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GRAYHEATHIA*グラィエーシア  作者: 瀬川月菜
外伝
174/193

ひとつの愛を宿して

「少し真を借りる」

 アマーリエの予定を邪魔することのないはずのキヨツグが突然現れてそう告げたとき、彼の顔がごくごくわずかに曇っているのを見て取り、不測の事態が発生したことを悟る。

 キヨツグにも言えるようにアマーリエにはアマーリエの仕事があり、そのための調整が日々行われている。本日は午後からハナを招いて、アマーリエ専用の薬箱に収める常備薬を調合する予定だったが、もちろん中止となった。

 女官にハナへの連絡を頼み、キヨツグに促されて別室に招かれる。その横顔、普段は無であるそれが曇って見えるのはそれだけ彼を悩まされる出来事があったのだろう。

「何かあったんですか?」

 キヨツグは小さく息を吐いた。

「……東の、アラヤとスルギが揉めている」

 リリス族にはキヨツグやリオンのシェン家、マサキのリィ家のような有力な一族がいる。彼が告げた二家もそうだ。

 キヨツグが説明してくれたところによると、隠居した前当主同士の口約束に端を発した争いのようだった。遊牧を主とする彼らは日常的に何かと理由をつけて酒宴を開くが、前後不覚になるまで酔った前当主たちが口約束を交わしたせいで、言った言っていないの言い争いとなり、血気盛んな若衆の小競り合いをきっかけに、両家の面子を賭けた争いにまで燃え上がってしまったらしい。

 アマーリエは緊張を解くために深く息を吐くと、小さな声で尋ねた。

「……戦闘を?」

「……そうなる前に、私が出る」

 調停役は族長の責務だ。わかっていても胸が痛む。

 異種族と友好関係を築いても、こうして内側で人が傷付く争いが起こる。そのためにキヨツグが血を流す可能性があるのだ。

 行かないでと引き止めたくはあるけれど、結婚したばかりのように真夫人の何たるかを理解していないアマーリエではなかった。感情を抑えるように胸元を握り締め、悲しむ顔が見られないよう頭を下げる。

「どうか、お気を付けて」

 するとキヨツグはため息し、その大きさを恥じるように顔を背けた。夫らしくない反応にアマーリエは数度瞬きをして首を傾げる。

「どうか、しました……?」

「……寂しい、とは言ってくれぬのか」

 きょとんと目を丸くして、意味するところを理解したアマーリエは目を吊り上げた。

「そんなことを言っている場合ですか!? 危ないんですよね? 心配になって当たり前でしょう!?」

「……寂しくはないと」

 静かに返されて、うっと詰まった。激した感情が萎んでいく。

「それは……その、正直なところ寂しいですけれど。でも……」

 幸せな少女だった頃のように、簡単に不安を表に出してはいけない。アマーリエは責任ある立場で、キヨツグを支え、コウセツを守り、自分に仕える人たちをはじめとしたリリス族の人々を守る義務がある。

 そう思って密かに唇を噛んだとき、しゃらり、と涼やかな音とともにアマーリエの首に輝くものが落ちてきた。

「……万が一その日までに帰って来られなかったときのため、先に渡しておく」

 それは首飾りだった。金を編んだようなチェーン。トップは金枠に収まった金剛石に、黒色の蛋白石と小粒の真珠が連なっている。手に取ってみると枠が虹色に煌めいて螺鈿装飾を施していることがわかった。

「え、え? ど、どうして……」

「……二月十四日」と囁かれたアマーリエは、しばらく置いて、あっと思い出した。

 バレンタインデー。キヨツグは愛を告げる日だと認識していて、以前アマーリエはチョコレート代わりに焼き菓子を贈ったことがある。元を正せばただの一日、ヒト族の都市には古い時代の習慣として残ったそれは、リリスには存在しなかったけれど、アマーリエにとってキヨツグと一緒に過ごせる理由になるものだった。

 戸惑いで瞬きを繰り返すアマーリエに、キヨツグは口の端にかすかな笑みを乗せる。そうして首飾りに目を落としながら「……よく似合う」と謝意と慈しみを感じる声で言った。

「あ……ありがとうございます……こんな……すごく綺麗なもの……」

 とてつもなく高価な、と言いかけて飲み込んだ。口にすると無粋過ぎる。

 職人の手作業で賄われるリリスはほとんどのものが高価ではあったが、さすがに真珠と螺鈿は希少すぎて触れているのが恐れ多い。政治家と医師の娘として生まれたものの、こういう感覚は庶民のままだった。

