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GRAYHEATHIA*グラィエーシア  作者: 瀬川月菜
外伝
177/193

恋への旅路 2

(情けない。泣くことだけはしたくなかったのに)

 涙は武器だ。そしてマサキにこれほど効果的なものもない。ほら、気まずそうに黙って目を背けている。

 ユイコは呼吸を整えてさっさと涙を拭った。

「……失礼いたしました」

「……別に。いいケド」

 でも謝らないから。そんな意思の固さが透けて見えて、ユイコは小さく笑った。

「何だよ」

「いいえ。マサキ様は本当にお変わりになりませんのね。気ままでいて、でも真面目で、これと決めたら絶対に譲らない頑固者で」

「喧嘩売ってンの?」

「なのに優しすぎて臆病で、相手のために尽くしてしまう。ご自分にとって何が大事なのかをご存じで、そのために行動できる強さを持っていてそうすることを当たり前だと思ってしまえる……」

 目を伏せて思う、儚くか弱いあの女性ひと

 少女のように純粋で傷付きやすい、外界を知らぬ雛のような可憐なあの人のために、マサキは自らを擲って族長に叛意を示したことをユイコは知っている。都市に行くことを承知したのも、彼女――ヒト族の花嫁、真夫人アマーリエのためだ。そして彼はそのことを決して当人に伝えることはないだろう。思いを遂げようともきっと思わない。

「そんなどうしようもない方、いまでもわたくしはマサキ様以外に存じません」

 睫毛を濡らす涙を指先で拭い取り、微笑む。

 虚を突かれたようだったマサキは何度か瞬きをするとみるみる顔を歪め、苛立った激しさで頭を無茶苦茶に掻き毟った。

「ああそう、そりゃドーモ! そういうお前は変わったよな、マジで」

 ユイコはゆっくりと首を傾けた。いま不思議なことを言われた気がする。

「……変わりましたか?」

「ああ、変わったよ。母上好みの人形みたいだったのが、こんなにずけずけ物を言うようになるって誰が思うよ」

 途端に、温かいものが身の内から溢れ出して、ユイコは笑っていた。

(その言葉だけで、わたくしはこの先もきっと大丈夫だわ)

 そうして大きく息を吐くと「申し訳ございませんでした」と頭を下げた。

「今日のところは失礼させていただきます。ご遊学の準備に必要なものがございましたらご用命ください。可能な限りお手伝いさせていただきますわ」

 感情の起伏が激しいいま、これ以上のやり取りは醜態を晒すだけ。今度こそ感情的に泣き喚いてマサキを困らせたくはなかった。

 それでは、と立ち上がり、たおやかに膝を折って挨拶をしてから退出する。

 屋敷の者の視線があることを意識して優雅な微笑みを浮かべて外へ向かっていたが、しばらくもしないうちに目の奥が熱くなって吐息が震えた。

(泣かないのよ。呼び止められないなんて、いつものことでしょう)

 それでも心の水面が波打つのは、もしかしたら二度と再会が叶わないかもしれないと悲観しているからだ。

 リリスとヒト族は現状、緊張状態のまま。アマーリエが嫁したいまでもリリスの首脳陣はヒト族の動きを警戒していた。絆を深めるか、それとも戦うのか、どちらに転んでもおかしくない。都市に潜入調査に向かうというなら、情勢の変化でもなければマサキがリリスに戻ることは簡単ではなくなる。戻ったとしても彼が会いに来ることはないだろう。その間にユイコの新しい縁談がまとめられる。

(悲しい? 腹が立つ? そうとも言えるし、でも違う……この涙の理由は……)

 そのときだった。ばたばたと床を鳴らす音と呼び声がしたのは。

「ユイコ!」

 反射的に振り返った。身が竦んだ。

 けれど足が、勝手に動いた。

 まとわりつく衣の裾をがばりと持ち上げて走り出し、「はっ、なんで!?」と驚愕の声をどんどん振り払う。

「こいつ……っ! おい待てユイコ!」

(どうして追ってくるの!?)

