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GRAYHEATHIA*グラィエーシア  作者: 瀬川月菜
第6章
34/193

6−2

 どん、と器を置く音で我に返った。

 目を上げると、ハナが目を閉じて深く息を吐いている。その眉間にはかすかな皺があり、アマーリエは授業の最中に意識を飛ばしていたことに気付かされ、ひどく焦った。教えを受けている身で失礼にも程がある。

 何か言おうとする前に「本日はここまでに致します」とハナに終了を告げられ、アマーリエは申し訳なくて肩を落とした。

「……申し訳ありません」

「いいえ。でも、顔色が優れませんね。その気鬱の原因はなんですか?」

 気鬱か、とアマーリエは目を伏せた。周りにはそう見えるらしい。

 あの虹の日のことを思い出しては、ため息が出る。美しい空の下に二人がいて、何かが通い、何かがすれ違った。アマーリエはキヨツグを怒らせてそれきり会っていない。いつも顔を合わせているわけではないのに、会っていないという事実がくっきりと浮かび上がり、避けられているのではという疑いになるのだ。

 あのとき、あの人は何かに気付いた。

 でもアマーリエは気付かなかった。私は、何を取りこぼしたのだろう。

「……少し寝不足なだけです。夢見が悪くて」

 授業が終わったと見て女官たちが現れ、お茶を淹れてくれる。それを何気なく口に含んで、アマーリエは目を見開いた。

 いつものお茶じゃない。渋みが違い、甘みがある。器にたゆたう色は、紅い。

「これ紅茶……?」

 ハナと、給仕してくれたアイを見ると、アイは微笑んだ。

「天様が用意せよと申されたお茶ですわ」

 天様、という言葉にどきっとする。

「で、でもリリスにはないお茶だよね?」

「はい。ですから直産地へ赴いて購入したそうですよ」

 都市の外に広がる農畜産場の中には、茶園もある。さらりと告げられたが、リリスが都市と関わりを持つのは非常に珍しいことだ。

「リリスは自給自足ですから、これが輸入の初事例ということでしょうか。とても美味しいお茶ですね」

 ハナが言って、お茶の味をじっくり確かめている。

 陶器の茶碗に映える紅いお茶は、素朴に甘く、ほんの少しほろ苦い。湯気が瞼にかかって熱くなった気がして目を閉じる。

「都市の味が恋しかろうという天様のご配慮ですわ。真様、愛されていらっしゃいますわねえ」

 顔を上げた。アイもハナも、部屋にいた全員が笑ってこちらを見ている。

「あ」いされてるって、どう書くんだったか。

「……え、愛?」

 言葉が浮かんでアマーリエは絶句した。みるみる赤くなるアマーリエを、彼女たちは微笑ましげに見ている。それがまた恥ずかしくてどんどん熱が上がっていく。

「そういえばこの間商人を呼んでおられたようですが、あれも?」

「ええ、真様のお召し物を仕立てるために。真様ったら、あまり御衣装に興味がないご様子で、わたくしたちが口出しさせていただいているんですけれども」

 すると、控えめに笑っていた女官がどんと手をついた。

「そうですわ、もっと着飾ってもよろしいくらいですわ!」

 簪を担当している女官だ。他の女官も続いてアマーリエに迫る。

「御髪も」

「お化粧も」

「お湯浴みや爪磨きに至るまで!」

「もっと派手に! 天様を悩殺するんですわっ」

「の、のうさつ……?」

 なんだかよくわからないけれど、わからないなりに凄まじい熱意を感じる。

 多分アマーリエがキヨツグと会っていないことを知っているのだろう。仕方のないことだと思いつつも、彼女たちの勘違いは訂正しておかなければならない。

「そんなわけ、ないよ」

 落とした言葉は影を落とした。彼女たちは動きを止め、アマーリエを見る。

「気遣ってくれただけだよ。だって、政略結婚だったんだから」

 あの人の愛情は義務と優しさが成したものだ。政略結婚の相手に誠意を尽くしているに過ぎない。打算と利益の結果、もたらされるのは平和だけれど、彼女たちの言うようなものでは決してないのだ。