 キヨツグはこうして時々怖くなるような贈り物をする。美しい衣装、装飾品、靴、身の回りで使うもの。消耗品ですら洒落たものを用意してくれる。それはアマーリエの胸を満たすと同時に、ひどく竦ませるものでもあった。

 どれだけのことをすれば、同じだけの思いを返せるのだろう。

 アマーリエの世界のすべてに代わったその思いを、どのようにすれば証にできるのか。

 振り切ったはずのその思いがこみ上げ、しばしば心を焦げ付かせる。

「……なるべく早く戻る。コウセツの披露目を延期するわけにはいかぬゆえ」

 一人息子のコウセツを公にお披露目する日が春先に決まり、現在アマーリエたちは支度に追われている。すでに招待状を送っているので各家も忙しいだろう。もちろんキヨツグがこれから赴くアラヤ家やスルギ家も同じだろうに、とどうやら彼の憂いの理由はそこにもあるらしい。こんなことに拘っている場合ではないのにと思っていたようだ。

「……すまぬ。埋め合わせは必ずする」

「それはこちらの方です! お返しを用意しますから、必ず無事に帰ってきてください」

 触れるか触れないかの位置にあったキヨツグの少し冷たくて骨張った指がアマーリエの頬に触れると、当たり前のように唇が重なった。少し離れ、息が触れ合う距離で見つめ合うと、アマーリエは赤く染まった顔ではにかんだ。

 そうして小さな決意を胸の中に握り締め、手を伸ばしてキヨツグの胸元をぎゅっと掴み、顔を上げる。

(まだ慣れない、けど……)

 恐る恐る目を閉じると、かすかに開いた唇をそっと差し出して、口付けをねだった。

 果たして、唇が降りてきた。ついばむように、そして重ね合わされて……そこでぎゅっと強く目を瞑ってしまうのはアマーリエに経験が不足しているからにほかならない。

 しばらくして、部屋の外にかすかな気配を感じた。

 邪魔するのを承知でキヨツグを迎えに来たのだろう。こうして口付けを交わしている暇などないのだと、アマーリエは慌てて彼から離れる。いまにも泣き出しそうに熱に潤んだ目をぐるぐる回し、息をも奪われそうな口付けで真っ赤になってしまっていたアマーリエを、キヨツグは可愛いものを前にしたように目を細めていた。


 キヨツグはその日のうちに手勢を連れて東へ発った。さすがにそのときはちゃんと「……行ってくる」「いってらっしゃい。お気をつけて」と言うことができた。

 コウセツを抱いて颯爽と去り行くキヨツグを見送ったアマーリエだが、先ほど交わした口付けを思い、たまらなくなってため息を吐いた。

 熱が、消えない。まだ触れられているように感じてしまう。

(まだどきどきさせられてしまう私って……)

 いやこの場合、まだどきどきさせてしまうキヨツグがすごいのだろう。一児の父なのにずるい人のままだった。

 早く帰ってきて、と溢れそうになる言葉を抑えて、着けたままの首飾りに触れたとき、コウセツの熱い手がぺちりとそこを叩いた。

「きらきら、きれーねー?」

 にぱーっと嬉しそうにコウセツが笑い、アマーリエも笑顔を返した。

「うん、とても綺麗ね」

「きらきら、してー?」

 微笑みを浮かべながらアマーリエは「うーん?」と内心で首を捻る。コウセツは言葉の早い子どもではあるが、やはり意思の疎通は完璧とはいかない。なによりこの子は不思議な力の持ち主なので、それに由来した発言か、そうでないのか吟味する必要があった。

「『きらきら』を、するの?」

「きらきら、ありがと、なのー」

 きゃっきゃとご機嫌で手をたたき始めて、ますますわからない。これは後で乳母たちと検討しなければならないだろう。

(きらきらか……キヨツグ様にも装飾品を贈ってみようかな)