 諦めるだろうと思ったのに物凄い勢いで足音が迫ってきた。

 高貴な娘のユイコと他の氏族の模範となるマサキでは身体能力に差がありすぎる。このままでは捕まえられてしまう。

 何事かと屋敷中の者が顔を出す中、ユイコはそのまま庭に飛び降りる。雪解けの泥が白い足袋を汚し、素足に跳ねる。裾をたくし上げているせいで着付けも緩んでいた。

 けれどどうしてだろう。息を切らし、自らを顧みず駆けていく心地よさは、一歩、また一歩と足を進める度、悲しみに凝る心を解き放っていく気がするのだ。

 しかし心とは裏腹にユイコの身体は酷使に慣れていなかった。比較的身軽な略装でも体裁を整えるとそれなりに重量があり、その上での全力疾走はかなり辛い。振り切ることは不可能と考えたユイコは、リィ家の庭の巨木の裏手に回って身を隠そうとした。追いついたマサキが手を伸ばしてくるが太い幹を盾にして躱す。

「ユイコ……お、前、なあ……!」

「意味も、なく、追いかけ、ないで……ください、ます、か!」

 どちらも整わない呼吸で叫び合う。マサキの表情には苛立ちが、ユイコには焦りと苦痛が浮かんで望まない涙が溢れ、声が歪む。

「どうして追いかけてくるんですの。どうして、いまなんですの!?」

 諦めろと言われ、この先二度と会うことが叶わないかもしれず、冷静さを欠いてこんな無様な振る舞いをしている。遠からず思い切らねばならない彼への思慕を抱えているいま、寄りにもよって追いかけてきた。

 もう平静ではいられない。

 心を引き裂かれる者の悲痛な声に、マサキは動きを止めると両手を下ろした。

「……泣くくらいなら逃げんなよ。俺が泣かせてるみたいじゃん」

「あなたのせいですわ!」

 はああぁ、とわざとらしいため息と「ここまで来てこれか」と言い捨てられ、ユイコは眉を寄せて震える唇を結ぶ。それをちらりと見たマサキは、くそ、と悪態をつくと掻き上げた前髪を握り潰すように拳を固めた。

「ってかさ、ユイコ。なんで俺なの? 俺じゃないとだめな理由があるワケ?」

「そういう不躾なところ、嫌いです」

「お前さ……」と言いかけたマサキを遮って叫んだ。

「『つまらない』と言われて、『つまらない』人間であることをわたくし自身が最も恥じていた。そのことを気付かせたのがマサキ様だったからですわ!」

 花のように、柳のように、風のように大地のように。様々な表現で「そうであれ」と求められるリリスの高貴な女になろうとして、さほど努力を重ねずにそうあれた少女時代。マサキにその傲慢を見抜かれたときに抱いた激しい怒りは、鎮まってみるとユイコを取り巻く世界を変えていた。

 居並ぶ少女たちの上に君臨しても、大人たちに褒めそやされ、異性から恋情を向けられても、何一つ心に響かない。楽しくない。つまらない。そんな狭い世界で得意になっていた自分が心底恥ずかしかった。過去を消してしまえたらとまで思った。

 それらを何とか払拭するために、変わろうとした。だから。

「いまのわたくしは、あなたがいなければここにいない。ずっと、いままで、いつも、誰かに好ましく思われるときも、嫌悪されるときも、わたくしがわたくしであることを実感する度にそう思っておりました!」

 こんな愛の告白があるか、と思う。叩きつけるのにも似た物言いは淑やかさとは無縁だ。物を投げつけるのではあるまいし、言われた方はたまったものではない。

 そう思って早口に言い繕う。マサキの顔を見ないまま。

「……この思いが叶うとは思いません。それでいいのです。本当ならお伝えするはずではありませんでしたし、マサキ様がお役目に行かれるのなら、わたくしは別の方を好きになります。わたくしにも候補はたくさんおりますもの。このことは速やかにお忘れください」