「たとえ政略結婚であっても、愛情がないということではないでしょう。……それともまさか、天様がひどい仕打ちを?」

 穏やかな口調でハナに尋ねられ、アマーリエは頭を振った。「だったら」と言おうとするのを封じて、言う。

「キヨツグ様はすごく優しい方。でも」

 優しいだけじゃ、恋にはならない。

 ここにいて穏やかな日々を過ごせていることを喜ぶべきなのかもしれないけれど、一抹の寂しさを覚えるのは、アマーリエに責任を果たせていない自覚があるからだろう。優しさに値するものを何も返せていないのだ。

 一同が顔を見合わせ、躊躇った末に、アイが慎重に口を開いた。

「……真様は、天様のことをどう思、」

「お、なぁんかいいニオイ!」

 顔を出したマサキの大声が沈んだ空気を浮上させる。窓から身を乗り出し、アマーリエたちが手をつけ始めた紅茶と、これから供されようとしていた茶菓子をきらきらした目で見ていた。

 ハナと女官たちはすぐさま叩頭する。窓から入ってくるような人間に頭を下げねばならないとは、アイたちが可哀想だ。

「またそんなところから……」

「いいじゃん、別に。頑張ってるとこ見に来てやったんだから」

「頼んでないよ」

 マサキはにこーっと嬉しそうな顔をした後、叩頭を続けるハナに言った。

「リュウ、授業は終わってるな? 真様を連れていくけど問題ないな」

「はい」

 断定的な口調にアマーリエは驚いた。軽い口振りのマサキからは想像もつかない物言いを咎めようとしたが、ハナが答えを口にしたので有耶無耶になってしまった。

 けれど笑うマサキは少し偉そうで、あまり見ていて気持ちのいいものではない。

「じゃ、表回るから、早く来いよ」

 そう言ってマサキが消えると、アイたちは顔を上げて小さく息を吐いた。

「……すみません」

 マサキの代わりに謝罪する。中断を告げさせたのはアマーリエの集中力不足が原因だったけれど、本来ならまだ授業の時間だったのだ。いくら終わっているように見えるからといって、マサキのあれは、自分勝手な行動だった。

 ハナは微苦笑して首を振った。

「真様が謝罪されることではありませんよ。それではまた明後日に伺わせていただきます」

 教えを請う者として手をつき頭を下げて、見送る。

 その後、アイたちに衣装を整えられたアマーリエは、待っていたマサキに連れられて彼の部屋を訪れることになった。

 部屋に入るなり、以前と異なる雰囲気を感じて足を止める。

「……また増えてない?」

「へっへっへ」

 機械が増えたせいで、部屋が狭く感じるのだ。マサキは悪い顔で笑っているが、こんなに王宮に持ち込んで、いったいどうするつもりなのだろう。

「いい加減怒られないの?」

「怒れる立場のやつなんて滅多にいねえよ。立場のある人はだいたい黙認してくれてるし。天様とか」

「ふうん」

「信じてねえな? これでも俺、あの人と後継者争いをして、お互い認め合った仲なんだぜ」

 諦められているだけなのでは、と疑ったところにそう言われて、興味を惹かれた。

「後継者争いって、じゃあ、もしかしてマサキが天様だったかもしれないってこと?」

「そそ」

「うわあ、そんなのごめんだなあ」

「え、ひどいな!?」

 顔を見合わせて笑う。冗談だよと言おうとして。

「でも惜しいことした。族長だったらよかったのにって、最近よく思う」

「え?」

 影がよぎったマサキの表情をよく見る前に、彼はお茶道具一式を持ってきて、医局のときのように丁寧にお茶を淹れてくれた。

「そういえばさ、虹、見た?」

「虹? 今日も出たの?」

「いや、この前の天気雨の」

 心臓が跳ねたのを気付かれないように、頷くだけにとどめる。

 するとマサキは軽く息を吐いた。

「まあ見たよな、うん、あの状況じゃ、二人で見てたのが丸分かりだったし」

「……見てたの?」

 キヨツグと二人でいたところを目撃されていたのだとわかり、アマーリエは赤くなった。あのとき虹を見ていただけじゃない。手をつないだし、抱きしめられた。あのときの感触を思い出すと身体が強張り、胸の奥から起こる熱が震えになった。

