩へ、痛みの濃さで私自身の血の流れが見えるかのように。



 床に倒れて全身を強張らせた彼女。

 右手にはスコルシザーを掴んでいて、その手首を左手で掴んでいるのが、彼女の額から発する光に照らされてうっすらと見えた。

 歯を食いしばる音が聞こえる。

 スコルシザーに刺されたなら、全身を焼けた針で刺され続けるような痛みに叫ぶのが当然だ。なのに、彼女は声も出さずに耐え、ついには顔を上げ、手の内にある小さな敵に目を向けた。

 その額には、親指ほどの長さの小さな角。半透明で、まるで白い光を編み上げてあるような角がうっすらとした光を放って辺りを照らす。

 激痛のためだろうか。滝のように流れ落ちる汗。それを拭おうともせずに、彼女は蟹のハサミを左手で慎重に掴むと、花弁を千切るように毟り取る。蟹はもう一方のハサミを彼女の手首に突き立てるが、それも、同じように毟られた。

 右手から力が抜けてスコルシザーは逃げ出し、彼女は床に倒れた。



 終わりました。

 もう安全なのだと分かった途端に私は倒れて、思わず出かけた叫びを手で口を押さえて留めます。

 あいつらに声を聞かれたらダメ。

 身体の芯まで刻まれた痛みが、スコルシザーの毒に朦朧とする中でも私が叫ぶことを妨げています。その恐怖が、ハサミを取って無力にするまでの間、私の意識を繋いでいたのです。そして今も。

 ばさり

と、身体が覆われて、あたたかさを感じます。

 目を開けると、私に毛布がかけられていて、あの子が間近で私を見ていました。

 今の私の額には、凌駕発現した晶眼の力が光る角のように見えているはずです。えぇ、確かに見えています。

 マギナシアが持つ力の源。私達に命を保つ力と、身を守る術を与えてくれる第3の目。

 スコルシザーの猛毒に耐えるため、私の晶眼は最大の力を発揮しています。額の光はその証。

 おかげで私は、他の人族であれば叫んで暴れ回るような痛みに耐え、倒れて震える程度で済んでいます。

 この力ゆえに、私達マギナシアは他の人族から疎まれているのです。

 私が拐われてから、この馬車の中の人は何人か変わりましたけれど、誰もが、私からは離れていきました。

 それは、これからも変わることはないでしょう。

 あの子が何も言わずに離れたので、私は目を閉じました。

(やっぱり)

 心の中で呟いて。


 すると、間も無く、

 ばさり

 もう一枚、毛布がかけられました。

 あの子の声が

「大丈夫?」

と、耳元で聞こえます。

「助けてくれてありがとう。痛いよね。ごめんなさい。」

 あの子が、男達に聞き取られないよう、私に身を寄せて囁いています。

「大丈夫よ。」

 私は、右手を彼女の頬に添えて答えます。もう、刺された傷はありません。毒で赤黒く腫れているはずの手は、赤みと熱を帯びているくらいです。

「魔眼族は、毒にも強いの。だから、大丈夫よ。しばらく休めば治るわ。」

 そう囁くと、彼女はほっと息を緩めて、微笑みます。顔に浮かんだのは、安堵の表情でした。

 ああ、この子は本当に、

「心配してくれたのね。ありがとう。」

 囁いて彼女の背に腕を回してしまいました。

 そして、ふと気付いたのです。

 気付いた時には、それを尋ねていました。

「あなたの名前を教えて。」

と。

 私は私が囁いた問いに、驚きました。

 長い間売り物として扱われていて、同じ境遇の人たちの中でも避けられていて、名前、というものがあることを忘れていたのです。

 それを忘れていたことに、思い出したことに、彼女の名前を知りたいと思ったことに、驚きました。

 そして、私が驚いている数秒の間、彼女は、少し悲しげに考えていました。

 やがて何かを振り切るように、彼女は、

「私は、ティエ・イン。」

 そう、名乗ったのです。


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