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4、

 彼女その1を追ってガラスの部屋の穴から落ちた先は、無機質な青い床だった。落ちたといっても、実際は2メートルもなく。天井の低い空間になっていて、すぐ横には、たくさんのベルトコンベアやその合間を走るケーブルが見えた。床の一部は金網になっていて、下にさらに空間があるのが見えた。

 着地時についた尻餅の痛みに顔をしかめつつ周囲を見ていると、すぐ傍にいた彼女が言った。

「なぜ私についてきたの?」

「え? そりゃあ……

 なんでだろう?」

 思わずついてきてしまったのだ。

「理由なんてないよ。

 ただ、君にいなくなられるのはイヤだったから」

 僕がそう言うと、彼女はじっと僕を見た。

 それから彼女にしては珍しいことに、感情を隠すように目を伏せた。

「それは、私があなたの友達だから?

 でも、あなたの『友達』の定義に、私はすぐに当てはまらなくなる」

「?」

 よく分からなかったので、問いただそうとした。

 その瞬間。

 僕らのすぐ上、先ほど落ちてきた天井が、再び開いた。

 あっと思う間もなく手が伸びてきて。

 首をつかまれ、そのまま引っ張られた。強制的に首を上に向けられたので、その腕の主がイヤでも目に入った。

 当然、彼女その2だ。でも、その瞳には、先ほどよりもさらに感情がなかった。

 口から出る言葉にも感情が無く。

「命令。戻りなさい。部屋に」

「ぐっ……!」

 僕よりも細く見えるその腕に、あきらかに僕よりも圧倒的に強い機械の力を込めて、彼女その2は僕を持ち上げ始めた。

 だが、彼女その1がとっさにその腕をつかみ、逆に引きずりおろした。彼女その2はバランスを崩し、落ちてきた。地面に落ちた衝撃でゆるんだ隙をついて、僕は彼女の腕をはずして距離を取った。

 彼女その2は、落下の痛みなどまるで見せる様子もなく立ち上がり、無表情な瞳を僕に向けた。

「命令。戻りなさい。部屋に」

「なんで僕に標的が移ってるんだ?」

 彼女その1が言った。「マザーが権限を奪った。マザーが彼女を直接動かしてる。マザーにとっては、あなたを部屋に戻すことが最優先。

 権限を奪ったというか、そもそも私たちはマザーの子機みたいなものだけど」

「僕、部屋に戻ったほうがいいのかな?」

「……」

「? どうした? 君」

「いいえ。なんでもない。

 戻ったほうがいいかという質問には、戻ったほうがいいという答えしか返せない。

 あの部屋があなたの居場所なのだし」

 僕は彼女の瞳を見つめ、それから周囲の風景を見回した。無機質な床下。僕が生活していたガラスの部屋の舞台裏。僕の知らない世界。

 そして再び、彼女の瞳を見つめた。その感情を。

 感情。瞳。

 どう見ても、言葉とは裏腹な感情を込めた瞳を。

「僕が部屋に戻ったとして、君はどうなる?」

「分解されるでしょうね。

 マザーは緊急モードに入ってる。あなたを部屋に戻し、私を分解する。そこまでのプロセスが既に要求されている。それは覆らないでしょう」と、彼女その1。

「命令。戻りなさい。部屋に」と、彼女その2。

 彼女その2は、問答無用な様子で同じ言葉を定期的に繰り返し、僕につかみかかってきた。

 選択肢。おとなしくガラスの部屋に戻るか、それとも戻らないか。

 決断。戻らない。

 僕は彼女その1の手を取り、走りだした。

「逃げよう!」


 天井の低い通路を走り続けた。

 背後を見ると、だいぶ距離を開けることはできていたが彼女その2が追ってきているのが見えた。

 僕は、息があがっていた。

「走るってのは、ハァッ、ハァッ、こんなにも、ハァッ、ハァッ、息が苦しくなるもんなんだな!」

 ガラスの部屋では、無理して運動する必要がなかった。子供の頃にマザーから言いつけられて、その後そのまま習慣になった運動でそれなりの筋肉はつけていたつもりだったけれど。自分のペースで趣味としてやる運動と、必要に迫られて走る運動とでは、だいぶ違った。