 あれほど美しい人に装飾品を贈るのは難易度が高過ぎるかもしれないが、コウセツがきらきらした目で父親を見つめているところを想像すると、ほっこりした気持ちになる。

 アマーリエは背筋を伸ばした。今日はまだやるべきことが残っている。中止になった薬作りに、キヨツグから割り振られている書類等の確認、もちろんコウセツのお披露目の準備や打ち合わせ。

 コウセツを抱き直すアマーリエの胸にあった不安は、いつの間にか潜むように小さくなっていた。



     *



 部族間の争いに介入するのはリリス族の長たる者の義務、そうわかってはいても、予定を覆されるのだと思うとわずらわしいことこの上ない。

 思っていても表情に出ないキヨツグは、それ以外の部分は感情を平坦にしてアラヤ家とスルギ家双方の言い分を聞いていた。どちらも口角泡を飛ばし、ときにはこちらにまで食ってかかる始末だったが、別段心動かされないキヨツグはしばらくして心の内で「問題なし」の裁定を下した。

 これは面子を保ちたい両者の争いなのだ。互いに矛先を向けた以上、自ら引っ込めるわけにはいかない。引き際を失い、どちらかが折れてくれまいかと考えているせいで、長引いているだけ。族長として適当な裁きを下せば納得する。

 果たしてキヨツグの裁定を受け入れた両者は、夜が更けているとあって友誼を結ぶ酒宴へとなだれ込んだ。酒が供されるようになると先ほどまでの剣幕はいずこかへ失せ、唾を飛ばしていた長老たちは肩を組んで歌い、武器を持ち出そうとしていた若衆らはくだらない話で馬鹿笑いしている。

 しかしキヨツグの仕事はもう終わった。誘う男たちや引き止める女たちを無視して宴を出ると、二家の当主二人が酔い潰れる前に呼び出し、釘を刺した。

「二度目はない」

 このままでは間違いなく似たような騒ぎに発展するだろうが、飲酒が原因で記憶を失い、問題となっても、二度と介入はしない。

 当主たちは酔いが覚めた様子で頭を下げた。端的な物言いに族長の不機嫌を感じ取ったらしいが、実際は特に怒っているわけではない。当主たちによく監督せよと戒めただけだが、表情が出にくいとこういうことになる。

 言うべきことを言い、とうに支度を終えていた手勢の者たちと王宮に戻ろうとしたときだった。

「天様」

 騎乗しようというキヨツグを呼び止めたのはゴン家出身のアラヤの長老の妻だった。外見はほとんど歳を取っていない若々しい妻はしっとりとキヨツグに頭を下げる。

「お呼び止めして申し訳ありません。天の行く御方に最も近しい方がお出でになったことをさだめと思い、お戻りになる前に、どうしてもお話ししたいことがございまして……」

「述べよ」

 迂遠な物言いを好ましいと思ったことがないのは、もたらされるのが高確率でろくでもない話だからだ。では、と妻は顔を上げた。

「御子様のお披露目がじきに迫っており、当家にも招待状が参りました。是非とも御子様をお祝いさせていただきとうございます。つきましてはその折に、わたくしの可愛がっている姪孫も天様にご挨拶させていただきたく存じます」

 やはりろくでもなかった。キヨツグは短く答えた。

「それが第二夫人や妾候補としてでなければ、歓迎しよう」

「リリスの血を持つまったき御子様をわたくしたちは望んでおります」

 沈黙で応じた後、キヨツグは馬上からアラヤ長老夫人を睥睨した。

「そなたの意思、その考えを、リリスが集う場で述べることができたなら、考えよう」

 常と変わらぬ低く冷たい物言いに、煮えたぎるような怒りをはっきりと感じ取れたのは普段から同道している臣下たちだけだ。彼らは恐れを知らぬアラヤ長老夫人を凝視したが、当人は許しを得られたとばかりに顔を輝かせる。

「ご厚情を賜り、ありがとうございます。必ずや期待に応えます」

 このやりとりがきっかけで後にある騒ぎが勃発するのだが、当時の状況について、キヨツグとともに帰還した武官は、上司であるユメにこう語ったそうだ。

 ――普段から少し怖い方だと思っていましたが、間違いでした。本気で怒っている天様は、足が震えるほど恐ろしかったです。馬にまで恐怖が伝わって帰りは大変でした。早く王宮に着いてほしい、真様と御子様にいてほしいと、あんなに願ったことはありません……。


