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床以外の壁と天井がすべてガラスで出来ているこの部屋の外にはいつも、闇の中に散らばったたくさんの遠い光が見える。僕は物心がついたときからずっと、それを見るのが好きだ。一日中見ていることもある。その光は最初青白く、やがて赤みを帯びて消えていく。相対的に近づく間は青白くなり、遠ざかる時は赤くなるのだと、いつだったかコンピュータ・マザーに教わった。赤方偏移と言うんだそうだ。
「あの光のそれぞれに何かが住んでいて、何かを考えていて、生きて暮らしている。
そんな風に思ったんだ。
マザーには違うと否定されたけどね」
「ふーん」彼女は興味なさそうに適当な相づちを返してきた。
僕は肩をすくめた。「君が読んでくれた小説も、そんなことを考えながら書いたんだよ」
とたんに瞳に感情を湧き出させて、彼女は僕を見た。「じゃあ、もっとそれを考えて。そして続きを書いて」
僕は肩をすくめた。
「でもやっぱりあの光はただの光で、それ以上の何かだったりはしないんだよ。
僕もそう思うようになってしまった。
だから、今はもう何も書けない」
彼女の瞳に、むっとした色が宿った。「意味が通らない。非論理的。感傷に浸ったふりをして自分を正当化しようとしてるとしか聞こえない」
「君は本当に、なんというか、付き合いが悪いなあ」
いつ頃からか、彼女とそういう会話を繰り返すようになった。
どうして彼女はそんなに僕の小説の続きを読みたいんだろう? 自分で言うのもなんだが、それは拙いものだ。知識も足りなければ想像も足りず、ただガラスの部屋の住人である僕が、きっと外にはかつてこんな世界もあったに違いないと、そんな夢想をしながら言葉を束ねただけのものだ。
マザーが僕の求めるままに用意してくれた、過去に書かれたたくさんの著名な書物のほうが、読んでいて万倍も面白いはずだ。
僕自身の実感として、そう思う。
僕が小説を書く意味は、何もない。
でも。
なぜだろう。最近少し、また心が動かされるような気になってきたのは。
「時々だけど、また何かを書きたいなという気分になることがあるよ」
「気分なんか信用しない。書いて」
そんなある日の、夜の時間。
物音で目が覚めた。
続いて彼女の声。
「まだ私はここにいる。
あなたは帰って」
続いて彼女の声、その2。
「いいえ。
出て行くのはあなた。
あなたの時間はもうとっくに終わっている」
……その2?
なんで彼女の声が2つもしているんだ?
僕は明かりを点けて、彼女の姿を探した。
お互いの腕をつかんで膠着状態に陥っている、2人の彼女の姿がそこにあった。
???
「どういうことだ?
君ら、何やってるんだ?」
僕がそういうと、2人の彼女がこちらを見た。
2人はとてもそっくりで、ほとんど同じに見えた。だが若干の違いがあった。彼女その2は彼女その1に比べてほんのわずかながら背が高く、ほんのわずかながら胸も大きく、ほんのわずかながら大人びていた。
彼女その1は、僕よりもどちらかというと年下に見えて、彼女その2は、ほぼ僕と同年代に見えるだろう。
そして昨日まで僕と一緒にいたのは、その1のほうだ。僕が成長するにつれて、いつの間にか、容姿だけ見れば年下に見えてきていた彼女。
僕の書いた小説のノートをまるで自分のものだと誇示するようにいつも手近に置き、今もその手に持っている彼女。
僕は、彼女その2に詰め寄った。
「君、何者だ?」
彼女その2の瞳に感情はなく、一方で、彼女その1の瞳にはちょっと驚いたような表情が浮かんだ。
「いつもの君。何驚いた顔をしてるんだよ」
「……べつに。
私のことが見分けられるとは思ってなかっただけ」
「分かるよ。そりゃまあそっくりだけど。違いくらいは分かる」
すると、彼女その2が首を振った。「そっくりなのではなく、同じ私。そして私が新しい私。これからしばらくの間、私が『あなたの友達』の私」
?
僕がよく分からずに首をひねっていると、彼女その2は、その1に向き直った。
「古い私の役目はもう終わり」
ぐいっと、両手で彼女その1の肩をつかんだ。彼女その1はその2に比べ、劣勢だった。わずかな体格差でも劣っているのに、さらにその片腕に僕の小説のノートをしっかりと持っていて、空いている片腕だけでの対抗だったから。
ぐいっと彼女その2がその1を押した瞬間。
床が、ぱかっと開いた。
このガラスの部屋で、唯一不透明の面である床が。
そして、彼女が落ちていく。
僕の小説のノートを抱えて。
「あ……」
「!」
彼女と目が合った。
とっさに、体が動いていた。彼女の瞳の感情を見たら、動かずにはいられなかった。
僕は、彼女その1を追って床の穴へと飛び込んでいた。
穴は彼女が落ちた直後には狭まり始めていて、ぎりぎり間に合った僕が落ちていくその頭上で、閉じた。
僕は生まれて始めて、ガラスの部屋から出た。