 俯くアマーリエに、マサキが静かに問いかけた。

「なんで、突き飛ばさなかったワケ?」

 驚き、顔を上げる。

 マサキは真剣だった。逃げも妥協も許さない、譲歩しない目をしていた。心なしか目が光って見える。

 狼狽えて、必死に考える。

 突き飛ばさなかったのは、混乱していたからだ。心臓の音を近くに感じて、どうしたらいいのかわからなくて。そこに何の思いも通っていないと知っているのに、いまもまだ忘れられない。

「わ、わからない、よ」

 掠れた声で答えると、マサキは目を眇め、そして伏せた。

 沈黙が落ちる。冷めたお茶に手を伸ばし、その苦味を感じたときだった。

「これ、やる」

 床の上に置かれたのは、四角い板だ。よく見れば、覚えのある電機製品会社のロゴが入っている。取り上げてみると、汎用型の小型バッテリーだとわかり、目を見開いた。

「すごい、バッテリーだ。しかもこれ、永久機関のやつでしょう?」

「よくわかんねえけど、太陽光に当てるとずっと使えるって聞いた。携帯端末にも使えるらしいけど、型ってあるんだよな。お前ので使える?」

「あ、うん、ちょっと待って。入れてみる」

 携帯端末の電源がオフになっていることを確認して、バッテリーを入れ替えた。再び電源を入れると、減っていたバッテリーがすべて回復した表示が現れる。

「うん、ちゃんと使える」

「そっか。ならそれ、やるよ。俺からの贈り物」

 アマーリエは首を振った。

「貰えないよ、こんな高いもの。それにこれは……」

「俺が持ってても使えねーもん。だから使ってよ。な?」

 マサキは笑いたいような泣きたいような顔をして、アマーリエの手を包み込んだ。

「……わかった。ありがとう、マサキ。大切にする」

 笑みを浮かべて感謝を告げたとき。

 マサキに引き寄せられて、アマーリエは携帯端末を取り落としてしまった。ごとりと床にぶつかる鈍い音。頭を抱えるように回った手のひら。耳元に唇を寄せて、彼は懸命に告げる。

「――お前が好きだ、アマーリエ」

 身体に回る腕の力が強くなる。

「あのとき、隣にいるのがなんで俺じゃないんだろうって思った。そのとき、お前が好きだって気付いた。俺なら守ってやれる、お前の大事なものを。排除したりなんかしない。機械が欲しければ手に入れてやる。帰りたいなら帰してやる。お前をもっと自由にさせてやりたい。うんって言えよ、アマーリエ。俺がお前の望みを叶えてやる」

「マサ、キ」

 熱に浮かされたような声と、次第に強さを増していく腕の力に、アマーリエは呆然と喘いだ。

 チャンネルを切り替えるように、帰りたい、という気持ちで心が塗り替えられていく。

 ビルの間の狭い空。いがらっぽい空気と排ガスの匂い、アスファルトの道、自動車、信号。オーディオプレイヤーを聞きながら電車に揺られること。大学のざわめき。眠たい講義のうたた寝。朝の紅茶。自分で作る簡単な食事。一人きりの部屋。

 それらが一瞬にして薄暗い一室の景色に変わる。

 初めて感じた他人の温もり。誰かが隣で眠っている、自分を守るようにして。

 星を見た。

 夕日を見た。一人ではなかった。

 虹を、見ていた。二人でそこにいた。

 気付けばアマーリエは、マサキを突き飛ばしていた。

「ごめん」

 マサキは驚いている。アマーリエも自身の突発的な行動の理由がわからない。

「ごめんなさい」

 口から出るのは謝罪ばかりだ。マサキは自分の思いに忠実に行動したけれど、アマーリエの知るどの男性とも違って、ひどく怯えたような傷付いた顔をしていた。アマーリエもわからなかった。何が悪いのか、悪くないのか。誰のせいなのか、自分のせいなのか。

 裾を手繰り、引き止められる前に早足で逃げ出す。

「俺は諦めない!」

 部屋を出る直前に追いかけてきた声が、アマーリエの裾を縫いとめる。

 一瞬立ちすくんだが振り返らずに出る。

「俺は諦めない」

 暴れそうになる感情を押し殺した声だった。

 それを聞いて思う。悪いのは、同じだけの思いを抱けない自分なのだと。彼ほどの思いを私は抱けない。でも、どれほどの思いを恋と呼ぶの。

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