 王宮を不在にしたのは二週間。幸いにも長引かず、例の日を過ぎることはなかったが、凍てつく冬がシャド周辺で緩むのがわかるくらいの時間を無為にしてしまった。

 そうは言っても仕事の一部、以前はそのように思ったことはなかったというのに、それだけの時間があればアマーリエとコウセツが喜ぶことをしてやれただろうに、などと考えているのは、キヨツグを知る者たちにとってめざましい変化なのだ。

 出迎えに来たユメもそうだった。一刻も早く戻りたかったため到着が夜半過ぎになり、キヨツグは愛する妻がすでに寝殿に入ったことを悟った。

「間に合わなんだか」

「お休みになられるようお勧め申し上げました。早駆けでのお戻りでは遅い時間になられましょうと、ご説明いたしましたゆえ」

 帰還の知らせを先んじて送ったので、ユメは正しく到着時間を予想したらしい。急いで戻ってきたことを見透かした彼女は微笑ましそうに主君を見ている。

「そなたの配慮に感謝する」

「それには及びませぬ。真様を望まれる御心を無下にしたのも事実でございます」

 最近はだいぶ減ったが、アマーリエは促されなければキヨツグの戻りを眠らずに待っている。ユメの進言がなければそのまま待っていたに違いない。そう思う反面、待っていてくれれば声を聞けたのにという自分本意な感情もあり、ユメはそれらをすっかり理解して笑っていた。後に連れ出た者たちにキヨツグがいかに不機嫌であったか聞かされたときにも、同じ顔をするに違いない。

「普段とは異なるご公務に一生懸命取り組んでおいででした。御子様のお披露目の支度も大方整った様子。天様の御裁可を待つのみと」

「まことか」

 はい、とユメは言う。実際に決議すべき事項を整えるのは官たちだが、アマーリエは奏上されたそれらに目を通し、判断を下したのだ。後はキヨツグの確認が必要というところまで来たなら、神祇官や神官、文官たち関係者も妥当な決定だと評価したのだろう。

 ゆっくり覚えて慣れていけばいい、と思っていたが、アマーリエの成長はめざましい。というより、元々素地はあったに違いない。彼女の実父は政治家で、実母は医師。その二人を見て育ったのならふさわしい立ち居振る舞いと選択が感覚的にわかるようになるだろう。あまり心労をかけたくはないが、頼りにしていいのであればありがたい。

 ユメを下がらせたキヨツグは寝支度を整えて寝殿に向かった。

 真冬の星の凍える冬の夜空に、淡い記憶が蘇る。

 どちらも触れ合えずにいたあの頃。

(……震える小鳥のようだった)

 小さく、か弱い生き物だった。折れてしまいそうな立ち姿で、心の痛みに耐えて、強くありたいと願っていた。いつ心を折り、座り込んで、涙に飲まれて消えてしまわないかと気が気でならなかった。己の弱さを自覚しながら、だというのに己を無碍にして他者を重んじてしまうのだから。

(……私が大事にしてやらねばと思った)

 だが人をまことに愛したことのない人間のやり方は拙く、上手く伝わらなかった。感情に任せて責めたこともある。そのときの悔恨は未だ胸にあるが、謝罪するのは違うような気がしていた。過去はなかったことにはならない。互いに、互いを傷付けたことを抱いたまま、なおも愛することが尊いのだと信じている。

 足音を殺し、気配を薄くして寝殿に滑り込む。室内は暗く、隣の寝間に気配があった。

 寝台には、キヨツグが横になれるだけの空白を残してすうすうと安らかに微睡む妻がいた。小さく息を飲み、全身を満ちて溢れ出す愛おしさに狂ってしまいそうになった。

 己よりも他者を、それよりもキヨツグを重んじようとするアマーリエ。

 その無償の愛を、痛いくらいの想いを、何故愛さずにいられよう。

 そうしたキヨツグの気配を感じ取ったのか、小さく息を飲んだアマーリエがぼんやりと目を開けた。彷徨う視線がキヨツグを捉えると、淡い花の微笑みが咲いた。

 それだけで今日一日に意味があったと思える。

「おかえりなさい……キヨツグ様」

 口付けで、応えた。

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