割れる世界
異世界に転生する原因となった出来事
「天音!」
夜景と夜空の星々と建設中で途切れ途切れになっている軌道リングの光が煌めく。
その様に見入っていた天音に、俺は決意して名前で呼びかけた。
声が大きかったのか周りの人々からは、どことなく好奇心と好意とが混じった目線が向けられる。
だけど彼らはすぐに彼ら自身のことに夢中になってしまって、そんな彼らの振る舞いを片隅に捉えながらも俺の気持ちは目の前にいる天音に向かっていた。
周囲の人々の行動は特に不思議ではない。ここはそういう場所だから。
高層ビル最上階レストランから直通の展望台は建築当時からの観光スポットであり、定番以上に定番のデートスポットでもある。
俺も、そういう訳で三年付き合った恋人と共にここに来ているところだ。
ポケットの中に忍ばせておいた小さな箱を握る手が、妙にかたい。
半年前から計画して、何気なく好みを尋ねたり友人らに聞き出したりを積み重ねて選んだ指輪。
それを収めた箱を握りしめる手の平が、こわばった指に絞り出されたような汗でぬれている。
「どうしたの?直樹さん。」
首を傾げて、天音が尋ねてきた。
まずい、間が空きすぎたどうしよう。
予想以上に動揺している自分の気持ちに焦りを感じつつ、視線は絶対に外すまいと、唇を引き結んで彼女の目を見つめる。
赤みがかった太めの枠のアイウェアの奥に、生真面目で少し引っ込み思案だけど知識欲は人一倍な彼女の瞳があって、じっとこちらを見つめている。
「あ、天音…今日は、良い天気だね。」
焦りに押し出された言葉に俺を見上げた彼女は小柄で、少し丸みのある顔を傾げてから小さく笑った。
「直樹さん、今日その台詞…ええと5回目だよ。」
またやった。
さっきの決意は一体どこに行ったんだ。
自分でもわかっていたけど、言ったものは仕方ないよな。そう諦めつつ
「そうだっけ?景色を見てたら、つい。」
と苦しい言い訳を返す。
彼女は転げるのを我慢するのが大変だと言いたげな笑みをしながら俯いて、それから俺を見て、
「うん、綺麗な景色。ねぇ、あの軌道リング、完成するまであと50年かかるんだって。」
と、空を見上げる。
「完成する頃には私達、お爺ちゃんとお婆ちゃんだね。」
囁やくような呟きが、それでもはっきりと聞こえて、
「あぁ。その時も一緒に見たいな。」
と、俺は考える前に言っていた。
お互いに30前後だから、80歳。まだ元気な時期だろう。
脳裏に浮かび上がった情景に気持ちが柔らかくなるのを感じていると、眼の奥にチリっと感じた妙な痛みで、天音の返事がまだないことに気づいた。
天音は賢い。
直観で動いて考えるより先に口を開く性分の俺に、その直観に負けない早さで考えて応じる。彼女の家で山のような書籍が積まれた部屋を見たときには呆れたが、それをからかっているうちに彼女が全て読んでいると実感したときには絶句した。
その天音が10秒くらい黙って俯いている。きっと、彼女も待っているんだ。と、俺は息を吸った。
「天音。」
呼びかけて、彼女の手を握った。
小さな肩が一瞬震えて、それから、俺の手を彼女が柔らかく握りかえす。
「今日は、大事な話があるんだ。それと、渡したい物が。」
「うん。」
俯いたまま、わずかに頷いて、蚊が鳴くような返事。
言うのは俺からだ。
もう一度気持ちを固めて、口を開く。
「天音、俺とけっ、、」
パキッ
唐突に不思議な音が聞こえて、
パキッ
世界が割れた。
目の前にいる天音の顔を縦に割るように、亀裂が走った。
彼女が青ざめて俺を見ている。何かがおかしい。彼女の口が動いているのに、声は聞こえているのに、言葉がわからない。
天音が近づいても亀裂は動かない事でようやく、割れているのは俺の目なのだと気付いた。
パキッ
目に手を当てる。あの音がする。掌にはっきりと亀裂が見える。
(あぁよかった。天音には何も起きてないんだ)
パキッパキッ
誰かの叫びが聞こえる。あの音は繰り返し鳴っていてだんだんと早くなっている。
パキッ
唐突に右足の感覚が消えた。
なす術もなく倒れる俺を抱えようとした天音が
パキッ
喉元を押さえて、俺が倒れてから血を吐いた。
パキッミシリ、、、
重い不気味な音。
うずくまる天音に手を伸ばす。届かない。なんだよこれ。なんで体が動かないんだ?
なんで、言葉が使えないんだ?
ミシリ、、ギシ、、
重い何かが軋む音が続いていて、天音の向こうに、何人もの人が倒れもがき、ARがアイウェアにでたらめな表示を繰り返している。
ぬるりとした感触に手を触れると、べったりと赤い血が掌を濡らした。
ミシリ、、パキッパキッパキッ
目に痛いほどにでたらめな情景を描いていたARがぷつんと消え、世界は、生身の世界だけになった。
なのに、あたり一面、いたるところで何かが割れる音がして、
パキッパキッパキッパキッ
何もない空間でも物体でも人の体でもお構いなしに亀裂が瞬く光を伴って生じては消え、その数を増していく。
ミシリ ギイイィィィィイッ!
展望台を覆っていた強化アクリルのドームが、高層ビルの風に引き裂かれて耳障りな悲鳴を上げ、窓際の人の何人かが夜空へと吸い出されて消えた。
吹き荒れる冷たい風に、だけど俺の意識はもうそれを感じなくなっていて、死ぬのなら、せめて、と天音を探す。
パキッパキッパキッパキッパキッ
天音は、すぐ近く、手を伸ばせば届く場所で倒れて、俺を見ていた。
何かを言ってる。だけど、音が言葉にならない。
そうだ。
俺は思い出した。
天音に渡すものがあるんだ。
俺は左手の指先に、まだ感覚があることに感謝した。
ポケットの中にある小さな箱をまだ握っていた左手に、動け、と。
これを、天音に渡すんだ。
パキッパキッパキッパキッパキッパキッパキッパキッパキッパキッパキッパキッ
あの音はもう途切れなく鳴っていて、腕の動きはひどく鈍くて、見えなくなった左目では動いているのかも確認できない。
天音が何かを言ってる。
唇の動きだけがわかる。
死なないで愛してるだから、と
あぁ、俺も
今、これを渡すよ。
パキッ
文字数少ないですけど、これが無理なくできる程度なのです。
今後はこの半分程度の量での投稿になります。