「それは無理」

「早くお行きになって! 屋敷の者に見られたら騒ぎになります。ただでさえマサキ様は素行がお悪くていらっしゃるのですから」

 聞こえないふりをして言葉を重ねる、そのときだった。

 手を強く捕まえられてはっとした途端、光の中に引き出されて大きく姿勢を崩したユイコの驚く瞳の雫が、木漏れ日にきらりと光る。

 それを覗き込んだマサキが呆れ顔にいたずらっ子の笑みを浮かべた。

「だから、泣くくらいなら思ってもないこと言うなってーの!」

 眩い、笑顔。

 仕方なさそうなのに、明るくて、強がっていた自分の弱さを包み込まれる気がする。

 そして本当に、気付けばユイコはマサキの腕の中にいた。

「……え、え? え、あの、な、何をなさっていらっしゃるの!?」

「何って抱き締め、あ痛でてて! あばっ暴れるなよちょっ、おい!?」

「この色魔! 色狂い!」

「俺のこと本当に好きなの!?」

 身を捩りながら鎖骨だの顎だのを殴る。必死に逃れようとするのに何故かマサキは腕を緩めない。夢見心地で、このままでいたい、というこちらの本心をそうやって、的確に理解しているところが、本当に、心の底から大嫌いで大好きだった。

「わたくしはあなたのような大嘘吐きではございません」

「お前が俺のことどう思ってんのかマジでわかんなくなってきたわ」

「それはこちらの台詞です。情けなど無用ですから、早く離れてくださいませ、ってどうして引き寄せますの!?」

 マサキが苦笑する気配が、触れる胸元から伝わってくる。

「そりゃ、こうしてるのがお情けじゃないからだよ」

「……それは」

「言っとくけど恋心でもないからな」

 わずかに浮き上がった心を冷静に押さえつけられて、やっぱりそうよね、とため息が漏れる。

「でもお前が泣くから。いつも笑ってるお前が今日はずっとボロボロ泣いてるから、そこまで思ってもらえてたんだと思って、何か返したくなったんだよ」

「それで誰彼構わず抱き締めているなら最低の極みですわ」

「ハイハイ、そう思うならそれでいいよ。お前って実は面倒くさい女だったんだなあ」

 罵ったのに、呆れ笑いで受け流された。

 だからユイコは、諦めた。無駄な抵抗は止めて、赤く腫れた目を閉じてしばしの幸いに浸る。マサキにとって先ほど遠ざけた娘と自分では重さが違う、なんて優越感もあった。

 お情けでないと言われたけれど、優しさであることが胸に染みる。こうしていてもマサキの心を手に入れられない。悲しくて、腹立たしくて、そして……。

(不甲斐ない。そう、わたくし自身に意気地がなくて悔しいのだわ……)

 理想とはかけ離れた弱い自分に歯噛みする。変われたはずなのに本質は変わらない、それが悔しい。

 だからユイコはぐっと唇を結ぶと、両腕を大きく広げてマサキを強く抱き締め返した。

「お、おぉ? どうした?」

「黙って抱かれていてください。これから強くなるために蓄えているところですから」

「お前何言ってんの? けどまあ、いいや」

 背中を優しく撫でられ、励ますように叩かれる。

「準備出来次第、都市へ向かう。留守中は叔父上に任せるから、天様の指示をよく聞き、力を合わせてよく治めるように。ユイコはミン卿を支えてやってくれ。卿の助力があれば、北に大きな混乱は起きないだろう」

「仰せのままに」

 殊勝に応じた直後、ユイコは不敵に笑った。

 泣き顔よりも、こうして居丈高な微笑みを覚えていてほしかったから。

「もしお手紙をくださったら、読んで差し上げないこともありませんわ」

「気が向いたらな」と言ったマサキは懐から出した手巾を渡してきた。それで目元を拭い、鼻と口を押さえながら「憎たらしいこと」とくぐもった声でユイコはくすくす泣き笑った。

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