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GRAYHEATHIA*グラィエーシア  作者: 瀬川月菜
第10章
62/193

10−4

「お忙しいところ、失礼します。リオン殿」

「お待たせして申し訳ない、真殿。何用かな?」

 どすん、と置いた硝子の内側で、透明な液体が大きく波打った。アマーリエが両手で抱えても十分重かったものだから、しばらくとぷんとぷんと音がしている。

 酒の入った大瓶である。

 それを一瞥したリオンは片眉を上げた。ラベルの銘柄を読み取ったのだ。アマーリエがいま手に入れることのできる一番いいお酒なのだった。

「いい酒だ」

「注ぎます。飲みましょう」

 間髪入れずアマーリエが誘うと、付き添いの女官たちが杯や膳を運び始め、リオン付きの者たちにも振る舞っていく。楽人が部屋の隅に陣取り、弦と鼓で静かな曲を奏で始めた。

 リオンの酒豪っぷりは、帰還時の宴会で知っていた。だから宴会に持ち込めば話をする機会ができるはずだとアマーリエは考え、アイとユメに相談すると間違いないとお墨付きをもらった。アイは他の女官たちに命じて酒と肴を準備させて、楽人や舞手の手配もしてくれた。手際の良さに感心するしかなかったアマーリエだ。

 呼び寄せた女官たちが舞い歌い、花を撒いて笑いさざめく。リオンとアマーリエの周りには酌をする女官が侍り、ペースを崩さないようゆっくりと酒を含むアマーリエと異なり、注がれれば注がれるだけ飲むリオンはそのうち酔いが回ってきたらしい。うっすらと肌が染まり、杯を空にする速度も増してきた。

 自分をセーブしつつ彼女の隙を探っていたアマーリエだったが、酔ったリオンは絡むようにしてこちらにも遠慮なく酒を勧めるようになってきた。

「真殿、さあ、ぐっと」

 笑って曖昧に濁していたものの、飲み干すまで許してくれない。そばについていてくれた女官が心配そうに見守っているのは、アマーリエが飲んでいた酒だけ、実は水で薄めてあるからだ。

 仕方なく杯を煽ると、喉と胃がかっと焼けるような熱を帯びた。

 途端に顔が熱くなってくる。どう考えても、このままいくと最初に潰れるのは女官でもリオンでもなくアマーリエだ。熱を持った頬を手のひらで冷ましながら考える。もしかしてリオンは落ち着いて話をするつもりはなく、早めに酔ってしまおうと考えてこの飲みっぷりなのだろうか。だったらそろそろ話を切り出した方がいいかもしれない。

「リオン殿……何故……キヨツグ様がいらっしゃらないときに、戻られたんですか……?」

「それはもちろん、兄上の顔を見たくなかったからですよ」

 浮遊感に襲われて若干呂律の怪しいアマーリエに比べ、リオンの受け答えははっきりとしていた。

 直球で尋ねても誤魔化されると思い込んでいたので、驚いて動きを止めると、リオンはふんと鼻を鳴らし、杯に口をつけた後にやりとした。

「あれを見ていると異様に腹が立って仕方がないのだ。普段は貝のように口を開かず、開いたかと思えば政務に限り多弁で威丈高。平気で情のない言葉を紡ぎ、それをなんとも思っていない鈍感さが、私は本当に、心から憎たらしいのだよ」

 目の前にキヨツグがいるのではないかと思うくらい、リオンは獰猛な顔をしている。アマーリエは内心で首を傾げる。

「……情がない?」

 酔っているせいか思わず口から出た。途端にリオンはきっと目を鋭くする。

「ほう、そうではない、と。それはあれが、あなたにはそのように振る舞う必要があると判断したまでのこと。あの男の本質は、薄情そのもの。他人に関心を持つことはない」

 キヨツグの態度を義務からくる優しさだと、アマーリエも感じたことがある。きっとそれもある。だがそれだけでないと、もう知っている。

 リオンは舌打ちし、女官から酒瓶を受け取って手酌で飲み始めた。

「人として欠陥だらけである自覚があるだろうに、どうして好き好んで、考え方も文化も異なる異種族と結婚しようなどというのか。情をかけることができないくせに」

(……あれ?)

 憎まれ口を叩いていたリオンの様子に違和感を覚えた。苛立ち、嫌悪を滲ませていた口調が、何故か愚痴っぽいものに変わったような気がした。たとえば、自分を見向きもしない兄にあいつは最低だと不平をこぼしているというような。

「二重人格なのだよ、あの男は」

(それは、思うところがあるけれど……)

 確かにキヨツグはプライベートとビジネスの切り替えを行っているようだ。しゃべり方も、目の動かし方も、立ち方や呼吸すら、ときには別人のようになっている。仕事モードになると表情や感情がほとんど表れないようになり、威圧感が増し、言葉遣いも厳しくなる。逆にプライベートのときは、アマーリエに対してとてもゆっくり、穏やかに静かに話しかけてくれ、顔つきも柔らかく、ほのかな笑みを見せることもある。