 僕と一緒に走る彼女その1は、最初は僕に引っ張られ、途中からは逆に先導するようにして走っていたけれど、全然息が乱れる様子もなかった。機械というのは、すごいものだ。

「ハァッ、ハァッ、だめだこりゃ、ハァッ、ハァッ」

 僕は、やむをえずスピードを落とした。

 せめて、彼女その2に追いつかれるまでに息を調えるほうが賢明に思えた。このまま走って消耗しきって追いつかれるよりは、そのほうがいいだろう。

 だが、彼女その1は別のことを考えていたようだった。

「……。

 もう少し、無理できる?」

「? ハァッ、ハァッ……何か、あるのかい?」

「ついてきて」

 彼女に手を引かれ、さらに先へと向かった。


 行き着いた先は、大きな吹き抜けの最下層。

 その空間は床のところどころがガラス張りになっていて、その下で、赤から青への変化を何度も繰り返す奇妙な光模様が渦巻いていた。万華鏡のよう。

 僕は息を調えながらその光模様をしばらく覗いていた。

「なんだい、ここは」

「時間炉」

 彼女その1は部屋の中央まで歩いていき、そこでこちらに振り返った。

「わたしたちはあなたの主観時間で四十九年をかけて、あなたをガラスの部屋ごと過去へと送り続けている。

 その時間をさかのぼるエネルギーが、今もこの下で作られている」

「へえ」

 彼女の周囲の中空にいくつもの表示パネルが現れた。どうやら、ここの場所から接続するリンクで何かをしたいようだ。機械である彼女は、マザーと同じように、離れた場所の別の機械に手を触れずに干渉することができる。リンクさえ繋がれば。

「そのエネルギーを、借りる」

「借りて、どうするんだ? 何に使うんだ?」

「あなたに」

「?」

「私はあなたといたい。

 でも時間が邪魔をする。もうすぐ、かつてあなたが定義した『あなたの友達』から、私は外れてしまう」

「? 僕の定義? 僕は、どう定義したんだっけ?」

「『一緒に年を取って、変わっていく』『同年代の仲間』」

「……ああ、なるほど」

 子供の頃の僕は、そう定義してマザーにお願いしたわけだ。僕にとって周囲の機械たちの何よりの特徴は、『変わらないこと』だったから。『一緒に変わってくれる』ことこそが、当時の僕にとって『人間の友達』の特徴に思えていたわけだ。

 そしてマザーは律儀に、『同年代』の友達を僕の成長とともに用意したわけだ。ただし機械はもちろん成長せず変わらないから、彼女その2が今晩僕の寝ている間に部屋に来たように、代替わりという方式で。

 彼女は言葉を続けた。

「だから。

 あなたが過去に戻って私と『同年代』になれば、私はもうしばらくあなたと……

 ……」

 突然、彼女の瞳から感情が薄れて明滅した。感情のない数コンマが何度も。

「どうした?」

 彼女の手が突然こちらの手に伸び、強く握られた。逃がさない、というように。そしてその瞳。感情の無い数コンマ。

「おい!」思わず、その手を強く握り返した。

 彼女の瞳の明滅は、次第におさまっていった。

 焦りの色が残った。

「マザーが私にも干渉してる。もともと私もマザーの子機だから。

 長くはもたない。

 私は消えたくない。

 急がないと。

 そこに立って」

 床の一箇所を指示された。床下に渦巻く奇妙な光模様を覗けるガラス床の、すぐ傍の位置。

「隔てている床を、短い間だけ開ける。

 炉の中で蓄積中のエネルギーが、少量だけ外に出る。

 あなたにそれを浴びせる」

「そしたら、僕はどうなるんだろう」そのエネルギーは生身の人間にそのまま使うには危険を含むと、かつてマザーから聞いた覚えがある。

「過去に戻る。あなたの時間だけが。

 本来はあなたの部屋全体に影響を与えて外との時間差を発生させるもので、あなただけに働かせるものではないんだけど、少しなら生物個体の時間を戻すことも可能であることは実証されている」

「よく分かんないけど、若返れるってこと?

 ああ、そうか、それで『同年代』になればいいってことか」

「……」

「? どうした? またマザーの干渉?」

「いいえ。考えていた。

 あなたが小説を書いていた頃に戻すなら、このエネルギーをどれだけ使えばいいだろうかと。そしてそれが可能かと」

「? なんでそんなことを……って、ああ、僕をそこまで戻そうってのか」

 ブレないなあ、と思った。そこまで僕に小説を書かせたいのか。

 と、そう考えて。

 ふと、気になった。

「僕が過去に戻って……それって具体的にはどういうことになるんだ?

 体は、過去に戻るんだよね。 

 記憶は? 僕の意識はどうなる?」

「体の若返りには制限がある。新陳代謝で常に変わり続ける体の細胞を過去に戻すことには限界があるから。

 記憶は消える。過去の意識に戻る。

 脳のすべても過去に戻るから」

 ……。

 それは、今の僕ではなくなるということではないだろうか。

 経験も感情も、すべてリセットしてしまうということでは。

 それは本当に、ただ時間を巻き戻すだけにすぎないのでは。

「それ、なんか……イヤだな。

 本当の解決にならないんじゃないか?」

 何も問題は変わらないんじゃないのか?

 体は少し若返れるというのなら、きっと彼女と同年代というところまでは戻れるのだろう。

 だがそれでは、僕がまた成長し、彼女が変わらずにいることは変わらない。

 また同じことが繰り返されるだけなのでは?

「じゃあ、あなたはどうしたい?」

 どうすれば?


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