「まあ……必要に応じて使い分けていますよね」

「だろう!?」

 アマーリエの返答に対する食いつきぶりは凄まじかった。リオンはかっと目を見開くと身を乗り出してアマーリエの両手を握る。

「わかってくれてとても嬉しいぞ! さあ、もっと飲んで」

 勢いに飲まれてつい注がれるだけ飲んでしまう。熱の塊になった胃が身体の中で膨らんでいき、その重量に引きずられるようにして瞼から指から何もかも重くなってきた。

 情報を。キヨツグのことを聞くつもりでいたのに。可能ならば命山のことも。

 このままでは潰れると判断を下したアマーリエは、ぐらぐらしながら言葉を絞り出した。

「あの、指環を……指環を、返してください」

「……ん? ああ、これか?」

 リオンは胸元から指環を取り出した。紐を通して首から下げていたらしい。彼女はしげしげと指環を見つめ、嘆息した。

「哀れなことだな。このようなもの一つで、あなたは自らの価値を失ってしまう」

 視界が揺れている。リオンの姿も。

 こちらを見るその瞳だけが揺るがない光となってアマーリエを縫いとめる。

「指環を支えにするのは、これがあればあなたは真夫人として認められ、他者から蔑ろにされないからだろう? あなたは自分の足で立つことができない。利用価値のみを認められ、担がれているだけ。価値という輝きが失われれば放り捨てられる石の類に過ぎぬ。私たちとあなたは違う。あなたはリリスにはなれない」

 心が凍り、酔いが覚めた。

 なのに感覚はぎこちなく、うまく背を伸ばしていられない。緩やかに微笑むリオンは、獣めいた瞳をアマーリエから逸らさない。

「あなたがキヨツグに抱く感情の所以は、あれがあなたを守るからだ。このリリスの地で、長たるあの男があなたを認め、庇護することで、あなたの平和が約束される。あなたは我が身可愛さであの男を愛していると言うのだ」

 床に撒き散らされた花びらが、吹き込んできた夜風に舞い上がる。

「ゆえに、あなたの愛は、錯覚だ」

 驚きの声があちこちで上がる中、リオンとアマーリエは身じろぎせずにお互いを見つめあっていた。

 リオンはいつでもアマーリエを一笑に伏し、どうでもいいものとして視界に入れないことができるのだから、目を逸らしたときがアマーリエの負けだった。

「……あなたの言うことは正しい」

 にやりと笑みを釣り上げたリオンが何かを言う前に、素早く続ける。

「でも、間違っています」

 同盟のための政略結婚だった。互いを尊重しあうのは義務であり仕事。与え合う優しさは責任感からくるものだ。夫婦である限り、それは二人の関係の一側面であり続ける。だから、キヨツグを思うのは自らの身を守るための愛だというリオンの指摘は正しいのだ。

 それでもアマーリエはキヨツグをかけがえのない人だと思ったし、キヨツグもまたアマーリエに愛情を持ってくれた。それは絶対に勘違いなどではない。

「――キヨツグが父上の実の子ではないと聞き及ばれたそうだが、知ったときの衝撃は如何程でしたか?」

 途端に揺り戻しのように視界が回転した。踏みとどまらなければならないという矜持がようやく意識をつなぎとめていたけれど、酒精のせいで心の箍が緩み、押し込めていた不安が吹き出した。

 価値を認められ、担がれたのはキヨツグもそうだろう。アマーリエと同じように彼はリリスと象徴としてその輝きを認められ、二人の婚姻関係が成立したのだ。けれどリオンの言う通り、その輝きを失えば崩れ落ちる塔のようなものでもある。

 心が冷えていく。

 あの人がいなければ、私はここにはいられない。ようやく見つけた安息の地を、永遠に失う。

「……それでも、私は……あの方の妻になりました。族長であっても、なくても、私は……」

 表面をなぞるような浮ついた言葉が漏れ出すが、リオンの憐れみを呼んだだけだった。

「愛している、と言うのか。けれどそれは、真実のものだろうか?」

「…………」

 真実のものかどうかなんて。そんなもの。

(――ああ、きっと、あなたにはわからないのね……)

 ひどい頭痛で耳鳴りがした。だからリオンにどんな反論をしたのか、自覚できなかった。ただ苛烈に見えていた彼女がふと真顔になったのを最後に、アマーリエはひどく悲しくて寂しい気持ちのまま、昏倒した。



「……恋をしたことがないんですね」

 これはもう落ちるな、と気を緩めた瞬間、相手の口から放たれたのがそれだった。

 その瞬間、リオンが侮っていた少女は全身に透き通った光を帯びて、まるで神格を得たかのように超然とした何かになった。

 浴びせかけられた言葉の意味を理解して、これまで浮かべていた嘲弄の笑みが削ぎ落とされるのを感じ、血が冷えて冷静になった途端、彼女は後ろへひっくり返った。

「真様っ!」

 鈍い音が響き、駆け付けた女官たちが昏倒したアマーリエを助け起こす。真っ赤な顔の彼女は、すっかり眠りの中にあるようだ。先ほどの様子は、酒の力を借りた神がかり的なものだったらしい。ぞっとして損をした。

 運ばれていくアマーリエを見送ったリオンは、せっかくの酒を最後まで楽しもうとして、その気がまったくなくなってしまったことに舌打ちをした。

「……まったく。何を、偉そうに」

 踏みにじられた花が数枚、風に乗って運ばれてきた。その中にあった形を保ったままの花に手を伸ばし、唇を寄せる。

 恋をしたことがないのか、など。

「あなたはそれを素晴らしいものとでも思っているのか」

 リオンの独り言は誰に聞かれることもなく、そのひどく真剣な声も硬い口調も、一時のものとして消えた。

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